四季、折々、戀

くるっ🐤ぽ

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 ――ついてきている。
 美津江は、先日と同じことを思い、また、昏い歓びに似た感情に刺された。美津江は、着物も髪型も違っている。また、先日と同じ男、公園で美津江の後をつけていたという着物にコートの男かどうかも、判断がつかなかった。しかし、気配はついてきている。
 美津江は胸の前で、手を握り合わせた。
 父の見舞いの帰りである。家の縁側から足を踏み外して、膝を縁側の角にしたたかに打ちつけたらしい。血も出て、美津江の母も使用人も大騒ぎで医者を呼んだり、血の出ている箇所に触れようとして、痛いからやめてくれと父から怒鳴られたりしたわけで、電報を受け取った美津江も、大急ぎで父の元へ駆けつけたのだが、本人は割と元気に柿などを食いながら、美津江に向かって「やぁ」と片手を上げた。医者によると膝の骨にひびが入ったらしく、血が出たのは縁側の角のささくれに擦り剥いただけで、美津江の母や使用人たちが大騒ぎしたほどの怪我でもないらしかった。父は、安静にしている間退屈だから、美津江が嫁に行ってから家で使っている書生を相手に碁や将棋をしているのだが、お前も一緒にどうだと言われて、将棋の相手をした。美津江は幼い頃から父に将棋を仕込まれていて、辰次と勝負してもなかなか強いのであったが、父に勝った経験はなかった。それがこの日は怪我の為か、父の攻めが弱気で、最後には美津江が勝ってしまった。父は、やぁ、負けた負けたと笑って、すっかり広くなった額を撫で上げた。美津江も微笑んだが、何かそこに、今まで一家の大黒柱としてたくましく、知的であった父の、老い行く儚さと弱さを見た気がして、寂しいに、近い気持ちになった。
 父が縁側で転んだのは、買ったばかりの楓の盆栽を二階に持って行こうとした為だったらしい。何でそんなことをしようとしたんですか、と美津江が問うと、その方が見栄えが良いと思ったんだよ、と父の答えだった。
「けれど、かえって家の中に入れるのは可哀想だったかもしれないね」
 父の老いた目の先には、橙に色づいた楓の盆栽があった。
「それなら、私が外にお出ししましょうか?」
「いや、いいよ。わしが寂しいからそのままにしておいてくれ」
 しかし美津江の目には、楓が父に寄り添うようにも見えなかった。ただ、連れて来られたまま、そこにある、という風に見えた。父も、そのことは分かっているだろう。分かっていながら、寂しいからそのままにしておいてくれ、というのはいかにも寂しい老いの痛みに聞こえた。
 帰り際、美津江は母から、子どものことを聞かれた。美津江は微笑んで、首を左右に振った。母は悲しそうな、寂しそうな顔をした。花織は、子どもが出来ないことを理由に、家に戻されたのだ。
 花織に、何故子どもが出来なかったのか。そして、何故花織は死ななくてはならなかったのか。花織ほど美しい人は、必ず幸福にならなければならない。子どものこと以外、美津江が手に入れた幸福は、全て花織のものだったはずだ。
 美男の辰次と美しい花織が結ばれれば、たまのような子が生まれたことだろう。子の祖父となった父はたいそう喜んだに違いない。子の祖母となった美津江の母も、花織への仕打ちを心から詫び、美しい孫を可愛がっただろう。美津江もまた、花織の子の叔母として、花織の子を愛したことだろう。
 そういうわけにもいかなかっただろうが、美津江は、別に結婚しなくても構わなかった。一生、誰の妻にもならず、老いていく両親と共に、あの屋敷にいてもよかった。盆栽のように、ただそこにいるだけの存在、として生きていられれば満足だった。そして、最期には……最期だけは、醜い美津江も美しくありたい。儚く消える夢のように、死んでいきたい。
 今、美津江が想像したこと全てが現実だったなら、きっと、誰もが幸せだったろうに。辰次は、美しい花織のことも、花織との子のことも愛するだろう。それが、きっと正しい現実だった。しかし現実では、辰次は美津江の夫で、花織は母となることなく、振袖を着た少女の姿で死んだ。
 花織を殺したのは自分ではないかという意識が、美津江の中にあった。あのとき、美津江が傍についていれば、花織が死ぬこともなかっただろう。
 美津江の後をつけるものは、花織を殺した美津江の罪を知っているのか。美津江の罪への執行人なのか。追いかけて追いかけて、短剣で美津江の胸を貫くのか。美津江の胸から短剣を引き抜けば、紅葉した楓のような血潮が迸るのか。
 嗚呼ああと思った。
 歓びとは違う、仄明るく、仄暗い幸福を感じて、今まさに、胸を貫いたようだった。美津江の体は、貫かれるままによろめいた。
 ソッと、美津江の体を支える手があった。
「大丈夫ですか?」
 声がして、顔を上げた。どこかの、勤め人風の青年であった。ほんの少し前まで、学生だったのかもしれないと思うほど、若かった。
「ありがとうございます……」
 美津江は言いかけ、あの、と口を開いた。
「誰か、私の後をついてきてはいませんか?」
「え?」
 青年は、首を伸ばして美津江の背後を伺った。美津江は青年の体に掴まって、体を支えた。香水の匂いがした。脚が震えた。
「いえ、誰も……」
 青年は言って、低い声で美津江に囁いた。
「追われているんですか?」
 美津江は、急に落ち着いた。青年の香水の匂いが、肺に染みて、痛いと感じるほどだった。貫かれた傷口に染みるような痛みだった。しかし、実際には美津江は、刺されていないのだった。紅葉のような血潮も流れていない。美津江は眩暈めまいを感じて倒れ込んだところを、親切な青年に助けてもらった。これが、美津江の現実である。そう思うと、急に目の前の青年に対して申し訳なく思った。
「こんな醜女の後を、誰が追いかけますか」
 美津江が言うと、青年は不思議そうな顔をした。きっと、優しい人なのだろうと感じた。優しくて、真面目な人だ。
「助けてくださってありがとうございます」
 美津江はシャンと立ち上がって、青年に向かって作法通りに頭を下げた。顔は醜くとも、仕草と髪は美しく育った。花織の血が、半分は美津江の中で生きているのか。それとも、美津江には美津江の、美しさがあるということか。
「お気をつけください」
 青年は言って、立ち去った。
 美津江は頭を上げて、振り返った。立ち去っていく青年の姿は人影の向こうに見えたが、美津江の後をついてくるようなものが、その人影の中にいたかどうか、判断はつかなかった。――否、きっと、いないのだ。
 これからも、花織が手に入れることのなかった現実を胸に抱き、温め、時々涙ぐみながら生きていくのだ。いずれは、辰次の子どもを生むこともあるかもしれない。そのとき美津江は、花織の可憐な赤ん坊を夢想することだろう。
 異母姉あねの後を追うように。
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