欠陥だらけの彼は箱庭で救世主と呼ばれる【イラスト付き】

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十三 散歩

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十三 散歩


 霧生の小さな口が、今自分の口を塞いでいる。
 ……なんだ、これ。夢、なのか?!
 だが、暗視スコープのように緑がかった視界には、目をつむる霧生の美しい顔がある。そして、舌に絡みつく粘性のある感覚は、これまで感じたどんな感覚よりも艶めかしく、生々しい。

 あ、ああぁ……。
 彼は混乱のあまり意識を失いそうになる。舌を通して霧生という存在を感じる。それは自分の存在すら忘れてしまうほど、あまりに華麗で艶かしく、リアリティーがあった。

 彼女は彼の体を何度も何度も強く抱きしめ、その度、背中に掛かる手の爪が皮膚に食い込んでいく。そしてそのリズムに合わせ、彼女の口からは吐息が漏れる。

 完全に口を塞がれた彼は、息苦しさのあまりそのまま息を吸い込んだ。彼女の口から漏れる空気を、そのまま肺へと送り込む。肺が霧生で満たされていく。彼は、胸の中に甘い香りを感じた。
 すると次の瞬間、頭の中で形容し難い様々な感覚が湧き起こってきた。痛みとも、快感ともカテゴライズできない、そんな何かだ。

 分からないが、とにかく、何かが動き出す――彼にはそう感じられた。
 そして、頭の中で膨れ上がったそれが一気に弾け、まるで電流のように体中の神経を伝い、衝撃が指先の末端に至るまで流れ広がった。

 彼は、意識を失った。



◆◇◆◇◆◇

 ――ソラシマ第Aホ区 カメジマ――

 昨晩から降り続いた雨のせいだろうか。潮の香りが混じったこの早朝の空気は、夏にも関わらず冷たい。それでも太陽が真上まで昇ってしまえば、それがねっとりと体中に絡みつくような、むさ苦しいほど粘度の高い熱気に変わることを魁地は知っている。

 魁地は一時間の制約で研究所敷地外への外出許可をもらい、リハビリがてら散歩をしている。そして、日常が漂う町並みを歩きながら、昨日の非日常を思い出してみる。いや、本当のことを言うと思い出したくはなかった。むしろそれは、記憶の方から否応なしに這い出てきた、というのが正直なところだ。

 ――昨日、彼は突然意識を失った。
 そして次に目覚めたとき、そこは自室と化した病室のベッドだった。

 人間、混乱の中にあって最初に得ようとする情報は時間だ。世界はクロックに同期して動く。それは誰にも平等に流れている基礎パラメーターだと知っているからだろうか。
 そしてその時、魁地がカーテンの隙間から見た室外の光景は、すでに日が落ちて暗闇を湛えていた。

 記憶が繋がらない。彼はなぜ自分がベッドで寝ているのかを理解できなかった。しかし、朦朧とする意識の中、頭の中では誰にも言えないような霧生との情事が記憶の奥から湧き上がり、ぐるぐると回り続けた。脳内で描かれるその光景はあまりにも現実離れし、彼にはそれが夢とも記憶とも判断できなかったが、そこに映る彼女の像はあまりに艶かしく、ニューロンにへばりついて離れない程の現実味を帯びていた。

 魁地は今が現実なのかを確かめるように、ゆっくりと起き上がった。
 すると、ベッドの横には結浜がいた。まるでデジャブのように、いつか見た光景。そして、次に結浜が放ったその言葉に、彼の頭はさらなる混乱をきたす。

「何をやってたんだ? 霧生君から、君がトイレに行くと言って分かれたっきり、リハビリ室に来ないと連絡を受けて探しに行ったのだが、まさか階段から落ちて気を失っているとはね。驚いたぞ。足でも滑らせたのか?」

「階段……えっ? いや……俺、そんな記憶、ねぇけど」

 階段から落ちた?! ……そんな馬鹿な。俺は霧生とリハビリに向かって……霧生との記憶、あれは、本当に夢だったのか?

 彼は自分の記憶と結浜の言葉とのギャップを埋める術が分からず、脳内で慌てふためくニューロンをただ呆然と眺めた。

「まぁ、頭を強く打ったみたいだから、多少の記憶喪失や一時的な記憶傷害があっても不思議はない。よくあるんだよ、そういうときには。妄想と現実の区別がつかなくなることがね」
「……はぁ。そぉっすかぁ……」

 妄想?
 あれは、現実ではなく、俺の抱いた、妄想だと言うのか?
 俺は無意識の内に、霧生に何を求めていたんだ?!

 魁地は記憶の真偽も曖昧に、気持ちの整理がつかない。
「そっか……いや、ちょっと変な夢を見たみたいだ。そうか。階段から、ねぇ。まぁ、そうだよな、はは」



 ――と、あれからさらに一晩を経て、今に至るのだが。

 ゆっくり休みを取った魁地だが、疲れは癒えど正直言っていまだに夢と現実の境界は失われたまま、混乱は続いている。こうして外を歩いている今も、彼の唇には彼女の柔らかい感触が残っているような気がする。それは、自分の生み出した淫らな幻想なのだろうか。

 そして、彼は見上げた空の白い雲に霧生の赤らんだ表情を重ね、口を尖らせてみる。

 ――って、いやいや、いかんいかん。俺も溜まり過ぎて、ついに妄想癖がイクとこまでイッちまったのかな。ゲーム脳もここまでくるとアウトだ。

「考え過ぎだな。いったん、忘れよう」

 今彼は、研究所に程近いカメジマの街を歩いている。リハビリと称して二時間だけ特別に外出を許可された。これは先の事故もあり、相当に混乱を期していた魁地の精神状態が限界だという結浜の判断による特例であった。
 カメジマはゲームフリークの聖地とも言われ、半引き篭もりの彼もたまに足を運んだ場所だ。

「なんだか、懐かしいな」

 早朝のカメジマはいつも見る街の様子とは打って変わり、まるで全てが眠りについているかのように閑散としている。
 魁地は耳を澄ました。この時間に聞こえてくる音と言えば、時折コンビニに荷物を搬入しているトラックのモーター音くらいのものだが、今はその静けさをぶち壊すようなけたたましい奇声が聞こえてきた。

 その音源は、コンビニの脇の路地で円陣を組むようにして地べたに座り、品のない話でゲラゲラと盛り上がりながら酒盛りをしているゴミ屑どもだ。駐車場に並んだ装飾だらけのバイクと髪型や服装をみれば、彼らが時代錯誤も甚だしい珍走団の類だと想像できた。

「ちっ、面倒くせぇ奴らがいんな」

 魁地は一瞬彼らをちら見したが、関わるまいとすぐに目を逸らした。だが、その中の一人が抜け目なくそれを見ていた。
「おいおい、今こっち見てただろ。こら、おめぇだよ。ちょっとこっちこいや」
「やべ、見つかった……」

 ――昔からそうだった。引き篭もりの彼が珍しく外に出ると、決まってこういう輩に目を付けられる。

 魁地は自分が何故すぐに不良共に絡まれるのかと考えながら、彼らに向かって歩いた。そのふてぶてしい歩き方や近視で少し睨むような目つきがそうさせていることに彼自身は気付いていない。

 そして、魁地は素直に囲まれて、彼らと路地裏へ移動した。

「結局、俺は家にいても外にいても暗闇が似合っているってことなのかな」
「あぁ? 何一人でぶつぶつ言ってやがるんだ?」
「いや、こっちの話だよ。一々入ってくんな」

 魁地はこれもリハビリの一つと考えた。元々、格闘ゲーム界で神と呼ばれる彼は、仮想空間上のキャラクターを介した格闘スキルは右に出るものがいない。当然、それは現実の運動能力や精神力を掛け合わせた実際の格闘スキルとは異なるが、反則的なバグアビリティーを持った彼にとっては、現実の実戦もゲームと大差なかった。

 能力のお陰で無難に喧嘩をこなす彼ではあるが、正直なところ不公平なやり方で人を傷つけることを快くは思わず、そんなわけでいつしか外に出ることを避けて引き篭もるようになっていった。
 ゲームやネットの世界では、少なくとも物理的に人を傷つけることはない。そうやって、彼はそこに居場所を求め、いつしか求められるようになり、そこに甘んじることで惰性的に生きてきた。

 まぁしかし、向こうが求めるんじゃ仕方ないか……。

 この喧嘩が満足にいくようなら、この体でも完全なる日常を取り戻したと言える。彼はそれが自分の閾値になることに嫌気を感じながらも、判定手段としては悪くないと考えた。

「OK。で、誰からやられたいんだ? それとも全員いっぺんに来るか?」
「は? おい、お前自分の立場理解できてんのかよ。俺たちをなめてんじゃねぇぞ。今のうちに金出せば痛い目に遭わずに済むけどよ」

 男たちは輪になって魁地を囲む。その一人が魁地に近付き、滑らかな動きでポケットから黒い物体を出し、魁地の顎に突き当てた。魁地が目を寄せてそれに焦点を合わせると、骨董品のようなリボルバー式ハンドガンがそこにあった。他の男は完全に二人を取り囲んでいる。魁地は逃げ道をふさがれ、もう逃れられない構図だ。

「わぉ、それ本物? ゲームでしか見たことねぇよ、俺。弾丸を使った銃なんてまだ現存しているとはね。じつは縁日で買ってもらった玩具でしょ?」

 魁地がそう言いながら銃を指でピンと弾くと、ずしんと重厚な音が響く。それがプラスチックではなく金属であろうことは素人でも容易に理解できた。

「びびったか? こいつは本物だぜ。ふざけたことぬかしてっと、頭に風穴開けて海に沈めんぞ」
 銃を握る男の手はわずかにも震えることはなく、無駄な力みがない。
 慣れている。こいつは本気だと、魁地は直感した。

「はは、こりゃガチだね……お前らいかれてんだろ。こっちもマジでやんなきゃな」
「おいこら、調子に乗っ……ほぶっ?!」

 男は突然、魁地の前から姿を消した。彼が後ろに突き飛ばされたのだと周りの仲間が理解する前に、それはボーリングピンのように背後の二人をなぎ倒し、その輪を貫いた。

「な、なんだ?!」
 珍走団は一瞬のできごとに、何が起きたのかも分からず慌てふためく。ただ、さっきまで魁地の前にいたはずの仲間が今は後ろの壁まで飛ばされて意識を失っている。彼らにもその現実だけは理解できた。

「なな、何しやがるんだ!」
 輪の中心には、片足を真横に上げたままの魁地の姿があった。

「わぉ、ちょっと力入れて蹴っただけなのに、すっげぇ威力。さて、次は誰だ? 所業を悔い改めたい奴はどんどんかかって来いよ」

 男らは、お互い目を合わせて頷くと、一斉に魁地に飛び掛かった。代わる代わる、もしくは同時に拳を振りかざす男たち。しかし、魁地はそれを最小の動きでひらりひらりと避けていく。

「すげぇ、予知を使わなくても、余裕でかわせる」

 魁地はオペアの俊敏性に驚嘆した。ドゴッ! ――などと油断していると、一発もらってしまった。
「ごへっ?! しまった。まだ動きに誤差があるな……」

 これをチャンスとばかり、男たちは次々に魁地に拳を入れる。彼はその勢いに負け、壁際に追いやられる。壁を背にした彼は、逃れる路を失った。

「おらおら、どうする? もう逃げられねぇぞ!」
「へへっ、まいったねぇ」魁地は袖で鼻血を拭う。
 一番下っ端と思われる小さな男が背中のバッグを下ろす。それは妙に重量感があり、アスファルトに接するとガチャリと重々しい金属音が響いた。男たちはそこに手を突っ込み、巨大なナイフやレンチを取り出す。一人は意識を失っている仲間の所に行き、落ちていた銃を拾って戻ってくる。

「さて、こっちはこれで攻撃力アップだ。お前、どうする?」
 男はトリッガーを引くと、魁地に向かって銃身を向けた。銃口から魁地までは腕一本分ほどの距離だ。

「う~ん、さすがにそれには敵わないっすよ。お金でなんとか許してもらえません?」
 魁地はゆっくりとポケットに手を入れ、取り出したものを男の前に投げ捨てた。

 チャリンと響く軽々しい金属音。
 男が目線を魁地から外して地面に移すと、その視線が捉えたのは十円玉だった。

「てめぇ、なめてんのか!」
 男が目線を魁地に戻そうとした瞬間。銃を握るその右手が勢いよく弾かれた。まるで手榴弾が手の中で破裂したかのような強烈な力が、握っていた銃を高々と宙に舞わせる。

「なっ?!」男の視界に足を振り上げた魁地が映り込む。自分が右手を蹴り上げられたことに気付くまでには数秒を要した。彼の指は何本かが関節とは逆に折れ曲がっている。

「うぎゃぁーーー!」

 魁地は彼らを背にして振り返える。そして、壁に向かって走り出した。彼の進路が壁に達すると突然顔を空に向け、片足を振り上げてそのまま壁を蹴った。
 一歩、二歩、三歩。彼はまるで重力を無視するかのように壁を駆け上がり、三メートル程の高さに達すると首を返して壁を蹴り離す。横目で彼らの位置を確認すると、横捻りを加えて流れのまま高々とバックフリップを決めた。
 彼は空中を二回転すると、周囲を囲む暴走族の頭上を越え、彼らの背後に着地した。と、同時に、振り向き様の無防備な男を思い切り蹴り飛ばす。それは彼らにしてみれば一瞬の出来事。蹴られた男は壁に激突し、顔面を強打して崩れ落ちる。

「この、化け物が!」
 武器を手にした男たちが一斉に魁地に襲い掛かる。鳴り響く骨と肉の打音、そして叫び声が薄暗い路地裏に染みわたった。


 太陽が時間と共に這い上がり、熱を発し始めている。この時間にもなると、まだ朝とは言え人の数も増えてくる。静寂に包まれていたカメジマの表通りも通勤のサラリーマンや開店準備の店員で徐々に息を吹き返してきた。

「ちっ、糞野郎共のせいですっかり遅くなっちまった。やべっ、もう直ぐ二時間越えちゃうじゃん。これじゃ帰ったら霧生に怒られちゃうよ」
 魁地は無表情に自分の体を乗っ取る霧生の顔を思い浮かべ、ブルッと震えて足早に街を駆けた。
 と、その時だ。

「きょああぁ!」どぐぉっ!

 魁地が勢いよく角を曲がると、突然飛び出してきた小さな子供にぶつかった。その子は魁地の足で蹴飛ばされ、派手に転んで持っていた携帯端末が宙を舞った。

「あ、やべぇ!」
 プリーツスカートに赤色の羽根突きランドセル。その見た目は紛れもなく小学生の女の子だ。


 魁地は怪我でもさせたかと地面に転がる彼女に恐る恐る近付くと、無言ですっくと立ち上がった。特に泣いている様子もなく、魁地はほっとして足元に落ちている彼女の端末を拾い上げた。そこには見たこともないアプリケーションが起動しており、彼の知らない記号が有機的に動きながらモニター内を流れていた。

「ご、ごめん。怪我はないか? あの、これ落としたみたいだけど……」

 何のアプリか気になりつつも、魁地はそれを彼女に渡そうと手を出した。するとその子は端末を乱暴に取り上げ、魁地の襟元を掴み掛かった。

「何するっちゃ! よう周り見て走らんか。こんの、オタンチンがぁ!」
「うぐぇ、苦しい……なんなんだ? この口の悪い糞ガキは?!」

 魁地は慌ててその子を振りほどく。女の子は顔を赤くして魁地を睨みつけている。
 彼はそんな彼女を見て大きな違和感を感じた。

 彼女は透き通るような白い肌に青い目をした金髪の幼女で、欧米人の風貌ではある。が、ランドセルを背負って校章入りの白Tシャツを着た、典型的な日本の小学生というミスマッチ。

「ったく、誰なんだこの田舎っぺ小学生は!」
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