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【序】
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優しくて、温かくて、いい匂いがする女だった。
いつもていねいに白粉を叩いて眉を引き、薄く紅を塗った姿は、絶世というほどではないけれど、牟宇姫にとっては自分にはない、美しい人のたとえだった。
乳母が、急に牟宇姫の前からいなくなってしまってから、もう半年になる。母にどうして、どうしてすみはいなくなってしまったの、と泣きながら、毎晩のように問いかける。しかしその度に母・お山の方は、牟宇姫に対して「すみにはもう会えないの」とだけ繰り返し言い聞かせた。
「どうして、もう会えぬのじゃ。すみは、牟宇のことが嫌いになったの?」
「そうではありませぬ。すみは、仏様のところに行ってしまわれて……」
「仏様とはなんじゃ。すみは、牟宇の乳母なのに。どうしてその方のところに……」
めそめそとまた泣きながら、お山の方の膝に顔を埋める。お山の方は眉を下げながら、牟宇姫の頭を撫で続けた。
その時だった。
「失礼致します」
聞き慣れない、若い女の声である。牟宇姫は、お山の方の膝に顔を埋めたまま、動こうともしない。代わりにお山の方が返事をした。
「そなたは……」
お山の方は、あっ、と驚いた声を出した。牟宇姫は、母に釣られて顔を上げる。
「失礼致します。牟宇姫様付きの侍女の……すみ殿が無事に里から戻られましたので、お連れ致しました」
今度は牟宇姫が声を上げた。入口にいたのは――記憶にあるよりも覇気がない、乳母の姿がそこにある。
「すみっ」
牟宇姫は母から離れると、すみに飛びついた。
「すみ、すみっ」
何度も名を呼びながら、侍女の顔を確認する。厚めに塗られた白粉と、いつもよりも濃く引かれた眉と、赤い唇。切れ長な漆黒の瞳は、牟宇姫を黙って見つめていた。
「すみ、戻って来てくれたのじゃな。牟宇のところに。よかった……母上がな、もうそなたに会えぬなどと申すの。そのようなことはないと、牟宇は分かっていたぞ。帰って来てくれて、本当に嬉しい……」
前なら、きっと牟宇姫が抱き着けば抱き締め返してくれたのに、すみの腕が牟宇姫の背に回ることはない。わずかな寂しさは覚えたものの、牟宇姫は久しぶりに会えたすみの温もりを堪能した。
「……ありがとうございます」
隣で、お山の方と見慣れぬ侍女が何やら話している。
「仔細は存じ上げております」
と、お山の方は言った。
「五郎八姫様の侍女殿――ですね?」
「はい、たいと申します」
たい、と名乗る見慣れぬ侍女は、なぜか安堵したようだった。牟宇姫の顔を見て、穏やかな微笑を浮かべる。
「……いろはひめさま……?」
「以前、姫もお会いになったことがあるでしょう」
お山の方に言われ、ぼんやりと思い出す。そう言えば、そんなこともあったような気がする。一月ほど仙台の西の館に暮らしていた、腹違いの姉がいる。普段は江戸で暮らしているようだが、時折お山の方が文を交わした話を、父としているのを見る。今年七歳になる牟宇姫より14歳も上の、どちらかと言えば姉というより母との方が年が近い。
「いろはさま……」
牟宇姫はぼんやりと、異母姉あねを思い浮かべながら、すみを見上げた。
「すみは、いろはひめさまのところにいたのか?」
すみは頷いた。
「いろはひめさま……とても、綺麗なお方だった気がする……」
すみはまた頷いた。
「すみ、いろはひめさま、はどのようなお方か?」
すみの看病をしてくれたのは、五郎八姫なのだろうか。江戸ならば、仙台よりも薬師がいるのかもしれない。すみの主として、きちんと礼をしなければいけないと思った。
「牟宇姫様のおっしゃるとおり、とてもお美しいお方です」
でも、とすみは表情を変えないまま、言った。
「姫様がお気になさるようなことは、なにもありませぬ」
すみの不愛想が怖くて、牟宇姫は思わず竦みながら、目を反らすことしかできなかった。
◇◆◇
幼い自身がそこにいる。
まるで他人事のように、その光景を見つめていた。――青空の下で、地獄の花に囲まれながら。
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