思い出乞ひわずらい

水城真以

文字の大きさ
上 下
21 / 26

二十一、

しおりを挟む

「おやめください!」

 侍女達の悲鳴が響く。しかし、それを無視するように、足音が近付いてくる。

「それより先は、どうか……!」

 そして、戸が音を立てて開かれた。
 開いた戸の向こうには、背の高い男が立っていた。青白い面に、剣呑な珊瑚の双眸。整えられた薄い髭が生えていなければ、男か女か分かりにくいほど、華奢である。
「父上……」
 於泉は、傍らに控えている恒興に呼びかけながら、震える奇妙丸の手を握った。
 奇妙丸は怯えたように背の高い男――父・信長のぶながを見つめた。信長は於泉を一瞥すると、奇妙丸に鋭い眼光を浴びせた。


「奇妙丸」


 信長は、怒鳴ったわけではない。しかし、小牧山全土に響き渡るほど、通る声を響かせた。

「そなた――稽古もせずに、なにをしておるか。聞けば、女子ばかりを傍に侍らせ、男は傅役さえ寄せ付けぬと言うではないか。情けない。儂がそなたを帰蝶に預けたのは、色事を覚えさせるためではないのだが――、帰蝶はそなたを甘やかす才しかなかったか?」

(そんなわけない)

 奇妙丸は、信長を必死ににらみつけようとした。
 帰蝶は、甘やかすだけのではない。奇妙丸が間違ったことをすれば厳しく叱り、常ならば稽古から逃げ出そうとすれば、首根っこを掴んで机の前まで引きずり戻し、食事や休息も許さない人だ。
 しかし、厳しいだけではない。かといって、甘いだけの人でもない。奇妙丸をいつでも一人の人として向き合ってくれる、自慢の母である。
 しかし、信長に宣言してやりたいというのに、声が出ない。声を出そうとしても、息が漏れ、脂汗がじっとりと浮かべることしかできなかった。
 そんな奇妙丸に、信長はますます呆れたようであった。


「――いい加減にせよ」


 甲高い声が、若干低くなった。


「いつまで不貞腐れておるつもりか」


 奇妙丸の身体がますます強張った。


(不貞腐れている、とこの方は言ったのか……?)


 小姓として仕えたわけでもない。足利義明あしかがよしあきはあの時点では、将軍候補というだけで、仕えるべき相手ですらなかった。ただの還俗仕立ての元僧であった。
 いきなり体を押さえつけられ、縛られ、抵抗すれば殴られ蹴られ、誰にも許したことのない場所を暴かれたのである。奇妙丸の身分を考えれば、耐えがたい苦痛であり、屈辱でもあった。

 それを信長は、不貞腐れている、とたった一言で片付けたのである。




「ひどい」





 響き渡った声は、想像していたよりも反響した。
 一瞬、奇妙丸は自分の声がやっと出たのかと思った。しかし、実際には違った。隣にいたふわふわとした黒髪は、奇妙丸が腕を掴んでも止まらない勢いで、立ち向かっていた。
 掴んでいた手は、子猫のように震えていた。しかし、それでも懸命に於泉は、主君に向かって言い放った。


「若は、傷ついておられると言うのに! 何ゆえそのようなことを仰せになれるのか!?」
「於泉、よい」
「よくないっ! 若がよくても、泉がよくない!! いくら御屋形おやかた様だからって、赦せない! 若は、泉達みんなの、大切なお方なのに!!!」



「勝三」


 信長の目から、光が消えた。歪んだ口元が、於泉の名を呼ぶ。恒興は、俯いたままだった。



「これがのところの一の姫か」
「……左様にございます」
「於泉、というたか」


 信長はつかつかと歩み寄ると、於泉の前にしゃがみ込み、顎を掴んだ。信長に目線を絡め取られた於泉は、先ほどまでの威勢を掻き消し、固まった。まるで、蜘蛛の巣に囚われた蝶のように。



「なるほど――父親に、よーぅく似ておる……」



 信長はそう言うなり、興味を失ったように於泉を手離した。重心を崩した於泉を、奇妙丸は慌てて受け止める。そして、隠すように於泉を下がらせると、信長に向かって手を突いた。
 まだ、父に対する畏怖はある。声も、震えている。しかし――これ以上於泉を信長の目にさらしてはいけない、という勘が働いた。
「此度の一件は……すべて、それがしの不徳の致すところ。織田家の名に泥を塗ってしまったこと、お詫びのしようもござりませぬ。なれど、この者に――池田の姫に、なんの関係もございませぬ」
 信長から、笑みがこぼれた気がした。

「そうか」

 信長は、満足したように、大股で部屋を出て行った。


      *

 雨が降るような音がした。奇妙丸は顔を上げると、於泉を振り返った。
 於泉の蘇芳の瞳から、大粒の涙が溢れている。涙の滴は、頬を伝い、床板の上で爆ぜた。
「どうして」
 於泉が濡れた声で、なんども繰り返した。
「若は、悪くないのに」

 なのに、どうして若が許しを乞わなくてはならないの――。

 きっと、そんな風に思うのは、於泉が恒興と親子であるからだろう。奇妙丸と信長の関係とは、違う。
 奇妙丸にとって信長は、ただの父である前に、主君である。そして信長にとっては、息子であるよりもまず、家臣としての想いが強い。奇妙丸は信長に物を強請ることはできない。こうべを垂れることしか知らないのだ。


「於泉」


 奇妙丸は、笑った。於泉が少しでも安心できるように――後ろ髪を引かれずに済むように。


「儂は、明日よりまた、武芸に励まなければならん。ゆえに、そなたとは、もう遊ぶことはできん。――下がれ」



 於泉は傷付いたように、奇妙丸の袖を掴んだ。振り払うこともできず、ただじっと、小さな少女の手の甲を見つめる。
「……若は、泉のことが、嫌いになった?」
 於泉の目から、先ほどよりももっと大きな滴が溢れ出した。
「俺が……儂が、於泉を嫌うはずなどない」
 きっと、奇妙丸にとって於泉は特別だ。これから先、なにがあろうと、於泉は奇妙丸にとって、生涯大切で、特別な女子に違いない。理由は分からないけれど、それだけは確信を持って言えた。



「今までありがとう、於泉。許しておくれ。――さようなら」



 於泉が二の句を告げずにいるうちに、奇妙丸はその隣を避けて、部屋を出て行った。やがて聞こえて来た嗚咽おえつを背にしながら、奇妙丸は一粒だけ、涙を零した。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました

フルーツパフェ
大衆娯楽
 とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。  曰く、全校生徒はパンツを履くこと。  生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?  史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。

マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子

ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。 Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。

同僚くすぐりマッサージ

セナ
大衆娯楽
これは自分の実体験です

RUBBER LADY 屈辱の性奴隷調教

RUBBER LADY
ファンタジー
RUBBER LADYが活躍するストーリーの続編です

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

戦国の子供たち

くしき 妙
歴史・時代
戦国時代武田10勇士の一人穴山梅雪に繋がる縁戚の子供がいた。 真田軍に入った子の初めての任務のお話 母の遺稿を投稿させていただいてます。

処理中です...