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深澄
一
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白というよりは、銀色に近い髪が、目を引いた。
銀色に近い髪をいかにも無造作に伸ばして、項の辺りで束ねている。前髪はバサバサと広がっていて、顔を半分くらい隠してしまっている。それでも、美しい人だと思った。線が細く、全体的にほっそりとした印象だ。
少し、変だなと思ったのが、その人物が背中に、黒い布袋に包まれた細長い荷物を背負っていたことだった。剣道部の人たちが持っている、竹刀袋のようだったが、竹刀よりはもう少し長い。
どこか儚げで、そのくせ、妙な存在感があった。
深澄以外、その人物に目を引かれた者はいないようだった。隣のサラリーマン風の男性は、欠伸を噛み殺すような表情をしている。
だから深澄は、この人は自分にしか見えない人なんじゃないか、と思った。幽霊か、妖怪か、言い方は分からないけれど、そういう、何か人間とは違う場所に棲まう人だ。そんな考え方、馬鹿馬鹿しいと思う人の方が多いかもしれないけれど、この銀髪の人を見ていると、その発想も、極めて自然なことに思われた。
その、男性か女性かよく分からない、幽霊か妖怪かも曖昧な人物は、ポケットに手を突っ込んだまま、悠々と深澄に近づいてきた。大した確信もないのに、自分に近づいていると思った。そして、自分に何か話しかけようとしている。深澄は前を向いて、眼鏡の奥から、じっと信号を睨みつけた。色は、赤だ。
「よぉ」
声は、男性の声だった。どこか、疲れたようにしゃがれている。昔からの友人に会えた嬉しさ、ではなく、義理で仕方なく、挨拶するような、気怠さだった。
深澄は、答えなかった。小さい頃から、知らない人にはついて行ってはいけない、声をかけられても無視しなければならない、と教えられて育ったことを、深澄は十六歳の今もキチンと守っている。この人が幽霊であれ、妖怪であれ、また、別の何かであれ、答えてはならないと思った。答えたら、深澄の日常の一部が、崩れてしまうような気がした。砂の城が、容易く崩れ落ちてしまうように。
「お前」
深澄が答えなくても、その人は気にならないようだった。深澄の返事が返ってこないことなど、最初から期待していなかったのかもしれない。というか、返事が返ってこなくても、自分の用事だけはサッサと済ませる必要があったのかもしれない。無頓着で、どこか投げやりとも言える、お前、という呼び方だった。
「お前、最近近くで」
その人が、言った。
無頓着に。投げやりに。深澄への、思いやりなどかけらもなく。
深澄は、微かに震えた。
信号が、赤から青に変わった。
走っていた車が停車する。隣で眠そうにしていたサラリーマンらしき男性が、急にキリッとして歩き出す。背の高い女性が、長い髪を後ろに払いながら歩き出す。老夫婦がゆっくりと話しながら歩き出す。
深澄は、動けなかった。
「お前、最近近くで、誰か蘇ったか?」
背筋が、ぞわり、と粟立つようだった。
耳の奥で、脳みそが大きく膨らもうとしているようだった。信号の、緑の光が点滅している。早く、早く、と、深澄を急かすように。
「おい」
深澄は駆け出した。
崩れる。崩れる。崩れ落ちて消えてしまう。砂の城のように。
銀髪の男は、追いかけてこなかった。
ただいま、と家に帰ると、紫の和服姿の女性が、奥から出てきた。長い髪を纏めて上げて、蝶のバレッタで留めている。ニッコリ笑うと、若い目元に優しい皺が寄った。
「おかえりなさい、深澄ちゃん。晩御飯、出来ているわよ」
女性にそう言われると、深澄の硬く硬っていたところが、温かく解れるようだった。
「うん。ありがとう。ただいま」
深澄は、女性への親しみを込めて言った。
女性が、ふと心配そうな表情をして、深澄の頰に触れた。水仕事をしていたのだろう、冷たい、けれど、柔らかな掌だった。
「どうしたの?深澄ちゃん。顔色が真っ青よ」
「何でもないよ」
深澄は、ドクドクと鳴る心臓を宥めるように、胸元に掌を当てた。
「走ったから……走ってきたからだよ」
お母さん、と言った。
その日の夕飯は、肉じゃがだった。鍋の中でよく煮込んだジャガイモが、口の中でとろりと解けていく。美味しかった。
母は、深澄の向かいに座って、水を飲んでいた。
「深澄ちゃん、美味しい?」
「うん」
「良かった」
母は、本当に良かった、というように笑った。
「最初はね、肉野菜炒めを作ろうと思ったのよ。でもね、深澄ちゃんがこの間から肉じゃがを食べたいと言っていたのを思い出したのよ。嬉しいでしょ?」
「そうなんだ。ありがとう、お母さん」
「ふふ、お口に合って、ようございました」
母はおどけたように首を傾げると、綺麗な歯並びを見せて笑った。
ガラスのコップを満たしていた水がなくなると、母は立ち上がって、空になったコップの中に、水を注いだ。
「深澄ちゃん、今日は本屋さんに行ってきたんでしょう?どんな本を買ったの?」
「普通だよ。小説を二冊と、漫画」
「深澄ちゃんは読書家ねぇ。お母さんは昔から本なんて滅多に読まなかったから、読書感想文もまともに書けなかったの」
母は言って、また、ちょっとおどけた表情をした。
「私より、お兄ちゃんの方がいっぱい読んでるよ」
「そうね。深澄ちゃんもマサキくんも、難しい本をたくさん読むわね」
母は少女のような笑みを見せた。
兄は、都内の大学に通っていて、今は一人暮らしだ。昔から読書好きの勉強嫌いで、学校をすっぽかして一日中図書館に籠もっていることもあったので、将来は一体どうするつもりなのだろうと、周囲をヤキモキさせたものだったが、何故だか学業は優秀だった。大学では主に歴史を学んでいるという。
兄とは、性格も好きなものもまるで違っていて、唯一、読書が趣味ということだけは共通していたけれど、兄が史実を元にした歴史小説やノンフィクションを読むのに対して、深澄は冒険ファンタジーやSF小説を好んだ。その嗜好も最近は段々と変わってきて、夏目漱石や谷崎潤一郎の作品をよく読むようになった。
夕食を食べ終わった後、食器を片付けて、米を研いだ。手首がキン、と痛むほどに、冷たい水だった。ジャクジャクと米を研ぐと、それを炊飯器にセットして、朝六時の予約タイマーのボタンを押した。母が椅子に座ったまま、深澄の方を振り向いた。
「深澄ちゃんは働き者ね。あとはお母さんがやっておくから、先にお風呂に入っちゃっていいわよ」
「うん」
深澄はいつもの習慣で、髪と体を洗った後、湯船に浸かって体を解した。湯船に浸かりながら歌うのは、最近、テレビで聴いて以来、繰り返しイヤホンで聴いているあるソロアーティストの曲だった。輪廻転生をテーマにした曲であるらしく、こんな一節が、歌詞にあった。
君は再び僕に会いに来るだろう。
蛹が蝶になって羽ばたくように。
丸い月が欠けて満ちるように。
太陽が沈んで別の世界で洗われるように。
「母さん?」
電話の向こうの、兄の声だった。
「うん」
ピンクの小花模様のパジャマを着て、自室のベッドの隅で膝を抱えて座りながら、深澄はスマートフォンで、兄に電話をかけていた。電話をかけるには少し遅い時間のような気がしたが、どうしても電話をかけずにはいられなかった。兄はまだ眠くもないのか、喋り方は割とハッキリしていた。
「母さんのことが、気になるのか?」
「うん」
深澄が電話を嫌うことを兄は知っているので、深澄から電話がかかってきたことを、兄は意外に感じているかもしれなかった。
「お兄ちゃん」
深く息を吸うと、微かに、痛む場所があるようだった。スマートフォンを握る手に、力が籠もる。
「お母さんって、着物を着ていた?」
「冠婚葬祭には、着たんじゃないか?」
兄の答えは、あっさりしていた。お祭りとか、と言わず、冠婚葬祭と言ったところに、どこか、懐かしい兄らしさがあった。
「そうじゃなくて、普段から」
「普段?」
「一日中、着物で部屋の中を掃除したり、肉じゃがを作ったり」
「大正時代や明治時代じゃないんだから」
電話の向こうで、兄は笑ったようだった。深澄も笑った。
「じゃあ、髪は長かった?」
「髪?」
兄はまた笑ったようだった。
「髪は、ずっと短かったんじゃないか。肩にも触れないくらい。写真が残っているだろう」
「そうか……お兄ちゃん」
「うん?」
「お母さんが、死んだときのことって」
「いきなりだなぁ」
対して怯むでもなく、兄はサラサラと気軽く言った。
「一歳と十ヶ月のお前を守ろうとして、車に轢かれたんだよ」
「……そう」
罪悪感ともまた違うような、鈍い痛みが、胸にジワリと滲むようだった。水溜りの中に、墨汁を一滴零したように。
「美人だったぞ、母さんは。お前、母さんに似て良かったよ。学校でモテてるだろ」
「モテてないよ」
「和室に、アルバムがあるんじゃないか?母さんも写ってる写真が入ってる」
「そう」
少しの間、ストンと落っこちてきたような沈黙があった。
「今はいいよな。写真があれば、死んだ人にもいつでも会える。進歩したな」
「そう……そうなんだ」
「……深澄」
「うん?」
「もう、電話切ってもいいか?今から見たいドラマが始まるんだ」
「そうか。ごめん、いいよ」
「うん」
ブツン、と電話が切れた。深澄は深い息を吐いて、スマートフォンを当てて温まったような気がする耳元を擦った。
深澄を気遣ったわけでもなく、深澄との会話が嫌になったわけでもなく、兄はきっと、本当に見たいドラマがあって、深澄との電話を切ったのだろう。兄は余計な心配や、気遣いには無頓着な人だった。今頃は、いそいそとテレビのチャンネルを合わせているに違いない。
あの着物の女性が、深澄が一歳十ヶ月の時に死んだはずの、深澄の母だと言って目の前に現れた時に、和室から、アルバムを探し出して確かめた。記憶も朧げな頃に死んだ母が目の前に現れて、深澄は混乱し、動揺していた。けれど、頭の中に冷静さは残っていて、すぐに顔を確かめなければならないと思ったのだった。
写真に映る母は、耳が見えるほど髪を短く切って、浜辺に立てたカラフルなパラソルの下でカメラに向かってピースを取っていた。幼い兄はその傍に立って、子どもながら気取ったポーズを取っていた。
死んだ母は、兄の言う通り目鼻立ちのくっきりした、華やかな美人だった。蘇った母は、瓜実顔の、奥ゆかしい顔立ちに微笑を浮かべて、深澄の為に、毎日料理を作ってくれる。
銀色に近い髪をいかにも無造作に伸ばして、項の辺りで束ねている。前髪はバサバサと広がっていて、顔を半分くらい隠してしまっている。それでも、美しい人だと思った。線が細く、全体的にほっそりとした印象だ。
少し、変だなと思ったのが、その人物が背中に、黒い布袋に包まれた細長い荷物を背負っていたことだった。剣道部の人たちが持っている、竹刀袋のようだったが、竹刀よりはもう少し長い。
どこか儚げで、そのくせ、妙な存在感があった。
深澄以外、その人物に目を引かれた者はいないようだった。隣のサラリーマン風の男性は、欠伸を噛み殺すような表情をしている。
だから深澄は、この人は自分にしか見えない人なんじゃないか、と思った。幽霊か、妖怪か、言い方は分からないけれど、そういう、何か人間とは違う場所に棲まう人だ。そんな考え方、馬鹿馬鹿しいと思う人の方が多いかもしれないけれど、この銀髪の人を見ていると、その発想も、極めて自然なことに思われた。
その、男性か女性かよく分からない、幽霊か妖怪かも曖昧な人物は、ポケットに手を突っ込んだまま、悠々と深澄に近づいてきた。大した確信もないのに、自分に近づいていると思った。そして、自分に何か話しかけようとしている。深澄は前を向いて、眼鏡の奥から、じっと信号を睨みつけた。色は、赤だ。
「よぉ」
声は、男性の声だった。どこか、疲れたようにしゃがれている。昔からの友人に会えた嬉しさ、ではなく、義理で仕方なく、挨拶するような、気怠さだった。
深澄は、答えなかった。小さい頃から、知らない人にはついて行ってはいけない、声をかけられても無視しなければならない、と教えられて育ったことを、深澄は十六歳の今もキチンと守っている。この人が幽霊であれ、妖怪であれ、また、別の何かであれ、答えてはならないと思った。答えたら、深澄の日常の一部が、崩れてしまうような気がした。砂の城が、容易く崩れ落ちてしまうように。
「お前」
深澄が答えなくても、その人は気にならないようだった。深澄の返事が返ってこないことなど、最初から期待していなかったのかもしれない。というか、返事が返ってこなくても、自分の用事だけはサッサと済ませる必要があったのかもしれない。無頓着で、どこか投げやりとも言える、お前、という呼び方だった。
「お前、最近近くで」
その人が、言った。
無頓着に。投げやりに。深澄への、思いやりなどかけらもなく。
深澄は、微かに震えた。
信号が、赤から青に変わった。
走っていた車が停車する。隣で眠そうにしていたサラリーマンらしき男性が、急にキリッとして歩き出す。背の高い女性が、長い髪を後ろに払いながら歩き出す。老夫婦がゆっくりと話しながら歩き出す。
深澄は、動けなかった。
「お前、最近近くで、誰か蘇ったか?」
背筋が、ぞわり、と粟立つようだった。
耳の奥で、脳みそが大きく膨らもうとしているようだった。信号の、緑の光が点滅している。早く、早く、と、深澄を急かすように。
「おい」
深澄は駆け出した。
崩れる。崩れる。崩れ落ちて消えてしまう。砂の城のように。
銀髪の男は、追いかけてこなかった。
ただいま、と家に帰ると、紫の和服姿の女性が、奥から出てきた。長い髪を纏めて上げて、蝶のバレッタで留めている。ニッコリ笑うと、若い目元に優しい皺が寄った。
「おかえりなさい、深澄ちゃん。晩御飯、出来ているわよ」
女性にそう言われると、深澄の硬く硬っていたところが、温かく解れるようだった。
「うん。ありがとう。ただいま」
深澄は、女性への親しみを込めて言った。
女性が、ふと心配そうな表情をして、深澄の頰に触れた。水仕事をしていたのだろう、冷たい、けれど、柔らかな掌だった。
「どうしたの?深澄ちゃん。顔色が真っ青よ」
「何でもないよ」
深澄は、ドクドクと鳴る心臓を宥めるように、胸元に掌を当てた。
「走ったから……走ってきたからだよ」
お母さん、と言った。
その日の夕飯は、肉じゃがだった。鍋の中でよく煮込んだジャガイモが、口の中でとろりと解けていく。美味しかった。
母は、深澄の向かいに座って、水を飲んでいた。
「深澄ちゃん、美味しい?」
「うん」
「良かった」
母は、本当に良かった、というように笑った。
「最初はね、肉野菜炒めを作ろうと思ったのよ。でもね、深澄ちゃんがこの間から肉じゃがを食べたいと言っていたのを思い出したのよ。嬉しいでしょ?」
「そうなんだ。ありがとう、お母さん」
「ふふ、お口に合って、ようございました」
母はおどけたように首を傾げると、綺麗な歯並びを見せて笑った。
ガラスのコップを満たしていた水がなくなると、母は立ち上がって、空になったコップの中に、水を注いだ。
「深澄ちゃん、今日は本屋さんに行ってきたんでしょう?どんな本を買ったの?」
「普通だよ。小説を二冊と、漫画」
「深澄ちゃんは読書家ねぇ。お母さんは昔から本なんて滅多に読まなかったから、読書感想文もまともに書けなかったの」
母は言って、また、ちょっとおどけた表情をした。
「私より、お兄ちゃんの方がいっぱい読んでるよ」
「そうね。深澄ちゃんもマサキくんも、難しい本をたくさん読むわね」
母は少女のような笑みを見せた。
兄は、都内の大学に通っていて、今は一人暮らしだ。昔から読書好きの勉強嫌いで、学校をすっぽかして一日中図書館に籠もっていることもあったので、将来は一体どうするつもりなのだろうと、周囲をヤキモキさせたものだったが、何故だか学業は優秀だった。大学では主に歴史を学んでいるという。
兄とは、性格も好きなものもまるで違っていて、唯一、読書が趣味ということだけは共通していたけれど、兄が史実を元にした歴史小説やノンフィクションを読むのに対して、深澄は冒険ファンタジーやSF小説を好んだ。その嗜好も最近は段々と変わってきて、夏目漱石や谷崎潤一郎の作品をよく読むようになった。
夕食を食べ終わった後、食器を片付けて、米を研いだ。手首がキン、と痛むほどに、冷たい水だった。ジャクジャクと米を研ぐと、それを炊飯器にセットして、朝六時の予約タイマーのボタンを押した。母が椅子に座ったまま、深澄の方を振り向いた。
「深澄ちゃんは働き者ね。あとはお母さんがやっておくから、先にお風呂に入っちゃっていいわよ」
「うん」
深澄はいつもの習慣で、髪と体を洗った後、湯船に浸かって体を解した。湯船に浸かりながら歌うのは、最近、テレビで聴いて以来、繰り返しイヤホンで聴いているあるソロアーティストの曲だった。輪廻転生をテーマにした曲であるらしく、こんな一節が、歌詞にあった。
君は再び僕に会いに来るだろう。
蛹が蝶になって羽ばたくように。
丸い月が欠けて満ちるように。
太陽が沈んで別の世界で洗われるように。
「母さん?」
電話の向こうの、兄の声だった。
「うん」
ピンクの小花模様のパジャマを着て、自室のベッドの隅で膝を抱えて座りながら、深澄はスマートフォンで、兄に電話をかけていた。電話をかけるには少し遅い時間のような気がしたが、どうしても電話をかけずにはいられなかった。兄はまだ眠くもないのか、喋り方は割とハッキリしていた。
「母さんのことが、気になるのか?」
「うん」
深澄が電話を嫌うことを兄は知っているので、深澄から電話がかかってきたことを、兄は意外に感じているかもしれなかった。
「お兄ちゃん」
深く息を吸うと、微かに、痛む場所があるようだった。スマートフォンを握る手に、力が籠もる。
「お母さんって、着物を着ていた?」
「冠婚葬祭には、着たんじゃないか?」
兄の答えは、あっさりしていた。お祭りとか、と言わず、冠婚葬祭と言ったところに、どこか、懐かしい兄らしさがあった。
「そうじゃなくて、普段から」
「普段?」
「一日中、着物で部屋の中を掃除したり、肉じゃがを作ったり」
「大正時代や明治時代じゃないんだから」
電話の向こうで、兄は笑ったようだった。深澄も笑った。
「じゃあ、髪は長かった?」
「髪?」
兄はまた笑ったようだった。
「髪は、ずっと短かったんじゃないか。肩にも触れないくらい。写真が残っているだろう」
「そうか……お兄ちゃん」
「うん?」
「お母さんが、死んだときのことって」
「いきなりだなぁ」
対して怯むでもなく、兄はサラサラと気軽く言った。
「一歳と十ヶ月のお前を守ろうとして、車に轢かれたんだよ」
「……そう」
罪悪感ともまた違うような、鈍い痛みが、胸にジワリと滲むようだった。水溜りの中に、墨汁を一滴零したように。
「美人だったぞ、母さんは。お前、母さんに似て良かったよ。学校でモテてるだろ」
「モテてないよ」
「和室に、アルバムがあるんじゃないか?母さんも写ってる写真が入ってる」
「そう」
少しの間、ストンと落っこちてきたような沈黙があった。
「今はいいよな。写真があれば、死んだ人にもいつでも会える。進歩したな」
「そう……そうなんだ」
「……深澄」
「うん?」
「もう、電話切ってもいいか?今から見たいドラマが始まるんだ」
「そうか。ごめん、いいよ」
「うん」
ブツン、と電話が切れた。深澄は深い息を吐いて、スマートフォンを当てて温まったような気がする耳元を擦った。
深澄を気遣ったわけでもなく、深澄との会話が嫌になったわけでもなく、兄はきっと、本当に見たいドラマがあって、深澄との電話を切ったのだろう。兄は余計な心配や、気遣いには無頓着な人だった。今頃は、いそいそとテレビのチャンネルを合わせているに違いない。
あの着物の女性が、深澄が一歳十ヶ月の時に死んだはずの、深澄の母だと言って目の前に現れた時に、和室から、アルバムを探し出して確かめた。記憶も朧げな頃に死んだ母が目の前に現れて、深澄は混乱し、動揺していた。けれど、頭の中に冷静さは残っていて、すぐに顔を確かめなければならないと思ったのだった。
写真に映る母は、耳が見えるほど髪を短く切って、浜辺に立てたカラフルなパラソルの下でカメラに向かってピースを取っていた。幼い兄はその傍に立って、子どもながら気取ったポーズを取っていた。
死んだ母は、兄の言う通り目鼻立ちのくっきりした、華やかな美人だった。蘇った母は、瓜実顔の、奥ゆかしい顔立ちに微笑を浮かべて、深澄の為に、毎日料理を作ってくれる。
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