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19 ふれる手、近づく・・・

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「―――おいっ。大丈夫か?」

 遠くから声が聞こえた気がした。
 ぐわんぐわんと、耳鳴りがして、瞼を開こうとするけれど、まるで鉛のように重たくて、開かない。わずかに開いた視界の向こうには、硝子のような丸い二つの何かが見えるだけだった。
 時間切れだとでも言うように、瞼は閉じられて、また暗闇に引き込まれる。
 遠くで誰かが呼んでいる。
 ソワソワとベッドサイドをうろうろする気配がして、そっと何かが触れた。

 その温度に安堵して、息を吐くと、意識は落ちていく。

 夜中何度も微睡んで目が覚める。真っ暗闇の部屋のなか、視点は合わず、朦朧とした意識は浮いたり沈んだりしていた。


 誰かが額に触れる。
「おかぁさん・・・・」
 母が看病してくれたのはいつだったか。
 死ぬ前だからもうすでに十数年以上前の事だ。

 冷却シートを額に貼って、氷枕を当ててくれて。
 熱が出たら一緒のお布団で寝てくれた。自分の部屋があっても、風邪の時だけは、母のベッドにもぐりこんだ。

 母の手が優しく頬に触れ、額に手を当て、熱を測る。
 優しい笑顔に、熱に浮かされていてもほっとして、安心できた。

「おかぁさん・・・・」

 呟くと、そっと母の手が髪を撫でた。
 涙が一筋落ちて、枕を濡らした。


 その日は、幸せで、少し悲しい夢を見た。
 夢だと分かっているからこそ、幸せだった記憶も悲しい。

 母は穏やかで優しいひとだった。
 娘の世奈を愛していたし、もちろん父の事も愛していた。
 父が帰ってこない日が増え、夜中母が一人で泣いているのを見たことがあった。それでもよく朝起きると、母は笑って世奈の朝食を準備してくれる。
 優しくも強い、そしてまっすぐ前を向いている母が好きだった。

 学校から帰ると、宿題をして、夕食の準備を拙いながらも手伝う。
 ジャガイモの皮むきは実が無くなったこともある。玉ねぎを初めて切った時は目が染みて大泣きした。肉は切ったはずがきちんと切れていなくて、繋がっていたっけ。それでも、出来上がったカレーは美味しくて、母と二人で食べた。父の分にと残しておいたカレーは翌日も手を付けられることは無かった。
 世奈が風邪をひくと、母はリンゴのゼリーを買ってきてくれた。時々プリンの時もあった。お粥は嫌いだったから、野菜たっぷりの鶏肉の入った雑炊を、ふーふー冷まして食べた。
 母が風邪を引いた時、世奈も、鶏肉と卵を入れた雑炊を作った。沸騰し過ぎて、卵がモソモソになったけれど、母は目に涙を浮かべて食べてくれた。

『ありがとう、世奈』
 頭を撫でて、母は布団に横になる。食器を片付けた後、世奈も母の布団に潜り込んだ。
『風邪がうつるわよ』
『大丈夫だよ。一緒に寝れば暖かいもん。風邪なんてすぐ良くなるよ』
 世奈がそういって、母に抱きつくと、母は世奈の髪を撫でた。優しく優しく頭を背中を撫でた。


「おかぁさん・・・」


 魘されて呟くと、誰かが世奈の額に触れる。
「大丈夫よ、安心してお休みなさい。きっとすぐ良くなるわ」
 優しく頭を撫でられて、冷たいタオルが額に置かれる。
「おかぁさん・・・だいすき・・・」
 そっと目をあけると、朦朧とした意識の中、暗闇で薄い水色の二つの瞳がゆっくりと細くなったのを見た気がした。



 熱に浮かされ、意識が時々浮上するけれど、目を開けても視点は定まらず、夢なのか、現なのか、解らず、直ぐに意識は落ちていく。
 微睡む意識の中で、過去の幸せな記憶と、つらい記憶がごちゃ混ぜに、浮かんでは消えていく。
 幸せな思い出は一瞬、つらい記憶は何度も何度も繰り返し、夢に見た。

 体調が悪くても、誰も気遣ってはくれない。むしろ、トイレや水を飲みに部屋から出ると、病原菌は部屋から出るなと、罵られ、禄に病院にも連れて行ってもらえなかった。それどころか、体調が悪いのに、家事をしないと詰られもした。
 ふと、意識が浮上するたびに、夢なのか、現実なのか、訳が分からなくなる。



 世奈は継母から虐げられ、異母妹からは分かりやすい嫌がらせを受けていた。服は妹のおさがりか、地味でよれよれの服、食事も満足に与えられていないが、暴力の限りを尽くされることは無かった。
 それも、祖父からの養育費と称した援助と、母名義の不動産収入があったからだ。母名義のその不動産は、世奈の名義となっており、月々の収入は結構な額になっていた。どちらも、世奈を死なせたり、手放してしまっては手に入らないお金だった。それ故に、死ぬほどの暴力は受けないし、死なない程度の衣食住は与えられていた。
 小学生の頃は、母の遺品を人質のようにとられ、散々いじめられた。見えない場所を叩かれたり、蹴られたりはよくあることだったが、精神的なことは散々だった。
 わざとらしく、家族団欒、仲の良いところを見せて、「あら、あんた何してるのよ?ここに入れるわけないじゃない、さっさと、物置小屋に戻りなさいよ」なんていうのは、常で、外食や旅行など連れて行ってくれることは無い。他人の目に触れる場面だけ、取り繕うが、普段を見ている者なら、解る程度のハリボテだった。
 それでも、中学生になるころには、遺品の人質はもはや役に立たなくなっていた。仲良い様子を見ても、羨ましいとも、悔しいとも、仲間に入れてほしいとも、思わなくなっていた。思わなくなるほど、心は病み、何も感じなくなった、ともいうのだろうけれど。

 そのころになると、家事をするのは世奈の仕事になっていた。といっても、世奈は学生で、しかもまだ中学生だ。

 母が生きていた時は綺麗に手入れされていた部屋や庭は荒れ放題だった。家の中は散らかり、庭の木や花は伸び放題で、雑草だらけだ。
 継母は自分を飾ることが一番で、自分は磨けど、家の中まで磨くことはしなかった。だから、家事がおろそかになるのはある意味当然で、洗濯物だってたまる。世奈は自分の洗濯物は自分で洗っていたが、彼女達は週に二度ほどハウスクリーニングと宅配クリーニングを使っていた。

 掃除も洗濯もこの通りなのだから、当然食事の準備さえ手抜きだった。実際継母たちがこの家に来て、食卓に上るのは、デパートで買ってきた総菜がほとんどだった。その食事でさえ、世奈には満足に与えられなかった。

 ある日、空腹に耐えかねて、冷蔵庫の中から食事を作ったのを、異母妹に見つかった。見とがめられるのかと思ったが、彼女は世奈の作った料理を横からかっさらうと、凄い勢いで食べつくした。
 唖然と見つめる世奈に、異母妹は意地悪な笑みをたたえて振り向くと、言い放った。

『あんた、明日から夕食作って。毎日総菜や、外食ばっかりで飽きたし。さっきの味なら食べられない事もないし。ママには私から言っておいてあげるから』

 その日から、食事の用意はおろか、継母が週二でいれていた、ハウスクリーニングも切って、世奈にさせることにした。ハウスクリーニングにもお金がかかる。それなら、無償で世奈にやらせた方が良いと、継母が言ったのか、異母妹が言ったのか。
 食材の費用は渡された。が、せっかく作った食事を食べてもらえたか、というと、そうでもなかった。これ見よがしに外食に出かけて、食べなかったり、今日は気分じゃないと、流しに捨てられたり。

 そういえば、異母妹の代わりに、憧れの先輩に差し入れ弁当を作れだの、バレンタインのチョコレートを作れだの、注文付けて作らされたっけ。自分で作れと言えば、泣きわめいて、継母に怒られた。弁当は作ってやったけど、チョコレートは砂糖と塩を間違えたんだっけ。後で苦情の嵐だったな。

 どれだけ美味しい料理を作っても、ありがとうとも、美味しいとも言われた事無かったんだっけ。

『美味しい・・・』
 彼の声が蘇る。
 大きな手で、大きく切り分けた料理を、綺麗な所作で口へ運ぶ。
 咀嚼した後に、僅かに上がる口角。目は嬉しそうに輝いて、苦手な野菜まで、平らげてくれた。

 あんな風に、美味しいなんて言ってもらえたのはいつの頃以来だろうか。
 母の声が蘇る。
『世奈、美味しいね!このカレーライス上手に出来たわね!!』
 じゃがいもは形がぐちゃぐちゃで、ニンジンだって分厚いところは生煮えで硬かった。それでも、母は嬉しそうに、美味しそうに食べてくれた。

 それは、とても幸せな時間と、記憶だった―――。


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