緑の家

くるっ🐤ぽ

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 千歳ちとせが来たのは、小雨の降る、少し涼しい日だった。玄関のチャイムが鳴って、ドアを開けてみると、いたのである。千歳は、丁寧なお辞儀をした。
「初めまして、常盤ときわくんの姉の娘の、千歳です」
 丁寧に櫛を通したらしい短い髪に、淡い色のワンピースだった。傘を差すほどの雨でもないらしかった。
 千歳は、大人のように片手を差し出して、握手を求める仕草をした。俺も、緩く、手を握った。少女の手、というような、少女の手だった。
あきらさんは、画家さんなのですよね」
 千歳は、言った。ちょうど、作品作りをしていたので、作業用のエプロンを着て、青い絵の具が、指先についていた。
 とりあえず、家に上げて、常盤が会社からもらってきたフィナンシェと、麦茶を出したのだ。ビニールの袋の口を切って、千歳は美味しそう、というよりは丁寧にフィナンシェを食べ、知り合いからもらった陶器の器に入れた麦茶を、こちらは美味しそうに、クックッ……と音を鳴らして飲んだ。
「逆だろって、言われるけれど」
 千歳の、先の言葉に、俺は答えた。
 つまり、常盤が画家で、俺が会社員ならしっくりくるが、常盤が会社員で、俺が画家だと、意外に思われる、ということだった。
 千歳は、首を傾げた。
「それはつまり、常盤くんの方が、画家らしい、ということでしょうか?」
 大人びた印象を受けたが、子どもらしい仕草もする。そういえば、この子は幾つなのだろうか、と思った。中学生か、小学生にも見える。大人になろうと焦る体に、子どもでいたい心が、抵抗する時期だ。
「一般的に画家を変わっている、と定義するなら、常盤の方が画家らしい、というのは、まぁ、そうだろうな」
 一般的に「変わっている」という表現も実は曖昧だが、常盤についていえば、「変わっている」という表現がちょうどいいだろう。「ちょっと」という言葉がつく、「変わっている」だった。
 画家をやっている俺から見ても、常盤は「ちょっと」「変わっている」。仕事ではどうだか知らないが、画材屋についてきたと思ったら、面白がって色んなものを買い物籠に放り込むから、俺が常盤の代わりに金勘定をして、商品を仕分けしなければならない。それでも、常盤が買い物についてくると、結構な額を使うことになった。安くはない給料をもらっている常盤の方が、そういうことはしっかりと管理しなければならないと、思うのだが。
 常盤は買ったものを、全て使う。大学時代から使っていたというジャージを引っ張り出してきてかと思ったら、粘土をこねて、ビーズをつけて、色を塗って、犬か猫か兎か抽象か分からないオブジェを作って、一人でニヤニヤしていたこともあった。初心者用の絵の具で、葉書くらいの大きさの絵を何枚も描いて、知り合いに送りつけたこともある。親しい知り合いにも、大して親しくもない知り合いにも、構わずに。余ったものは、ボードに張り付けて、壁に飾っている。恐れることなく、赤と緑、黄と青の補色をガンガン使うので、随分賑やかな壁になった。それなのに、ガチャガチャと喧嘩することなく、妙な調和がとれている。壁に飾る絵は、常盤の気まぐれで、時々変わるが、どれも葉書くらいの大きさには変わらず、俺の作品のように額装することもない。百均で買った画鋲とボードで、簡単に飾るだけだ。
 千歳は、何となく、というような目で、常盤の絵を見ていた。実際に、何となく、見てしまうような絵だった。何枚か、重なっているものもある。見ているうちに、千歳の目の、白目の部分に、常盤の、恐れ知らずの色が、鮮やかに映るようだった。
「何を描いているつもりなのでしょう」
「よく分からないな、俺にも」
 常盤に訊いても、ニヤニヤするばかりで、教えてくれないのだ。俺も、しつこく訊こうとはしなかった。
「翠さんの作品を、見せてください」
 千歳は、真面目な顔で言った。真面目に、お愛想を言っている様子でもない。
 一階の、奥の二部屋が、殆ど俺専用の部屋になっていた。一つが、作品を収納しておくためと、俺が寝るための部屋で、もう一つが、アトリエだった。
 小さい作品だと四号、大きい作品だと八〇号サイズの作品が、ゴチャゴチャと置かれている。額装されているものもあれば、されていないものもある。作品を寄せて、どうにか、足場と寝るスペースだけは確保している状態だった。移動するときは、大抵つま先立ちになる。アトリエにある、描きかけの絵は、できれば見せたくなかった。
「色が綺麗です」
 六号の絵を、両手に持って目の前に上げながら、千歳は感想を言った。微妙に色調の違う青い絵の具を、何層も重ねている。
「抽象画ですか?」
「花びらの絵だよ。何枚も重なっている」
「私は、ユリの花が好きです」
 千歳は言って、このとき、初めて微笑んだ。が、やはり、硬い笑い方だった。
「私も、絵を描きます。展覧会で、賞をもらうこともあります」
「すごいな」
「上手なだけの絵です」
 千歳は、今度はチラリとも笑わなかった。
「練習すれば、誰にでも描ける絵です。個性がありません」
「練習できるのが、すごいと思うけれど……努力を面倒くさがる人間も、いるからね」
「ありがとうございます」
 特に嬉しくもなさそうだったが、素直な、千歳の声だった。

 千歳は、常盤の姉の娘だと聞いていたが、会うのは初めてだった。それでも、千歳は物怖じしないので、却って、俺の方が、物怖じするようだった。俺が千歳に見くびられている、というわけではなく、千歳は、誰に対しても、同じような接し方をする少女のように思われた。常盤に、どこかそういう雰囲気があるからかもしれない。無礼とも違う。適度に親しくて、適度に壁を作っている。

 千歳が来たのは、お昼近くだった。千歳よりも、俺の方が空腹を感じたので、昼食を作った。昼食は、焼きそばを作った。
「ソースの、良い匂いですね」
 ソースの匂いを慎重そうに嗅ぎながら、千歳は焼きそばを頬張った。一瞬、目を丸くさせて、それ以降は、黙々と食べ続けた。俺も、黙々と食べた。
 常盤は会社員で、家も家具も常盤が買ったものだった。一般的に見れば、俺は常盤に養われている状態だが、家事は、俺の担当だった。特に、料理は常盤には任せられない。
「翠は、料理が上手だから」
 と、常盤はのんびりと言うが、実際、俺の方が料理上手、どころか、常盤の料理の腕は壊滅的だった。しかも、絶望的、が頭につくほどの壊滅的で、絶望的に壊滅的だということを、本人は全く気にしない。美味いものは美味いと言うし、不味いものは不味いと言うので、味覚に異常はないはずだったが、腹さえ満たされれば炭を食っても同じだというようだった。そういうところからも、俺と常盤の職業が反対の方が、しっくりくる、と言われる所以かもしれない。とはいえ、常盤も、せっかくなら不味いものよりは美味いものを食べたい、という真っ当な考えはあるらしく、その点で、料理を俺に丸投げしたのは正解だった。
 焼きそばには、ニンジン、タマネギ、キャベツなど、野菜もどっさり入れていたが、千歳は好き嫌いをすることなく、麺の一本を残すことなくペロリと平らげた。食べ終えると、少しばかり眠そうだった。
「常盤の部屋で、寝てもいいよ。ベッドがあるから」
 食べ終わった皿を水に浸しながら、俺は言った。
「二階の、奥の部屋がそうだから。ちなみに、その隣が、トイレ」
 千歳は、怠そうに顔を擦りながら、ありがとうございます、というようなことを、口の中でもぐもぐと言って、階段を上った。
 二階の常盤の部屋には、手作りのネームプレートがかかっているから、すぐに分かるだろう。薄青く色を付けた粘土に、カラフルなビーズと、どこかの海岸から拾ってきたらしい、貝殻が飾られている。二人で手を繋いで、裸足かサンダルで、砂浜の上を歩いたこともあったかもしれない。
 ネームプレートは、常盤の手作りではなく、俺の妹の手作りだった。

 後片付けをした後、常盤に連絡をした。
「千歳が、来た」
「うん、分かった」
 常盤は、のんびりとした口調で、柔らかく受け止めたようだった。じんわりと疲れた体を、安い布団の上に投げ出すように。常盤のこういう態度は、初めてではないので、俺も驚かなかった。冷たい奴だとも、思わなかった。だからといって、優しい奴だとも、思わなかった。
「さっき、姉から連絡が来たから、ひょっとしたらって、思っていたよ。そうか、千歳ちゃん、暫く会ってなかったけれど、元気にしていたかな」
 常盤は、どこまでも呑気だった。吹かれる風に吹かれて、逆らうことをしない。そういうものか、そういうこともあるのかと、大抵のことは受け入れる。それをじれったく感じる人もいれば、安堵する人もいる。俺の妹は、そういう常盤に、安堵して、寄りかかっていると思っていた。俺の方は、そういう常盤が時々じれったく感じるようで、実際は安堵して、寄りかかっているのかもしれない。
 殆ど無意識に、頭を振った。
「千歳ちゃんは?」
「疲れていたみたいだから、今、お前の部屋で休ませている……別に、良いよなぁ?」
「うん。そっかぁ、姉の家からこっちって、疲れるからね。やっぱり、バスで来たのかな。雨が降っていたみたいだけれど、大丈夫そうだった?」
「傘を差すほどでもなかったみたいだから、大丈夫そうだったよ」
「それじゃあ、今日は泊まるつもりなのかな。姉に連絡しておくよ。心配していたから」
「ああ」
「何か、いるものあったら、買っていくけれど」
「牛乳と、卵と、トイレットペッパー……あ、あと洗剤。台所洗剤」
「分かった。千歳ちゃんにも後で訊いてみて、いるものあったら、また連絡して」
 電話を、切って、息を吐いた。電話は、疲れる。向かい合って会話するよりも、真剣に神経を使うかもしれない。俺の場合。
 作業用のエプロンを着て、腕まくりをしながら、アトリエに入った。

 若葉わかばは俺の妹で、常盤の恋人だった。
 若葉は、死んだ。
 若葉と、常盤が一緒に暮らすはずだった家で、俺は、常盤と暮らしている。
 いるのか、いないのか、よく分からない、けれど、確かな存在感が、若葉にはあった。
 俺と違って勉強ができて、俺と違って礼儀正しくて、けれど、俺と同じように、友達らしい友達は、いなかったと思う。小さな頃、気管支が弱くて、よく咳をしていたから、尚のこと、親からは可愛がられた。俺が、親に愛されなかったわけではないが、何となく、人間として好かれているのは若葉の方だと、分かった。
 親から愛される、優秀で、可愛い妹。
 若葉に、僻みがなかったといえば、きっと、嘘になる。俺だって、子どもだったから、家に帰ってきた親が、真っ先に若葉を抱き上げるのを見ると、それなりに傷ついた。けれど一方で、俺ほど若葉を分かっている奴はいないと思っていたし、若葉以上の、俺の理解者も、現れないだろうと、思った。何が描いてあるのか分からないと言われた俺の絵を、好きだと言ってくれたのも、若葉だったし、若葉が学校で傷つけられたら、俺は何が何でも、相手に仕返しをせずにはいられなかった。
 俺も、若葉も、少しずつ、扱い辛い子どもだった。けれど、可愛がられて、愛されていたのは、若葉の方だった。
 若葉も、よく何かを作っていた。
 紙を切り刻んで、人形の服を作ることもあれば、ビーズを組み合わせて、アクセサリーを作ることもあった。何かを作る、若葉の横顔には、彫刻刀で丁寧に彫り付けたような、真剣な表情が刻まれていた。作り終えると、真剣な表情が抜けて、優しい、若葉が戻ってきた。若葉は、何かを作ると、親よりも先に、俺に見せた。
「どうかな?お兄ちゃん」
 俺は、褒めてやるときもあれば、貶してやることもあった。若葉は、俺が褒めてやると、花のように嬉しそうな顔をしたし、貶してやると、雨に打たれたように泣きそうな顔をした。貶されても、作ったものを、俺に見せて、どうかな、と言うのだった。
「お兄ちゃん、友達ができた」
 ある日、高校生の若葉がそう言って、連れてきたのが、常盤だった。一目見て、ちょっと変な奴、と分かった。
 ツンツンとした短い髪も、傾いていない眼鏡も平凡だったが、そういう、変な奴、という空気に、俺は敏感だった。多分、天性のものだろう。ちょっと変な奴だったが、悪い奴ではなさそうだった。若葉が授業で作ったというケーキを口に運ぶ、フォークの使い方が、少し不器用だった。唇の端についたクリームを、丁寧に舐めた。
 若葉は、常盤と遊びに行くとき、必ず俺を誘った。俺が気を遣って、誘われた日は用事があるフリをすると、それを撤回したくなるような、寂しそうな顔をした。けれど、俺がいなくても、二人は二人きりで、出かけた。やがて、俺が二人のデートに誘われる機会は減っていったが、そうなると、俺の方がどこか物足りないようで、出かける準備をする若葉に、行くのか、と、声をかけることもあった。だからといって、二人を邪魔してやろう、という気は、起こらなかった。
 若葉と常盤は、極めて平凡に、友達から恋人になった。俺が勝手に、想像していた通りだった。けれど、二人がピタリと抱き合ったり、唇をくっつけたり、しているのかもしれないと考えると、妙だった。妙、というか、そういうものは、二人の間には似合わないような気がした。二人は、互いが好きだから傍にいるだけで、それには、恋人、という関係がちょうどいいから、そういう関係を、一応、名乗っているだけ、のように見えた。
「翠さん、来て」
 常盤から、そういう連絡を受けたのは、去年の、九月頃だった。当時、常盤は俺のことを、「翠さん」と呼んでいた。俺は、小学生相手の絵画教室の先生の助手ををしていた。
「翠さん、来て……家に、来て」
 死ぬのだろうか、こいつ。そんなことを、思った。
 若葉は既に、死んでいた。

 飲み物が欲しくなってアトリエを出ると、千歳が、ソファの上に寝そべっていた。テレビも、つけていない。寝ているのだろうか、と思って顔を見ると、目は開いていた。
「テレビ、つけてもいいよ」
 千歳は、左右に首を振った。小さな額が、青白く見えた。
 俺が台所に行って、麦茶を飲んでも、千歳は張り付けられたように、そのままの恰好で、そこにいた。こういう構図の、こういう色合いの、こういう絵があったような気がするが、思い出せなかった。少女が横たわる平凡な構図で、青色がかかった色彩で、その中に沈むような絵だった。
「……翠さんは、何も訊かないですね」
 千歳は、少し身を縮めるようにしながら、言った。俺は、黙って、首を傾げた。千歳は、ぎこちなく笑って、ぎこちなく、笑みを消した。
「常盤くんは、翠さんの、そういうところ、好きだって言っていましたよ」
 俺は、苦笑いをせずにはいられなかった。
「……ご期待に添えず申し訳ございません、というのもおかしいけれど、俺たち、別にアベックとかではないから」
「アベックって、何ですか?」
「カップル。恋人同士」
「……嫌な思いをさせてしまったのなら申し訳ないのですが、別に、そういう意味で言ったわけではありません」
「これは失敬」
 千歳は、キュウ、と体を丸めるようにしてから、もぞもぞと体を起こした。乱れた髪を、掌で軽く押さえている。表情が、なんだか優しく綻んだようだ。眠ったからだろうか。
「話してもいいですか?」
 複雑な色の水面をたゆたうような、千歳の声だった。怯えはないようだった。
「気の利いたことは言えないよ」
「それでいいです」
「うん」
「母と、少し喧嘩しました」
 千歳は、思ったよりは軽やかに言った。
「塾をサボったからです。テストが自信なくて、逃げて、図書館に避難していました……本を読むのは、好きだから」
「なるほど」
「それで、母と喧嘩しました。母は、最初は静かな声で、諭すように私を叱っていましたが、段々と、声が大きくなってきました。それで、私も言い返しました。そもそも、私は塾に通いたくありませんでした。それよりも、花や、猫や、空の絵を描いていたかった。そう言うと、母は顔を真っ赤にして、私を責めました。そんな風じゃ、叔父さんみたいになるよ、と言いました」
「叔父さんっていうのは……」
「常盤くんのことです」
「あいつ、姉さんと仲悪いのかな」
 千歳は、軽く微笑んだ。傷口にナイフを入れて、こじ開けて、その中身を確かめようとするかのようだった。
「母は、常盤くんみたいな人が、じれったく感じるみたいです。……ひょっとしたら、ハッキリと、嫌いなのかもしれません。本当は頭が良いのに、才能を充分に発揮しないで、ブラブラして、大抵のことは遊び半分で出来ちゃうような……母は、私が常盤くんみたいな人間になることを、恐れているみたいです」
「あいつ、そんな奴かな」
 俺は、つい苦笑した。
「母には、そう見えているみたいです。母は、セカセカと努力する人だから」
「なるほど。ついでに、画家もどきの同性と同居しているのが、気に入らない、と。なるほど」
「翠さんのこと、もどき、とは思わないけれど……」
 俺は、ニヤッとした。困ったような顔をした千歳を前に、そんな表情を、浮かべるしかなかった。
「それが、この間のことでした。その後は、何となく、仲直りをして、夕食は、母が私の好物だと思っている、グラタンを食べました。それから、お風呂に入って、学校の宿題をした後、絵を描いて寝ました。母と喧嘩をしたこと以外、おおむね、いつも通りの夜でした。けれど、今日、急にそのことを思いだして、悲しくて、たまらなくて、来てしまいました」
 千歳は、ここで長い話を区切って、手の甲で口元を拭い、上目を使って俺を見た。
「私には、こういう、衝動的なところがあるみたいです。ごめんなさい」
「ふぅん……まぁ、いいさ」
 俺は、本当に気の利いたことは言えない。
「そういうこともあるよ。まぁ、いいさ」
「それから、あの……」
 千歳は、急に顔を赤くして、もじもじした。
「私、衝動的にここに来てしまったから、あの……」
「ふむ」
 千歳は、少しの間、キュッと口籠った後、思い切ったように、言った。
「……着替えが、ないです……下着も」
 最後の言葉は、消え入るようだった。曖昧な微笑に似た表情が、口元に浮かんでいた。
「……常盤が帰ってきたら、一緒に買いに行こうか」
 千歳は、非常に分かりにくい表情で、俺を見た。
「常盤と、二人で行っておいで」
 さすがに、女の子の着替えや下着を、常盤だけには任せられない。常盤は、気にしないだろうと思われたが、少なくとも、こちらは気にして欲しかった。
 千歳は、不安そうな上目遣いで、俺を見て、くっきりと頷いた。その、上目遣いが、若葉を連想させた。よく俺に、自分の手作りのものを見せて、その感想を求めた、若葉だった。
 若葉は、本当に、色んなものを作っていた。その全てを、素直に認めて、褒めてやれば良かった。

「若葉ちゃんが、いる」
 常盤は、言った。暗くはない、けれど、その声は沈んでいた。
「若葉ちゃんは、いないのに、若葉ちゃんがいる。……あちこちに」
 触り心地の良いカーテンの向こうに。
 淡く差し込む影に。
 手作りのネームプレートがかけられた、扉の向こうに。
 若葉が、あちこちにいる。声をかけると、淡く笑う。何をしているの、と訊くと、あなたの傍にいたの、と、柔らかな声で答える。記憶の中で、君はこうだった、というその姿のままで。その姿によく似合う声で。ずっといたの、と訊くと、ずっと、と答える。つい、笑いかけてしまった。どうして死んだのかと訊くと、消える。砂のようにサラサラと消えていくのとも、電灯のようにパッと消えるのとも違う。最初から、そこにいなかったかのように、消える。若葉がいた場所で、若葉と同じ格好をすると、なんとなく、体が温まる。若葉が、ここにいたのだ、と思う。
 若葉は家の中になら、どこにでも現れる。
 家を、捨てたら、と言った。お祓いや、病院に行くことも勧めた。俺にしては珍しく、真剣に、他人を心配していたのだ。
 常盤は、項垂れながら、首を左右に振った。黒目が濡れて光って、その縁が、何かに反応しているように、微かに震えていた。
「ここには、若葉ちゃんがいる……捨てられない」
 そして、続けた。沈んでいたが、躊躇いのない口調だった。黒目も、既に震えていなかった。
「それに、幽霊でも、幻でも、今はいずれ、若葉ちゃんに会えなくなるかもしれない方が、怖い」
「でも、お前は、弱っているじゃないか」
 実際、そのときの常盤の目の下には、青黒い隈があった。以前よりも、頬骨が浮き出ているようにも見えた。
「うん」
 常盤の声は、一層沈んで、陰を帯びた。そして、真剣な声で言った。同情を求める風でも、哀切を訴える風でもなく、真剣に、言った。
「だから、一緒に暮らしてください。若葉ちゃんが、現れなくなるかもしれない、いずれまで」
 常盤は、深く、頭を下げた。
「お願い、します」
 誰かに、そんなに真剣に頭を下げられるのは、初めてだった。頭を下げたのは、妹の夫になるはずだった男だった。

 帰ってきた常盤は、千歳を連れて、近くの店まで着替えを買いに行った。俺は、再びアトリエに入った。
 絵の具を手に取ると、ふと、影が揺れた気がして、顔を上げた。何気ないことと思って、何気なく、顔を上げた。
 若葉が、いた。
 肩の下まで伸びた長い黒髪を、薄い色をしたリボンで結んで、揺らしている。腰の辺りでゆったりと手を組んで、リラックスしているようだ。描きかけの絵の中で、自分とお揃いの白いワンピースを着た少女を、愛情の籠った眼差しで見つめている。俺の方を、振り向きもせず、描きかけの絵に、見入っているようだ。時々、つま先で床を、叩く。その、トントン、という軽い音が、聞こえた。綺麗な、裸の足だった。
「若葉」
 何で、死んだ、とは訊かなかった。
 訊けなかったのだ。若葉がそこにいたのが、嬉しくて。
「若葉」
 ずっと、そこにいたのか。
 若葉は、俺を振り向いて、微笑みかけた。最初から、いたよ、と答えるように。
 ああ、最初から、と思った。
 お前は最初から、そこにいた、よなぁ……気づかなかっただけで。
 いつのまにか、手の中で強く握りしめていた絵の具が潰れて、中身が零れていた。
 その色を淡くしたら、若葉のリボンの色になるだろうと、思われた。
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