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第二章 始まる逢瀬
2-5.王宮専属魔道士
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日没前にラルフは城へ戻って行った。
一人になったネーベルは夕飯の仕度もせずに、本を片手に毒の抽出を試みていた。
特殊な薬品を溶媒して抽出──と作業は少しばかり厄介だった。だが、思ったよりもすんなりと抽出出来たもので、完全に陽が落ちた頃には毒液は呆気なく完成した。
初めての試みだからこそ、自信は無い。当然だが流石に試す事なんて出来やしない。けれど、恐らく大丈夫だろう。全く駄目だったと文句を言われなければ良いが……。ネーベルは抽出した液体を茶色の小瓶に流し込んだ。
その後、夕飯を食べて湯浴みを済ませた後、ネーベルはバッグの中にしまいこんだ手紙を取り出した。
ベッドの上に腰掛けて恐る恐る封を切る。取り出した羊皮紙には宛名同様に癖の無い綺麗な字でこのような事が綴られていた。
『多忙な日々を過ごしてますが、そちらは元気にやっていますか? 休暇が取れそうなので近々そちらに赴きます』……と、たったそれだけしか記されていなかったのだ。
占術で現在を見透かされた訳では無い。それを知ってネーベルは胸を撫で下ろす。
だが、現状がクレメンスに割れてしまえば、本当にどうしたら良いのだろうか。息が詰まりそうになり、ネーベルは立ち上がり湯を沸かし始めた。
(落ち着かなきゃ駄目ね。寝る前に好きなお茶でも飲みながら読書でもしましょう……)
もはや考える事が億劫になってきた。きっと未だクレメンスが来るまでに時間にも猶予ある。きっと、平気だろう。そう自分に言い聞かせて、茶器の準備をしたネーベルは本棚に手を伸ばした。
手にした本は、少し前に買ったもの。全く読まずに置きっ放しにしていたものだった。
マーケットの古本屋で買ったのだから、当然のように年季が入って小汚い。それでも、何となく題名に惹かれてしまったのだ。
「氷雪の巫女は愛を占う」
巫女、占う。と、単語も気になった上、何となく素敵な恋愛小説だろうと惹かれただけだった。全く読まずに本棚の肥やしになっていたが……。
食卓の椅子に座したネーベルはカップを片手に持ちつつ臙脂色の表紙を捲った。
──非現実的な冒険記に、素敵な恋愛の話、古くから伝わる神話、それに馬鹿馬鹿しい程に下らない話。本ならば、割と何でも好きだった。だが、その本は、ネーベルが読んだ事も無い内容が濃密に切々と綴られていたのである。
初めこそは恋愛物語かと思っていたものだが……。
「だめです恥ずかしいです……そんな事。彼のいきり勃つ欲望に彼女は甘い……」
思わず一文を読んでしまい、ネーベルは真っ赤になって絶句した。
展開を重ねる毎に熱情の烈しさが増してきたのだ。
「な……なんて本よ」
ネーベルはプルプルと震えつつ、冷めてしまったハーブティーを一口だけ口に含む。
……恋愛物語で男女の行為のあるシーンは読んだ事があった。
けれど、ここまで露骨な描写は初めて見ただろう。ネーベルは落ち着きなく、部屋をキョロキョロと見渡した。
一人ぼっちの生活だ。別に誰かに見ている訳でもない。それでも、何だか気恥ずかしい気持ちに追いやられ、ネーベルは挙動不審になってしまう。
もう夜は更けた頃合いだろう。早朝に届け物もある。それに近々クレメンスが訪れるのだから、念入りに家の掃除もしなくてはならない。いい加減眠るべきだろうが、如何せん物語の続きが気になる。
厭らしいシーンはさておき、物語自体は面白いのだ。厭らしいシーンも興味が無いと言えば、嘘になるが……。ネーベルは、おどおどと本を手に取った。
「あと、少しだけ読んだら寝ましょう……」
そう、自分に言い聞かせて。ネーベルは読書を続けた。
──物語の主要となる娘は、北方の狩猟民族の巫女。その者は神秘の加護を持つ……と、少しばかりネーベルに近しい設定だった。
彼女は、国王にたいそう気に入られ、直属の占術士になる。その美しさと聡明さから息子である王子の花嫁として娶られた。だが、王子はぶっきらぼうな性格なのに執着心は激しく、愛の暴走の果てに巫女は無残に処女を散らされてしまう。けれど、段々と彼の優しさを知り、惹かれ始め愛し合うそんな物語だった。
そこには男の欲望の熱さに硬さ、処女を散らされた時の痛みなどが細やかに綴られており、ネーベルは顔を真っ赤にして、次から次へとページを捲っていく。
どことなくではあるが、娘と王子とのやりとりがまるで、自分とラルフのように見えてしまい、続きが気になってしまったのだ。
分かる……と、共感出来る部分もあれば、流石にこれは淫ら過ぎて恥ずかしい。そんな風に思えてしまうもので、ネーベルはおっかなびっくり次々とページを捲った。
……当然全部を読み切ろうなんて思ってもいなかったのに、気付けばネーベルは読破していた。
硝子窓の外はもう薄明るい。完全に徹夜だった。
今から眠れば、寝過ごして猟師を待たせてしまうだろう……否や、不思議な程に眠気が無く、ネーベルは印象に残ったページを再び開く。
そのシーンは、巫女が「自分は薄気味悪い」と言った場面だ。
──神秘の加護を持ち、幻視で人の心を見透かす事が出来てしまう。いくら娶られたとは言え、身分にだって違う。悩み吐露した巫女に王子は『まるで別の生き物のように言うな』と言った場面である。
まるで、白昼夢のよう。全く同じ事を言われたネーベルは呆然とその一文を幾度も読み返してしまった。
物語の最後、二人は結ばれ子供に恵まれた幸せな結末で締め括られていた。
妙に自分とラルフばかりが重なってしまう。つまり、ラルフの望む理想とはこういった事だろうか……そう思えてしまい、ネーベルは顔を真っ赤染めて昨日の朝を思い出す。
──腹の奥まで埋め込んで、最果てに子種を植え付けたい。と、とてつもなく淫靡な事を言われたが、彼が間違いなくそう望んでいるに違いない。
いずれ流されるようにそうなるのだろうか。潜在的に思えてしまうが……やはり物語と現実は違うだろう。
(そうよね……私は巫女程尊い存在ではない。白魔女とは言え、忌まれた魔女よ)
自分で思って、途端に胸が苦しくなった。やがて視界は曇り、ネーベルの瞳から水流が生まれた。大粒の涙はハタハタと黄ばんだ項の上に垂れ落ちて、染みを広げる。
「……っ、どうして、どうして……私は異端者なの。どうして私は霧の魔女なのかしら……お祖母様だって私だって民の為に尽くしているに、どうして忌まれるの」
そしてネーベルは、物語中で王子が巫女の名を叫ぶ部分を指でなぞった。
「私もラルフに名前を呼ばれたいわ……でも、でも……」
これを破ってしまえば、全てが終わってしまいそうな気がする。
──それでも、名で呼ばれたい。キスをもっとされたい。彼の傍に寄り添いたい……この気持ちをちゃんと伝えたい。
しかし、それは祖母やクレメンスを裏切る事となる。そもそも異端者同士。幸せな結末など考えられぬもので、未来なんかちっとも見えなかった。
「誰かを好きになるってこんなに辛いのね……」
──どうしたら良いかも分からない。ネーベルは一頻り声を上げて泣いた。
深くローブのフードをかぶってしまえば、その表情は誰にも分からない。
口元しか露出しておらず視界は悪く困る事も多いが、今日ばかりはネーベルもこれが正装で本当に良かったと感じてしまった。
あれだけ泣いたのだから、目は赤々と腫れてしまい、たとえ顔を見知る者だとしても誰にも見せたくない程に酷い顔をしている自覚はあった。
霧煙る朝の森の先には昨日の猟師は待っていた。
そして毒液の瓶を彼に渡すと、金貨の入った袋を渡される。しかし、それは思いもしない程に重たくズッシリと詰まっていて、ネーベルはここまで多く貰う事を躊躇った。
『金貨は三枚もあれば良い』と、言ったが、男は『受け取って欲しい』と礼を言い、有無を言わせずその場を去った。
今までかつて、こんなに報酬を受け取った事も無い。これだけあれば半年、否や一年近く暮らせてしまうだろう……。確かに、初めての試みではあるが、別に大した事もしていない気が引けてしまう。けれど、厚意であれば受け取らぬ方が礼儀知らずだ。ネーベルは有り難く鞄の中に報酬を入れた。
それから、いつも通りにネーベルはマーケットへと向かった。未だ朝も早いが、朝市で賑わっており、多くの人が行き交っていた。
そんな時、擦れ違い様に『霧の魔女を朝から見るなんて不吉』『夕方にでも来て貰いたいね』と婦人の会話がネーベルの耳に鮮明に届いた。しかし、こういった罵りは割とよく聞くものだから、いい加減に慣れていた。そう……慣れていた筈だったが、ネーベルは途方もなく悲しく思い唇を噛んだ。
……白魔女として、どんなに民に尽くそうが変わる事も無い謂われない差別。普通の人間でも無いのだから区別とも説く事は出来る。だが、それにも関わらず今日も今日とて幾らか簡素な依頼をやってくる。
誰も自分を愛さない。誰も自分を認めない。誰も自分を人と思わない……。
当たり前の事を思えば思う都度、胸の内に靄がかかって覆い尽くす。
祖母はよく耐えられたものだとネーベルは今更ながら思った。
ここまで、蔑まれるのならば、呪う事を専門にした黒魔女に成ってしまえば良かったのに。なんて思えてしまう。
そんな重たい気持ちを抱えつつ、パン屋に、果物屋、それから肉屋……と、立ち寄って買い物を済ませたネーベルは森に向かって踵を返した。
それから程なくして、ネーベルは森に踏み入った。
獣道に沿って帰路を歩むネーベルの背後から、自分を呼ぶ声が響く。懐かしい声だ。
そんな、まさか。いくら何でも早すぎではないだろうか。
ネーベルがフードを脱いで慌てて振り返ると、そこにはローブのフードを深々とかぶった長身な男の姿が映る。
「ク……クレメンス様?!」
案の定、祖母の弟子クレメンスだった。
手紙が届いて、二日か三日ほどの来訪となると思っていたのに……いくら何でも早すぎる。ネーベルは、目を丸くして唖然としてしまった。
「手紙は届いていただろう?」
何をそんなに驚くのか。と、言わんばかりにクレメンスは笑みつつフードを取り払った。
──神秘的な銀色の長い髪に紫水晶の瞳。鼻梁は通っており、ラルフと歳も変わらなそうな優しげな面の青年。その素顔を見ると、懐かしさが込み上げた。
クレメンスは、均整の取れた顔立ちを綻ばせて『久しぶり』と言って微笑んだ。
詳しい歳なんて聞いた事も無いが、彼はネーベルの倍以上も生きている。しかし、どういった訳か、ネーベルよりも少し上、ラルフとそう変わらない年齢の見た目を保ち続けている。彼はネーベルが幼少の時から何も変わらない。これが魔術を極めた存在の成れの果てとでも言うのだろうか……。ネーベルは呆然と彼を見上げ唇を開く。
「ええ、でも手紙は昨日受け取って……」
「何だって。ああ、でも思い当たる節が……。数日前ヴァレンウルムの都市の方では大雨が降ったからね。その影響もあるかも知れないね」
それじゃあ、驚くのも無理無いね。と、おどけて言うクレメンスは言う
「しかし、ネーベル。本当に美しくなったね……まるで恋をしているみたいだ」
──恋をしているみたいだ。その言葉はネーベルの胸に痛い程に突き刺さった。
しかし、そんな事は無い。と、直ぐに反論出来ない。これは完全に見透かしているだろう。そう確信して、ネーベルは生唾を飲み込んだ。
「こんな場所で喋っていても仕方ない。何か話があるのだろう? 家へ行こう」
そう言ってクレメンスはネーベルの肩を叩くと先に歩み始めた。
家に着き、食卓の椅子に腰掛けたクレメンスは『さぁ座りなさい』と、ネーベルを向かいに座る事を促した。
──やはり、これは自分を占って輪郭を見たのだろう。
ネーベルは荷物を置いた後、向かいの椅子へと腰掛ける。
「幻視で見られたのですか。私が掟を破ってしまい、ラルフと関係を築いた事を……」
視線を合わす事も出来ず、ネーベルは震えた声で言う。すると、何の事かと言わんばかりにクレメンスは素っ頓興な声を上げた。
違うのか。と、なれば自白してしまった事となる。ネーベルは恐る恐るクレメンスに目をやると、彼は紫水晶の瞳を瞠っていた。
「え、僕は……その。比喩や冗談のつもりで言ったんだけど、え? それは本当かい?」
この様子からして本当に知らなかったのだろう。しかし、クレメンスは面食らった顔を優しいものに変えてクスクスと笑い出すだけだった。
一方、対面でそれを見ていたネーベルは、クレメンスの顔を眺めたまま呆然としていた。
しかし、何故怒らないのか。何故咎めないのか。……そんな風に思えて、ネーベルは神妙な面持ちに変えた。
「確かにドルテ様の定めた君への掟だからね。しかし、知っているかいネーベル?」
クレメンスはテーブルに頬杖をついて、麗しい見た目にそぐわない無邪気な笑みを見せる。
「掟とは言っても絶対はない。破ってしまう事があるものだよ。確かにドルテ様に厳しく言われて来ただろうが、僕は君の師ではない。咎める筋合いは無いんだ」
それを言い終えて、クレメンスは今度は綺麗な笑顔を見せた。
「ですが……」
「いいと思うよ、君も年頃だしね。結婚をした魔女も子を産んだ魔女も勿論この世の中には沢山いる。君程の才能があれば、純潔を失ったからと言って星の導きを聞き出す事が出来なくなるとは考えられないしね」
それを聞いて、ネーベルの頬はたちまち真っ赤に染まる。まさか尊敬するクレメンスからそんな言葉を言われるとは思いもしなかったのだ。
「しかし、ラルフって。まさか侯爵家の次男坊?」
訊かれてネーベルが頷くと、クレメンスはどこか懐かしむように優しく笑む。
「そうか。懐かしいね……」
「待って、クレメンス様……彼を知っているの?」
ようやく言葉を出したネーベルは、不審そうに小首を傾げた。
「ああ勿論だよ。かれこれ二十年以上も昔に遡るけれどね」
少しだけ物憂げな面持ちで、懐かしむようにクレメンスは答えた。
そして瞳を伏せると──
「だって、僕が彼を〝狼の加護を受けた強き者〟と見破り、伝えてしまったからね」
まるで罪を告白するよう。クレメンスは消え入りそうな声で告げた。
一人になったネーベルは夕飯の仕度もせずに、本を片手に毒の抽出を試みていた。
特殊な薬品を溶媒して抽出──と作業は少しばかり厄介だった。だが、思ったよりもすんなりと抽出出来たもので、完全に陽が落ちた頃には毒液は呆気なく完成した。
初めての試みだからこそ、自信は無い。当然だが流石に試す事なんて出来やしない。けれど、恐らく大丈夫だろう。全く駄目だったと文句を言われなければ良いが……。ネーベルは抽出した液体を茶色の小瓶に流し込んだ。
その後、夕飯を食べて湯浴みを済ませた後、ネーベルはバッグの中にしまいこんだ手紙を取り出した。
ベッドの上に腰掛けて恐る恐る封を切る。取り出した羊皮紙には宛名同様に癖の無い綺麗な字でこのような事が綴られていた。
『多忙な日々を過ごしてますが、そちらは元気にやっていますか? 休暇が取れそうなので近々そちらに赴きます』……と、たったそれだけしか記されていなかったのだ。
占術で現在を見透かされた訳では無い。それを知ってネーベルは胸を撫で下ろす。
だが、現状がクレメンスに割れてしまえば、本当にどうしたら良いのだろうか。息が詰まりそうになり、ネーベルは立ち上がり湯を沸かし始めた。
(落ち着かなきゃ駄目ね。寝る前に好きなお茶でも飲みながら読書でもしましょう……)
もはや考える事が億劫になってきた。きっと未だクレメンスが来るまでに時間にも猶予ある。きっと、平気だろう。そう自分に言い聞かせて、茶器の準備をしたネーベルは本棚に手を伸ばした。
手にした本は、少し前に買ったもの。全く読まずに置きっ放しにしていたものだった。
マーケットの古本屋で買ったのだから、当然のように年季が入って小汚い。それでも、何となく題名に惹かれてしまったのだ。
「氷雪の巫女は愛を占う」
巫女、占う。と、単語も気になった上、何となく素敵な恋愛小説だろうと惹かれただけだった。全く読まずに本棚の肥やしになっていたが……。
食卓の椅子に座したネーベルはカップを片手に持ちつつ臙脂色の表紙を捲った。
──非現実的な冒険記に、素敵な恋愛の話、古くから伝わる神話、それに馬鹿馬鹿しい程に下らない話。本ならば、割と何でも好きだった。だが、その本は、ネーベルが読んだ事も無い内容が濃密に切々と綴られていたのである。
初めこそは恋愛物語かと思っていたものだが……。
「だめです恥ずかしいです……そんな事。彼のいきり勃つ欲望に彼女は甘い……」
思わず一文を読んでしまい、ネーベルは真っ赤になって絶句した。
展開を重ねる毎に熱情の烈しさが増してきたのだ。
「な……なんて本よ」
ネーベルはプルプルと震えつつ、冷めてしまったハーブティーを一口だけ口に含む。
……恋愛物語で男女の行為のあるシーンは読んだ事があった。
けれど、ここまで露骨な描写は初めて見ただろう。ネーベルは落ち着きなく、部屋をキョロキョロと見渡した。
一人ぼっちの生活だ。別に誰かに見ている訳でもない。それでも、何だか気恥ずかしい気持ちに追いやられ、ネーベルは挙動不審になってしまう。
もう夜は更けた頃合いだろう。早朝に届け物もある。それに近々クレメンスが訪れるのだから、念入りに家の掃除もしなくてはならない。いい加減眠るべきだろうが、如何せん物語の続きが気になる。
厭らしいシーンはさておき、物語自体は面白いのだ。厭らしいシーンも興味が無いと言えば、嘘になるが……。ネーベルは、おどおどと本を手に取った。
「あと、少しだけ読んだら寝ましょう……」
そう、自分に言い聞かせて。ネーベルは読書を続けた。
──物語の主要となる娘は、北方の狩猟民族の巫女。その者は神秘の加護を持つ……と、少しばかりネーベルに近しい設定だった。
彼女は、国王にたいそう気に入られ、直属の占術士になる。その美しさと聡明さから息子である王子の花嫁として娶られた。だが、王子はぶっきらぼうな性格なのに執着心は激しく、愛の暴走の果てに巫女は無残に処女を散らされてしまう。けれど、段々と彼の優しさを知り、惹かれ始め愛し合うそんな物語だった。
そこには男の欲望の熱さに硬さ、処女を散らされた時の痛みなどが細やかに綴られており、ネーベルは顔を真っ赤にして、次から次へとページを捲っていく。
どことなくではあるが、娘と王子とのやりとりがまるで、自分とラルフのように見えてしまい、続きが気になってしまったのだ。
分かる……と、共感出来る部分もあれば、流石にこれは淫ら過ぎて恥ずかしい。そんな風に思えてしまうもので、ネーベルはおっかなびっくり次々とページを捲った。
……当然全部を読み切ろうなんて思ってもいなかったのに、気付けばネーベルは読破していた。
硝子窓の外はもう薄明るい。完全に徹夜だった。
今から眠れば、寝過ごして猟師を待たせてしまうだろう……否や、不思議な程に眠気が無く、ネーベルは印象に残ったページを再び開く。
そのシーンは、巫女が「自分は薄気味悪い」と言った場面だ。
──神秘の加護を持ち、幻視で人の心を見透かす事が出来てしまう。いくら娶られたとは言え、身分にだって違う。悩み吐露した巫女に王子は『まるで別の生き物のように言うな』と言った場面である。
まるで、白昼夢のよう。全く同じ事を言われたネーベルは呆然とその一文を幾度も読み返してしまった。
物語の最後、二人は結ばれ子供に恵まれた幸せな結末で締め括られていた。
妙に自分とラルフばかりが重なってしまう。つまり、ラルフの望む理想とはこういった事だろうか……そう思えてしまい、ネーベルは顔を真っ赤染めて昨日の朝を思い出す。
──腹の奥まで埋め込んで、最果てに子種を植え付けたい。と、とてつもなく淫靡な事を言われたが、彼が間違いなくそう望んでいるに違いない。
いずれ流されるようにそうなるのだろうか。潜在的に思えてしまうが……やはり物語と現実は違うだろう。
(そうよね……私は巫女程尊い存在ではない。白魔女とは言え、忌まれた魔女よ)
自分で思って、途端に胸が苦しくなった。やがて視界は曇り、ネーベルの瞳から水流が生まれた。大粒の涙はハタハタと黄ばんだ項の上に垂れ落ちて、染みを広げる。
「……っ、どうして、どうして……私は異端者なの。どうして私は霧の魔女なのかしら……お祖母様だって私だって民の為に尽くしているに、どうして忌まれるの」
そしてネーベルは、物語中で王子が巫女の名を叫ぶ部分を指でなぞった。
「私もラルフに名前を呼ばれたいわ……でも、でも……」
これを破ってしまえば、全てが終わってしまいそうな気がする。
──それでも、名で呼ばれたい。キスをもっとされたい。彼の傍に寄り添いたい……この気持ちをちゃんと伝えたい。
しかし、それは祖母やクレメンスを裏切る事となる。そもそも異端者同士。幸せな結末など考えられぬもので、未来なんかちっとも見えなかった。
「誰かを好きになるってこんなに辛いのね……」
──どうしたら良いかも分からない。ネーベルは一頻り声を上げて泣いた。
深くローブのフードをかぶってしまえば、その表情は誰にも分からない。
口元しか露出しておらず視界は悪く困る事も多いが、今日ばかりはネーベルもこれが正装で本当に良かったと感じてしまった。
あれだけ泣いたのだから、目は赤々と腫れてしまい、たとえ顔を見知る者だとしても誰にも見せたくない程に酷い顔をしている自覚はあった。
霧煙る朝の森の先には昨日の猟師は待っていた。
そして毒液の瓶を彼に渡すと、金貨の入った袋を渡される。しかし、それは思いもしない程に重たくズッシリと詰まっていて、ネーベルはここまで多く貰う事を躊躇った。
『金貨は三枚もあれば良い』と、言ったが、男は『受け取って欲しい』と礼を言い、有無を言わせずその場を去った。
今までかつて、こんなに報酬を受け取った事も無い。これだけあれば半年、否や一年近く暮らせてしまうだろう……。確かに、初めての試みではあるが、別に大した事もしていない気が引けてしまう。けれど、厚意であれば受け取らぬ方が礼儀知らずだ。ネーベルは有り難く鞄の中に報酬を入れた。
それから、いつも通りにネーベルはマーケットへと向かった。未だ朝も早いが、朝市で賑わっており、多くの人が行き交っていた。
そんな時、擦れ違い様に『霧の魔女を朝から見るなんて不吉』『夕方にでも来て貰いたいね』と婦人の会話がネーベルの耳に鮮明に届いた。しかし、こういった罵りは割とよく聞くものだから、いい加減に慣れていた。そう……慣れていた筈だったが、ネーベルは途方もなく悲しく思い唇を噛んだ。
……白魔女として、どんなに民に尽くそうが変わる事も無い謂われない差別。普通の人間でも無いのだから区別とも説く事は出来る。だが、それにも関わらず今日も今日とて幾らか簡素な依頼をやってくる。
誰も自分を愛さない。誰も自分を認めない。誰も自分を人と思わない……。
当たり前の事を思えば思う都度、胸の内に靄がかかって覆い尽くす。
祖母はよく耐えられたものだとネーベルは今更ながら思った。
ここまで、蔑まれるのならば、呪う事を専門にした黒魔女に成ってしまえば良かったのに。なんて思えてしまう。
そんな重たい気持ちを抱えつつ、パン屋に、果物屋、それから肉屋……と、立ち寄って買い物を済ませたネーベルは森に向かって踵を返した。
それから程なくして、ネーベルは森に踏み入った。
獣道に沿って帰路を歩むネーベルの背後から、自分を呼ぶ声が響く。懐かしい声だ。
そんな、まさか。いくら何でも早すぎではないだろうか。
ネーベルがフードを脱いで慌てて振り返ると、そこにはローブのフードを深々とかぶった長身な男の姿が映る。
「ク……クレメンス様?!」
案の定、祖母の弟子クレメンスだった。
手紙が届いて、二日か三日ほどの来訪となると思っていたのに……いくら何でも早すぎる。ネーベルは、目を丸くして唖然としてしまった。
「手紙は届いていただろう?」
何をそんなに驚くのか。と、言わんばかりにクレメンスは笑みつつフードを取り払った。
──神秘的な銀色の長い髪に紫水晶の瞳。鼻梁は通っており、ラルフと歳も変わらなそうな優しげな面の青年。その素顔を見ると、懐かしさが込み上げた。
クレメンスは、均整の取れた顔立ちを綻ばせて『久しぶり』と言って微笑んだ。
詳しい歳なんて聞いた事も無いが、彼はネーベルの倍以上も生きている。しかし、どういった訳か、ネーベルよりも少し上、ラルフとそう変わらない年齢の見た目を保ち続けている。彼はネーベルが幼少の時から何も変わらない。これが魔術を極めた存在の成れの果てとでも言うのだろうか……。ネーベルは呆然と彼を見上げ唇を開く。
「ええ、でも手紙は昨日受け取って……」
「何だって。ああ、でも思い当たる節が……。数日前ヴァレンウルムの都市の方では大雨が降ったからね。その影響もあるかも知れないね」
それじゃあ、驚くのも無理無いね。と、おどけて言うクレメンスは言う
「しかし、ネーベル。本当に美しくなったね……まるで恋をしているみたいだ」
──恋をしているみたいだ。その言葉はネーベルの胸に痛い程に突き刺さった。
しかし、そんな事は無い。と、直ぐに反論出来ない。これは完全に見透かしているだろう。そう確信して、ネーベルは生唾を飲み込んだ。
「こんな場所で喋っていても仕方ない。何か話があるのだろう? 家へ行こう」
そう言ってクレメンスはネーベルの肩を叩くと先に歩み始めた。
家に着き、食卓の椅子に腰掛けたクレメンスは『さぁ座りなさい』と、ネーベルを向かいに座る事を促した。
──やはり、これは自分を占って輪郭を見たのだろう。
ネーベルは荷物を置いた後、向かいの椅子へと腰掛ける。
「幻視で見られたのですか。私が掟を破ってしまい、ラルフと関係を築いた事を……」
視線を合わす事も出来ず、ネーベルは震えた声で言う。すると、何の事かと言わんばかりにクレメンスは素っ頓興な声を上げた。
違うのか。と、なれば自白してしまった事となる。ネーベルは恐る恐るクレメンスに目をやると、彼は紫水晶の瞳を瞠っていた。
「え、僕は……その。比喩や冗談のつもりで言ったんだけど、え? それは本当かい?」
この様子からして本当に知らなかったのだろう。しかし、クレメンスは面食らった顔を優しいものに変えてクスクスと笑い出すだけだった。
一方、対面でそれを見ていたネーベルは、クレメンスの顔を眺めたまま呆然としていた。
しかし、何故怒らないのか。何故咎めないのか。……そんな風に思えて、ネーベルは神妙な面持ちに変えた。
「確かにドルテ様の定めた君への掟だからね。しかし、知っているかいネーベル?」
クレメンスはテーブルに頬杖をついて、麗しい見た目にそぐわない無邪気な笑みを見せる。
「掟とは言っても絶対はない。破ってしまう事があるものだよ。確かにドルテ様に厳しく言われて来ただろうが、僕は君の師ではない。咎める筋合いは無いんだ」
それを言い終えて、クレメンスは今度は綺麗な笑顔を見せた。
「ですが……」
「いいと思うよ、君も年頃だしね。結婚をした魔女も子を産んだ魔女も勿論この世の中には沢山いる。君程の才能があれば、純潔を失ったからと言って星の導きを聞き出す事が出来なくなるとは考えられないしね」
それを聞いて、ネーベルの頬はたちまち真っ赤に染まる。まさか尊敬するクレメンスからそんな言葉を言われるとは思いもしなかったのだ。
「しかし、ラルフって。まさか侯爵家の次男坊?」
訊かれてネーベルが頷くと、クレメンスはどこか懐かしむように優しく笑む。
「そうか。懐かしいね……」
「待って、クレメンス様……彼を知っているの?」
ようやく言葉を出したネーベルは、不審そうに小首を傾げた。
「ああ勿論だよ。かれこれ二十年以上も昔に遡るけれどね」
少しだけ物憂げな面持ちで、懐かしむようにクレメンスは答えた。
そして瞳を伏せると──
「だって、僕が彼を〝狼の加護を受けた強き者〟と見破り、伝えてしまったからね」
まるで罪を告白するよう。クレメンスは消え入りそうな声で告げた。
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ファンタジー
書籍化確定です。詳細はしばらくお待ちください(o´-ω-)o)ペコッ
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。
優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。
やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。
記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。
【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ
2024/12/26……書籍化確定、公表
2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位
2023/12/19……番外編完結
2023/12/11……本編完結(番外編、12/12)
2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位
2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」
2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位
2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位
2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位
2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位
2023/08/14……連載開始
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