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3、蓮見家の人々
三、
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焚き染めた香の匂いに、初音は溜息を吐いた。匂いの元は、立てかけられた打掛である。長瀬の方が用意したのか、菫姫が用意したのかは分からない。だが、人に着せることには慣れているものの、自分が着せられる側に回るのは――違和感が強かった。
「着ないのか?」
仙千代の問いかけに、初音は溜息を吐いた。
「久方ぶりの二の姫のお戻りだと、蓮見家ではそれはそれは気合を入れて支度をしてくれたそうなのに」
「お戻りと言っても――別に、すぐに岐阜に戻るのだから。それに、此度は遊びに来たわけではなくてよ。菫さまの怪文書を見に来たのだから」
「まあ、そうだけど――初音どのは、このまま蓮見に残る気はないのか?」
「ありません」
初音は文机に向かい、紙を広げた。荷の中から取り出したのは、帰蝶に借りていた「枕草子」の続きである。
「好きだなぁ、『枕草子』」
「ええ、好きです」
筆に墨を含ませながら答える。
「枕草子」は、身近にある幸せを気づかせてくれる。草紙よりも、初音は随筆の方が好きだった。
「写本を作って、明晴にも貸してあげようと思って。あの子は、字が下手だから」
「確かに……あいつの字は酷いよなぁ」
仙千代も噴き出す。城に行く度、信長から「字が汚い。もっと精進しろ」と叱られることは少なくないらしい。
「でも……あの子は子どもだから」
これまでろくな学びも受けずに育った子が、綺麗な字を最初から書けるわけがない。
字の下手な子どもが――あんな風に触れた手を振り払い、狼狽するくらいの過去を背負っている。近づいて来た人間を殺そうとするほど。
「わたしは――明晴の傍を離れたくない。離れてはいけないと思うのです」
紅葉は、初音にできることはない、と言う。しかし、ここで本当に離れてしまったら、明晴がいなくなってしまう気がした。距離の問題ではない。心の問題である。
頬に触れると、傷跡はまだあった。出血は止まったが、もしかしたら一生残るかもしれない。
「……私は、あまり勧めない」
仙千代は入口に片膝を立てながら庭を眺めた。
「此度は私がいた。だから、初音どのを殺さずに済んだ。しかし――もし、これがいつもの暮らしに戻ってからだったら? 明晴は、一生あなたを殺した責を背負って生きて行くことになる」
「……それは……」
「それに、此度は――言い方は悪いが、“初音どのだったから”大きな騒ぎにならなかった。これが、相手が私(御屋形さまの近習)や、あるいはお身内だったら? 騒ぎは、このくらいでは済まないぞ」
仙千代の言い分は分かる。
仙千代も、紅葉と同じ。初音に、明晴から離れて蓮見に戻るように、と要求している。
(きっと、それが一番簡単。でも……)
向かいの部屋から、笑い声が聞こえる。菫姫と――明晴の声だ。
明晴は蓮見に来てから、毎日菫姫の部屋に入り浸っている。心優しい菫姫に、明晴はすっかり懐いているらしい。
筆を動かしながら――初音は明晴の横顔を思い返していた。
初音がはじめて米をうまく炊けた時のこと。
一緒に団子を食べたこと。
初音の「枕草子」語りを、目を白黒させながら聞き流す明晴。
家事に慣れてきたから、来年は一緒に干し柿を作ろうと約束した。
(だめよ……ここに留まったら――一緒に干し柿が作れないじゃない、明晴……)
初音は拳を握り締めながら、姉と明晴の談笑する気配に耳を忍ばせていた。
***
「どうぞ」
折敷の上に乗った皿に、明晴は目を輝かせた。
「これは、生煎餅というの」
「煎餅?」
明晴は瞬きを繰り返した。
この時代の煎餅といえば、唐果物の一種であった。
米の粉や小麦の粉をこねて油で揚げたもので、現代でいうおかきに近い。
しかし、今目の前にあるのは、団子のような形をしている。楊枝を突き刺すと、もちもちとした触感だ。油で揚げているようには見えない。
「美味しいから、食べてみて。明晴が好きだろうと思って、朝から拵えたの」
「はい。いただきます」
明晴は楊枝を突き刺し、四苦八苦しながら生煎餅を口に入れた。
米粉とともに、甘葛の甘みが口いっぱいに広がる。
「美味しい!」
「気に入ったようで良かった。本当は、蜂蜜や砂糖があればよかったのだけど」
「いえ、本当に美味しいです」
明晴が嬉々として食べていると、菫姫も目をほころばせた。
「良かった。明晴は、いつも、本当に美味しそうに食べてくれるから。嬉しいわ」
菫姫は「良かったら」と自分の分も明晴に差し出した。
(優しい人だなぁ……)
明晴は生煎餅を食しながら、菫姫を伺った。
女神のごとき美貌を持つ初音とは対照的に、菫姫は確かに美人ではない。鼻は低く、顔には痘痕面。日に焼けた肌には、更には面皰の痕やそばかすもある。
しかし、菫と話をしていると、心が穏やかになった。初音は、「菫さまより心映えの優れた方はいない」とよく言うが、その通りだと思う。
もし亡き母がいてくれたら、菫姫のような女性だったらいいのに――とも思う明晴だった。
「ところで姫――今朝はどうでした?」
菫の表情が強張った。菫姫は脇に置いていた紙を取り出した。
【我が女神 明日、お迎え申し上げ候】
黄ばんだ紙に、血のような赤い文字。差出人の名前はない。
明晴達が来てからも、菫姫のもとには怪文書が届いていた。外には結界も張っているというのに。
「心当たりとか、思いつかないですか?」
「ないわ。むしろ、なぜ? と思っているの。私は殿方から避けられたことはあるけれど、こんな風に執着されるほどお付き合いのある方もいないし……」
菫姫は口元に袖を当てながら、考える素振りを見せた。すると、
「一の姫!」
という怒号とともに、御簾が跳ねのけられた。
現れたのは、険しい顔をした大男だった。年の頃は、二十歳そこそこだろうか。
「海道。どうしたの? そんなに怒って」
きょとんとする菫姫に、海道という青年はますます表情を険しくした。
「一の姫、どうしたもこうしたもございませぬ。かような怪しき者と二人きりになるなど」
「怪しき者って……海道。何を言っているの。明晴は、織田の殿にお仕えする陰陽師よ。私の妹を守ってくれた、素晴らしい陰陽師なのだから、そのようなことを言うものではないわ」
「しかし、この者がどのような災いを呼ぶか――」
「海道」
菫姫の声が低くなった。
「明晴は、織田の殿から、『安倍』という姓を賜った。そのくらい、信が厚い。そして、私の大切な客人でもある。軽んじることは、私が許さぬ」
海道は菫姫の言葉に項垂れた。
菫姫は、にこりと笑みを零した。
「そなたが私を気遣ってくれているのは、嬉しい。なれど、私は信頼できぬ者を部屋に招くことはしない」
「……姫が、そう仰せなら」
「それより、海道。そなたに頼みがある」
菫姫は海道に手紙を渡した。
「これを、母上にお渡ししてきておくれ」
「長瀬の方さまに?」
「左様。確かめたいことがある。頼めるな?」
菫姫から受け取った手紙を大切に撫でながら、海道は退室した。――明晴を一瞬、鬼のような形相でにらみつけてから。
「ふう……」
菫姫は溜息を吐きながら、扇を広げた。ぱたぱたと自身を仰ぎながら、「すまない」と明晴に詫びる。
海道は、菫姫の乳母の子らしい。
幼少の頃から菫姫に仕えており、自分のことよりも菫姫を優先しがちだそうだ。
それゆえに、明晴のような怪しき者が菫姫と親しくしていることが許せないのだろう。海道は、いつも明晴を睨みつけている。
「あれも、悪い人ではないの。ただ、猪突猛進で、猪のようなところがあってな。そなたには、不快な思いをさせているでしょう」
「そんなことはないですよ」
むしろ、海道のような人がいるなら、帰って安心だ。明晴ひとりでは、菫姫を守り切れるか心配だからだ。
「ところで、菫姫。長瀬の方さまにご用事って?」
「それは、そなたにもともに聞いてもらいたい。お許しが出たら、母上のお部屋に供に参りましょう。……母上に、お訪ねしたいことがある。そうでしょう? 紅葉」
菫姫が声をかけると、紅葉の姿が浮かび上がった。
「気づいていたか。流石だな」
「あなたが、明晴のお傍を離れるとも思わないから」
「え? 長瀬の方さまに尋ねたいことって、何?」
「長瀬の方の出自だ」
ここ数日傍で観察してから――紅葉は、どうしても菫姫だけに原因があるとは思えなかった。“女神”という言葉の意味も気になる。
たとえば、初音が前回狙われたのは、玉依姫の娘という立場からだった。
「女系というのは、ただの血縁ではない。魂の縁を引き継ぐことがある」
「魂の縁……?」
「母親から娘に、代々目に見えない力を継承することがある。初音が玉依姫の娘という理由で狙われたように、菫姫の母方の家系にも何か理由があるんじゃないかと思ってな」
「……私もそう思っていたの。私の母の実家は、神職の家系だから」
明晴は、ごくりと唾を飲み込んだ。口の中には、まだほんのりと甘葛の甘味が残っており、喉が渇いた。
「着ないのか?」
仙千代の問いかけに、初音は溜息を吐いた。
「久方ぶりの二の姫のお戻りだと、蓮見家ではそれはそれは気合を入れて支度をしてくれたそうなのに」
「お戻りと言っても――別に、すぐに岐阜に戻るのだから。それに、此度は遊びに来たわけではなくてよ。菫さまの怪文書を見に来たのだから」
「まあ、そうだけど――初音どのは、このまま蓮見に残る気はないのか?」
「ありません」
初音は文机に向かい、紙を広げた。荷の中から取り出したのは、帰蝶に借りていた「枕草子」の続きである。
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「ええ、好きです」
筆に墨を含ませながら答える。
「枕草子」は、身近にある幸せを気づかせてくれる。草紙よりも、初音は随筆の方が好きだった。
「写本を作って、明晴にも貸してあげようと思って。あの子は、字が下手だから」
「確かに……あいつの字は酷いよなぁ」
仙千代も噴き出す。城に行く度、信長から「字が汚い。もっと精進しろ」と叱られることは少なくないらしい。
「でも……あの子は子どもだから」
これまでろくな学びも受けずに育った子が、綺麗な字を最初から書けるわけがない。
字の下手な子どもが――あんな風に触れた手を振り払い、狼狽するくらいの過去を背負っている。近づいて来た人間を殺そうとするほど。
「わたしは――明晴の傍を離れたくない。離れてはいけないと思うのです」
紅葉は、初音にできることはない、と言う。しかし、ここで本当に離れてしまったら、明晴がいなくなってしまう気がした。距離の問題ではない。心の問題である。
頬に触れると、傷跡はまだあった。出血は止まったが、もしかしたら一生残るかもしれない。
「……私は、あまり勧めない」
仙千代は入口に片膝を立てながら庭を眺めた。
「此度は私がいた。だから、初音どのを殺さずに済んだ。しかし――もし、これがいつもの暮らしに戻ってからだったら? 明晴は、一生あなたを殺した責を背負って生きて行くことになる」
「……それは……」
「それに、此度は――言い方は悪いが、“初音どのだったから”大きな騒ぎにならなかった。これが、相手が私(御屋形さまの近習)や、あるいはお身内だったら? 騒ぎは、このくらいでは済まないぞ」
仙千代の言い分は分かる。
仙千代も、紅葉と同じ。初音に、明晴から離れて蓮見に戻るように、と要求している。
(きっと、それが一番簡単。でも……)
向かいの部屋から、笑い声が聞こえる。菫姫と――明晴の声だ。
明晴は蓮見に来てから、毎日菫姫の部屋に入り浸っている。心優しい菫姫に、明晴はすっかり懐いているらしい。
筆を動かしながら――初音は明晴の横顔を思い返していた。
初音がはじめて米をうまく炊けた時のこと。
一緒に団子を食べたこと。
初音の「枕草子」語りを、目を白黒させながら聞き流す明晴。
家事に慣れてきたから、来年は一緒に干し柿を作ろうと約束した。
(だめよ……ここに留まったら――一緒に干し柿が作れないじゃない、明晴……)
初音は拳を握り締めながら、姉と明晴の談笑する気配に耳を忍ばせていた。
***
「どうぞ」
折敷の上に乗った皿に、明晴は目を輝かせた。
「これは、生煎餅というの」
「煎餅?」
明晴は瞬きを繰り返した。
この時代の煎餅といえば、唐果物の一種であった。
米の粉や小麦の粉をこねて油で揚げたもので、現代でいうおかきに近い。
しかし、今目の前にあるのは、団子のような形をしている。楊枝を突き刺すと、もちもちとした触感だ。油で揚げているようには見えない。
「美味しいから、食べてみて。明晴が好きだろうと思って、朝から拵えたの」
「はい。いただきます」
明晴は楊枝を突き刺し、四苦八苦しながら生煎餅を口に入れた。
米粉とともに、甘葛の甘みが口いっぱいに広がる。
「美味しい!」
「気に入ったようで良かった。本当は、蜂蜜や砂糖があればよかったのだけど」
「いえ、本当に美味しいです」
明晴が嬉々として食べていると、菫姫も目をほころばせた。
「良かった。明晴は、いつも、本当に美味しそうに食べてくれるから。嬉しいわ」
菫姫は「良かったら」と自分の分も明晴に差し出した。
(優しい人だなぁ……)
明晴は生煎餅を食しながら、菫姫を伺った。
女神のごとき美貌を持つ初音とは対照的に、菫姫は確かに美人ではない。鼻は低く、顔には痘痕面。日に焼けた肌には、更には面皰の痕やそばかすもある。
しかし、菫と話をしていると、心が穏やかになった。初音は、「菫さまより心映えの優れた方はいない」とよく言うが、その通りだと思う。
もし亡き母がいてくれたら、菫姫のような女性だったらいいのに――とも思う明晴だった。
「ところで姫――今朝はどうでした?」
菫の表情が強張った。菫姫は脇に置いていた紙を取り出した。
【我が女神 明日、お迎え申し上げ候】
黄ばんだ紙に、血のような赤い文字。差出人の名前はない。
明晴達が来てからも、菫姫のもとには怪文書が届いていた。外には結界も張っているというのに。
「心当たりとか、思いつかないですか?」
「ないわ。むしろ、なぜ? と思っているの。私は殿方から避けられたことはあるけれど、こんな風に執着されるほどお付き合いのある方もいないし……」
菫姫は口元に袖を当てながら、考える素振りを見せた。すると、
「一の姫!」
という怒号とともに、御簾が跳ねのけられた。
現れたのは、険しい顔をした大男だった。年の頃は、二十歳そこそこだろうか。
「海道。どうしたの? そんなに怒って」
きょとんとする菫姫に、海道という青年はますます表情を険しくした。
「一の姫、どうしたもこうしたもございませぬ。かような怪しき者と二人きりになるなど」
「怪しき者って……海道。何を言っているの。明晴は、織田の殿にお仕えする陰陽師よ。私の妹を守ってくれた、素晴らしい陰陽師なのだから、そのようなことを言うものではないわ」
「しかし、この者がどのような災いを呼ぶか――」
「海道」
菫姫の声が低くなった。
「明晴は、織田の殿から、『安倍』という姓を賜った。そのくらい、信が厚い。そして、私の大切な客人でもある。軽んじることは、私が許さぬ」
海道は菫姫の言葉に項垂れた。
菫姫は、にこりと笑みを零した。
「そなたが私を気遣ってくれているのは、嬉しい。なれど、私は信頼できぬ者を部屋に招くことはしない」
「……姫が、そう仰せなら」
「それより、海道。そなたに頼みがある」
菫姫は海道に手紙を渡した。
「これを、母上にお渡ししてきておくれ」
「長瀬の方さまに?」
「左様。確かめたいことがある。頼めるな?」
菫姫から受け取った手紙を大切に撫でながら、海道は退室した。――明晴を一瞬、鬼のような形相でにらみつけてから。
「ふう……」
菫姫は溜息を吐きながら、扇を広げた。ぱたぱたと自身を仰ぎながら、「すまない」と明晴に詫びる。
海道は、菫姫の乳母の子らしい。
幼少の頃から菫姫に仕えており、自分のことよりも菫姫を優先しがちだそうだ。
それゆえに、明晴のような怪しき者が菫姫と親しくしていることが許せないのだろう。海道は、いつも明晴を睨みつけている。
「あれも、悪い人ではないの。ただ、猪突猛進で、猪のようなところがあってな。そなたには、不快な思いをさせているでしょう」
「そんなことはないですよ」
むしろ、海道のような人がいるなら、帰って安心だ。明晴ひとりでは、菫姫を守り切れるか心配だからだ。
「ところで、菫姫。長瀬の方さまにご用事って?」
「それは、そなたにもともに聞いてもらいたい。お許しが出たら、母上のお部屋に供に参りましょう。……母上に、お訪ねしたいことがある。そうでしょう? 紅葉」
菫姫が声をかけると、紅葉の姿が浮かび上がった。
「気づいていたか。流石だな」
「あなたが、明晴のお傍を離れるとも思わないから」
「え? 長瀬の方さまに尋ねたいことって、何?」
「長瀬の方の出自だ」
ここ数日傍で観察してから――紅葉は、どうしても菫姫だけに原因があるとは思えなかった。“女神”という言葉の意味も気になる。
たとえば、初音が前回狙われたのは、玉依姫の娘という立場からだった。
「女系というのは、ただの血縁ではない。魂の縁を引き継ぐことがある」
「魂の縁……?」
「母親から娘に、代々目に見えない力を継承することがある。初音が玉依姫の娘という理由で狙われたように、菫姫の母方の家系にも何か理由があるんじゃないかと思ってな」
「……私もそう思っていたの。私の母の実家は、神職の家系だから」
明晴は、ごくりと唾を飲み込んだ。口の中には、まだほんのりと甘葛の甘味が残っており、喉が渇いた。
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