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第四章 魔女の結末、狼の結末

4-4.結末の咆哮

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 ──太陽が西の空へ沈んだのは午後九時近く。
 遅い宵の訪れと共に夕食と湯浴みを済ませ、漆黒の夜着を纏ったネーベルはいつも通り食卓で読書を楽しんでいた。
 レモンバームにローズマリーをブレンドしたフレッシュハーブティーの華やかでありながら爽やかな香りが空間全体を包んでいる。まさに至福のひとときだが、ネーベルは外の様子をやけに気にしていた。

 不思議な事に今夜は狼がよく吠える。
 こんなに喧しいと読書に集中出来ない。本を閉じたネーベルは窓辺に歩み寄り、夜の森を見渡した。

(本当、何だろう……)

 これでもう同じ動作を数回繰り返しているが、特に変わった事も無い。
 再び読書を始めようとした矢先だった。家の扉をゴツゴツと叩く音が響き渡る。ネーベルは慌てて本を閉じた。

 一体何だろう。こんな時間に誰かが訪ねて来るなんて事もまずあり得ない。それに、この家を知る者もクレメンスとラルフくらいだ。ラルフは帰った筈。クレメンスだってとっくに王都に帰っているだろう。
 次第にドアを叩く音は、体当たりでもされているような強いものへと変わり果て、ネーベルは台所からフライパンを持ち出し、その音の正体に身構えた。

 その時だった。バタンとドアは荒々しく開き、訪れた者の姿にネーベルは唖然とする。 

 ──狼だ。しかし、それは普通の狼よりもひと周り以上も大きい。
 艶やかな赤銅しゃくどうの毛に包まれており、その姿は恐ろしさを通り越して美しい。まるで神話で見るフェンリルのよう。魔獣や神獣の類とでも呼んで良い程の獰猛どうもうさと神々しさを双方持ち合わせるなりをしていた。

 美しい。だが恐ろしい。臆したネーベルは、一歩二歩と後退りをする。

 しかし、狼はクンと鼻を鳴らして悲しげに鳴くものだから、ネーベルはフライパンを置いて、憶しつつも巨大な狼をジッと見つめた。

 ──艶やかな赤銅しゃくどう。この色は当然見覚えがあった。それに鋭く釣り上がった目付きを彩る柘榴石ガーネットの瞳にだって既視感がある。それに加え、開きっぱなしの扉の向こうには五匹の群れが大人しく座り、この狼を恐れ敬うように見ていた。
 もしかして……。ネーベルはこの狼の正体をようやく理解した。

「ラルフ……なの?」

 慄き震えた声でネーベルはく。すると、狼はコクリと頷いて、ネーベルに腹にすり寄った。

「どうしたのこんな時間に。その姿は……」

 思えば、今日は夏至に程近い満月だ。だから彼が狼の姿になれたのだと分かる。初めて目の当たりにした彼の本来の姿にネーベルは驚嘆を隠せない。
 片や彼は何も答える事も無く、ズカズカと部屋に入り込み衣紋掛けに吊されたローブとドレスを銜えネーベルの元に戻ってきた。

「ローブに着替えろって……?」

 けば、彼は首を縦に振る。
 意図は全く理解が出来ない。恐らく今は人の言葉も喋れないのだろう。ネーベルは仕方なく夜着を脱いで、黒のドレスに袖を通す。ローブまで纏うと、彼は棚の上に置かれた商売道具の入った鞄を銜えてやってきた。
 その矢先だった。外に居る狼達は一斉に遠吠えを初め、次々に獰猛どうもうな唸り声を上げる。

 ──何事だろうか。ネーベルは、靴を履いて家の入り口から外をそっと覗く。すると、幾つもの橙色の明かりの群れが見える。恐らく松明の炎か……。それに男達の怒号に混じって犬の鳴き声が幾つも聞こえてくる。ネーベルは瞬く間に青ざめた。

「何、なの……」

 何が起きているのだろう。果たして自分は何かやましい事をしたか。悪い事をしたか。そう思うが分からない。否や、全く身に覚えが無い。だが、本能的に「ここに居ては危険」だと分かる。
 やがて怒号は鮮明になり──『異端の魔女を捕らえよ』『侯爵様を殺害した悪しき魔女を捕らえよ』と確かにそう言った。

「どういう事よ……」

 何で。どうして。と、ネーベルは青ざめた顔をラルフに向ける。
 しかし、狼と化した彼は何も答える事は無い。それでも、ネーベルのローブの裾を引っ張って『急げ』と言わんばかりに外に出るよう促した。

 大事なものは殆ど鞄の中。それでも一つだけ──ネーベルは食卓に積まれた本の中から慌てて臙脂色えんじいろの古書を掴み取った。最後のページにはラルフから貰った大事な手紙がある。それを大事に抱えて、ネーベルはラルフと共に森の奥へ走り始めた。



 湖を越え、白樺林を越えて……。
 ネーベルは狼と化したラルフの後を追って暗い森を走っていた。
 家を出てから走りっぱなしだ。既にネーベルは玉のような汗をかいて息を切らしていた。
 苦しい。胸が裂けそうな程に痛かった。やがて足は縺れ、ネーベルは木の根につまずき転倒した。

 倒れた途端に鼻腔いっぱいに青々とした夏草の匂いが充満する。このまま倒れたまま眠ってしまいたくもなった。もう走りたくなかった。
 けれど、早く立たなくては。逃げなければ……。

 きっと、話して解決するような問題でもない。全くの無罪。だから逃げろと、ラルフがこの姿になって助けに来たのだと分かる。

(立たなくちゃ……)

 自分を鼓舞してネーベルは立ち上がろうとした。しかし、足は立つ事を拒んだ。立ち上がろうとすれば、足首からは鮮烈な痛みが突き抜ける。折れてはいないだろうが、確実に捻ってしまった。
 立てない。どうしよう……。涙がじんわりと滲んでくるが、泣いていたってどうにもならない事は理解出来る。

「どうしよう、ごめんなさい……足を挫いちゃったみたい」

 地面に蹲ったまま。今にも泣きそうな声でネーベルはラルフに詫びた。すると、彼は、ネーベルのローブの袖を噛んで自分の背へと回した。

「掴まれって事?」

 やはり意思疎通がままならない事がもどかしい。だが、それであっていたのだろう。彼はネーベルの方を向いてコクリと頷いた。
 言われるがまま、ネーベルは彼の背に身を預ける。するとラルフは立ち上がり、ネーベルを引きずってすぐ傍に流れる沢へと下った。 
 次第に人の怒号と犬の鳴き声が近づいて来る事が分かる。五匹の狼が犬を払っているのだろうか……。唸り声と共に、草に転がる音が静謐せいひつな森に響いていた。
 もう捕まるのも時間の問題だ。容易く悟って、ネーベルはラルフに視線を向ける。

「ラルフ逃げて」

 私はいいから。と、嗚咽混じりに言えば、彼はネーベルの頬をペロリと舐める。そしてジッとネーベルを愛おしげに見つめると、頬に顔を摺り合わせた。
『馬鹿、逃げれるかよ』と、あの軽妙な口調でそう言っているような気がしてきた。しかし、このままではきっと彼にまで害を来す。そうこうしているうちに、人の気配が直ぐそこまで近付いて来た事が分かった。

「逃げてよ、お願いだから……」

 縋るように言うが、彼は動きやしなかった。それどころか、背を向けてネーベルを守るように立ち塞がったのだ。赤銅しゃくどうの気が逆立つ。獰猛どうもうそのものの唸り声を上げ、彼は牙を剥き出した。

 ……しかし、どうしてこんな事になっているかも分からない。

 侯爵様を殺しただの、そんな事は全くもって身に覚えが無い。明らかな冤罪で言いがかりだ。しかし、異端の自分の話なんて誰も聞きもしないと分かる。

「ラルフ。お願いだから、お願いだから、逃げてよ……」

 立ち塞がるラルフにネーベルは今一度言ったと同時だった。
 月明かりに照らされた〝何か〟がキラリ光ったのを見た。その須臾しゅゆ──風を切ってネーベルの前をそれは横切った。一拍も経たぬうち、劈く程の断末魔の咆哮が響き渡った。
 そして、また一つ、また一つ……と、彼の巨躯に〝何か〟が突き刺さる。

 ──嘘のような光景だった。
 彼の身体には無数の矢が突き刺さっている。牙を剥きだして彼は唸るが、痛みでまともに動く事も出来ないのだろう。巨躯を震わせて喘ぐようにラルフは息をして藻掻き始めた。

「嫌っ……嫌ぁあ、ラルフ!」

 大事に抱き締めていた本と鞄を投げ捨てて。ネーベルは一心不乱にラルフに突き刺さった矢を引き抜いた。
 確か狩人に毒を欲しいと最近依頼された事もあった。それを思い出したネーベルは、ラルフの傷口に口を付けて毒を吸い出そうと試みる。
 口をつけた傷口は、鉄の味に混じってまた別の苦みがある。それだけで毒が塗られている事を悟るのは一瞬で……ネーベルは泣き喚きながら毒を吸っては吐き出した。
『人狼を仕留めたぞ!』『魔女を見つけた!』と、外野で騒ぎ立てる男達の声もするが、ネーベルはそれを気に止めやしなかった。

「ラルフ、しっかりして! ラルフ……ねぇラルフ!」

 彼の背を撫でてネーベルは泣き叫ぶ。すると、浅く息を吐き出した赤銅しゃくどうの獣は瞬く間に人の姿に戻った。
 ──タイを緩めて着崩された白のシャツは、月明かりの下、赤々と染まっていた。噎せ返る程の血の臭いが鼻をつく。呼吸も浅く、どう見たって致命傷だ。薬学の知識があるネーベルでも、とても助かるように見えなかった。

「ごめんなネーベル……俺、お前を守れなかった」

 言葉を発する都度に赤黒い血を吐き出して、消え入りそうな声で「愛している」と囁いて。彼は釣り上がった柘榴石ガーネットの瞳を伏せた。
 霧の魔女の悲痛な慟哭どうこくは夜の森に響き渡る。
 それから間もなくして。駆けつけた猟師達にネーベルは捕らわれた。
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