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第三章 滅びた小国と魔女の記憶

3-6.幸せな黄昏

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 コトコトと鍋の煮立つ音がする。それに促され、瞼をゆっくり持ち上げたネーベルは途端に喉の違和感と、身体の後引く気怠さを覚えた。
 しかし、良い匂いが漂っている。ネーベルはスンと鼻を鳴らした後、ゆったり起き上がろうとするが、下肢の力が抜けてしまって起き上がる事が出来ない。

 ネーベルはシーツに顔を突っ伏せて、今朝の出来事を一つずつ思い出す。

 彼に名前を教えた。それから、食事よりお前が食いたいと迫られ初めての行為をして……あんなにも甘えてしまった。行為が終わった後も、二人微睡んで何度も口付けを交わして……。緻密に思い出せば思い出す程に羞恥が爆発してしまいそうだった。

「あああああ……」

 気の抜けた声でネーベルは呻いた。
 最後までしてしまった。罪深い快楽を覚えて、ラルフの精を胎内で受け止めてしまった。それも離さないと言わんばかりに脚を絡めて。午前も午前、朝の明るみの下で……。
 あれは夢見心地名出来事のように思えるが、この気怠さは間違いなく夢でない。全てが現実だ。どんな顔をしてラルフに顔を向けたら良いか……ネーベルはシーツに顔面を擦りつけて小刻みに震えた。

「おお、起きたか。元気そうだな」

 相変わらず軽妙で、しれっとした口調に目をやると、ラルフはがに股歩きで寄って来た。

「今はもう夕刻だ。台所、使わせてもらったからな。夕飯を作っておいたから動けそうになったら食っておけ」

 そう告げると彼はベッドに腰掛けて、ネーベルを仰向けにさせて、片腕で優しく起こし上げる。顔だって見られるのも恥ずかしいのに、怠くて動けないのだから拒む事さえも出来ない。堪らずにネーベルが視線を逸らすと、彼はネーベルの頬に唇を寄せた。

「お前、本当……可愛かったわ」

 余韻に浸る彼は、幸せそのものの面持ちでネーベルを見つめている。

「あ、あまり思い出さないで……」

 ふるふると頭を振り顔に登った熱を払い、ネーベルは目を細めた。
 それから消え入りそうな声で「夕飯ありがとう」とラルフに告げた。
 よくよく見れば、自分の纏う衣類も夜着に変わっており、身体はさっぱりしており、情事の残滓も感じない。間違いなく彼が全ての後処理をして整えてくれたのだろう。
 彼に目もくれず、もう一度ネーベルが礼を述べると、ラルフはワシャワシャとネーベルの二色の髪を乱暴に撫でた。

「ああ、あとこれ」

 そう言って、窓際に手を伸ばした彼は、御守アムレットのペンダントと摘まむ。

「大事なものだしな、紛失したら困るだろ?」

 留め具を外し、ネーベルの首に装着すると、これでよし。と言わんばかりに彼は満足そうにネーベルを見つめる。
 しかし、一つ疑問に思う。彼は貴族だ。食事など作れるのだろうかと──。
 不安そうに竈に目をやると、それに気付いたのかラルフはヘラリと笑んだ。

「あー飯は使用人の見様見真似で最低限くらいは作れるが、味は保証しねぇかならな?」

 へへ。と、鼻を鳴らして、どこか照れくさそうに彼は言う。
 意地悪だが彼は優しい。幸せ過ぎる。本当に自分がこんなに幸せで良いのだろうか……。
 少しだけそんな感情が沸き立って、ネーベルは彼の方をジッと見つめた。

「異端の魔女の私が、こんなに幸せでいいのかしらね……」

 ぽろりと本心を漏らせば、彼は目を丸く開いてきょとんととしたおもてになる。

「それは、俺だって同じだろ? いいじゃねぇのか?」

 確かにラルフとは同類だ。しれっと最もな事を言われてしまえば、何だか面白くなってきて、笑い声が漏れてしまった。

「それもそうよね……ありがとうラルフ」

 彼の方に身を委ねると、彼は先程とは違う優しい手つきでネーベルの髪をくように撫で始めた。

「……こうしてネーベルと関係を持った事は、父さんにも言わないとだしな。腹はもう括ってるんだ。準備が出来き次第、城から出ると伝えてくる」

 自分に言い聞かせるよう。今一度「しっかりと伝える」と彼は言う。
 毅然と言っているが、どうにも表情が冴えない。やはり不安もあるのだろうか。
 ネーベルは心配そうに見つめるが──『お前は何一つ心配するな』と、笑われてしまった。要らぬ心配だろうか。本人がそういうのならば、信じる他は無い。

「でもラルフは私なんかと一緒で本当に良いの?」

 ポツリとそんな事を呟けば、ラルフは中指を折り曲げてネーベルの額をピンと弾く。

「それはこっちの台詞だろ。先代の弟子とか言う随分若作りな王宮専属魔道士のオッサンが俺を訪ねてきてな? ネーベルを頼むって言われたんだよ?」

 ──確か名前は……クレメシーとか言ったっけ。と、ラルフは間違ったクレメンスの名を出す。それを指摘し正しい名を言えば「そうそう」と、彼は無邪気に笑む。

「……クレメンス様、ラルフの所に行ったのね」

 しかし、あの美しき大魔道士クレメンスをオッサンと……。彼の事だ。無礼な事を言ったのではないのか危惧してしまう。

「お前、何か俺に下世話な心配してねぇか?」

 流石に察したのだろうか。ラルフは、やや不機嫌に言って、目を細めてネーベルを睨む。

「心配するわよ。だって貴方って結構思った事を平気でズケズケ言うじゃない」

 思ったままをハッキリ述べると、彼は目を丸くした後に豪快に笑い飛ばした。

「褒めてくれるとは光栄だ」

 いや別に褒めていないが……。しかし、こうも屈託の無い笑顔を向けられると、釣られて自然と笑んでしまう。

「それで……クレメンス様は何時、貴方の所に来たの?」

 果たしてどんな話をしたのか。気になって尋ねると、ラルフは少し考えるようなそぶりをした。

「確か、三日くらい前だったか。あのオッサンが俺の事を人狼だと宣告しただかで。その件で謝ってきたな。で、ネーベルの事を幾らか聞いたよ。そいで、お前を本当に愛してるならば頼むって」

 良い父さんに巡り合ったな。と、付け足添えて。ラルフは朗らかに笑んだ。
 その言葉にネーベルはジンと胸の奥が熱くなりくすぐったくなった。
 クレメンスの事を父のように思った事なんて無い。実年齢は中年だが、あの美貌だ。その上、王宮専属魔道士と立派な身分を得ているので恐れ多すぎる。しかし、彼は自分の事を娘のように思っていたのだと分かると、なんだか照れてつつも嬉しく思ってしまう。
 感極まって、涙が滲みそうになった。それを悟られぬよう、ネーベルは俯いて頷いた。

「そういう事だ。俺はそろそろ城に戻る。明日また報告に来る」

 まぁ平気だろ。と、告げて直ぐ。ラルフはネーベルの唇を啄んで、森を後にした。



 ラルフが去った後、ネーベルはのろのろと動き出す。
 怠いとは言え、やはり腹は減っていた。何せ朝から何も食べおらず、爛れた行為の後に死んだように眠っていたのだ。
 折角食事を作ってくれたのだから食べた方が良いだろう。
 ネーベルは気怠い身体を引き擦って、台所へと向かう。

 この良い匂いの正体は竈の方から。そこには未だ湯気の立ち込める鍋があり、そっと覗くと、随分と乱雑に切られた根菜と香草で彩られたスープが入っていた。
 男の料理。しかも、調理とは無関係な貴族の子息の作ったもの。見栄えは決して良いとは言えないだろう。それでもネーベルは、味見……と、台所に吊された木製のスプーンでスープをすくって口に運ぶ。

「ん、美味しい」

 少しばかり塩気が強いが、味は自分が調理したものとはまるで違う美味しさがあった。
 それからスープを器によそり、パンと水を用意して……。ネーベルは一人晩餐を始める。
 けれど、あまりに空腹だったので平らげるのは早かった。
 食器をひとまとめに水桶に入れて。今度はスパイスと果物で漬けた葡萄酒を用意して、微量を鍋に移して火にかける。

 スパイス漬けの温かい葡萄酒──グリューワインは身体の弱りを感じた時の滋養供給に良い。一般的に厳しい寒さの冬期に飲まれるが、それでも、怠いときは決まってコレだ。

 明日はしっかりと洗濯をして、街に降りなくてはいけない。
 ネーベルは鍋を見つめながら、葡萄酒が煮立つのを待った。
 それから、ものの数分。煮立った葡萄酒をカップに移しネーベルは再び食卓に着く。
 カップを両手に持ち、ふぅと息を吹きかけて熱々のグリューワインを一口だけ口に含んだ。鼻腔を通り抜ける芳醇な葡萄の香り。それからシナモンやスターアニスのピリッとした刺激的な味わいが喉の奥に染みこむ。

(やっぱり怠い時はコレに限るわね……)

 心で独りごちたと同時。ふとテーブルの片隅に臙脂色えんじいろの古ぼけた本が置かれている事に今更のように気が付いた。

 ──間違いなく、先日読み切ったばかりの淫らな本だ。

 あの後、本棚に戻した筈なのに。ラルフに見られたのだろうか……。今日は気遣ってくれたが、後日弄られそうな気がしてきた。こういう事を想像したかと、厭らしいなんて言われそうな気がしてしまう。それに彼の事だ。そのまま淫らな事に繋がり兼ねない。
 ネーベルは慌てて本棚に戻そうとするが、何かが挟まっている事に気が付いた。何だろう……。神妙な面持ちを浮かべて、ネーベルはそれを引き抜く。

 挟まれた物は二つ折りにされた羊皮紙だった。
 恐る恐る開くと、決して上手とは言えない乱雑な筆跡でこのように記されている。

『愛する霧の魔女ネーベルへ。異端の俺達だってきっとこんな未来が切り開ける筈だ』

 名前こそ書いていないが、間違いなく彼だろう。ラルフを思い浮かべたネーベルは柔らかに笑んで、手紙を本の最後のページに挟んだ。
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