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祐志
五
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春休みが近づいていた。
祐志の期末試験の結果は、思っていたよりも酷いものではなかった。ただ数学の点数は、今までで一番酷い点数だった。悪夢も続いていた。
深澄とは、今まで通り、ポツポツと口を利いた。好きな作家のこと。最近読んだ作品のこと。話をしているとき、深澄は時々、髪を耳にかけて、鼻先にまでずり落ちた眼鏡を直していた。深澄の眼鏡は、深澄が俯き加減になると、よくずり落ちてくるようだった。眼鏡のフレームが顔に合っていないのかもしれない、と思った。
着物の女性のことは、訊かなかった。
春休みになれば、深澄と顔を合わせることもないだろう。進級すれば、クラスも別々になるかもしれない。ひょっとしたら、町の図書館やデパートで会うこともあるかもしれないが、それに期待を寄せるにはあまりにも淡かった。友人からは、深澄の連絡先は当然知っているんだろうな、と言われた。祐志は、自宅の電話番号なら知っている、と言った。スマートフォンで連絡先を交換しろよ、と友人は言った。当たり前だろ、それくらいの情熱は見せろよ、と言われた。友人はこの頃、図書室で画集や美術系の本を毎日のように借りていた。やはり、ガールフレンドを追いかけて、美術大学に進学するつもりなのだろうか。
美術の課題を提出する為、昼休みに職員室に行ったら、美術教師は今はいない、美術室ではないか、とのことだった。美術室に向かうと、鍵はかかっていなかった。祐志は、失礼します、と何となく声をひそめながら扉を開けた。
美術室に、深澄がいた。そういえば、彼女は美術部だったのだ。しかし、特に制作をしている様子もない。スケッチブックを胸に抱えるように持って、半ば眠っているように安らかな表情をしていた。
「祐志くん」
びっくりした、とさほど驚いているようにも見えない顔で、深澄は言った。
「深澄ちゃん、賀川先生知らない?課題を提出しないといけないんだ」
賀川先生とは、美術教師のことだった。
「さぁ?知らない」
「そう」
課題は、今日中に提出すればいいのだから、放課後でもいいわけだ、と祐志は楽観的に考えて、何気なく、深澄の向かいの席に座った。特に深い理由があったわけでもなく、着物の女性について訊こうと思ったわけでもなかった。ない、と思ってはいたのだが、本当は何かしら、深澄に引き寄せられる理由があったのかもしれなかった。それは、深澄の眼鏡の奥の目だったのかもしれない。祐志には出せないような深澄の表情が気になったのかもしれない。とにかく祐志は、深澄の向かいの席に座り、深澄もそれを拒まなかった。
悪夢を見続けている祐志も、何となく気分が優れない日が多かったが、深澄の顔色も、何故だか日を追うごとに白くなっていくようだった。けれど単に、体調が悪そう、とか、不健康そう、とかではなく、内側から淡い光で照らされているような、不思議な青ざめ方だった。白い肌に唇の色がよく映えているのが、綺麗だと思いながら、何だか痛ましかった。
「何か描いていたの?」
祐志は深澄に訊いた。
「祐志くんは、何を描いたの?」
「モネの池」
「見せて」
美術の課題は、教科書に載っている絵画を模写するというものだった。資料に忠実に描こうとしても良し、自由にアレンジを加えても良し、とのことだった。祐志は元々の自分の画力にあまり自信がなかったので、出来るだけ資料に忠実に描こうとしたのだが、ベッタリと絵の具が何層も重ねられ、混じり合って、睡蓮の浮かぶ池なのか獣の棲む森なのか、よく分からないものが出来上がった。友人は、モネは印象派だから、などと偉そうに言っていた。ちなみに友人は、ピカソの絵にアレンジを加えたものを描いて、祐志に見せつけながら、どうだ、と胸を張っていた。祐志が美術館の館長だったら、絶対に正面には飾らないだろう、と思う絵だった。しかし、賀川先生は面白い絵を描ければ一番をモットーとしているらしいから、賀川先生が友人のピカソの絵や祐志のモネの池を見て、どのような評価を下すかは分からなかった。
深澄は、祐志のモネの池を見ても、感想らしいことは言わなかった。
「深澄ちゃんは、何を描いたの?」
「ゴッホの自画像」
「上手なんだろうね」
「下手な絵だよ」
「上手なんでしょ。今もそうやって、スケッチブックを持っているわけだし」
「今まで描いたのを、見ていただけ」
深澄は、少し照れたように首を傾げた。
「近々、何かコンクールでもあるの?」
「春になったら制作を始めるだろうけれど、今はまだ」
深澄は微笑んだ。そうすると、少し茶目っ気のある表情だ。祐志も思わず、笑いかけたくなるような表情だった。
「見てみる?」
テーブルの上に開かれたスケッチブックを置きながら、深澄は言った。
「いいの?」
そう言いながら、祐志は既に身を乗り出すようにして、スケッチブックを見た。
「祐志くんも見せてくれたから……これはまだ途中だけど、一番気に入っている絵。他は見ないでね」
祐志はスケッチブックを手に持って、まじまじとその絵を見つめた。
「コンクール用の絵?」
「これはコンクールには出さないの」
着物の女性の絵だった。色鉛筆で描かれているらしい。どうやら、ラフスケッチのように見える。着物に柄はなく、女性は長い髪を、胸元にまで流していた。こちらに振り向くように少し首を傾げていて、表情は描かれていないが、笑いかけているように見えた。
「そういえば、この間デパートで、深澄ちゃんを見たよ」
祐志は言った。
「ここに描かれているみたいな、着物の女の人と一緒だったね。あの人が、モデル?」
今まで着物の女性について深澄に訊かなかったことが嘘のように、サラサラと祐志は深澄に訊いた。
「実際に、ポーズを取ってもらったわけではないけれどね。鏡に自分の姿を映しながら」
「あの人は、深澄ちゃんのお母さん?」
あれほど訊けなかったことが、驚くほど簡単に、ストンと訊くことができた。
祐志はスケッチブックを閉じて、テーブルの上に置いた。深澄はスケッチブックを手に取って、大事そうに、胸に抱えた。
「あの人は、『お母さん』」
優しげな、触れれば柔らかそうな声で、深澄は言った。
そのときの祐志の気持ちを、なんと言えばいいのか。恐ろしいとか、悲しいとか、そういう気持ちよりも、ああ、という気持ちだった。ああ、やっぱり。
深澄自身が『お母さん』と呼ぶまでは、あの着物の女性は、祐志にとって何か美しいけれど曖昧な、人間かどうかも分からない、夢の中に住んでいるような存在だった。しかしそうなれば、深澄も夢の世界の住人ということになる。深澄は、色と厚みを持って、今この世界に存在している。
「あの人は、冬に私の前に現れた、私の、或いは、誰かの『お母さん』」
「誰かの……?」
「祐志くん、マサキって人は知ってる?」
「マサキ?」
祐志は首を捻った。
「クラスに、そんな名前の人はいなかったと思うけど」
「そうだよね。ありがとう」
落胆したような様子もなく、深澄は言った。
「冬に、深澄ちゃんの前に、その人が現れたの?」
「そう」
「お母さんだよって、言って?」
「ただいまって言って、そのまま手を洗って、台所に向かったの」
「台所?」
「夕食を作ってくれていたの」
「怖くなかった?」
「怖くなかった。今も一緒に暮らしているし」
奇妙な出来事なのだろう。奇妙な出来事、どころか、かなり奇妙な出来事だ。話だけを聞けば、夢の出来事と現実が曖昧になっているのかもしれない、と言う人もいるかもしれない。気味悪がる人もいるかもしれない。深澄に、病院に行くことを遠回しに勧める人もいるかもしれない。とにかく、受け入れようと思って受け入れられることではない、ということは分かっていた。分かっていたが、祐志は、深澄の語る、その、かなり奇妙な出来事を、受け入れつつあった。受け入れつつあることで、既に受け入れているのかもしれなかった。
あの着物の女性も、深澄が『お母さん』と呼んでいる間は、深澄の『お母さん』として存在しているのだろう。
「ありがとう」
祐志が言うと、深澄は不思議そうな顔をした。
「……ごめん、何が?」
「僕も、深澄ちゃんと同じような経験をしたことがある」
深澄は眼鏡の奥の目を見開いた。
「本当?」
「思い出したんだ……深澄ちゃん、前に言っていただろ?死んでしまった人が、自分の全然知らない姿で生き返ったら」
懐かしい、と思った。
「犬を飼っていたって言ったと思うんだけど……大往生だった」
「うん」
「カノンっていう、中くらいの大きさの犬だった。母がピアノ教室に勤めていたから、その名前がつけられた」
脇の下からグリグリと顔を覗かせてきたカノン。フリスビーをキャッチするのが上手だったカノン。祐一の腕の中で、祐志に頭を撫でられながら、息を引き取ったカノン。
「そのカノンが、死んだ一年後くらいの夏祭りに姿を現した」
……パパ!ママ!ユウイチくん!ユウジくん!カノンだよ!
「けれど、僕らはカノンに気づくことが出来なかった。カノンは、カノンの姿をしていなかった」
……お願い!もう一度カノンを抱き締めて!
胸が痛くなるような、切実な訴え。祭りの喧騒が遠ざかって、頭が痛くなるほどの耳鳴りがするようだった。困惑。動揺。小さな怒りに似た感情を思い出し、指先が震えた。スゥ、と息を吸うと、胸の中で肋骨と肋骨が擦れ合って、鈴の音に似た、微かな音が内側で響くようだった。
チリン、……と。
「カノンって、呼んであげれば良かった。本当は気がついていたのに、呼べなかった。呼んであげていれば、カノンを傷つけずに済んだのに……」
……パパ!ママ!ユウイチくん!ユウジくん!
「カノンは、もう一度僕らに会いにきてくれたのに……」
……お願い!もう一度カノンを抱き締めて!
……お願い!
カノンは、今頃どうなっているのだろうか。
生まれ変わったカノンとして、幸せに生きているのだろうか。それとも、生き返っても家族に気づかれなかったという悲しい傷を抱えたまま、天国と呼ばれる場所に帰ってしまったのか。
今もこの世界のどこかにいるのなら、もう一度会いたいのだ。
会って、今度こそカノンと呼ぶのだ。
「深澄ちゃんのお母さんが別の姿になって生き返ったなら、まだこの世界のどこかに、カノンもいるよね?……また、会えるよね?」
深澄はスケッチブックを、それが、とても壊れやすいもののように胸に抱き締めながら、俯き加減で、微笑みのような表情を浮かべた。
その表情が、今にも泣き出そうとするかのように、祐志には見えた。
祐志の期末試験の結果は、思っていたよりも酷いものではなかった。ただ数学の点数は、今までで一番酷い点数だった。悪夢も続いていた。
深澄とは、今まで通り、ポツポツと口を利いた。好きな作家のこと。最近読んだ作品のこと。話をしているとき、深澄は時々、髪を耳にかけて、鼻先にまでずり落ちた眼鏡を直していた。深澄の眼鏡は、深澄が俯き加減になると、よくずり落ちてくるようだった。眼鏡のフレームが顔に合っていないのかもしれない、と思った。
着物の女性のことは、訊かなかった。
春休みになれば、深澄と顔を合わせることもないだろう。進級すれば、クラスも別々になるかもしれない。ひょっとしたら、町の図書館やデパートで会うこともあるかもしれないが、それに期待を寄せるにはあまりにも淡かった。友人からは、深澄の連絡先は当然知っているんだろうな、と言われた。祐志は、自宅の電話番号なら知っている、と言った。スマートフォンで連絡先を交換しろよ、と友人は言った。当たり前だろ、それくらいの情熱は見せろよ、と言われた。友人はこの頃、図書室で画集や美術系の本を毎日のように借りていた。やはり、ガールフレンドを追いかけて、美術大学に進学するつもりなのだろうか。
美術の課題を提出する為、昼休みに職員室に行ったら、美術教師は今はいない、美術室ではないか、とのことだった。美術室に向かうと、鍵はかかっていなかった。祐志は、失礼します、と何となく声をひそめながら扉を開けた。
美術室に、深澄がいた。そういえば、彼女は美術部だったのだ。しかし、特に制作をしている様子もない。スケッチブックを胸に抱えるように持って、半ば眠っているように安らかな表情をしていた。
「祐志くん」
びっくりした、とさほど驚いているようにも見えない顔で、深澄は言った。
「深澄ちゃん、賀川先生知らない?課題を提出しないといけないんだ」
賀川先生とは、美術教師のことだった。
「さぁ?知らない」
「そう」
課題は、今日中に提出すればいいのだから、放課後でもいいわけだ、と祐志は楽観的に考えて、何気なく、深澄の向かいの席に座った。特に深い理由があったわけでもなく、着物の女性について訊こうと思ったわけでもなかった。ない、と思ってはいたのだが、本当は何かしら、深澄に引き寄せられる理由があったのかもしれなかった。それは、深澄の眼鏡の奥の目だったのかもしれない。祐志には出せないような深澄の表情が気になったのかもしれない。とにかく祐志は、深澄の向かいの席に座り、深澄もそれを拒まなかった。
悪夢を見続けている祐志も、何となく気分が優れない日が多かったが、深澄の顔色も、何故だか日を追うごとに白くなっていくようだった。けれど単に、体調が悪そう、とか、不健康そう、とかではなく、内側から淡い光で照らされているような、不思議な青ざめ方だった。白い肌に唇の色がよく映えているのが、綺麗だと思いながら、何だか痛ましかった。
「何か描いていたの?」
祐志は深澄に訊いた。
「祐志くんは、何を描いたの?」
「モネの池」
「見せて」
美術の課題は、教科書に載っている絵画を模写するというものだった。資料に忠実に描こうとしても良し、自由にアレンジを加えても良し、とのことだった。祐志は元々の自分の画力にあまり自信がなかったので、出来るだけ資料に忠実に描こうとしたのだが、ベッタリと絵の具が何層も重ねられ、混じり合って、睡蓮の浮かぶ池なのか獣の棲む森なのか、よく分からないものが出来上がった。友人は、モネは印象派だから、などと偉そうに言っていた。ちなみに友人は、ピカソの絵にアレンジを加えたものを描いて、祐志に見せつけながら、どうだ、と胸を張っていた。祐志が美術館の館長だったら、絶対に正面には飾らないだろう、と思う絵だった。しかし、賀川先生は面白い絵を描ければ一番をモットーとしているらしいから、賀川先生が友人のピカソの絵や祐志のモネの池を見て、どのような評価を下すかは分からなかった。
深澄は、祐志のモネの池を見ても、感想らしいことは言わなかった。
「深澄ちゃんは、何を描いたの?」
「ゴッホの自画像」
「上手なんだろうね」
「下手な絵だよ」
「上手なんでしょ。今もそうやって、スケッチブックを持っているわけだし」
「今まで描いたのを、見ていただけ」
深澄は、少し照れたように首を傾げた。
「近々、何かコンクールでもあるの?」
「春になったら制作を始めるだろうけれど、今はまだ」
深澄は微笑んだ。そうすると、少し茶目っ気のある表情だ。祐志も思わず、笑いかけたくなるような表情だった。
「見てみる?」
テーブルの上に開かれたスケッチブックを置きながら、深澄は言った。
「いいの?」
そう言いながら、祐志は既に身を乗り出すようにして、スケッチブックを見た。
「祐志くんも見せてくれたから……これはまだ途中だけど、一番気に入っている絵。他は見ないでね」
祐志はスケッチブックを手に持って、まじまじとその絵を見つめた。
「コンクール用の絵?」
「これはコンクールには出さないの」
着物の女性の絵だった。色鉛筆で描かれているらしい。どうやら、ラフスケッチのように見える。着物に柄はなく、女性は長い髪を、胸元にまで流していた。こちらに振り向くように少し首を傾げていて、表情は描かれていないが、笑いかけているように見えた。
「そういえば、この間デパートで、深澄ちゃんを見たよ」
祐志は言った。
「ここに描かれているみたいな、着物の女の人と一緒だったね。あの人が、モデル?」
今まで着物の女性について深澄に訊かなかったことが嘘のように、サラサラと祐志は深澄に訊いた。
「実際に、ポーズを取ってもらったわけではないけれどね。鏡に自分の姿を映しながら」
「あの人は、深澄ちゃんのお母さん?」
あれほど訊けなかったことが、驚くほど簡単に、ストンと訊くことができた。
祐志はスケッチブックを閉じて、テーブルの上に置いた。深澄はスケッチブックを手に取って、大事そうに、胸に抱えた。
「あの人は、『お母さん』」
優しげな、触れれば柔らかそうな声で、深澄は言った。
そのときの祐志の気持ちを、なんと言えばいいのか。恐ろしいとか、悲しいとか、そういう気持ちよりも、ああ、という気持ちだった。ああ、やっぱり。
深澄自身が『お母さん』と呼ぶまでは、あの着物の女性は、祐志にとって何か美しいけれど曖昧な、人間かどうかも分からない、夢の中に住んでいるような存在だった。しかしそうなれば、深澄も夢の世界の住人ということになる。深澄は、色と厚みを持って、今この世界に存在している。
「あの人は、冬に私の前に現れた、私の、或いは、誰かの『お母さん』」
「誰かの……?」
「祐志くん、マサキって人は知ってる?」
「マサキ?」
祐志は首を捻った。
「クラスに、そんな名前の人はいなかったと思うけど」
「そうだよね。ありがとう」
落胆したような様子もなく、深澄は言った。
「冬に、深澄ちゃんの前に、その人が現れたの?」
「そう」
「お母さんだよって、言って?」
「ただいまって言って、そのまま手を洗って、台所に向かったの」
「台所?」
「夕食を作ってくれていたの」
「怖くなかった?」
「怖くなかった。今も一緒に暮らしているし」
奇妙な出来事なのだろう。奇妙な出来事、どころか、かなり奇妙な出来事だ。話だけを聞けば、夢の出来事と現実が曖昧になっているのかもしれない、と言う人もいるかもしれない。気味悪がる人もいるかもしれない。深澄に、病院に行くことを遠回しに勧める人もいるかもしれない。とにかく、受け入れようと思って受け入れられることではない、ということは分かっていた。分かっていたが、祐志は、深澄の語る、その、かなり奇妙な出来事を、受け入れつつあった。受け入れつつあることで、既に受け入れているのかもしれなかった。
あの着物の女性も、深澄が『お母さん』と呼んでいる間は、深澄の『お母さん』として存在しているのだろう。
「ありがとう」
祐志が言うと、深澄は不思議そうな顔をした。
「……ごめん、何が?」
「僕も、深澄ちゃんと同じような経験をしたことがある」
深澄は眼鏡の奥の目を見開いた。
「本当?」
「思い出したんだ……深澄ちゃん、前に言っていただろ?死んでしまった人が、自分の全然知らない姿で生き返ったら」
懐かしい、と思った。
「犬を飼っていたって言ったと思うんだけど……大往生だった」
「うん」
「カノンっていう、中くらいの大きさの犬だった。母がピアノ教室に勤めていたから、その名前がつけられた」
脇の下からグリグリと顔を覗かせてきたカノン。フリスビーをキャッチするのが上手だったカノン。祐一の腕の中で、祐志に頭を撫でられながら、息を引き取ったカノン。
「そのカノンが、死んだ一年後くらいの夏祭りに姿を現した」
……パパ!ママ!ユウイチくん!ユウジくん!カノンだよ!
「けれど、僕らはカノンに気づくことが出来なかった。カノンは、カノンの姿をしていなかった」
……お願い!もう一度カノンを抱き締めて!
胸が痛くなるような、切実な訴え。祭りの喧騒が遠ざかって、頭が痛くなるほどの耳鳴りがするようだった。困惑。動揺。小さな怒りに似た感情を思い出し、指先が震えた。スゥ、と息を吸うと、胸の中で肋骨と肋骨が擦れ合って、鈴の音に似た、微かな音が内側で響くようだった。
チリン、……と。
「カノンって、呼んであげれば良かった。本当は気がついていたのに、呼べなかった。呼んであげていれば、カノンを傷つけずに済んだのに……」
……パパ!ママ!ユウイチくん!ユウジくん!
「カノンは、もう一度僕らに会いにきてくれたのに……」
……お願い!もう一度カノンを抱き締めて!
……お願い!
カノンは、今頃どうなっているのだろうか。
生まれ変わったカノンとして、幸せに生きているのだろうか。それとも、生き返っても家族に気づかれなかったという悲しい傷を抱えたまま、天国と呼ばれる場所に帰ってしまったのか。
今もこの世界のどこかにいるのなら、もう一度会いたいのだ。
会って、今度こそカノンと呼ぶのだ。
「深澄ちゃんのお母さんが別の姿になって生き返ったなら、まだこの世界のどこかに、カノンもいるよね?……また、会えるよね?」
深澄はスケッチブックを、それが、とても壊れやすいもののように胸に抱き締めながら、俯き加減で、微笑みのような表情を浮かべた。
その表情が、今にも泣き出そうとするかのように、祐志には見えた。
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