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弐
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松下村塾のはじまりは、松陰の母・瀧が「幽囚の身で落ち込んでいる大次郎(松陰の字のひとつ)を慰めるために、家族みんなで大次郎の講義を聞きましょう」と言ったことだった。
「母は、寅兄に甘いんです」
文が呆れたように言った。今夜、夕餉にする豆の殻を剥いている文を手伝いながら、朝太郎は「ふうん」と相槌を打つ。幽囚室こと松下村塾では、松陰を囲んで塾生達――特に久坂が熱心に――色々と話をしている。朝太郎はその輪を抜け、文の手伝いをしていた。松下村塾では、新人が文の食事の支度を手伝うという暗黙の決まりがあるらしい。久坂が決めたそうだ。
豆の殻を剥くなんて、普段奉公人に与えている仕事だが、新鮮でこれはこれで面白い。
「もとを正せば――寅兄が脱藩だの国禁を犯すだのするから、うちは色々白い目で見られるのに。父上や母上、それに兄上達も――異常なほど寅兄に甘い。嫁いだ姉上や、その親族も。もう少し怒ればいいのに」
「……文さんは、松陰先生がお嫌いなんですか?」
朝太郎は恐る恐る文の顔を見上げた。正午の一番日が昇る刻限――文の黒目がちな菫色の双眸に、日の光が吸い込まれて輝きを増した。朝太郎が背伸びしても触れることを許されない瞳。文は「さあ」と首を傾げながら、殻のなかから豆を取り出した。
「私は、寅兄とは年が離れていて、あまり一緒に暮らした記憶はありません。だから、上の兄姉ほど思い入れは少ない、というのが正直な感想です」
弟ほど気に掛ける理由もありませんし……と、文は言った。文の弟である敏三郎は生まれつき耳が聞こえないため口が利けず、松陰も遊学先などから殊更年の離れた弟を気にかけていたという。
文は年齢こそ幼いもののしっかりしているし、働き者だ。兄や姉の子らの世話もよく買って出ている。杉家は家族への愛情が深く、松陰も文を溺愛している。しかし、信頼が深いゆえに放っておかれてしまったのかもしれない。
「でも――」
文は笊の上にほぐした豆を置きながら、太腿の上で掌を重ねた。
「私は、寅兄のことが嫌いではありません。何かと大切にしてもらえているのは分かりますし――遊学先や、牢獄におられる時も、よく気にかけてくださいました。家事はできるようになったのか、読み書きはできるようになったのか、と。人の心配をする暇があれば、早く牢屋から出してもらえるように努めなさいと思いますけど」
一文字に結ばれた唇が、わずかに緩んでいることに朝太郎は気がついた。
文はあまり表情豊かな方ではない。能面のように頬が動かず、塾生達からも「愛想がない」と引かれている。積極的に話しかけるのなんて朝太郎以外は、「松下村塾の双璧」と呼ばれる久坂玄瑞と高杉晋作くらいだ。だが、朝太郎は知っている。文は表情豊かではないだけで、存外感情豊かな少女であることを。松陰が塾生達と楽しそうに話をしているのを、茶を注いだ盆を持ちながら、少し離れたところで嬉しそうに見守っていることも。きっかけ兄の言いつけとはいえ、最近二日酔いでよく寝込んでいる月性のことも、気にかけて度々粥や味噌汁を炊きに訪問していることも。
(優しい人なんだよな)
朝太郎は豆を弄りながら、文の横顔を伺った。文は剥き終えた豆に虫食いの痕がないかを吟味していた。
松下村塾に通うようになってから最初の夏が終わろうとしている。明倫館に行ったあと、父の目を盗んで夜の部である自由講義に通ったり、休日は朝餉を済ませるなりそそくさと通ったりしている。何も知らない――というより朝太郎に興味のない父は何も言わない。父の妻は、むしろ朝太郎が家にいる時間が減ったことに安堵しているようである。妹達も、母親と同じ態度だ。朝太郎も殺伐とした、血生臭い家に通うよりは、朝から晩まで家を抜け出している方が余程気が楽だ。
「ここに来て、それなりに日が経ちましたね」
豆剥きを終えた文が、じ……っと朝太郎を見つめる。
「はじめは、月性さまに誘われたあなたを無理に連れてきてしまったと後悔していました」
「え……」
「だって、本当は乗り気ではなかったでしょう」
図星を言い当てられ、朝太郎は瞠目した。勘のいい娘だとは思っていたが、そこまで言い当てられるとは思わなかった。
幽囚室からは、よく通る久坂の美声が響いていた。
「お恥ずかしい」
朝太郎は、文から目を反らした。
「確かに私は、月性先生から言われるままに、あなたについて来ました。自分の意志というものは、およそなかったように思います」
「やっぱり」
「けれど、断れなかった以上、それは私の責任です。あなたが悔やむ必要はない。それに」
朝太郎は一瞬迷ったが、敢えて言い切ることにした。
「それに、楽しいのです」
最初は、断り切れなかったからだった。しかし、講義で話を聞いているうちに、松陰の黒船の話、異国の話を聞くことが楽しみになった。そして、夜食として文が持ってきてくれる、作りおいていたであろう握り飯の温もりも。
実家では、何不自由ない暮らしをさせてもらっている自覚はある。金に困ったことはないし、欲しいものは全て与えられてきた。しかし、文の握り飯も松陰の話も、朝太郎には与えられなかった。全てに恵まれてきた環境下では得られなかったものを、松下村塾ではもらえたのだ。
「……近頃」
文は朝太郎の顔をまっすぐに見つめた。澄んだ瞳が、秋の気配が漂う風の下で揺れた。
「あなたは近頃、よく笑うようになりましたね」
「……そうですか?」
「ええ、そうです。――お願いがございます」
文が急に頭を下げた。
「明日の夜、お付き合いいただけますか」
朝太郎は首を傾げた。文が頼みごとをしてくるなんて、珍しいこともあるものだ。
幽囚室から、詩吟を興じる久坂の声が聞こえる。久坂を寵愛している松陰か、あるいは幼馴染の高杉が、久坂に詩吟を興じるよう頼み、了承されたからに違いなかった。
***
文が朝太郎を呼びつけたのは、神社だった。萩の民達が正月や収穫祭の時期になると集まる社である。大通りは大勢の観客で埋め尽くされていた。色とりどりの紙吹雪が桜の花びらのように舞っている。今日が季節の変わり目と五穀豊穣を祝う祭りの日であったということを、朝太郎はふと思い出した。
待ち合わせの神社に訪れた文は、真新しい着物を新調したようだった。紅葉の刺繍を指した着物に、赤い帯を締めている。相変わらず髪は玉結びであったが、首の後ろで結った髪は、帯と揃いの組紐が丁寧に結んであった。
社はちょうど、巫女装束をした童女たちが、夕焼けに照らされながら舞を踊り、男の子達が大人に支えられながら、神輿を担いだりしている。
文は朝太郎の隣で、くすりと頬をゆるめた。
「可愛い」
周囲を伺いながら文は和んでいる。
「ふりを間違えないか、落ちたりしないか、神輿に潰されやしないか……。きっとどこかではらはらしながら、でも自慢げに見守っているんでしょうね」
「……さあ」
親が子を想う――それは一体どのような気持ちなのだろう。
朝太郎の父は、朝太郎を想ってくれたことは、ただの一度もない。家のために藩主に取り入り、朝太郎のことも手駒としか思っていない。継母も、いつか自身が産むであろう息子までの繋ぎとしか思っていないだろう。
血の縁が、血の縁のある者を想う――朝太郎にとっては呪いのような儀式だった。
文は市場を見つめた。通りでは、小間物を扱う商人がいる。
「素敵」
文は、紅葉の模様が描かれた櫛を手に取った。朝太郎にとっては取るに足らない額だが、文には高い買い物だったらしい。どこか残念にしながら、商人に詫びを入れていた。
「私があの日月性さまの庵にいた理由、ご存じですか」
「いえ」
ただの偶然だろう。文は気が向いた時にだけ月性の庵を尋ねている。朝太郎は元服するより以前から月性の庵を尋ねていたが、文に会ったのはあの日が初めてだった。
「月性さまに、頼まれていたんです」
文は白状した。
「朝太郎を、松陰と会わせてほしいと――あなたが、生きることを少しでも楽しいと思えるようにしてほしい、って」
「月性先生から?」
「……あなたからしたら、余計なお世話だとお思いでしょう。けれど、月性さまは、あなたのことをご自身の息子のようにお思いなんです」
文は、「人との縁は尊いものだ」と言った。穏やかな眼差しが朝太郎を射抜いた。
「人との縁は、毎日のように結ばれます」
通りすがっただけの人とも、家族や、家族を通じて出会った人とも。
もちろん、月性を通じて出会った朝太郎と文の間にも、小さな縁が積み重なって結ばれているのだ、と。
朝太郎は笑った。楽しくて笑ったのではない――家族から愛されて育った、目の前の少女に割り切れない思いを抱いたから、笑うしかなかったのだ。
文は、松陰に対し「思い入れは薄い」と言った。しかし、松陰を嫌いだとは言わなかったし、憎んでいるわけでもない。何かしらの情がある。――そこが、朝太郎とは違う。
何も答えない朝太郎を文はじっと見据えている。文が口を開く前に、朝太郎は顔を反らした。子ども達が楽しげに神輿を担ぎ、舞を舞っている。
「そんなものがあるなら、所詮は呪いです。――誰かと関わらなければ生きていけないなど、がむしゃらに業を重ねているのと同じだとは思いませんか?」
朝太郎を見つめる文の眼差しには、なにか複雑な感情が込められているようだった。こちらの考え方に憤りを感じているのか、哀れんでいるのか、それは分からない。文は朝太郎から目を反らしながら、文は歩き始めた。てっきり帰るのかと思ったが、どうやら、甘酒売りに声をかけたらしい。
「どうぞ」
文は、甘酒の入った湯呑を朝太郎に渡した。
「秋なのに、甘酒が売ってるなんて変だな」
普通、甘酒は冬の飲み物のはずだ。甘酒を買うのは子ども連れの男女ばかりで、ほとんどの若者達は、酒処などに入っている。
「今夜は冷えます。それに、酒呑みしか楽しめないだなんて、変な話だわ。祭りは――身分に問わず、大切な人と楽しむためのものだというのに」
朝太郎はどきりとした。大切な人――あまり笑うことを得意としないこの女性が、朝太郎と一緒にいるのを大切だと思ってくれているのだろうか。
茶碗に口をつけると、麹とともに、甘ったるい感触が舌の上に広がる。冷え切っていた体の芯から温められ、凍り付いた心の臓がゆっくりとほころんでいくようだった。
「業を重ねるのは、本当にいけないことでしょうか」
文が甘酒の入った碗を撫でながら言った。
「月岡さま、ご存じですか。――甘酒は半日で作れるものなんですよ」
「たった半日で?」
「ええ。月岡さまが明倫館に通われて、松下村塾に来られるまでの刻限よりも、ひょっとしたら短いほど、簡単に作られているんです。――甘酒は冬のものとされていますが、冷たくすれば、夏場でも庶民は呑みます」
「そうなんですか?」
「ええ。食欲がないとき、冷ましたら美味しくいただけます。栄養もあるから、本ばかり飲んでいるどこかの塾の先生にはちょうどいいんです」
朝太郎は思わず噴き出した。文が言っているのが、彼女の兄のことだと分かったからだ。
「甘酒って、実は暑気払いにだって使われます」
必死で蘊蓄を語る姿は、どこか師に重なる。朝太郎は微笑みながら、知りませんでした、と言った。
「私は、甘酒は……冬に体を温めるためにしか飲んだことがなかったので」
「思ったよりも早く――一晩の間にできてしまうから、『一夜酒』なんて呼ばれることもあります。神武天皇が即位されるより前の世では、集会に集まった神々を松尾大神がもてなすために造ったという伝説があるくらい昔からあって、そして、今も深く楽しまれて、同時に庶民の体を守るという万能薬です」
文は、朝太郎の瞳をじっと見つめた。
「確かに、人と深く、時に浅く関わるということは、業を積み重ねるためのものかもしれません。けれど、松尾大神だって、もとは『客人に喜んでほしい』という気持ちで、甘酒を造られたと思うんです。私が、塾生のために握り飯をこさえるのも同じ。――業を重ねることが、必ずしも罪に繋がるのでしょうか?」
どうやら文は、朝太郎のことを心配してくれているらしい。朝太郎は塾でもあまり他の門下生と関わろうとしないからだ。
「誰しも、悪縁と良縁というものは存在します。――あなたさまがこれまで結ばれた縁、すべてを肯定するつもりはございません。けれど、月岡さまのご縁全てを悪縁にしてほしくもないんです。私も、月性さまも、他の誰かだって、あなた様に幸せになっていただきたいんです」
胸の中に、こそばゆいものを感じる。それは朝太郎が生まれてこの方、一度も感じたことのない、不思議な感情だった。
朝太郎は、文に背を向けた。このまま彼女と向き合っていると、不思議な、けれど不快ではない感情が芽生えてしまう気がした。
甘酒を一気に煽ると、火薬の匂いが漂う。空には、大輪の花が咲いていた。
「綺麗」
文が微笑む。朝太郎の「あなたのほうが綺麗ですよ」という言葉は、火薬の音にかき消されてついぞ言えず仕舞いだった。
***
母の墓参りに来たのは、特に深い意味はなかった。
朝太郎の実母は、朝太郎が十歳の頃に病死した。家老の姪で、苦労をしたことのない女性だが――今にして思うと愛情の深い人であったと、朝太郎が思い出したのは、文と話をしたからだった。
十年も前のことだから、声も、面影もほとんどない。
生母と言っても、ほとんど一緒に暮らしたことはなかった。母は江戸で暮らし、朝太郎は萩で乳母達に育てられた。最後に会った時、母は病で瘦せ細り、かつては萩城下一とさえ言われた顔には翳りができていた。
『どうか、健やかに生きてください。そなたが元気でいてくれることが、母の望みです』
声も、顔も朧気なのに、最期の言葉だけは覚えている。仮にも朝太郎は嫡男なのだから、主家に尽くしてお家を盛り立てなさいと激励すべきなのに、母はそうしなかった。変な人だなぁと朝太郎は思ったくらいだ。
――あなたさまがこれまで結ばれた縁、すべてを肯定するつもりはございません。
――けれど、月岡さまのご縁全てを悪縁にしてほしくもないんです
――私も、月性さまも、他の誰かだって、あなた様に幸せになっていただきたいんです。
祭りの折、文から聞かされた言葉を思い出す。
実家のことは、切っても切り離せない。
上の者には媚び、下の者は蔑み、気に入らない相手はとことん追い詰める。必要のない贅を尽くし、他人の幸福を犠牲にすることも厭わない、そんな家だ。朝太郎自身、町を歩く度に近隣の武家からは白い目で見られることもあるし、物乞いから石を投げられたことだってある。父や祖父――先祖代々を恨んでいる者達の怨嗟を背負っている。
文は違う。貧しくとも、家族に愛されて育った娘だ。自分が彼女の傍らに立つには、三度輪廻の輪をくぐったところで贖い切れない、穢れた血を宿している。
(それでも――あなたの傍にいたいと思ってよいのですか)
業を抱えた自分がいかに文に相応しくないのか。誰かと一緒にいたいと思うことさえ罪深い。それでも、誰かの手を取るなら文がよかった。
***
杉家に行くと、文は箒を持って庭を走り回っていた。鶏に餌を与えたり、馬の手入れをしたり、今日も働き者だった。
文は朝太郎を見ると、「あら」と柔らかな声を出した。
「月岡さま――今日は珍しいですね」
文は前掛けをしたまま、朝太郎に駆け寄った。朝太郎は、普段は夜の講義に出ることが多い。今日はまだ正午過ぎだ。
離れの方からは、久坂の声がする。いつ来てもあの男はいるなぁ、と思っていると、文は「将来的に、塾を継ぐのはあの人かもしれません」と言った。
「寅兄さまは、久坂さんを気に入っているようですから。努力家で優秀で――自分の跡を任せられるのは久坂君しかいない、と。いつも言っておられます」
それは間接的に、松陰が久坂を婿に勧めているのでは――と思ったが、朝太郎は言葉を飲み込んだ。錦絵のような美形である上に、秀才で人当たりもいい久坂なら、朝太郎より余程相応しい。
「少し冷えて来ましたね」
文は身震いした。
「立ち話もなんですから、よければ上がって行かれませんか。きっと、兄も喜びます」
「そうですか? でも、講義の最中ですし――」
「終わるまで母屋でお待ちくださいませ。今、飲み物をお持ちします」
朝太郎は縁側に座しながら、厨に行く文の背を見送る。ぴょこぴょことうさぎのように跳ねる黒髪を見ながら、ふう、と息を吐いた。
しばらくして、文は甘い匂いが漂う湯呑を手に戻ってきた。湯気が漂う雪のような乳白色。
「甘酒だ」
「先日、お気に召したようでしたから、作ってみました」
「一夜かけて?」
「ええ、一夜かけて」
舌を甘みが包み込む。口の中に米がへばりついてしまい、拭うように舌を動かしていると、文が微笑みながらそれを見ていた。
「文さんも、最近はよく笑いますね」
「そうかしら」
「ええ。はじめてお会いした時は、あまり笑わない人だと思っていたので」
「……笑うのが苦手なのです」
文が困ったように目を反らした。文の手には、欠けた湯呑があった。
家族に愛されて育った末娘――けれど物心がついた時、杉家は松陰を中心に世界が回っていたという。
「寅兄は年端もいかないうちに、藩校で教鞭を取っていた天才です。寅兄は我が家の誇りで、最優先。……でも、だからこそ、迷惑をかけないようにしなければ、と――我儘を言って家族を困らせたくはないと思っていました」
文は家族に愛されて育った――それは本人も認めているし、松陰も末の妹を心から愛しているのは、他人である朝太郎にも分かる。それでも――文が無意識に自分の心を押し殺してしまうのは、家族という重しが原因でもあるのかもしれない。
櫛も湯呑も着物も、いつも姉達のお下がりばかり使っているのは、遠慮がちな彼女らしい。
「……でも、不思議」
文が目を反らした。指の先がそっと色づく。
「月岡さまの前だと、自然と口角が上がります。胸が温かくなるのです」
「……俺もです」
朝太郎は懐に手を差し込んだ。中から箱を取り出し、文に差し出す。
「これは?」
「受け取っていただけませんか」
「開けてもよろしいのですか?」
朝太郎がうなずくと、文は震える手でゆっくりと蓋を外した。
中身は、紅葉の絵が描かれた櫛である。先日、祭りで文が気に入り、手持ちがないからと断念した品だ。
「あなたに、まだ言えないことは沢山あります。きっと、全てを知ったらあなたは俺を軽蔑すると思う――それでも一緒にいてほしいと願うのは、許されますか」
家族という重しに苦しみながら、けれど家族に愛され、愛してもいる文とどこまで分かり合えるかは朝太郎には分からなかった。
「……先ほどから、問いかけばかりですね。まるで、寅兄の講義を受けているよう」
櫛ばかり見つめていた文が朝太郎を見上げた。
「月岡さまは私に、どうして欲しいとお思いですか」
問いを返され、朝太郎は口ごもった。
放っておけば、彼女は久坂という立派な男に嫁ぐことになる。朝太郎のような血なまぐさい家とは関わらずに生きて行くことができる。
そう、彼女が望みさえすれば――。
しかし、朝太郎はそこまで考えたところで頭を振った。文は櫛を受け取っている。あとは朝太郎が自身の願いを告げるだけなのだ。
「申し訳ない」
朝太郎は、文に向けて、小さく頭を下げた。ここで文に「あなたが受け入れてくれるなら」と最後の答えを押しつけるのは卑怯だ。
真珠のような美しい双眸が朝太郎を見つめている。その視線は寸分ほどもずれることなく、朝太郎と真剣に向き直ってくれている。
朝太郎は噛まないように、目を反らさず、素直な願いを口にした。
「ともに生きてほしい。――俺はまだ、全てをあなたに打ち明けるほどの勇気はない臆病者だけど……」
朝太郎は、櫛ごと、皸だらけの手を包み込んだ。文が何かに気づいたように口を開く。
「傷だらけですね」
「文さんは、働き者だから」
「いえ、私ではなく。月岡さまが、です」
言われてはっとした。朝太郎の手は、剣の稽古をしているせいで、肉刺が潰れて固まった痕がある。
「すぐにというわけにはいかないけれど、必ずあなたを迎えに来ます。だから、一緒に生きてほしい。毎日、一緒に甘酒を飲んで、あなたと話ができたら、とても幸せだろうと思うんです。……待っていてくれますか」
「はい。いつまでも――いつまでも、お待ち致します」
文が頬を緩めた。朝太郎がこれまで目にしてきた彼女の表情の中で、もっとも美しいものだった。
きっと乗り越えなければならない障害は山ほどある。彼女にも苦しい思いをさせることになる。けれどきっと二人でなら何でも乗り越えられる気がした。
朝太郎は心に誓う。文と生涯ともにあらんことを。
死が、二人を分かつまで。
恋をはじめて知った幼児のようなことを、この時の朝太郎は本気で願っていた。
***
体が真横に吹き飛んだ。口の中に血の味が広がっていくのが分かる。額が割れ、瞼の上がざっくりと切れて肉が抉れた。
「この――たわけが!」
父の額に青筋が浮かび上がっている。継母は軽蔑するように、妹達は怯えたように、遠くから我関せずと見守っているだけだ。
「立て、バカ息子が!」
父は朝太郎の胸倉を掴むと、縁側から庭に放り投げた。鳩尾を蹴られ噎せ込むと、木刀の先端で頭を地面に押しつけられる。髷がほどけ、髪が肩にかかり、血で湿った土に落ちた。
「罪人の私塾に通っていた上に、その妹を嫁にだと? 寝言も大概にせよ! 上役に見つかったら、どんな災いが及ぶか考えておらんのか!」
「身分の差は、承知しております。けれど、一度他家の養女にしてからなら――」
「たわけ!」
父親は朝太郎の頭に木刀を振り下ろした。
「身分の差だけを言うておるわけではないわ! 罪人の妹と密通など、呆けているにも程があるぞ!」
「呆けてなどおりませぬ! それに、彼女は罪人の妹などではない! 文殿という名が――」
朝太郎の言葉を掻き消すように、父は木刀をまた振り下ろした。バキッ、と鈍い音がしたのは木刀が折れたか、それとも骨でも折れたか。
父が文を認めてくれるなどと、最初から思っていなかった。帰宅し、父を説得しようと試みたが――松下村塾に出入りしていること、松陰の妹を妻に迎えたいことを願うと、父は般若のごとき顔つきになった。真剣ではなく木刀を選んだのは唯一の男児である朝太郎を殺すのはさすがに憚られたためだろう。親の情が少しでもあるなら、この場で斬り捨てるに違いない。
「お前には、縁組が来ておる。その娘御を妻にせよ」
「厭です。私は、文殿しかいりませぬ」
「たわけ! 婚姻というのに個の感情など要らぬわ! 今や飛ぶ鳥落とす勢いの周布すふ殿の親戚筋の姫君だ。有難く受けよ」
「そのような申し出、承服致しかねまする! 周布様にはお断りいただきますようお願い致します、父上!」
「強情な奴だ! まだほざくか!」
既に折れた木刀で横っ面を叩かれる。ささくれが目に突き刺さり、朝太郎は小さく呻いた。うげ、と口を塞いでいるのは、継母だろうか、妹達だろうか。
血に濡れた瞼の裏に、どうにか想い人の姿を描く。少し野暮ったくて、素朴で、優しいあの娘を。
父は血だらけの手を拭いながら見せつけるように溜息を吐いた。しかし次の瞬間何を思ったのか、優しい笑顔を見せる。朝太郎は知っている――この笑顔には優しさなど微塵もないことを。母が亡くなる直前、早くも後妻を迎えると言った時の笑顔と同じだった。
朝太郎は声が出なかった。掠れた喘ぎ声を漏らしながら、父の顔を見上げる。
「お前がどうしてもは厭だと言うなら、仕方あるまい。儂はその文とかいう娘を受け入れよう。――もっとも、その娘に不幸がある可能性は否定できぬが」
ひゅっ、と息を呑む。婚儀の前の不幸――それは父が何か文に手出しをするということだろうか。
父ならやりかねない、と朝太郎は思った。使用人が皿を割った時。小姓が髭を剃る際誤って頬を切ってしまった時。翌日には、それらの者は姿を消していた。文一人くらい私怨で消したところで、罪の意識など父にはないのだろう。
(……つけが回ってきたのだ)
朝太郎とて父を「穢れている」と軽蔑したところで。使用人が拷問を受けている間も、小姓が手打ちにされている時も、生母が今際の際、孤独に死んだ時でさえ、何もしなかった。
どれほど打ち据えられても、自分のことなら我慢ができた。しかし、文に関してだけは我慢ができなかった。
朝太郎は、折れ曲がった腕をどうにか地面に突いた。その姿を見た父は心の底から嬉しそうに「父の気持ち、分かってくれたようだな」と言った。
***
丑三つ時、朝太郎は痛みで痺れた体を引きずりながら歩いた。利き腕が折れているため、杖を突くこともままならない。
(ああ、厭だな――)
朝太郎は泣きたくなるのを堪えながら、塾への道を歩いた。
「月岡?」
低い美声が夜道に響く。久坂だった。少し伸びた短髪が月夜にはよく映える。久坂は包帯をぐるぐる巻きにされた朝太郎を見るとぎょっとしていた。
「一体、何があったんだ? 辻斬りにでも遭ったのか」
「……違う。少し、転んだだけだ」
「転んでこんな怪我になるわけが」
「転んだんだ!」
朝太郎は叫んだ。これ以上は何も聞かれたくはなかった。
久坂はひとまず塾に行こう、と言った。正直今、杉家に行くのは気が引けたが、久坂は大丈夫だ、と言った。
「文さんは姉君のところに行っているから、今夜はいない」
その言葉にほっとした。聡明なこの男は、朝太郎が文に抱いている浅ましい気持ちに気づいているのかもしれなかった。
「久坂――お前は、これから塾に?」
「いや、今日はもう帰るところだが」
「明日も行くか」
「一応、そのつもりだが」
「じゃあ、これを」
朝太郎は、右筆に書かせた手紙を久坂に押しつけた。久坂はなんだこれはと、怪訝な顔をしている。
「俺は、江戸に行くことになった」
「江戸へ?」
「藩邸に詰めるようにというお達しを受けた。江戸でお役目をこなしながら……妻を娶ることになった」
久坂の顔色が変わった。
「本当は松陰先生にもきちんとご挨拶した方が良いのだろうが、罪人の私塾なんぞに行くのには父上もよい顔をされなくてな。手紙で失礼することにした」
「嘘を吐くな」
久坂の声が硬くなる。個人的に話すのは最初の宴会以来だが、改めて見ると、つくづく美丈夫だな、と他人事に思う。
「何か事情があるんだろう。話してみろ。俺は医者だが、先生なら藩主様にも顔が利くし、晋作だって――」
「いい、余計なことを言うな。……もう飽き飽きしたんだよ」
「嘘を言うな。せめて、俺にだけは話してみないか? 俺達は同じ釜の飯を食った仲間だろう」
仲間、という言葉に朝太郎は吹き出した。
久坂のことが気になるのは、文を巡る恋敵だからだろうと思っていたが――ようやく自覚した。
相容れないのだ。貧しく、若くして親兄弟を全て失ったけれど、天が手助けするかのように藩に守られ、松下村塾に守られている久坂と、裕福で親はいるのに、天が仕置きをし続ける人生を送っている朝太郎とでは。
――そして、清廉潔白な男でなければならない、と思った。
「お前を仲間だと思ったことなどないわ、無礼者。貴様ごときが月岡家嫡男であるこの私と対等な立場になれると思うたか、医者坊主」
「その話し方をやめろ! 第一、お文さんのことをどうするつもりだ」
「あんな小娘と周布様の御血筋なら、比べるまでもなかろう」
襟を掴んで持ち上げられた。秀麗な顔が真っ赤に染まっている。
「あんな野暮ったい小娘に本気でこの私が入れ上げると思ったか? 本気で妻にするとでも?」
「お文さんの気持ちを弄んだのか!」
「面白かったよ。ああ、面白かったとも」
形よく整えられた握り飯も、甘ったるい一夜酒の味も、少しずつ綻んでいく彼女の顔を見て行くことは、楽しかった。
一夜酒、などとはうまいこと言うものだ、と朝太郎は思う。酒と呼ばれつつも酔うことはないが、体の熱を調整してくれる。ただしそれは一夜に限る。夢は――朝になったら冷めるものだ。
久坂の柳眉がくしゃりと歪んだ。襟から手が離される。よろめきそうになったが、久坂が支えてくれた。
「送ってはやれん。……手紙を届けなければならないからな」
「……頼んだ」
「お前に頼まれるのは腹立たしいが、そんな顔を殴る気にはなれないな」
久坂は朝太郎に背を向けた。朝太郎はもう一度「あとは頼む」と告げた。久坂は「お前に言われることじゃない」と吠える。そうだろう。家柄以外に何の取柄もない朝太郎が久坂に何を望むというのか。
口の中に血の味が広がる。やっと塞がった傷口がまた開いたらしい。
一夜酒では、人は酔えない。日を超えてしまえば冷めてしまう紛い物だった。
「母は、寅兄に甘いんです」
文が呆れたように言った。今夜、夕餉にする豆の殻を剥いている文を手伝いながら、朝太郎は「ふうん」と相槌を打つ。幽囚室こと松下村塾では、松陰を囲んで塾生達――特に久坂が熱心に――色々と話をしている。朝太郎はその輪を抜け、文の手伝いをしていた。松下村塾では、新人が文の食事の支度を手伝うという暗黙の決まりがあるらしい。久坂が決めたそうだ。
豆の殻を剥くなんて、普段奉公人に与えている仕事だが、新鮮でこれはこれで面白い。
「もとを正せば――寅兄が脱藩だの国禁を犯すだのするから、うちは色々白い目で見られるのに。父上や母上、それに兄上達も――異常なほど寅兄に甘い。嫁いだ姉上や、その親族も。もう少し怒ればいいのに」
「……文さんは、松陰先生がお嫌いなんですか?」
朝太郎は恐る恐る文の顔を見上げた。正午の一番日が昇る刻限――文の黒目がちな菫色の双眸に、日の光が吸い込まれて輝きを増した。朝太郎が背伸びしても触れることを許されない瞳。文は「さあ」と首を傾げながら、殻のなかから豆を取り出した。
「私は、寅兄とは年が離れていて、あまり一緒に暮らした記憶はありません。だから、上の兄姉ほど思い入れは少ない、というのが正直な感想です」
弟ほど気に掛ける理由もありませんし……と、文は言った。文の弟である敏三郎は生まれつき耳が聞こえないため口が利けず、松陰も遊学先などから殊更年の離れた弟を気にかけていたという。
文は年齢こそ幼いもののしっかりしているし、働き者だ。兄や姉の子らの世話もよく買って出ている。杉家は家族への愛情が深く、松陰も文を溺愛している。しかし、信頼が深いゆえに放っておかれてしまったのかもしれない。
「でも――」
文は笊の上にほぐした豆を置きながら、太腿の上で掌を重ねた。
「私は、寅兄のことが嫌いではありません。何かと大切にしてもらえているのは分かりますし――遊学先や、牢獄におられる時も、よく気にかけてくださいました。家事はできるようになったのか、読み書きはできるようになったのか、と。人の心配をする暇があれば、早く牢屋から出してもらえるように努めなさいと思いますけど」
一文字に結ばれた唇が、わずかに緩んでいることに朝太郎は気がついた。
文はあまり表情豊かな方ではない。能面のように頬が動かず、塾生達からも「愛想がない」と引かれている。積極的に話しかけるのなんて朝太郎以外は、「松下村塾の双璧」と呼ばれる久坂玄瑞と高杉晋作くらいだ。だが、朝太郎は知っている。文は表情豊かではないだけで、存外感情豊かな少女であることを。松陰が塾生達と楽しそうに話をしているのを、茶を注いだ盆を持ちながら、少し離れたところで嬉しそうに見守っていることも。きっかけ兄の言いつけとはいえ、最近二日酔いでよく寝込んでいる月性のことも、気にかけて度々粥や味噌汁を炊きに訪問していることも。
(優しい人なんだよな)
朝太郎は豆を弄りながら、文の横顔を伺った。文は剥き終えた豆に虫食いの痕がないかを吟味していた。
松下村塾に通うようになってから最初の夏が終わろうとしている。明倫館に行ったあと、父の目を盗んで夜の部である自由講義に通ったり、休日は朝餉を済ませるなりそそくさと通ったりしている。何も知らない――というより朝太郎に興味のない父は何も言わない。父の妻は、むしろ朝太郎が家にいる時間が減ったことに安堵しているようである。妹達も、母親と同じ態度だ。朝太郎も殺伐とした、血生臭い家に通うよりは、朝から晩まで家を抜け出している方が余程気が楽だ。
「ここに来て、それなりに日が経ちましたね」
豆剥きを終えた文が、じ……っと朝太郎を見つめる。
「はじめは、月性さまに誘われたあなたを無理に連れてきてしまったと後悔していました」
「え……」
「だって、本当は乗り気ではなかったでしょう」
図星を言い当てられ、朝太郎は瞠目した。勘のいい娘だとは思っていたが、そこまで言い当てられるとは思わなかった。
幽囚室からは、よく通る久坂の美声が響いていた。
「お恥ずかしい」
朝太郎は、文から目を反らした。
「確かに私は、月性先生から言われるままに、あなたについて来ました。自分の意志というものは、およそなかったように思います」
「やっぱり」
「けれど、断れなかった以上、それは私の責任です。あなたが悔やむ必要はない。それに」
朝太郎は一瞬迷ったが、敢えて言い切ることにした。
「それに、楽しいのです」
最初は、断り切れなかったからだった。しかし、講義で話を聞いているうちに、松陰の黒船の話、異国の話を聞くことが楽しみになった。そして、夜食として文が持ってきてくれる、作りおいていたであろう握り飯の温もりも。
実家では、何不自由ない暮らしをさせてもらっている自覚はある。金に困ったことはないし、欲しいものは全て与えられてきた。しかし、文の握り飯も松陰の話も、朝太郎には与えられなかった。全てに恵まれてきた環境下では得られなかったものを、松下村塾ではもらえたのだ。
「……近頃」
文は朝太郎の顔をまっすぐに見つめた。澄んだ瞳が、秋の気配が漂う風の下で揺れた。
「あなたは近頃、よく笑うようになりましたね」
「……そうですか?」
「ええ、そうです。――お願いがございます」
文が急に頭を下げた。
「明日の夜、お付き合いいただけますか」
朝太郎は首を傾げた。文が頼みごとをしてくるなんて、珍しいこともあるものだ。
幽囚室から、詩吟を興じる久坂の声が聞こえる。久坂を寵愛している松陰か、あるいは幼馴染の高杉が、久坂に詩吟を興じるよう頼み、了承されたからに違いなかった。
***
文が朝太郎を呼びつけたのは、神社だった。萩の民達が正月や収穫祭の時期になると集まる社である。大通りは大勢の観客で埋め尽くされていた。色とりどりの紙吹雪が桜の花びらのように舞っている。今日が季節の変わり目と五穀豊穣を祝う祭りの日であったということを、朝太郎はふと思い出した。
待ち合わせの神社に訪れた文は、真新しい着物を新調したようだった。紅葉の刺繍を指した着物に、赤い帯を締めている。相変わらず髪は玉結びであったが、首の後ろで結った髪は、帯と揃いの組紐が丁寧に結んであった。
社はちょうど、巫女装束をした童女たちが、夕焼けに照らされながら舞を踊り、男の子達が大人に支えられながら、神輿を担いだりしている。
文は朝太郎の隣で、くすりと頬をゆるめた。
「可愛い」
周囲を伺いながら文は和んでいる。
「ふりを間違えないか、落ちたりしないか、神輿に潰されやしないか……。きっとどこかではらはらしながら、でも自慢げに見守っているんでしょうね」
「……さあ」
親が子を想う――それは一体どのような気持ちなのだろう。
朝太郎の父は、朝太郎を想ってくれたことは、ただの一度もない。家のために藩主に取り入り、朝太郎のことも手駒としか思っていない。継母も、いつか自身が産むであろう息子までの繋ぎとしか思っていないだろう。
血の縁が、血の縁のある者を想う――朝太郎にとっては呪いのような儀式だった。
文は市場を見つめた。通りでは、小間物を扱う商人がいる。
「素敵」
文は、紅葉の模様が描かれた櫛を手に取った。朝太郎にとっては取るに足らない額だが、文には高い買い物だったらしい。どこか残念にしながら、商人に詫びを入れていた。
「私があの日月性さまの庵にいた理由、ご存じですか」
「いえ」
ただの偶然だろう。文は気が向いた時にだけ月性の庵を尋ねている。朝太郎は元服するより以前から月性の庵を尋ねていたが、文に会ったのはあの日が初めてだった。
「月性さまに、頼まれていたんです」
文は白状した。
「朝太郎を、松陰と会わせてほしいと――あなたが、生きることを少しでも楽しいと思えるようにしてほしい、って」
「月性先生から?」
「……あなたからしたら、余計なお世話だとお思いでしょう。けれど、月性さまは、あなたのことをご自身の息子のようにお思いなんです」
文は、「人との縁は尊いものだ」と言った。穏やかな眼差しが朝太郎を射抜いた。
「人との縁は、毎日のように結ばれます」
通りすがっただけの人とも、家族や、家族を通じて出会った人とも。
もちろん、月性を通じて出会った朝太郎と文の間にも、小さな縁が積み重なって結ばれているのだ、と。
朝太郎は笑った。楽しくて笑ったのではない――家族から愛されて育った、目の前の少女に割り切れない思いを抱いたから、笑うしかなかったのだ。
文は、松陰に対し「思い入れは薄い」と言った。しかし、松陰を嫌いだとは言わなかったし、憎んでいるわけでもない。何かしらの情がある。――そこが、朝太郎とは違う。
何も答えない朝太郎を文はじっと見据えている。文が口を開く前に、朝太郎は顔を反らした。子ども達が楽しげに神輿を担ぎ、舞を舞っている。
「そんなものがあるなら、所詮は呪いです。――誰かと関わらなければ生きていけないなど、がむしゃらに業を重ねているのと同じだとは思いませんか?」
朝太郎を見つめる文の眼差しには、なにか複雑な感情が込められているようだった。こちらの考え方に憤りを感じているのか、哀れんでいるのか、それは分からない。文は朝太郎から目を反らしながら、文は歩き始めた。てっきり帰るのかと思ったが、どうやら、甘酒売りに声をかけたらしい。
「どうぞ」
文は、甘酒の入った湯呑を朝太郎に渡した。
「秋なのに、甘酒が売ってるなんて変だな」
普通、甘酒は冬の飲み物のはずだ。甘酒を買うのは子ども連れの男女ばかりで、ほとんどの若者達は、酒処などに入っている。
「今夜は冷えます。それに、酒呑みしか楽しめないだなんて、変な話だわ。祭りは――身分に問わず、大切な人と楽しむためのものだというのに」
朝太郎はどきりとした。大切な人――あまり笑うことを得意としないこの女性が、朝太郎と一緒にいるのを大切だと思ってくれているのだろうか。
茶碗に口をつけると、麹とともに、甘ったるい感触が舌の上に広がる。冷え切っていた体の芯から温められ、凍り付いた心の臓がゆっくりとほころんでいくようだった。
「業を重ねるのは、本当にいけないことでしょうか」
文が甘酒の入った碗を撫でながら言った。
「月岡さま、ご存じですか。――甘酒は半日で作れるものなんですよ」
「たった半日で?」
「ええ。月岡さまが明倫館に通われて、松下村塾に来られるまでの刻限よりも、ひょっとしたら短いほど、簡単に作られているんです。――甘酒は冬のものとされていますが、冷たくすれば、夏場でも庶民は呑みます」
「そうなんですか?」
「ええ。食欲がないとき、冷ましたら美味しくいただけます。栄養もあるから、本ばかり飲んでいるどこかの塾の先生にはちょうどいいんです」
朝太郎は思わず噴き出した。文が言っているのが、彼女の兄のことだと分かったからだ。
「甘酒って、実は暑気払いにだって使われます」
必死で蘊蓄を語る姿は、どこか師に重なる。朝太郎は微笑みながら、知りませんでした、と言った。
「私は、甘酒は……冬に体を温めるためにしか飲んだことがなかったので」
「思ったよりも早く――一晩の間にできてしまうから、『一夜酒』なんて呼ばれることもあります。神武天皇が即位されるより前の世では、集会に集まった神々を松尾大神がもてなすために造ったという伝説があるくらい昔からあって、そして、今も深く楽しまれて、同時に庶民の体を守るという万能薬です」
文は、朝太郎の瞳をじっと見つめた。
「確かに、人と深く、時に浅く関わるということは、業を積み重ねるためのものかもしれません。けれど、松尾大神だって、もとは『客人に喜んでほしい』という気持ちで、甘酒を造られたと思うんです。私が、塾生のために握り飯をこさえるのも同じ。――業を重ねることが、必ずしも罪に繋がるのでしょうか?」
どうやら文は、朝太郎のことを心配してくれているらしい。朝太郎は塾でもあまり他の門下生と関わろうとしないからだ。
「誰しも、悪縁と良縁というものは存在します。――あなたさまがこれまで結ばれた縁、すべてを肯定するつもりはございません。けれど、月岡さまのご縁全てを悪縁にしてほしくもないんです。私も、月性さまも、他の誰かだって、あなた様に幸せになっていただきたいんです」
胸の中に、こそばゆいものを感じる。それは朝太郎が生まれてこの方、一度も感じたことのない、不思議な感情だった。
朝太郎は、文に背を向けた。このまま彼女と向き合っていると、不思議な、けれど不快ではない感情が芽生えてしまう気がした。
甘酒を一気に煽ると、火薬の匂いが漂う。空には、大輪の花が咲いていた。
「綺麗」
文が微笑む。朝太郎の「あなたのほうが綺麗ですよ」という言葉は、火薬の音にかき消されてついぞ言えず仕舞いだった。
***
母の墓参りに来たのは、特に深い意味はなかった。
朝太郎の実母は、朝太郎が十歳の頃に病死した。家老の姪で、苦労をしたことのない女性だが――今にして思うと愛情の深い人であったと、朝太郎が思い出したのは、文と話をしたからだった。
十年も前のことだから、声も、面影もほとんどない。
生母と言っても、ほとんど一緒に暮らしたことはなかった。母は江戸で暮らし、朝太郎は萩で乳母達に育てられた。最後に会った時、母は病で瘦せ細り、かつては萩城下一とさえ言われた顔には翳りができていた。
『どうか、健やかに生きてください。そなたが元気でいてくれることが、母の望みです』
声も、顔も朧気なのに、最期の言葉だけは覚えている。仮にも朝太郎は嫡男なのだから、主家に尽くしてお家を盛り立てなさいと激励すべきなのに、母はそうしなかった。変な人だなぁと朝太郎は思ったくらいだ。
――あなたさまがこれまで結ばれた縁、すべてを肯定するつもりはございません。
――けれど、月岡さまのご縁全てを悪縁にしてほしくもないんです
――私も、月性さまも、他の誰かだって、あなた様に幸せになっていただきたいんです。
祭りの折、文から聞かされた言葉を思い出す。
実家のことは、切っても切り離せない。
上の者には媚び、下の者は蔑み、気に入らない相手はとことん追い詰める。必要のない贅を尽くし、他人の幸福を犠牲にすることも厭わない、そんな家だ。朝太郎自身、町を歩く度に近隣の武家からは白い目で見られることもあるし、物乞いから石を投げられたことだってある。父や祖父――先祖代々を恨んでいる者達の怨嗟を背負っている。
文は違う。貧しくとも、家族に愛されて育った娘だ。自分が彼女の傍らに立つには、三度輪廻の輪をくぐったところで贖い切れない、穢れた血を宿している。
(それでも――あなたの傍にいたいと思ってよいのですか)
業を抱えた自分がいかに文に相応しくないのか。誰かと一緒にいたいと思うことさえ罪深い。それでも、誰かの手を取るなら文がよかった。
***
杉家に行くと、文は箒を持って庭を走り回っていた。鶏に餌を与えたり、馬の手入れをしたり、今日も働き者だった。
文は朝太郎を見ると、「あら」と柔らかな声を出した。
「月岡さま――今日は珍しいですね」
文は前掛けをしたまま、朝太郎に駆け寄った。朝太郎は、普段は夜の講義に出ることが多い。今日はまだ正午過ぎだ。
離れの方からは、久坂の声がする。いつ来てもあの男はいるなぁ、と思っていると、文は「将来的に、塾を継ぐのはあの人かもしれません」と言った。
「寅兄さまは、久坂さんを気に入っているようですから。努力家で優秀で――自分の跡を任せられるのは久坂君しかいない、と。いつも言っておられます」
それは間接的に、松陰が久坂を婿に勧めているのでは――と思ったが、朝太郎は言葉を飲み込んだ。錦絵のような美形である上に、秀才で人当たりもいい久坂なら、朝太郎より余程相応しい。
「少し冷えて来ましたね」
文は身震いした。
「立ち話もなんですから、よければ上がって行かれませんか。きっと、兄も喜びます」
「そうですか? でも、講義の最中ですし――」
「終わるまで母屋でお待ちくださいませ。今、飲み物をお持ちします」
朝太郎は縁側に座しながら、厨に行く文の背を見送る。ぴょこぴょことうさぎのように跳ねる黒髪を見ながら、ふう、と息を吐いた。
しばらくして、文は甘い匂いが漂う湯呑を手に戻ってきた。湯気が漂う雪のような乳白色。
「甘酒だ」
「先日、お気に召したようでしたから、作ってみました」
「一夜かけて?」
「ええ、一夜かけて」
舌を甘みが包み込む。口の中に米がへばりついてしまい、拭うように舌を動かしていると、文が微笑みながらそれを見ていた。
「文さんも、最近はよく笑いますね」
「そうかしら」
「ええ。はじめてお会いした時は、あまり笑わない人だと思っていたので」
「……笑うのが苦手なのです」
文が困ったように目を反らした。文の手には、欠けた湯呑があった。
家族に愛されて育った末娘――けれど物心がついた時、杉家は松陰を中心に世界が回っていたという。
「寅兄は年端もいかないうちに、藩校で教鞭を取っていた天才です。寅兄は我が家の誇りで、最優先。……でも、だからこそ、迷惑をかけないようにしなければ、と――我儘を言って家族を困らせたくはないと思っていました」
文は家族に愛されて育った――それは本人も認めているし、松陰も末の妹を心から愛しているのは、他人である朝太郎にも分かる。それでも――文が無意識に自分の心を押し殺してしまうのは、家族という重しが原因でもあるのかもしれない。
櫛も湯呑も着物も、いつも姉達のお下がりばかり使っているのは、遠慮がちな彼女らしい。
「……でも、不思議」
文が目を反らした。指の先がそっと色づく。
「月岡さまの前だと、自然と口角が上がります。胸が温かくなるのです」
「……俺もです」
朝太郎は懐に手を差し込んだ。中から箱を取り出し、文に差し出す。
「これは?」
「受け取っていただけませんか」
「開けてもよろしいのですか?」
朝太郎がうなずくと、文は震える手でゆっくりと蓋を外した。
中身は、紅葉の絵が描かれた櫛である。先日、祭りで文が気に入り、手持ちがないからと断念した品だ。
「あなたに、まだ言えないことは沢山あります。きっと、全てを知ったらあなたは俺を軽蔑すると思う――それでも一緒にいてほしいと願うのは、許されますか」
家族という重しに苦しみながら、けれど家族に愛され、愛してもいる文とどこまで分かり合えるかは朝太郎には分からなかった。
「……先ほどから、問いかけばかりですね。まるで、寅兄の講義を受けているよう」
櫛ばかり見つめていた文が朝太郎を見上げた。
「月岡さまは私に、どうして欲しいとお思いですか」
問いを返され、朝太郎は口ごもった。
放っておけば、彼女は久坂という立派な男に嫁ぐことになる。朝太郎のような血なまぐさい家とは関わらずに生きて行くことができる。
そう、彼女が望みさえすれば――。
しかし、朝太郎はそこまで考えたところで頭を振った。文は櫛を受け取っている。あとは朝太郎が自身の願いを告げるだけなのだ。
「申し訳ない」
朝太郎は、文に向けて、小さく頭を下げた。ここで文に「あなたが受け入れてくれるなら」と最後の答えを押しつけるのは卑怯だ。
真珠のような美しい双眸が朝太郎を見つめている。その視線は寸分ほどもずれることなく、朝太郎と真剣に向き直ってくれている。
朝太郎は噛まないように、目を反らさず、素直な願いを口にした。
「ともに生きてほしい。――俺はまだ、全てをあなたに打ち明けるほどの勇気はない臆病者だけど……」
朝太郎は、櫛ごと、皸だらけの手を包み込んだ。文が何かに気づいたように口を開く。
「傷だらけですね」
「文さんは、働き者だから」
「いえ、私ではなく。月岡さまが、です」
言われてはっとした。朝太郎の手は、剣の稽古をしているせいで、肉刺が潰れて固まった痕がある。
「すぐにというわけにはいかないけれど、必ずあなたを迎えに来ます。だから、一緒に生きてほしい。毎日、一緒に甘酒を飲んで、あなたと話ができたら、とても幸せだろうと思うんです。……待っていてくれますか」
「はい。いつまでも――いつまでも、お待ち致します」
文が頬を緩めた。朝太郎がこれまで目にしてきた彼女の表情の中で、もっとも美しいものだった。
きっと乗り越えなければならない障害は山ほどある。彼女にも苦しい思いをさせることになる。けれどきっと二人でなら何でも乗り越えられる気がした。
朝太郎は心に誓う。文と生涯ともにあらんことを。
死が、二人を分かつまで。
恋をはじめて知った幼児のようなことを、この時の朝太郎は本気で願っていた。
***
体が真横に吹き飛んだ。口の中に血の味が広がっていくのが分かる。額が割れ、瞼の上がざっくりと切れて肉が抉れた。
「この――たわけが!」
父の額に青筋が浮かび上がっている。継母は軽蔑するように、妹達は怯えたように、遠くから我関せずと見守っているだけだ。
「立て、バカ息子が!」
父は朝太郎の胸倉を掴むと、縁側から庭に放り投げた。鳩尾を蹴られ噎せ込むと、木刀の先端で頭を地面に押しつけられる。髷がほどけ、髪が肩にかかり、血で湿った土に落ちた。
「罪人の私塾に通っていた上に、その妹を嫁にだと? 寝言も大概にせよ! 上役に見つかったら、どんな災いが及ぶか考えておらんのか!」
「身分の差は、承知しております。けれど、一度他家の養女にしてからなら――」
「たわけ!」
父親は朝太郎の頭に木刀を振り下ろした。
「身分の差だけを言うておるわけではないわ! 罪人の妹と密通など、呆けているにも程があるぞ!」
「呆けてなどおりませぬ! それに、彼女は罪人の妹などではない! 文殿という名が――」
朝太郎の言葉を掻き消すように、父は木刀をまた振り下ろした。バキッ、と鈍い音がしたのは木刀が折れたか、それとも骨でも折れたか。
父が文を認めてくれるなどと、最初から思っていなかった。帰宅し、父を説得しようと試みたが――松下村塾に出入りしていること、松陰の妹を妻に迎えたいことを願うと、父は般若のごとき顔つきになった。真剣ではなく木刀を選んだのは唯一の男児である朝太郎を殺すのはさすがに憚られたためだろう。親の情が少しでもあるなら、この場で斬り捨てるに違いない。
「お前には、縁組が来ておる。その娘御を妻にせよ」
「厭です。私は、文殿しかいりませぬ」
「たわけ! 婚姻というのに個の感情など要らぬわ! 今や飛ぶ鳥落とす勢いの周布すふ殿の親戚筋の姫君だ。有難く受けよ」
「そのような申し出、承服致しかねまする! 周布様にはお断りいただきますようお願い致します、父上!」
「強情な奴だ! まだほざくか!」
既に折れた木刀で横っ面を叩かれる。ささくれが目に突き刺さり、朝太郎は小さく呻いた。うげ、と口を塞いでいるのは、継母だろうか、妹達だろうか。
血に濡れた瞼の裏に、どうにか想い人の姿を描く。少し野暮ったくて、素朴で、優しいあの娘を。
父は血だらけの手を拭いながら見せつけるように溜息を吐いた。しかし次の瞬間何を思ったのか、優しい笑顔を見せる。朝太郎は知っている――この笑顔には優しさなど微塵もないことを。母が亡くなる直前、早くも後妻を迎えると言った時の笑顔と同じだった。
朝太郎は声が出なかった。掠れた喘ぎ声を漏らしながら、父の顔を見上げる。
「お前がどうしてもは厭だと言うなら、仕方あるまい。儂はその文とかいう娘を受け入れよう。――もっとも、その娘に不幸がある可能性は否定できぬが」
ひゅっ、と息を呑む。婚儀の前の不幸――それは父が何か文に手出しをするということだろうか。
父ならやりかねない、と朝太郎は思った。使用人が皿を割った時。小姓が髭を剃る際誤って頬を切ってしまった時。翌日には、それらの者は姿を消していた。文一人くらい私怨で消したところで、罪の意識など父にはないのだろう。
(……つけが回ってきたのだ)
朝太郎とて父を「穢れている」と軽蔑したところで。使用人が拷問を受けている間も、小姓が手打ちにされている時も、生母が今際の際、孤独に死んだ時でさえ、何もしなかった。
どれほど打ち据えられても、自分のことなら我慢ができた。しかし、文に関してだけは我慢ができなかった。
朝太郎は、折れ曲がった腕をどうにか地面に突いた。その姿を見た父は心の底から嬉しそうに「父の気持ち、分かってくれたようだな」と言った。
***
丑三つ時、朝太郎は痛みで痺れた体を引きずりながら歩いた。利き腕が折れているため、杖を突くこともままならない。
(ああ、厭だな――)
朝太郎は泣きたくなるのを堪えながら、塾への道を歩いた。
「月岡?」
低い美声が夜道に響く。久坂だった。少し伸びた短髪が月夜にはよく映える。久坂は包帯をぐるぐる巻きにされた朝太郎を見るとぎょっとしていた。
「一体、何があったんだ? 辻斬りにでも遭ったのか」
「……違う。少し、転んだだけだ」
「転んでこんな怪我になるわけが」
「転んだんだ!」
朝太郎は叫んだ。これ以上は何も聞かれたくはなかった。
久坂はひとまず塾に行こう、と言った。正直今、杉家に行くのは気が引けたが、久坂は大丈夫だ、と言った。
「文さんは姉君のところに行っているから、今夜はいない」
その言葉にほっとした。聡明なこの男は、朝太郎が文に抱いている浅ましい気持ちに気づいているのかもしれなかった。
「久坂――お前は、これから塾に?」
「いや、今日はもう帰るところだが」
「明日も行くか」
「一応、そのつもりだが」
「じゃあ、これを」
朝太郎は、右筆に書かせた手紙を久坂に押しつけた。久坂はなんだこれはと、怪訝な顔をしている。
「俺は、江戸に行くことになった」
「江戸へ?」
「藩邸に詰めるようにというお達しを受けた。江戸でお役目をこなしながら……妻を娶ることになった」
久坂の顔色が変わった。
「本当は松陰先生にもきちんとご挨拶した方が良いのだろうが、罪人の私塾なんぞに行くのには父上もよい顔をされなくてな。手紙で失礼することにした」
「嘘を吐くな」
久坂の声が硬くなる。個人的に話すのは最初の宴会以来だが、改めて見ると、つくづく美丈夫だな、と他人事に思う。
「何か事情があるんだろう。話してみろ。俺は医者だが、先生なら藩主様にも顔が利くし、晋作だって――」
「いい、余計なことを言うな。……もう飽き飽きしたんだよ」
「嘘を言うな。せめて、俺にだけは話してみないか? 俺達は同じ釜の飯を食った仲間だろう」
仲間、という言葉に朝太郎は吹き出した。
久坂のことが気になるのは、文を巡る恋敵だからだろうと思っていたが――ようやく自覚した。
相容れないのだ。貧しく、若くして親兄弟を全て失ったけれど、天が手助けするかのように藩に守られ、松下村塾に守られている久坂と、裕福で親はいるのに、天が仕置きをし続ける人生を送っている朝太郎とでは。
――そして、清廉潔白な男でなければならない、と思った。
「お前を仲間だと思ったことなどないわ、無礼者。貴様ごときが月岡家嫡男であるこの私と対等な立場になれると思うたか、医者坊主」
「その話し方をやめろ! 第一、お文さんのことをどうするつもりだ」
「あんな小娘と周布様の御血筋なら、比べるまでもなかろう」
襟を掴んで持ち上げられた。秀麗な顔が真っ赤に染まっている。
「あんな野暮ったい小娘に本気でこの私が入れ上げると思ったか? 本気で妻にするとでも?」
「お文さんの気持ちを弄んだのか!」
「面白かったよ。ああ、面白かったとも」
形よく整えられた握り飯も、甘ったるい一夜酒の味も、少しずつ綻んでいく彼女の顔を見て行くことは、楽しかった。
一夜酒、などとはうまいこと言うものだ、と朝太郎は思う。酒と呼ばれつつも酔うことはないが、体の熱を調整してくれる。ただしそれは一夜に限る。夢は――朝になったら冷めるものだ。
久坂の柳眉がくしゃりと歪んだ。襟から手が離される。よろめきそうになったが、久坂が支えてくれた。
「送ってはやれん。……手紙を届けなければならないからな」
「……頼んだ」
「お前に頼まれるのは腹立たしいが、そんな顔を殴る気にはなれないな」
久坂は朝太郎に背を向けた。朝太郎はもう一度「あとは頼む」と告げた。久坂は「お前に言われることじゃない」と吠える。そうだろう。家柄以外に何の取柄もない朝太郎が久坂に何を望むというのか。
口の中に血の味が広がる。やっと塞がった傷口がまた開いたらしい。
一夜酒では、人は酔えない。日を超えてしまえば冷めてしまう紛い物だった。
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