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二十一、
しおりを挟む「おやめください!」
侍女達の悲鳴が響く。しかし、それを無視するように、足音が近付いてくる。
「それより先は、どうか……!」
そして、戸が音を立てて開かれた。
開いた戸の向こうには、背の高い男が立っていた。青白い面に、剣呑な珊瑚の双眸。整えられた薄い髭が生えていなければ、男か女か分かりにくいほど、華奢である。
「父上……」
於泉は、傍らに控えている恒興に呼びかけながら、震える奇妙丸の手を握った。
奇妙丸は怯えたように背の高い男――父・信長を見つめた。信長は於泉を一瞥すると、奇妙丸に鋭い眼光を浴びせた。
「奇妙丸」
信長は、怒鳴ったわけではない。しかし、小牧山全土に響き渡るほど、通る声を響かせた。
「そなた――稽古もせずに、なにをしておるか。聞けば、女子ばかりを傍に侍らせ、男は傅役さえ寄せ付けぬと言うではないか。情けない。儂がそなたを帰蝶に預けたのは、色事を覚えさせるためではないのだが――、帰蝶はそなたを甘やかす才しかなかったか?」
(そんなわけない)
奇妙丸は、信長を必死ににらみつけようとした。
帰蝶は、甘やかすだけの女ではない。奇妙丸が間違ったことをすれば厳しく叱り、常ならば稽古から逃げ出そうとすれば、首根っこを掴んで机の前まで引きずり戻し、食事や休息も許さない人だ。
しかし、厳しいだけではない。かといって、甘いだけの人でもない。奇妙丸をいつでも一人の人として向き合ってくれる、自慢の母である。
しかし、信長に宣言してやりたいというのに、声が出ない。声を出そうとしても、息が漏れ、脂汗がじっとりと浮かべることしかできなかった。
そんな奇妙丸に、信長はますます呆れたようであった。
「――いい加減にせよ」
甲高い声が、若干低くなった。
「いつまで不貞腐れておるつもりか」
奇妙丸の身体がますます強張った。
(不貞腐れている、とこの方は言ったのか……?)
小姓として仕えたわけでもない。足利義明はあの時点では、将軍候補というだけで、仕えるべき相手ですらなかった。ただの還俗仕立ての元僧であった。
いきなり体を押さえつけられ、縛られ、抵抗すれば殴られ蹴られ、誰にも許したことのない場所を暴かれたのである。奇妙丸の身分を考えれば、耐えがたい苦痛であり、屈辱でもあった。
それを信長は、不貞腐れている、とたった一言で片付けたのである。
「ひどい」
響き渡った声は、想像していたよりも反響した。
一瞬、奇妙丸は自分の声がやっと出たのかと思った。しかし、実際には違った。隣にいたふわふわとした黒髪は、奇妙丸が腕を掴んでも止まらない勢いで、立ち向かっていた。
掴んでいた手は、子猫のように震えていた。しかし、それでも懸命に於泉は、主君に向かって言い放った。
「若は、傷ついておられると言うのに! 何ゆえそのようなことを仰せになれるのか!?」
「於泉、よい」
「よくないっ! 若がよくても、泉がよくない!! いくら御屋形様だからって、赦せない! 若は、泉達みんなの、大切なお方なのに!!!」
「勝三」
信長の目から、光が消えた。歪んだ口元が、於泉の名を呼ぶ。恒興は、俯いたままだった。
「これがそなたのところの一の姫か」
「……左様にございます」
「於泉、というたか」
信長はつかつかと歩み寄ると、於泉の前にしゃがみ込み、顎を掴んだ。信長に目線を絡め取られた於泉は、先ほどまでの威勢を掻き消し、固まった。まるで、蜘蛛の巣に囚われた蝶のように。
「なるほど――父親に、よーぅく似ておる……」
信長はそう言うなり、興味を失ったように於泉を手離した。重心を崩した於泉を、奇妙丸は慌てて受け止める。そして、隠すように於泉を下がらせると、信長に向かって手を突いた。
まだ、父に対する畏怖はある。声も、震えている。しかし――これ以上於泉を信長の目に晒してはいけない、という勘が働いた。
「此度の一件は……すべて、それがしの不徳の致すところ。織田家の名に泥を塗ってしまったこと、お詫びのしようもござりませぬ。なれど、この者に――池田の姫に、なんの関係もございませぬ」
信長から、笑みがこぼれた気がした。
「そうか」
信長は、満足したように、大股で部屋を出て行った。
*
雨が降るような音がした。奇妙丸は顔を上げると、於泉を振り返った。
於泉の蘇芳の瞳から、大粒の涙が溢れている。涙の滴は、頬を伝い、床板の上で爆ぜた。
「どうして」
於泉が濡れた声で、なんども繰り返した。
「若は、悪くないのに」
なのに、どうして若が許しを乞わなくてはならないの――。
きっと、そんな風に思うのは、於泉が恒興と親子であるからだろう。奇妙丸と信長の関係とは、違う。
奇妙丸にとって信長は、ただの父である前に、主君である。そして信長にとっては、息子であるよりもまず、家臣としての想いが強い。奇妙丸は信長に物を強請ることはできない。頭を垂れることしか知らないのだ。
「於泉」
奇妙丸は、笑った。於泉が少しでも安心できるように――後ろ髪を引かれずに済むように。
「儂は、明日よりまた、武芸に励まなければならん。ゆえに、そなたとは、もう遊ぶことはできん。――下がれ」
於泉は傷付いたように、奇妙丸の袖を掴んだ。振り払うこともできず、ただじっと、小さな少女の手の甲を見つめる。
「……若は、泉のことが、嫌いになった?」
於泉の目から、先ほどよりももっと大きな滴が溢れ出した。
「俺が……儂が、於泉を嫌うはずなどない」
きっと、奇妙丸にとって於泉は特別だ。これから先、なにがあろうと、於泉は奇妙丸にとって、生涯大切で、特別な女子に違いない。理由は分からないけれど、それだけは確信を持って言えた。
「今までありがとう、於泉。許しておくれ。――さようなら」
於泉が二の句を告げずにいるうちに、奇妙丸はその隣を避けて、部屋を出て行った。やがて聞こえて来た嗚咽を背にしながら、奇妙丸は一粒だけ、涙を零した。
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