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2、藤の姫

七、

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 尻餅を突いた、十歳前後の少女に、初音は「あ」と声を漏らした。

 濡れたような黒い、艶やかな髪。
 真珠のように白く輝きに溢れた白い柔肌。
 血のように赤い珊瑚の唇。
 何より――宝石かと思うほどの黒い双眸は、まるで花の精のようであった。

 薄紅藤の衣を着た少女は、驚いたように仙千代せんちよを見上げていた。
松野屋まつのやの――娘か」
 仙千代の声が低くなる。初音はつねは慌てて仙千代に縋った。
万見まんみどの。お怒りにならないでくださいませ。子どもです」
「だが――」

万里まり!」

 廊下から声が響く。
 尻餅を突いた少女の前に、もう一人立ちはだかった。仙千代から少女を庇うように。
 黒髪に、琥珀の双眸を持つ少年――初音はどこかでその顔に見覚えがあった。
 少年の腰にある短刀には、源氏が好んで使う、鶴の紋がある。


「この娘に何をした!」
 少年は、仙千代をキッ、とにらみつけた。
「何もしておらぬわ」
 仙千代は冷たく言い返す。
 少年は仙千代の手元を睨みながら、声を荒げた。

「貴様、今、この娘を斬ろうとしたろう! この者を誰と思うておる!」

「誰……って、商家の娘だろう」
「松野屋をただの商家と思うなよ! 松野屋は、我が兄・金山城主の御用達! 『金山の松野屋』といえば、知らぬ者は他国にもおらぬ」
「我が兄……」
 初音は瞬きを繰り返した。

 透き通る夜空のような黒髪。琥珀色みがかった黒飛色の鋭い瞳。
 そして、腰に帯びた短刀の鶴丸紋は源氏の末裔が好んで使う。そして、金山城主一族・森氏は清和源氏の末裔を名乗る。
 城主の森長可もりながよしには、四人の弟がいるという。年恰好からして、末弟ではないようだが。
「ふーん」
 仙千代は意地悪そうに、口の端を釣り上げた。
「お前が、森どのの弟か」
「万見どの」
 初音は窘めたが、こうなった仙千代を止められる人間などいない。信長とて匙を投げるくらい、仙千代は元来底意地が悪いのである。
「その背丈からして――末弟の千丸せんまるどの、かな」
「なっ!」
 少年はカッと顔を赤らめた。
「千丸はまだ赤子だ! 俺は、乱丸らんまる! 長可のすぐ下の弟だ!」
「え、嘘だろう」
 仙千代が目を真ん丸くする。
「だってお前、見るからに赤子と同じくらいじゃないか。乱丸どのは、十歳だぞ?」
「俺がその乱丸! 失敬な! 貴様、無礼が過ぎるぞ! 名を名乗れ!」
「家門は秘密♡ だってお前、名乗ったって分からないじゃないか。子どもにはまだ早い」
「ふざけるな! 俺は、あと何年かしたら、あの織田家にお仕えするのだぞ!」
「へー、そりゃすごいねー(笑)」
「バカにしておるな!?」
 乱丸が子犬のようにキャンキャン吠える。だが、仙千代には一切通じていない。
 初音は呆れながら、松野屋の娘を見た。娘は乱丸を見ていた。――柳眉を下げながら。
「えぇっと……万里、さん?」
 先ほど乱丸が口にしていた名で呼びかけると、娘ははっとした。万里、というのは彼女の名で間違いないらしい。
「あ……ごめんなさい。お部屋を覗いてしまって……」
「ううん、いいのよ。何か御用だったの?」
「本を取りたかったの。今朝、置きっぱなしにしてしまったから」
「本?」
 初音は客間をきょろきょろと見渡した。すると、棚の上にポンと一冊置き去りにされている本があった。「枕草子まくらのそうし」の写本だった。
「なかなか、覚えられないの。『春はあけぼの』、『夏は夜』、『秋は夕暮れ』、『冬はつとめて』……」
「充分よ。万里さんは、枕草子が好きなの?」
 初音の問いに、万里は「好きじゃない」と首を横に振った。
「何か、文字の羅列っていうだけで……あんまり好きじゃない。よく分からない。母さまから、『覚えなさい』って言われているから覚えているけど……」
「ただの文字の羅列じゃないわ」
 初音は最初の頁を開いた。
「これはね――清少納言が、大切な人に捧げた言葉を書き留めたものなの」
「大切な人……?」
「そう。枕草子に書かれていることは、どれも『身近にある幸せ』なのよ」

 春はあけぼの。
 夏は夜。
 秋は夕暮れ。
 冬はつとめて。

 どれも、生きていれば当たり前にやってくる。その「当たり前」に、清少納言せいしょうなごんは美しさを見出した。
 生きとし生けるもの全てに平等にくる「当たり前」は美しい――それを言葉に書き留めることで、世の中の素晴らしさを描いたのだ。
「……よく分からない。わたしは、『源氏』が好き」
「源氏? 源平合戦の?」
「違うよー」
 万里は頬を膨らませた。
「源氏物語!」
 随分ませた子だ――と初音は感じた。「源氏物語」は淫らな描写が多いし、恋愛描写もかなり濃厚だ。むしろ初音は、恋愛小説が苦手である。
「うん! わたしもね、わたしの源氏の君と一緒にいたいの。……だから、苦手な『枕草子』も覚えなきゃいけないんです」
「万里さんの、源氏の君?」
 万里はちらりと別の人物を一瞥してから、初音の耳元に囁いた。

「わたし、『源氏の君』にお嫁に行くんです」

***

 頭がずきずきと痛む。
 ゆっくりと重たい瞼を持ち上げると、硬い枕の感触を実感した。
 しゅるり、と衣擦れの音がする。横を見ると、紅葉こうようがいた。だが、今日の紅葉はいつもの愛らしい白い小虎の姿をしていない。白銀のざんぎり頭に、明風の紫の装束をまとっていた。
「ああ、起きたのか、明晴あきはる
 紅葉は手ぬぐいを絞って、明晴の額に乗せた。ひんやりと冷たい布が、熱を吸い上げてくれる。
「どうだ、具合は」
「少しは……まし」
「ならいいが」
 素っ気ない物言いだが、眼は優しい。明晴が目覚めるまで、ずっと傍にいてくれたのだろう。紅葉は昔からそうだ。冷たく突き放すようで、いつも傍らに寄り添っていてくれる。

「……昔のこと、思い出しちゃったんだ。紅葉や……十二天将じゅうにてんしょうのみんなと会う前のこと」

 明晴の言葉に、紅葉は顔を顰めた。
「忘れてしまえ。――と言いたいが、それができたら苦労はしないよな」
 明晴は困ったように笑う。紅葉に、そんな表情をさせたいわけではない。
「だがな、明晴。忘れられなくても――思い出や記憶は増やせる。この世には、他にも楽しいことはごまんとあるんだということを覚えておけ」
 紅葉は明晴の額を叩くと、手桶を持った。
「水を汲んでくる」
「紅葉、その姿で行くの?」
「隠形するから見られないさ」
 そう言うと、紅葉は本当に姿を消してしまった。
 気配はする。もしかしたら、十二天将の誰かがいるのかもしれない。
(俺は、ひとりじゃない。だから、大丈夫――)
 明晴は瞼を伏せた。まだ熱が高いせいか、すぐに眠りの世界に誘われて行った――。

***

 茶碗からは、独特な匂いが漂う。仙千代は「うっ」と顔を顰めた。
「それ……本当に明晴に飲ませて大丈夫な奴か?」
「大丈夫。松野屋の女将の書付の通りに混ぜたもの。……たぶん」
「たぶん、って。なかなか怖い事言うな……?」
 病人のための買い物だと言ったためか、松野屋の内儀は、解熱の薬草をいくつか、粉末にして持たせてくれた。とりあえず書付にしたがってぬるま湯に解いたものの、ドクダミの葉のような臭いがするし、色は松の木の幹のような、溝のような色になっている。
「松野屋の内儀はともかく……初音どのの調合というのが不安だ……」
「なんですって?」
「だって初音どのは、料理が不得意だと聞いたから……」
「誰よ、そんなこと言うの――って、明晴ね。言っておくけど、最近は料理の腕もまともになってきたんですからねっ!」
「松野屋といえば」
 仙千代は露骨に話題を反らした。
「先ほど、松野屋の――『藤の姫』とは何の話をしていたんだ?」
 初音は、んー、と言葉を濁した。
「秘密、です。女子同士の」
「女子……? 初音どのが……?」 
 初音は、わざわざ立ち止まってから、仙千代の足を思い切り踏んだ。
 仙千代のうめき声を聞いているうちに、明晴の寝所にたどり着く。

「明晴、入るわよ――」

 初音は、明晴の部屋の御簾を避けた。
 明晴は、布団の上で眠っている。傍には紅葉がいない。神気が残っているので、そう遠くには行っていないようだが。
 部屋には、明晴の寝息が聞こえる。警戒心のない、無垢な子どもの寝顔。
 明晴の寝顔を間近に見るのは、これが初めてかもしれない。明晴を起こすのは、いつも紅葉の役目だったから。
初音は薬湯を乗せた盆を手に、寝床に近づいた。その瞬間――、

「斬ッ!」

 風が、初音の真横を通り抜ける。
「初音どの!」
 仙千代は初音の腕を掴んで、自分の方に引き寄せた。腕の筋が千切れるほど痛いのは、それだけ仙千代が本気で初音の腕を掴んだからだ。仙千代の胸に倒れ込みながら、初音は信じられないものを見た。

 頬に痛みが走る。痛みの箇所に触れると、指先が赤く染まった。

 明晴の手には――風の刃を起こす札が握り締められていた。
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