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6、笛
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意識がぼんやりと浮かび上がる。辺りは静寂に包まれていた。女房達に呼び掛けても、返事はない。
彰子は単衣の上に袿を羽織ると、庭に降りた。
耳に入って来るのは水の音、風の音、そして――笛の音色だった。
橋の上に立つ柔和な笑みを浮かべる相手に、彰子は声を上げた。
「御上……」
咄嗟に目を反らした彰子を見つめながら、帝は欄干に腰を預け、再び笛を奏でた。
彰子は黙って水面を見つめたまま、その音色にくらくらした。まるで、初めて杯を煽った時のような、眩暈がする。
やがて笛の音が止むと、彰子は橋に近付いた。
「あまりにも……見事な音色でございましたゆえ、立ち聞きしてしまいました。ご無礼をお許しください」
微笑むと、帝は静かに頭を振った。
「ここは、そなたに授けたそなたの藤壺だ。むしろ、勝手に立ち入って騒がせたのは、私の方だ。そなたが謝ることはない」
「いいえ。宮中にあるものは、すべて貴方様のものでございます。私は、その一角をお借りしているに過ぎません」
彰子が言い切ると、帝は笛を閉まった。その眼には、ほんの僅かな寂しさが宿っているように、彰子の目には映った。
「そなたは……私のことを、ちらとも見てはくれないな」
帝の言葉に、彰子は言いようのない感情を覚えた。
(どうしてあなたにそんなこと言われなければならないの)
(あなただって、私のことを見てくれない癖に)
帝を責め立てたい、などという不興を抱きそうになった。それをぐっ、と堪え、彰子は静かに息を吸い込んだ。
「笛は、瞳で見るものではございません。耳で、聞くものです」
恋は――心に作った相手ではなく、目に映った相手とするものだ。
「御上は、いつもどなたをご覧になられていますか……?」
彰子の言葉に帝は言った。
「そなたを見ている」
「いいえ」
彰子は帝を見上げ、両の掌でその頬を包んだ。
「御上は私のことなど――いいえ、現世にいる、どなたのことも見ておられない」
目の前にいる人は、川を渡ってしまったあの人しか見ていない。
それでも、と彰子は胸の内を打ち明けた。
「……私では、いけませんか?」
声が震えたが、構わず続けた。笛を携える掌を包み込むと、思ったよりも冷たかった。
「お支えしたいのです。愛したいのです、貴方様のことを。……亡き皇后様を愛されている、貴方の心ごと」
「……頭から、離れないのだ」
重ねた掌が湿った。その湿った掌を帝が包み、引き寄せた。
「忘却が怖い。定子の傍にいることが当たり前だった。つちかった時間が、消えてくれない」
「忘れなくて良いのです」
彰子とて、定子を忘れたことなどない。今もあの優しい声音を覚えている。それでも良かった。
帝は彰子を抱え上げた。悲鳴一つ上げる暇もなく、几帳の中に引き込まれる。「こちらへ」褥に座るように促され、彰子は固まった。
焦れたのか、帝は彰子を褥に引き寄せた。その勢いで、気付くと帝の腕の中に捕らえられていた。
「何の香?」
髪の匂いを胸いっぱいに帝が吸い込まれる。今から、私は帝の物になるのだ。彰子は喜びと不安が入り混じった感情に襲われた。
「伽羅です」
「いい匂いだ」
帝は彰子の髪を払い、帯を解いた。彰子は咄嗟に自分と帝の間に腕を入れて制したが、女の身で抗えるわけもなかった。
「怖いか?」
彰子は、答えられなかった。今まで誰にも赦したことがないのに、分かるわけがない。
「可愛い人だ」
可愛い。その言葉に彰子は顔を歪めた。
「可愛くなど、ございません」
そんな子供のように愛でないでほしい。皇后と同じ女なのだと認めてもらいたかった。
「愛い人。――私がそう申しているのだから、それで良いだろう」
そう言われ、首筋に温かいものが這った。自分でも分からない顔をこの人に見せたくなくて顔を背けたが、そんな彰子の気持ちなど関係なく、帝は彰子の顔を上げた。忙しなく動き回る手に、彰子は体から力を抜こうと努めた。
落とされる温かい物を受け入れる。唇が塞がれる。夜着が暴かれる。髪を撫でられる。舌が体中を這いずり回る。
(怖い)
(痛い)
しかし、この感情すらも愛おしい。
この人のためなら、なんでもしよう。この人の望みをすべて叶えてあげる。彰子は雪崩れ込んで来た男によって与えられる激痛に耐えながら、深く誓った。
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