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六 起動
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六 起動
結浜がエレベーターのパネルを操作すると、途端に重力から開放された。扉上部のモニターに表示されている数字は二十から勢いよく下がり、やがてBが付加されて地下へと降りていく。そしてゆるやかに重力が戻り、エレベーターが静止した。
彼らはそこから先も核シェルターを彷彿させる分厚い金属壁に囲まれた通路を、幾重にも張られた大きなセキュリティードアを通過しながら進んでいった。そして、先を歩いていた結浜が通路の途中で不意に足を止めた。
「さぁ、ここが最後の扉だ。この中に我々バグズの管制室がある」
「えっ?」
結浜の指し示すそれは、これまでの大それたスライド式のセキュリティードアからすると拍子抜けしてしまうような何の気ないノブ式の扉だった。扉の中央にはラベルが差し込まれ、書庫と印字してある。
「あの……書庫、って書いてあるけど?」
結浜はドアノブを握って捻り、そのままもう一方の手で書庫とかかれたラベルをスライドさせるように撫でた。ラベルの印字が『PASS』に変化すると、ドアノブの奥からガチャガチャと機械音が聞こえ、最後にピッという電子音が鳴った。
その音を待ちわびたように、結浜がノブを握っていた手を回す。すると、ドアはエアポンプとモーター音を発しながら自動的に奥へと開いていく。その扉はまるで金庫のような十センチメートル程の分厚い金属板でできており、その外観とは裏腹に電子制御された完全防御扉であることが魁地にも理解できた。
「入りたまえ」
魁地は車椅子を霧生に押され、室中に入る。
内部は学校のバスケットコートほどの広さがあり、ロケット発射基地の管制室を思わせるような通信機器やワークステーションが重々しく立ち並んでいる。そしてそのさらに奥には通路があり、そこからいくつかの小部屋へと繋がっている。
「どうだい。ここがバグズの管制室だ。我々は主にここを拠点として活動している」
「いやいや、拠点は分かったけどよ。それよりも何よりも、バグズって何だよ?! ――ってとこからなんだけど。それに、霧生のこともまだ回答もらってねぇぞ」
「はっはっは、すまんすまん。じゃぁ霧生君、バグズのことを彼に簡単に説明しておいてくれ。私は学校での事故の後処理や、国防省の連中への説明で忙しいのでね。しばらく奥に篭ることになりそうだ」
「学校の事故? おい、おっさん。あれば事故じゃなくて事件だろうよ」
「いや、あれは事故だ。そういうことになる……と言うか、さっきからおっさんじゃないと言ってるだろ……やれやれ」
結浜はそう言うと、奥の通路へと歩いていった。そして魁地は彼言葉で自分の置かれている状況を少し理解した。
「そういうことになる、ってか……それを言うなら"する"だろ」
そして、魁地は霧生と二人きりになった。魁地は知らない間にセッティングされたお見合いのような空気に、息苦しさを覚える。こうして突然二人にされると何を話していいのやら、皆目検討がつかない。彼はあの日の放課後を思い出し、心が落ち着かない。
彼はとりあえず、"借りてきた猫"を貫こうと、霧生の言葉を待つことにした。
……。
…………。
………………。
「多綱くん」
ようやく沈黙が破られ、驚いた魁地は思わず緊張し、声が上ずる。「なな、なんだよ」
「私、霧生砂菜です。よろしく」
「あ、よろ……って。いやいや、それは知ってるけど」
冗談か? こいつなりの冗談なのか? この重い空気。どうしたら良いか分からない。
「それはよかったです。多綱くん、いつも私のことを見ていないようでしたので。いや、むしろ避けられていたような」
重く開ききらない目蓋にジッとりした黒い瞳。魁地は、彼女のそんな目と抑揚のない話し声が作り出す独特な空気に飲まれ、ますますどうしたらいいか分からない。
「いや、避けるとか、そんなことないよ、はは……」
今俺に必要なのはバグアビリティーとかそんなのじゃなく円滑なコミュニケーション能力だ。
思い出せ、一時期ハマった恋愛シミュレーションゲーム。
あれは完璧にマスターしたじゃないか。あれにもクールビューティーのつんでれ属性は何人もいた。女子の特性があれに従うなら完璧におとせるはず……って、いやいや、こいつをおとしたいわけじゃないし、そもそもゲーム通り行くわけないし、って、ああぁぁぁ、うちで引き篭もってネトゲーの続きやりてぇ。ネット民のオタク野郎共、あいつら元気にしてっかな?
いつの間にか現実逃避に泳ぎ出た魁地を、魚突きのごとく霧生の鋭い視線が突き捕らえる。
「まず、多綱くんの能力のことは転入前から知っていました。じつは最初の全診ですでに検知していたんです」
「えっ? でも、最初の全診のときだって異常なし、って結果で……実験区に拉致られたのは三回目の検診のときだぞ」
「全診については適用初期段階から良からぬ噂が流れていましたが、それは政府も予想していました。ご存知の通り、あれは健康診断などではなく、バグポテンシャルを検知するための検査です。多綱さんはかなり高いポテンシャルを有していたため、逃走の可能性を考え、あえて最初は異常なしと言って安心させ、受け入れの準備が整うまで泳がせておいたわけです」
「ははっ、俺はまんまとはめられたわけか」
「はい、多綱くんに能力があることは最初から分かっていましたが、実際の検査結果は衝撃的なものでしたので」
「衝撃? 俺なんて数秒先の予知と触った奴を麻痺させるくらいしかできねぇぞ。そんな大した能力じゃないだろ」
「……はぁ」
むっ、今こいつ、溜息漏らしただろ。その半分閉じたような目といい、ものすごく馬鹿にされている気がする。
「多綱くんは全く自分が理解できていないようですね。自身の能力の本当の効果を誤解していますし、そもそも一人で複数のバグアビリティーを保有したマルチバグなど、記録の上では世界を変えた伝説級の人間だけですよ」
「で、伝説級……って?」
「エジプトの神ホルス、それにイエスや仏陀、そして日本では――」
「あっ、もう、いいです。これ以上聞きたくない」
「とにかく、検査結果を見た私たちは騒然としました。危険だということで殺害案まで浮上したほどです」
「殺害? ……いっそ、そうしてくれりゃ良かったのにな……それに今回だって、こんな無理して生き返らせなくてもほっといて死なせた方が良かったんじゃないか?」
それは、彼にとって本音と冗談が入り混じった何気ない言葉。彼はその能力のせいで幼少からのトラウマに今も苛まれている。だから学校の事件のときも、正直なところ引き際としてちょうど良いとさえ思ったのは事実だ。
現実に居場所のない彼にとって、自分の命はその程度のものだった。だから彼は、それを冗談に乗せ、軽い気持ちで言ったつもりだった。
「あの、……そんなこと、言わないでください。私は、あなたに命を助けられたので」
彼はそのとき、珍しく霧生の目に潤いで満たされた悲しみのような感情を見た。それはこのシーンを描写しろと言われたイラストレーターを心底悩ませるであろう無感情で無表情なその目に薄く宿った、それでいてはっきりとした感情だった。
思わず釘付けになった。
魁地はそんな彼女の目を見ているうち、何故だか全身が麻痺し、自分の心を奪われそうな気がしてきた。
「あの……いや、冗談だよ。ごめん」
「いえ、謝るのは私の方です。私のせいで多綱くんはあんな目に遭ったわけですし、逆に命を助けていただきました。まだお礼を言えていませんでした」
霧生の顔が徐々に赤く染まっていく。彼女はそんなにしゃべるようなキャラではない。おそらく、勇気を振り絞って言葉を発しているに違いない。
「――本当に、ありがとうございます」
魁地の中に、霧生という人物ができあがった瞬間だった。もはや彼女は、クラスの端で暗闇に紛れているような女子生徒ではない。今、はっきりと彼女を感じることができる。
それは、彼にとっても不思議な感情だった。多少胸が小さく見えようとも、それは規格外の真理望を見慣れ過ぎているせいであって、彼女のそれは決して劣るものではなく、いやむしろ程良いというに相応しい。
彼の中で絶対権力を得ていた巨乳属性が崩壊し、境界の消失と領有の拡大を伴った人としての成長。
「オーケー、胸は関係ない。受け入れるよ」
「……はいっ?」
しまった。うっかり口に出してしまった。
「あぁ、なんでもない。こっちの話……ははっ。それより、説明を続けてくれよ。バグズってのは?」
「私たちの組織は、実験区で強力なバグアビリティーを発揮した人物を秘密裏に集めて作られました。いえ、むしろ実験区での研究はこの組織を作るためにあると言ってもいいです」
「で、バグズか……」安易だ。このセンスのなさ、おそらく結浜の趣味だろうと魁地は思った。そして、この後言われるであろう言葉を想像すると、背筋に悪寒が走るのだった。
……まぁ、いいや。今はとにかく、この状況を把握することに努めよう。
「大まかには理解したけど、組織とかは正直興味ないな。それより、体の動かし方教えてくれよ。このままじゃ鼻くそもほじれねぇし」
「分かりました。奥のトレーニングエリアに行きましょう」
霧生は魁地の車椅子を押してさらに奥の通路へと移動した。いくつかの自動扉を通り進むが、彼らの他に人の気配はなく、霧生の足音と車輪の摩擦音だけが響いている。
しかし、魁地がそんな静寂に慣れた矢先、向かいの扉から人影が現れた。
誰だ、一体。
――高まる鼓動。
柄にもなく緊張する自分に魁地は困惑する。現れたのは薄着でラフな格好をした長身の男。ノースリーブのシャツから出た彼の腕は野球選手のように太く、厚い胸板でシャツの布地がラップのように張り、屈強な肉体を誇示している。髪は自然な金髪で顔立ちは堀が深く、到底日本人には見えない。
彼はちらりと魁地を見ると眉間にしわを寄せ、不機嫌そうな表情で霧生に話しかける。
「おい、こいつが例のマルチバグか?」
「そう」
彼は「ちっ」と舌打ちすると、そのまま二人を背にして通り過ぎて行った。
「なんなんだ? 今の感じ悪い奴は」
「彼もバグズの仲間です。ああいう性格なので付き合い辛いですが」
付き合い辛い? 霧生が言うくらいだから筋金入りだろう。正直、俺はアイツに関わりたくない。
二人は正面の扉を抜ける。すると、これまでの狭い通路とは打って変わり、一気に視界が開けた。そこには体育館程の空間があり、一角には様々なトレーニング器具が並んでいる。そして学校の校庭にあったような、立体的に組まれた多様なフィールドが構築れていた。まるで大規模なアクション映画の撮影スタジオを彷彿させる光景だ。
「地下にこんな広い空間があるなんて……」魁地は驚きを隠せず、呆気に取られている。
「まずはリハビリに集中しましょう」
「お、ああ。で、この手はどうやったら動くんだよ」
魁地は腕を持ち上げるが、肘から先が動かない。そして足も動かない。わずかばかりの触覚だけがその存在を主張している。
「まず、その体について説明します。多綱くんの手足と胴体のおよそ半分、それに頭部の何割かは武装器内蔵式有機体機構強化内骨格で作られています」
「……はいっ?」魁地にはその言葉の一割も聞き取れなかった。
「ですから、武装器内蔵式有機体機構強化内骨格、です」
魁地は口を開けたまま霧生を見つめている。
「は、早口言葉?」
「ふざけないでください。ブソウキナイゾウシキユウキタイキコウキョウカナイコッカク、日本語が嫌なら、Organic Powered Endoskeleton with built-in Armsならどうでしょう」
「なんでさらに追い討ちをかけた!」
「私たちはそれを略してOPEA、オペアと呼んでいます」
「……オペア、ね。最初からそう言ってくれよ。で、そのオペアはどうやって動かすんだよ」
「多綱くんの持つ特殊な能力、バグアビリティーで動かします」
「能力ったって、俺ってこれを動かすような能力持ってないけど」
「さっきも言いましたが、多綱くんは自分のことを正確に理解できていないようです。言っておきますが、あなたは救世主と呼ばれる存在なんです」
「……はっ? な、なんの冗談?」
「冗談ではありません。私たちの調査では、多綱くんのバグアビリティーは確認できているだけでも三つ。予知(プレコグニション)、憑依(ナーブハッキング)、そして念力(テレキネシス)。他にもあるかもしれません。それぞれはまだ未熟ですが、通常、異能者が持つバグアビリティーは一つです。この宇宙でもバグが発生する確率はとても低いので、複数の能力を持つこと、マルチバグの発生は計算上考えられないんです。ですが、稀に彼らは存在する。そして、そのときは世界に変革が起きます」
寝耳に水とはこのことだ。魁地は背筋が凍るような思いがした。世界に変革だ? 朝起きたらいきなり総理大臣をやれと言われたようなもの。いや、それ以上だ。
「いやいや、俺にそんなのないよ」
「大丈夫です。そこまでは期待していません」
ずこっ、って。「あ、そっか……よかった」魁地はほっとした反面、何だか悔しさも感じることにこの世の不可思議を感じる。この矛盾もアーティファクトのバグか? なんてね。
「でも、多綱くんの能力は戦闘面で大きく発揮されます。私たちが多綱くんに期待しているのは本当です。そのためにも、そのオペアを完全にコントロールできるようにしなければいけません」
「戦闘? 期待? 誰と戦うってんだよ」
「色々です。学校を襲った奴らを覚えていますか? 異端審問官、魔女狩りと称して能力者を滅しようとするあのような非能力者の武装組織もありますし、もっと厄介なことに能力者による犯罪組織もあります。さらに、場合によっては神とも対峙しなければならないかもしれません。彼らの襲撃はこれまでも幾度となく発生していました。ですが政府は、非公開組織のバグズによってそれらを秘密裏に処理してきました。バグズは元々ホルスが中心となって結成した組織に端を発していて、拠点は世界中に存在します。ですから、政府は国連と共同し、同様の活動を世界規模で展開しています」
……聞かなければ良かった。こいつにしゃべらせると、一々話しの規模が世界規模へたすりゃ宇宙規模にまで発展しやがる。とにかく、早く体を動かせるようになって自由になりたい。あとのことはそれから考えよう。
彼は飛躍する話についていけず、とりあえず何も考えまいと考えた。
「オーケー、一旦飲み込む。で、どうしたらいい?」
「オペアで使う能力は主に憑依です。多綱くんはすでに使っています。先日の事件のときもそうでしたから。今からお見せします。じつは私も憑依者(ナーブハッカー)なんです」
霧生はそう言うと突然魁地の目の前に顔を寄せた。そして彼の頬に両手を当て、じっとその目を見つめた。濡れたガラス球のような美しい瞳子に彼が映り込み、黒でオーバーレイされた永遠の合わせ鏡を作り出す。彼はそのまま彼女の世界に吸い込まれそうな錯覚に陥った。
「へっ?! ……あの、き、霧生? どうしちゃったの?」
彼女は突然、魁地の薄い入院着を引き剥がした。その下はトランクスしか履いておらず、脂肪の少ない筋肉質な体が露になった。
「引き篭もりと聞いていましたが、意外に、筋肉質なんですね」
「なななななな、な、何を?!」
魁地は顔を真っ赤にして、思わず目を逸らした。すると霧生の両手の平は撫でるように頬から顎へと移動し、首を伝って彼の胸へと流れていく。敏感な皮膚から感じる彼女の手はとても滑らかで、彼の触覚に隠れたとある感帯を刺激する。
「う、うあぁぁ……ちょ、ちょっと、霧生さん……な、何やってんすか?!」
霧生は無表情のまま何も言わず、魁地の体から手を離そうとしない。
その手は彼の胸の先をゆっくりと撫でる。
その艶やかな刺激は魁地の脳髄にあらぬ快感を走らせ、彼を忘我の淵に追いやっていく。
「あふぅ、あふぅ」
霧生の手が背中に回ると、魁地に抱きつくような構図になった。胸に埋まる彼女の体温を感じ、心臓が空気を鳴らすほどにドラムを叩く。
霧生の手が再度正面に戻る。悶える魁地を無視し、その手は徐々に位置を下げていく。彼女は膝を折り曲げ、浮き出した魁地のシックスパックを一つ一つ確かめるように指を這わせた。そしてその手は彼の下半身へと向かう。
魁地は下腹部に這い付く霧生を上から見下ろす。大きめに開いたティーシャツの胸元から、彼女の小振りな胸を包む淡いブルーのブラが覗いている。感覚と視覚の相乗効果は、あまりの攻撃力で彼の煩悩を叩き出す。
「あうぅ、あ、霧生、何てことだよ。そこはあかんて、あかんてば!」
魁地の一角はゆったりとしたトランクスの布地を大いに押し上げる。彼女の手はその脇をさっくり掠めると臀部へと移り、ハムストリングを撫で回して足先へと送られた。
「は……はひゅぅ~……」と、頭から出る湯気を揺らし、しばし放心状態の魁地。茹蛸との区別がつかない状態。
「これで詳細スキャンが完了しました。多綱くんの神経系統は全て私のものです」
「――ほぇっ? ……どど、どゆこと?」
彼は何が起きているのか分からなかった。動かないはずの彼の手が、突然彼の意思とは関係なく動き出したのだ。体の前に突き出した手を握っては開く。霧生はそれをじっと見ているだけだが、魁地にもそれが彼女の意思で動いていることの察しはついた。
「あっ、痛てて、痛ててっ!」
魁地の右手は彼の頬をつねり始めた。そして左手は鼻の穴に指を入れる。
「ぎゃほっ、ちょ、ちょっと待った。やめろ、やめてくれぇ!」
突然両腕が下に垂れた。そして完全に動きを止めた。
「な、何すんだよ、霧生!」
「多綱くん、さっき変なこと考えましたよね。その罰、です」
魁地は絶句した。むしろどうやったら考えないで済んだのか教えてほしいものだと彼は思った。
「あ、いや、だって、あれはお前が突然あんなことするから、不可抗力だろ。それにブラ見せるのは反則だよ!」
霧生の顔が見る見る赤く染まっていった。少し開いた口先が震えている。
「ブラ……って、見たのですか? わ、私の……下着」
魁地は過ちに気付いた。どうやら余計なことを言ってしまったようだ。
「あっ……え~っと、それにはお気付きになっていなかったと?」
魁地は引きつった笑顔で霧生をなだめようとする。しかし、縦横無尽に襲い掛かる自分の腕で顔をぼこぼこに殴られた。
「ごふっごふっ、ご、ごめんなさい」
霧生は珍しく感情を顔に出し、分かり易く怒っている。普段見たことのない霧生。憤懣もここまで初々しく表現されると愛嬌すら感じる。魁地は慄きつつも人間味のある感情を見せる彼女に微笑ましさを感じた。
「次やったら命はないと思ってください」
「はぁはぁ、だからさ、見せたのそっちだろ……ってか、今の怒った霧生、いつもと違っててけっこう可愛かったぜ。普段はずっと無表情だったし」
それは事態を打破するため多少お世辞の意はあったものの、珍しく表情を見せた霧生に魅力を感じたのも事実だ。
そして、それを聞いた霧生の表情はどのカテゴリーにも属さないものへと変化した。
「な、なんですか? ふざけないで……ください」彼女は下を向いたまま真っ赤に燃え上がる。
魁地はまた自分の腕が襲ってくるのかと思い歯を食いしばったが、腕が動くことはなかった。霧生は口を尖らせて自分のスカートをパンパンと払っている。
「もう、お遊びはこれくらいにしましょう」霧生はそう言うと腰に手を当て、深呼吸をして落ち着きを取り戻した。
「ああ、悪かった。でさ、これってどうやって動かしたの?」
「憑依という能力は、正確に言うと神経伝導電位コントロールと言ったところです」
魁地は小難しそうな話に拒絶反応を示す。
「……なんだか、急に難しそうな話になったな」
「知っての通り、この世界のあらゆる現象はプログラムによって動いています。そして全ての物理現象はモデル関数に則ったパラメーターの授受で成立しています。私たちが有しているバグというのは、何らかの阻害因子によってそれらのパラメーターが変異し、物理現象に異常を与えるというものなんです。憑依の場合、神経系の電位特性変数に異常を発生させる『欠陥』があります。しかし、それも特性を理解してコントロールしてしまえば、『能力』ということになります。つまり、人の神経をハッキングして乗っ取ることが可能、ということです」
魁地は手で相手に触れることで、その部位を麻痺させることができた。しかし、その本当の能力は麻痺ではなくハッキングだったのだ。彼はその操作方法を知らなかっただけだ。
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魁地は動きを止めて大人しくぶら下がったその手足を眺める。見た目には戦闘用などと大それた機能があるようには思えない。
「まず耐久性ですが、その骨格はダイヤモンドよりも硬いロンズデーライトを骨質状に合成して作られています。そして筋肉は人間の五倍以上の出力が可能な人工筋繊維で作られています。武装ギミックが搭載されている腕や足は複雑な構造なので、多綱くんや私がコントロールできる変数の容量を大きく超えてしまうのです。そのため、ハッキングした伝達情報を有機回路型デコーダーで単純化させることで、脳に繋がる神経ポートを減らしています。デコーダーは多綱くんの頭にちょうどいい穴が開いていたので、そこから内部に埋め込んだとドクターが言っていました」
「……霧生先生、余計な情報はいいですよ。で、……つまり、どゆこと?」
「つまり、憑依能力で新しい神経回路を作るということです。まずは自分の電位特性変数がどこに割り当てられているかを認識する必要があります。他人の場合、肌で触れることでそれをある程度特定することができますが、多綱くんが動かすのは自分の体なので、両手両足に意識を集中すれば見えてくるはずです。さぁ」
「う~ん……そんな急に言われてもよぉ。どんな感じだよ」
「キラキラした星を集めて手や足を作る……感じ、です」
魁地は霧生の目を見る。純朴な光を放つその眼は、それが冗談だとは訴えない。どこまでが本気なのか、彼女を読むのは難しい。
「――聞くんじゃなかった。とりあえず、やってみる。キラキラ、ね」
魁地は目を瞑って手足の感覚を探った。やっぱりだ。正直、何もない。
いや、まてよ。彼は一見何もない中空に、まるで針灸の細い冷たいピンを刺されたような、痛覚とも温度感覚とも言えぬ微弱な刺激を見つけた。
魁地は一度その感覚を覚えると、次々に同じものを感じ取ることができた。それはまるで夜空の星のように点在し、それを星座のようにつないでいくと、そこに自分の手や足の存在を認識ことができた。
魁地は感じ得た点の集合体に、イメージで作り上げた自分の手を突っ込んで重ね合わせてみた。すると、その点が線となり、それがいくつも枝分かれして自分の体幹に引き込まれ、そのまま脳に飛び込んでくるのが分かった。そしてそこには、これまでよりもはっきりとした触覚や痛覚、温度感覚が生まれていった。
魁地は目を開く。すると、そこには今まで動かせなかったのが嘘のように、自由に動く手や足がある。
「うおぉっ! すげぇ、動かせるぞ」魁地は手足をばたつかせ、夢中でそれを動かす。
「おいしょっ!」そして彼は腕を振り上げ、思い切り立ち上がった。
「多綱くん、急に立ち上がるのは危険――」
魁地は前に歩き出そうとしたが、予想していた動きと感覚に微妙なずれがあり、踏み出した足がもつれて前のめりにバランスを崩した。
「あぶないっ!」
霧生が魁地の体を支えようと咄嗟に正面に回る。魁地は衝突を裂けようとするが、思うように体をコントロールできず、そのまま霧生を押し倒し、二人はそのまま地面に臥した。
「ううぅ、霧生、ご、ごめん……うぇっ?!」
魁地は仰向けになった霧生の胸元に顔をうずめている。さらにまずいことに彼の左手の平は彼女の皿のような右胸に乗っている。お互いの脚が絡み合い、彼の内腿に霧生の細いがそれでいて柔らかな太腿の感触が伝わる。ある意味最高で、本当の意味で最悪の状況がそこにあった。
「あ、あ、あわわわ」魁地は事の重大さに動揺する。動こうとするが、気持ちが乱れてうまく体を操作できない。こんな恋愛シミュレーションゲームばりのイベントが起こるはずない、と彼は現実から目を背けようとするが、手の中の薄い膨らみは柔らかにその存在を主張し続ける。
「ううぅ……」霧生は背中を床で強打した痛みで息が止まり、目を瞑ったまま動けない。徐々に呼吸が戻り、その目をゆっくりと開く。と、そこには在らぬ事態が勃発しているわけで。
「えっ、な、なにを……?!」
霧生は自分の身に起きていることが信じられなかった。シャツははだけてめくれ上がり、へそまで露になっている。何よりそんな自分の上には魁地がゼロ距離で乗っかり、胸にはこれまで感じたことのない温かい刺激が渦巻いている。
「きゃぁぁぁ!」
かつて本人さえ聞いたことがないであろうボリュームで彼女の声が鳴り響く。
「ごごごご、ご、ごめんっ!!!」と突っ伏していた魁地は必死に腕を伸ばして体を持ち上げ、体を引き離そうとする。しかし、テンパってコントロールを失った彼の手は、思いとは裏腹に彼女の胸をぐいっと鷲掴みにしてしまった。
「あぁんっ……!」
それはこれまで単調だった霧生の声からはかつて想像もできないような、あまりに美しい旋律だった。くすぐるように絡みつくその甘い響きが、魁地の脳内を何度も駆け巡る。
霧生は目を閉じたまま胸から溢れ出す快感と羞恥が入り混じった未開の感覚に耐え、少し開いた口元からこぼれ出しそうな声を必死になって飲み込んでいる。
魁地の理性は目の前の事態を理解できず、しばらくそのまま動けなかった。しかし、濁った脳が徐々に透明度を増してくると、その鼓動は彼の頬を叩き、奥まった理性が再度現実とリンクした。そこには霧生のマウントポジションをとる自分の姿がある。
「どどど、どっせぇ~!」
魁地は飛び出しそうな心臓を必死で押し戻し、上手く動かせない手足を必死にばたつかせながら、彼女の上から逃げ出した。そして両手を床に置き、何べんも頭を床に叩きつけた。
「本当にごめんなさい! 本当にごめんなさい!」ゴスッ、ゴスッ、ゴスッ。
霧生が乱れた服を直し、髪を撫でながらゆっくりと起き上がる。彼女は頬を透き通った桃のようにピンク色に燃やし、口をきゅっと結んで湧き上がる何かの感情を抑えつけている。彼女はかつて感じたことのない胸の高鳴りに動揺し、魁地に対して怒ることも忘れていた。
「だ、だから、危ないって、言ったんです。次から、気を付けて下さい……」
霧生は震える声でそう言うと、魁地から目を逸らすように横を向いて、特に汚れてはいないスカートを手でパンパンと叩き、ない埃を落とす。
魁地は動揺した。彼はてっきり、思い切り怒られて先程のように憑依されてボコボコにやられると覚悟していたので、霧生の予想外の反応に驚いた。
「あの、怒って……ない?」
魁地は困惑した。彼女の感情を読み取ることができない。
「……まぁ、事故をとやかく言ってもしょうがない、ですから。そんなことより、早くリハビリを続けましょう。多綱くんを動かせるようにするのが私の命題ですので。あと、多綱くんはまだオペアの動作特性を掴みきれてないんですから、急に立ち上がったりしないでください。とても危険ですので」
「あ、うん。分かった。ほんと、ごめん」
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「いいです。それより早く始めましょう。まずは日常生活を取り戻すことが大事、です」
「わかった! よぉっし、がんばるぞぉ!!」ガタタッ!
魁地は気まずい空気を吹き飛ばしてみようと、とりあえず声を張り上げて飛び上がってみたが、うまく体が動かずまたもや転んだ。
「っつ~!」
「――だから、何度言えば分かるんですか。また同じことをやろうとする気じゃないですよね……っまったく、もう」
霧生は口を尖らせツンと表情を固めているが、その目には少し笑みが混じっている。魁地には、少なくともそう感じられた。
「はははっ、いやぁ~まいったな。先生、ヨロシクお願いします……」
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