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花の名を君に
20 さよなら
しおりを挟む「こんなところにいたの?」
「レスカ!」
僕が声をかけると、ローアンはパッと顔を上げて笑顔を見せた。
あれから五年近くが過ぎた。ローアンは十二歳になって、並んで立つと、もう僕とほとんど同じ目線だ。ローアンはあれから強くなろうと一人、本を読み、知識を付け、剣を振るって体を鍛えたおかげで十二歳にしてはしっかりとした体に成長していた。
……本当に人間の成長は早いな。
そう思うけれど、まだ内面の幼さも残っていた。例えば、僕に屈託のない笑顔を見せるところとか。
「ここで何をしていたの?」
僕が尋ねると、ローアンは手に持っていた本を僕に見せた。それはこの国の歴史書だった。
「これを読んでいたんだ」
「そう……誰にも何もされなかった?」
「大丈夫だよ。誰も私に興味などない」
ローアンは笑って言った。
あの事件から、誰もあからさまにローアンに手を出さなくなった。小さな嫌がらせは今もあるが、僕の加護があると誰もが認知したからだ。
こうなるなら僕は早くローアンを手助けしておけばよかった。そう思ったけれど、未だにあの時、僕が表舞台に立ってよかったのだろうか、という思いも心の隅のどこかにあった。
今は良くても、僕の行いが後々にローアンに良からぬ事を運んでくるんじゃないかと思えてならなかった。僕は怖かった、僕のせいでローアンの人生が台無しになるんじゃないかって。
でも、考え込む僕にローアンは不思議そうに首を傾げた。
「レスカ?」
「あ、いや……ローアンは歴史が好きだね。その本、前も読んでいなかった?」
僕が尋ねるとローアンはこくりと頷いた。
「ああ、国の成り立ちは面白い。特に初代王のロベルト様の話は」
ローアンの言葉に僕はくすりと笑ってしまう。僕も読んだことがあるが、この本に書かれているロベルトは別物だ。
聖王と呼ばれ、人智を超えた力を持ち、汚点のない人物。そんな風に書かれている。
でも僕の知っているロベルトは、いつも悩み、疲れて、僕の元に休みに来ていた。そして、時々お茶目で、冗談もいうし、僕をからかったりもした。
忘れていたはずなのに、ローアンを見ていると僕は自然と思い出す。
「そっか」
僕は呟き、ローアンの右頬を撫でた。長い前髪で隠している大火傷の痕。ごわつき、かさついた頬を。
「ローアン、また香油を塗り忘れた? ちゃんと塗らないと駄目って言っただろう?」
「だって面倒で……わからないと思ったのに、レスカはなんでもわかるんだな」
「そうさ、僕はなんでもわかるんだ。君の事ならね」
僕は笑って言い、ローアンの頬をそのまま撫でた。
「痛い?」
「大丈夫だよ、もう五年近くも前の痕だ。痛くない。レスカチアが手当てしてくれたから」
ローアンはにこっと笑って言った。
その笑顔を見て、僕は思う。随分とローアンは優しい子に育った。そして強い子に。
もう一人で生きていけるほどに……僕の加護がなくても、きっと。
「レスカチア?」
きょとんっとするローアンに僕は呼吸を整えて、静かに告げた。
「……ローアン、僕は君に言わなきゃならないことがある」
「言わなきゃならない事?」
「うん。……もう僕は君の傍にはいられない」
僕がハッキリ告げると、ローアンの顔色ががらりと変わった。目を見開き、さっきまで笑顔だった顔に絶望の色が差した。
「どうしてッ!!」
ローアンは声を大きくして僕に言った。こんな風にローアンが僕に声を荒げるなんて初めてだ。僕は少し面喰ったけど、でも僕は言わなきゃ。
「ローアン、君は大きくなった。僕の手はもういらないだろう」
「そんなっ、そんな事ない!」
ローアンは否定したけど、僕は聞かなかった。
「ローアン、軍に入りなさい。君はこの城を離れるべきだ。王族は市井に住むことは許されないけれど、軍に入ることは許されてる。軍に入れば、君はこの城から、王族から離れることができる」
「軍に……」
ローアンは呟くように言った。
その考えはなかったのだろう。けれど、ローアンがこのまま城にいてはよくないと僕は考えていた。
なぜなら、ローアンは僕の加護があると認知され、他の兄姉よりも次期王に相応しいのでは? と囁かれていたからだ。
特にある一部の貴族は、直々に今の王に進言までしていた。
でも実際にはそれは建前で、何の後ろ盾も保護もないローアンを傀儡にして操ろうという恐ろし思惑があった。僕はそんな事の為に、ローアンの人生を使って欲しくなかった。
王になれば自由はない。ロベルトでさえ、なかったのだから。
だからローアンには自由でいて欲しかった。この王族のしがらみから解き放たれて、人として幸せに暮らして欲しかった。
それだけが僕の願いだった。
けれどローアンは“うん”とは言わなかった。
「絶対に嫌だ。私は軍になど入らないぞ。レスカチアがいなくなることも許さない!」
ローアンは僕の手をしっかりと握って僕に詰め寄った。
いつの間に、この子の手は僕の腕を掴めるほど大きくなったんだろう。
僕はぼんやりとそんな事を思ってしまった。
「なんで、急にそんな事を言う。私が嫌になったか?」
「そんな訳ないよ」
「じゃあ、なんで! なんで、急にそんな事を言うんだ! どうして私から離れようとする! どうしてだ!!」
「……その時が来てしまった。それだけの事だよ」
僕も君の傍にいたい、でも君の元を離れる。それが君の為であると、僕は信じているんだ。
僕はその思いを胸の中で呟き、微笑んだ。
けれどローアンは泣きそうだった。
「嫌だ! 絶対に、嫌だからな!」
ローアンはそう言うと、話をもう聞きたくない! と言わんばかりに離れていった。
どう説得すれば、ローアンは納得してくれるんだろう。
そう思いつつも、もう時間は残されていなかった。
『精霊王様、約束をお忘れなきよう』
光の精霊が思い出させるように僕に囁いた。
「……ああ、わかっているよ」
ある真夜中、僕はそっとローアンが眠る部屋に訪れた。
今日でローアンは十三歳になる。今日が光の精霊と約束をした五年目。
僕がローアンと共にいられる最後の日。僕はじっとローアンの顔を眺めた。
次期国王にと囁かれていても、第六子であり後ろ盾もないローアンは未だに簡素な部屋に押し込められ、ぼろ布を纏って眠っていた。
でも、きっとこの城を出たら、少しはマシに過ごせるだろう。
僕はその願いを込めて、ローアンの頭を優しく撫でた。柔らかい黒髪を梳き、そしてそっと額に唇を落とす。
「ローアン……お別れだ」
僕はそう小さく呟き、ローアンの寝顔にいつかのロベルトの顔を重ねる。
年々、ローアンはどことなくロベルトに似てくる。血は薄くても、ローアンはロベルトの子孫だからだろう。けれど、ローアンをロベルトと同じ道を歩ませない。誰かに殺されるような道は……。
きっと、僕はロベルトの時もこうして離れるべきだったのだろう。僕はロベルトの傍に居過ぎた。もし僕がこうして離れていたら、ロベルトは家族を大事にして人の世に生きていられたはずだ。ロベルトの息子も、彼を殺すことはなかっただろう。
僕とロベルトはお互いを求めあっていたけれど、傍にいちゃいけなかった。ロベルトは人間で、僕は精霊だから。
……あの時しなかった事が、今きているだけの事なんだ。だから、僕はローアンとさよならしないといけない。
「ローアン」
さよなら。
そう言わないといけないのに。僕はちゃんとローアンにお別れをしないといけないのに。
あぁ……声が、足が……体が何一つ動かない。
もう二度と会えないと思うと、この顔を傍で見られないと思うと悲しくて涙が零れそうになる。
この十三年間、傍にいられて僕は幸せだった。ロベルトを失った時に出来た穴が塞がったような気がした。けれど、その穴がまた開きそうになっている。
ギリギリギリギリと胸の奥が軋む。塞いだカサブタが捲られるように。
痛い……でも、僕は堪えなきゃいけない。僕が傍にいないのが、ローアンの一番なんだから。
今までの日々の思い出があれば、きっと大丈夫。君が幸せになるなら、僕は悲しくても、それでいい。
僕はぐっと拳を握りしめて、震える唇で言葉を告げた。
「ローアン……さようなら」
僕は手を伸ばし、ローアンの額に触れようとした。
だけど、僕の手はローアンに届かなかった。
「どういうつもりだ」
突然の声に僕は驚き、びくっと体を震わせたけれど、そんな僕の腕を眠っていたはずのローアンが逃がさないと言わんばかりにしっかりと強く握っていた。
「どこに行くつもりだ、レスカチア」
ローアンの瞳はしっかりと開き、僕を見ていた。僕は驚き、声を上げた。
「ローアン、起きて!」
「レスカチア、私を置いてどこに行く」
ローアンは身体を起こして、僕の腕を掴んだまま怒気を孕んだ声で言った。
「許さない。私を置いていくなんて、絶対に許さないぞ!」
ローアンはそう言うと僕の体を引っ張って、僕の体を寝台に押し倒した。
「ひゃ!」
「逃がさない、レスカチア」
僕に覆いかぶさるローアンは僕をじっと見降ろして言った。けれど、その瞳がうっすらと涙で潤んでいた。
「……ローアン」
「レスカは私の傍にいるんだ!」
「ローアン、それは」
言い淀む僕に、ローアンは眉間に皺を寄せた。
「どこにも行くな。……どこにも……どこにも行かないで、レスカ。お願いだから」
ローアンは僕の肩に頭を乗せて希うように言った。まるで小さな子供のように。
その姿に、その言葉に、僕の心が大きく揺れる、まるで振り子みたいに、大きく大きく。
でも、でも駄目なんだ。
「ダメだ、ローアン。僕は行かなきゃ」
「どこに行くんだ。レスカチアが行くなら、私も一緒に行く!」
ローアンは顔を上げて僕を見て言った。その目は真剣だった。どこにでも僕について行くという瞳だった。それが地の果てでも。
「それはできない」
「なんで! どうしてなんだ!」
ローアンは駄々をこねる子供のように僕に言った。いつもは聞き訳がいいのに。
でも、声変りもしていない彼はまだ子供なのだ。と僕は改めて思い直す。
だけどね、もう僕が傍にいちゃ駄目なんだ。僕は人間じゃないから。
「私が嫌いになったのか」
「ううん、違うよ。それは絶対にない」
「じゃあ、どうして離れるなんて言うんだ。なんで、なんでっ! ……どうして私を一人にするんだっ」
ローアンは耐え切れなくなったように、ぽろぽろっと涙を流した。綺麗な水が僕の顔に雨のように降り注ぐ。
その言葉はいつか僕がロベルトに告げた言葉と似ていた。
『僕を一人にしないで』
そう死んだロベルトに言った僕の言葉と。
だから、ローアンの気持ちが痛いほどにわかる。胸が引き裂かれそうに痛い。君を一人にしたくない。僕は君を泣かせたいわけじゃない。
でもね、君の為を思っての選択なんだ。僕が傍にいちゃ、きっと君の為にならないんだ。
だから僕の身勝手を許して。
「……ごめんね、ローアン。ごめんね」
僕はローアンの頬に手を伸ばし、涙が零れる目元を指先を拭った。
そして、ぎゅっと抱きしめた。
「レスカ、チア」
「ローアン、僕の大事なローアン。……大好きだよ」
僕は頭を浮かせ、まだ幼い唇にそっと口づけをした。
「っ……!」
ローアンは驚いて目を見開いた。
でもローアンはすぐに異変を察知して僕から離れ、頭を抱えた。だが、もう遅い。
僕は触れた彼の唇から、力を使って僕の記憶を抜き去ったから。
「あ、ぅぅっ……レスカ、チア」
ローアンは呻るように言うと、そのまま意識を失くして、ぱたりと倒れると今度こそ眠りについた。僕はそんな彼の頬に口づけを落とした。
「ローアン、おやすみ。……君が大事なんだ」
だから許して。どうか、何もできない僕を許して。
僕はローアンの頭を撫でて寝台から下りると、ぱたりと横になったローアンをちゃんと寝かせて、その体に布を掛けた。
そして僕は寝台から離れ、部屋に置いてある短剣を手に取ると鞘をすらりと抜く。この短剣は元々ローアンの母親が持っていたもので、柄も鞘も装飾もない地味なものだ。だが、今まで使われた事がなかったのか、とても綺麗で刃こぼれ一つなかった。
鈍色に輝く刃の切れ味は良さそうだ。
以前ローアンが見せてくれた時と変わらない状態なのを確認して、自分の長い髪を一つに掴み上げた。
生まれた時からずっとあった僕の長い金の髪。
生まれた時からこうだったから、今まで一度も髪を切ることなどなかった。でも僕は生まれて初めて髪に刃を当て、短剣を滑らして掴んだ根元からバサリと切り払った。
腰より長かった僕の髪は短くなり、僕から離れた長い金の髪は、そのまま金の糸に変わった。
金はとても価値があると聞く。
ローアンはこれから一人で生きていく。その為にはお金が必要だ。この金の糸を売れば、いくらかローアンの助けになるだろう。
僕は僕の髪だった金の糸を束ね、袋に入れてローアンの眠る枕元にそっと置いた。そして、ローアンの記憶に少しだけ細工をする。この金の糸は亡くなった母親からのものだと。
ローアンから僕の記憶を消したから僕は存在しない者になる。だから、誰から貰ったものか、細工する必要があった。
……きっとローアンなら、ちゃんと使うべき時に使ってくれるだろう。
僕はそう思って、細工をし終え、ローアンの額から手を離す。
そして改めて見つめるローアンの顔。
……これから君はもっと大人になっていくんだろうな。
ロベルトが大人になったように。そしてノイクのように僕を追い越して歳を取っていくのだろう。僕のいない世界で。
そして誰かと出会い、家族を作って、幸せに……。幸せになってね、ローアン。
君が僕を見る事はもうない。でも僕は君を見つめ続けるだろう。
「……ローアン」
きっと、これでいいんだ。僕は君の人生にもういない方がいい。だから僕を忘れて。
「ローアン、君が僕を忘れても。僕は君を覚えているよ」
僕は涙を堪え、最後の口づけをローアンの唇に落とした。
それからローアンは何事もなかったかのように、僕の事をすっかり忘れてしまった。
僕がそうしたのだから当たり前だ。
僕があげた金の糸が入っている袋を少し不思議そうに見ていたけれど、すぐに部屋の隠し棚にそっと入れた。
そしてローアンは僕のいない生活をしばし送り、やがて自ら軍に入った。
元々頭のよかったローアンはぐんぐん頭角を現していき、声変りを迎えて僕の身長を抜いた頃には隊を率いるほど大きくなって、立派な青年になっていた。
信頼のおける者も出来たらしい。
僕はやっぱりローアンと離れてよかったんだと思った。
人の子は人の世に。
僕がどれだけ寂しくても……悲しくても……。
そう僕は思った。そう思ったのに……いつだって僕の想いとは裏腹に未来は進んでいくんだ。
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