散華記

水城真以

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菊花の戯れ

十四、

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 薬湯のにおいに包まれながら、うとうとまどろんでいると、小さなうめき声がした。
「加藤さまっ」
 顔を覗き込むと、辰千代がゆっくり、口の中を舐め回しながら掠れた声を漏らした。
「こ、こは……」
「金山の……お屋敷です。殿が、用意してくださいました。それと、あたしに、加藤さまのお世話をするように、と……」
「上さまは」
「無事にお城に入られてます。今は、宴の最中です。姫さまと、お須磨も、そっちに。あと、各務かがみさまが、宴でとっておきの舞を披露するんだって、言ってました。殿は誰も見ないから取っておいただけだろうって言ってましたけど」
「叱られなかったか」
 辰千代が妙にはっきり言ったので、於菊は親指と人差し指で隙間を作った。不穏な噂が耐えない時期の外出については、厳重注意を受けていた。だが、信長のもてなしをすることを優先されたため、放免された。むしろ、厳しい処罰がなかっただけ、万里も於菊も恵まれているのだった。
「それより、加藤さまは?」
 於菊にとっては、そちらの方が重要だった。辰千代は数日の間、無断で登城しなかったことになる。臣下といえども竹の侍女を巻き込んだのだ。信長が大事にしないよう伝えていたとしても、信忠が切腹を言い渡したらどうしよう――という懸念があった。
「……すまなかった」
 辰千代がうわごとのように呟いた。
「俺が厳しい罰を受けることは、ない」
「本当に?」
 於菊は縋るように辰千代の顔を覗き込んだ。辰千代の顔は強張っており、唇も青い。部屋が寒いのかと思い、火鉢を取りに行こうとしたら、腕を掴まれた。
「ここに、いてくれ。お前にきちんと、詫びねばならぬ」
「詫びていただくことなんて、ありません」
「いや、ある。……お前を巻き込んだ」
 崇継たかつぐの一見は、於菊が自分で了承したことだ。巻き込まれた、などと思ってはいない。
「違う、偶然ではないのだ」
 辰千代は怯えたように、於菊の手を強く握り込んだ。

「崇継が、あかねと――人攫いと通じていると、分かっていたのだ」

 最初から助けられなかった――と、辰千代は悔しそうに言った。
 於菊ですら気づいたように、辰千代も茜の素性を怪しいとは思っていたと言う。そして、信忠に報告し、長可らと結託して、辰千代は茜たちの摘発に動いたのだと言う。
「じゃ、じゃあ……」
 於菊は指先を冷やしながら、辰千代の顔を見た。
「じゃあ、お須磨じゃなくて、あたしに付き合ってと言ったのは」
「お須磨どのと違い、お前に帰る家がないと知っていたからだ」
 すう、と於菊は指先が冷えていくのを感じた。辰千代の手を振りほどく気力さえ湧いてこない。

 崇継の骸は家に届けられ、長可が丁重に弔うよう命じている。店は、崇継の弟が継ぐこととなる。最初から用意されていた流れであった。

 罪人と通じていた崇継は――はじめから死罪を免れることはなかった。店そのものが取り潰しになっていたとしてもおかしくはない。崇継を茜に殺させることには、長可だけではなく、崇継の父母もうなずいていたのだろうか。もちろん、辰千代も。
「……あたしに優しくしてくれたのも、全部、嘘、だったんですか……?」
 於菊は恐々と問い質した。
「はじめて会ったときに菊の花をくれたのも……重たい荷を持ってくれたりしたのも、全部――」
「……菊花をやったのは、偶然じゃ」
 というか、と辰千代は於菊をにらみつけた。
「俺とお前がはじめて会ったのは、去年だぞ?」
「え?」
 於菊は目を丸くした。
「そなた、去年の今頃、松野屋の前でうろうろしていただろう」
 しばし考えてから、於菊は「あ」と口を覆った。はじめて松野屋に行ったとき、確かに於菊は少年に助けてもらった。そして今にして思うと、辰千代だったかもしれない。
「……その節は、どうも――」
「……確かに、金山や此度の一件は、そなたを利用した」
 辰千代の力が込められた。於菊は握り返すことはせず、辰千代の次の言葉を待った。
「俺の言葉を信じられないだろうが、すべてを嘘だった、ということはない。真実だったとも言えぬが――於菊と一緒にいて、楽しいと思えたのは、本当のことだ」
 於菊は辰千代の手を握り返した。それだけですべて伝わるはずだった。

      ◇◆◇

 しばらく手を握っていると、急に恥ずかしくなってきた。黙っていることに耐えられず、於菊は須磨から聞いたことの仔細をまだ話していないことを思い出した。岐阜で報告した際に役に立つはずだった。
「人攫いの一行は――皆、磔に処されることになりました。ただ、どこぞの商家が絡んでいるんだろうけど、絶対に口を割らないようで……今も調べているそうですが、死罪は、免れぬだろうと」
「……そうか」
 自業自得だ、と辰千代は吐き捨てた。友人を切り捨てる理由である茜のことを辰千代は心底憎んでいるようだった。しかし、於菊は茜を断罪することはできなかった。茜もまた、乱世の被害者であったのかもしれない。金山城に買い入れられなかったら、於菊も茜と同じ末路を辿っていたかもしれない。
 同情はしない。茜のしたことが罪であることに変わりはない。選ばざるを得なかったといえ、選んだのは茜自身だ。於菊はそっと髪に手をやった。
「そうだ」於菊は髪に結んでいた紐のことを思い出した。「これ、お返ししないと……」
「それは、於菊に持っていてほしい。これからも、使ってくれぬか」
「え、でも……」
「頼む。……於菊を見る度、崇継を思い出すことができるから」
 於菊は分かりました、と返事をした。くれると言うなら、断ることもない。於菊も、此度の一件を忘れることはできないし、忘れるつもりもない。
 再び、沈黙が舞い降りる。辰千代がそうだ、と顔を動かした。
「今度、詫びになにかやる。えっと、櫛とか」
「櫛は、姫さまが用意してくださるので、2つもいりません」
 於菊が髪を整えているのを見た万里はやや不機嫌そうに、今度櫛を贈る、と約束してくれた。
「そもそも、お詫びはいりません。あたしは、思惑はどうあれ、自分の意志で加藤さまについて行ったんです」
「それでも、だ。あ、そうだ。鏡は持っているか」
「鏡」
「そうだ、鏡をやる。それがあれば、身なりを確認できるだろう。毎日使えるし、な」
 於菊は口元を緩めた。首元にかけていた誰が袖を取ると、辰千代の首にかける。
「じゃあ、あたしからはこれを預けます。今度、鏡と一緒に返してくださいね」
 於菊が微笑むと、辰千代も笑顔を見せてくれた。その笑顔は太陽のように眩しくて、於菊はすぐに目を反らしてしまった。


      ◇◆◇


 そして、このときの笑顔からどうして目を反らしてしまったのか――於菊が理由を知るのは、もう少し先のことである。
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