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1. 終わりと始まり
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そこにあるのは黒のみだった。
右か左か、上か下かも曖昧になるほどの闇は、もはや澄みすぎて毛穴からチクチクと刺さるようだ。
「ここはどこ……?」
少女は一歩を踏み出したが、進んだのか止まったままなのかわからなかった。
なぜこんな場所に来てしまったのか。思い返しても、心当たりはない。正確には、靄がかかったように何も浮かばなかったのだが。
ここに来る直前まで何をしていたのかも、どこにいたのかも、まったくもって覚えていない。
思わず溜め息をつくが、不意に飛び込んできた光景に息を呑んだ。
「手が、見える」
すべてを飲み込むような黒なのに、左手はくっきりと浮き上がっている。そこから伸びる腕も、胸も脚も、少しも翳ることなく存在していた。
少女ははっきりとした恐怖を今さら感じた。
そのときだった。
「――生きたいか?」
どこからか声が聞こえた。
突如響いたそれは、すぐさま闇に吸い込まれていく。
静まり返った空間は、気のせいだったのかもしれないと感じさせた。しかし、再度聞こえてきた声に、勘違いではないのだと思い知る。
「お前は生きたいか?」
「あなたは誰?」
「なんだ、生きたくないのかい?」
少女の質問には答えず、謎の声は生きたいかと問うてくる。
「生きたいかって……私は生きていますけど」
「いいや、お前は死んだよ」
「は……?」
思いがけない言葉に、少女は絶句した。
「な、にを言っているの? そもそもここはどこ? 家に帰りたいのですが」
「だから言っただろう? お前はすでに死んでいるんだ。家に帰ることはできやしないよ」
流れるように降りそそぐ声は優雅ささえ感じさせて。
何か言いたいのだけれど、喉につかえて言葉にならなかった。
「さあどうする。生きたいかい? 生きたくないのかい? もし生きることを望むのなら、私が願いを叶えてやろう」
少女は迷ったが、それは一瞬だった。
奥歯を噛みしめると、顔を上げて口を開く。
「生きたい。だって私は――」
*****
吹き抜ける風が髪をさらっては揺らしていく。ほのかに残った甘い香りに、少女は目を細めた。木の手すりから手を放すと、深く息を吸った。
街が動き出す気配がした。張りつめた糸がたるんでいくような、そんな気配を感じるこの時間がとても好きだと少女は思った。
あれは、夢ではなかったようだ。
少女が目覚めると、そこは見知らぬ場所だった。テレビやソファはなく、いつしか観た歴史ドラマに出てきた木造建築に似ている。
外を眺めても、見える景色はやはり違っていて。どこか別の世界に来てしまったとしか思えなかった。それはつまり、自分が死んだことも事実なのだろう。
少女が息を吐くと、足音が聞こえてきた。
「おや、お目覚めだったのかい?」
現れた女性は、見たことがないほど美しかった。
顔のつくりは当然のこと、肌は絹のようにすべらかで、結われた髪は毛先まで手入れが行き届いている。醸し出される艶やかさも相まって、その佇まいはまるで絵画のようだった。
「ようこそ妖界へ」
「……妖界?」
「そう。ここは未練を残して死んだ人間が蘇る妖界さ」
「じゃあ、私も未練があったからここに?」
「いいや。お前のことは連れてきてやったのさ。この私、白葛がね」
白葛と名乗った女性は、口元に手を寄せて微笑んだ。
その姿に一瞬見惚れたあと、少女ははたと気づいた。
「あの暗闇で聞こえた声はあなただったんですね」
「その通り。ずいぶんと飲み込みが早いねぇ」
「まだ夢のようだと思っていますけど……。でも、目覚めてから見るものすべてが今までと違うから」
少女が再び外に目をやると、少し先に見える通りを人々が歩いていた。左右にはずらりと店らしき建物が並んでいる。にぎやかな雰囲気が、こちらまで伝わってきた。
そのまま視線を動かすと、真下にある庭には金木犀が咲いていた。なるほど、先ほどの甘い匂いはここから香ってきたのだろう。
初めて見る景色ばかりだが、どれも心地よく清々しい気分にさせた。
「私はこれから、ここで生きていくんですか?」
「ああそうさ」
「……なら教えてください。この世界のことを」
少女は改めて白葛を見ると、妖界に来て初めての笑顔を浮かべた。
それから少女は、様々な話を聞いた。
未練を抱えたまま亡くなった人間は妖界に来ること。妖界にはそうしてやって来た元人間と、その子孫たちが暮らしていること。そして、人間が暮らしている世界とあまり変わらないこと。
普通に考えれば信じ難い内容ばかりだったが、少女は不思議と冷静に聞くことができた。
一通り話したところで、白葛が思いだしたように手を叩いた。
「そうだ。お前に名前をつけないとだねぇ」
「名前? 私の名前なら」
「せっかく妖界に来たっていうのに、古い名ではもったいないだろう? そうだねぇ……常磐なんてどうだい?」
少女――常磐は目を見開いた。まるで、新しい人生の始まりだとでも言われたようだった。
常磐は胸に手を当て、新しい名の響きを確かめる。まだ自分の中に溶け込んではこない。紡がれた名前は、そのまま空気の中に浮いているような感覚だ。
その様子を見守っていた白葛だったが、何かに気づいたように言った。
「やっと迎えが来たよ。……ほら」
つられて白葛の視線を追うと、階段を上るゆったりとした足音がして――
「何の用だ」
現れた青年は、淡い藤色の髪には不釣り合いなほど不機嫌そうに眉をひそめていた。
右か左か、上か下かも曖昧になるほどの闇は、もはや澄みすぎて毛穴からチクチクと刺さるようだ。
「ここはどこ……?」
少女は一歩を踏み出したが、進んだのか止まったままなのかわからなかった。
なぜこんな場所に来てしまったのか。思い返しても、心当たりはない。正確には、靄がかかったように何も浮かばなかったのだが。
ここに来る直前まで何をしていたのかも、どこにいたのかも、まったくもって覚えていない。
思わず溜め息をつくが、不意に飛び込んできた光景に息を呑んだ。
「手が、見える」
すべてを飲み込むような黒なのに、左手はくっきりと浮き上がっている。そこから伸びる腕も、胸も脚も、少しも翳ることなく存在していた。
少女ははっきりとした恐怖を今さら感じた。
そのときだった。
「――生きたいか?」
どこからか声が聞こえた。
突如響いたそれは、すぐさま闇に吸い込まれていく。
静まり返った空間は、気のせいだったのかもしれないと感じさせた。しかし、再度聞こえてきた声に、勘違いではないのだと思い知る。
「お前は生きたいか?」
「あなたは誰?」
「なんだ、生きたくないのかい?」
少女の質問には答えず、謎の声は生きたいかと問うてくる。
「生きたいかって……私は生きていますけど」
「いいや、お前は死んだよ」
「は……?」
思いがけない言葉に、少女は絶句した。
「な、にを言っているの? そもそもここはどこ? 家に帰りたいのですが」
「だから言っただろう? お前はすでに死んでいるんだ。家に帰ることはできやしないよ」
流れるように降りそそぐ声は優雅ささえ感じさせて。
何か言いたいのだけれど、喉につかえて言葉にならなかった。
「さあどうする。生きたいかい? 生きたくないのかい? もし生きることを望むのなら、私が願いを叶えてやろう」
少女は迷ったが、それは一瞬だった。
奥歯を噛みしめると、顔を上げて口を開く。
「生きたい。だって私は――」
*****
吹き抜ける風が髪をさらっては揺らしていく。ほのかに残った甘い香りに、少女は目を細めた。木の手すりから手を放すと、深く息を吸った。
街が動き出す気配がした。張りつめた糸がたるんでいくような、そんな気配を感じるこの時間がとても好きだと少女は思った。
あれは、夢ではなかったようだ。
少女が目覚めると、そこは見知らぬ場所だった。テレビやソファはなく、いつしか観た歴史ドラマに出てきた木造建築に似ている。
外を眺めても、見える景色はやはり違っていて。どこか別の世界に来てしまったとしか思えなかった。それはつまり、自分が死んだことも事実なのだろう。
少女が息を吐くと、足音が聞こえてきた。
「おや、お目覚めだったのかい?」
現れた女性は、見たことがないほど美しかった。
顔のつくりは当然のこと、肌は絹のようにすべらかで、結われた髪は毛先まで手入れが行き届いている。醸し出される艶やかさも相まって、その佇まいはまるで絵画のようだった。
「ようこそ妖界へ」
「……妖界?」
「そう。ここは未練を残して死んだ人間が蘇る妖界さ」
「じゃあ、私も未練があったからここに?」
「いいや。お前のことは連れてきてやったのさ。この私、白葛がね」
白葛と名乗った女性は、口元に手を寄せて微笑んだ。
その姿に一瞬見惚れたあと、少女ははたと気づいた。
「あの暗闇で聞こえた声はあなただったんですね」
「その通り。ずいぶんと飲み込みが早いねぇ」
「まだ夢のようだと思っていますけど……。でも、目覚めてから見るものすべてが今までと違うから」
少女が再び外に目をやると、少し先に見える通りを人々が歩いていた。左右にはずらりと店らしき建物が並んでいる。にぎやかな雰囲気が、こちらまで伝わってきた。
そのまま視線を動かすと、真下にある庭には金木犀が咲いていた。なるほど、先ほどの甘い匂いはここから香ってきたのだろう。
初めて見る景色ばかりだが、どれも心地よく清々しい気分にさせた。
「私はこれから、ここで生きていくんですか?」
「ああそうさ」
「……なら教えてください。この世界のことを」
少女は改めて白葛を見ると、妖界に来て初めての笑顔を浮かべた。
それから少女は、様々な話を聞いた。
未練を抱えたまま亡くなった人間は妖界に来ること。妖界にはそうしてやって来た元人間と、その子孫たちが暮らしていること。そして、人間が暮らしている世界とあまり変わらないこと。
普通に考えれば信じ難い内容ばかりだったが、少女は不思議と冷静に聞くことができた。
一通り話したところで、白葛が思いだしたように手を叩いた。
「そうだ。お前に名前をつけないとだねぇ」
「名前? 私の名前なら」
「せっかく妖界に来たっていうのに、古い名ではもったいないだろう? そうだねぇ……常磐なんてどうだい?」
少女――常磐は目を見開いた。まるで、新しい人生の始まりだとでも言われたようだった。
常磐は胸に手を当て、新しい名の響きを確かめる。まだ自分の中に溶け込んではこない。紡がれた名前は、そのまま空気の中に浮いているような感覚だ。
その様子を見守っていた白葛だったが、何かに気づいたように言った。
「やっと迎えが来たよ。……ほら」
つられて白葛の視線を追うと、階段を上るゆったりとした足音がして――
「何の用だ」
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