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第一章 信じ難い依頼
1-5.一日限りの優しい夢
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城を出る迄の時間は短かったが、ネーベルには幽玄のような時間に感じてしまった。
忙しなく晩餐の給仕に働く数人の使用人と通路を擦れ違ったが、誰もが変装したネーベルを怪しむ事は無かった。やはり領主の城だ。来客も頻繁にあり、さしずめ近隣の領主の娘が遊びに来たと思っているのだろうと、ルーカスは言う。
それから、ラルフの栗毛色の馬に乗せられて、夜の街を横切り北方へ。
馬に乗ったのは初めてだった。当然緊張したが、割とその時間はあっという間に過ぎ去ってしまった。
そして、今現在は森の入り口間近までやってきた。
「乗馬は初めてとか言っていたが、全く問題は無かったな」
「腰がとてもふわふわします……」
思ったままを口に出すと、ラルフは声を出して笑う。
「初めてにしちゃ上出来だ。それに、その格好じゃとても霧の魔女には見えないな」
馬をゆっくりと歩かせて、振り向いた彼はネーベルを見下ろした。
それもそうだろう。着替えが終わった後に、ベルタに姿見を見せてもらったが、今の姿は、まるで別人のように自分でも思ってしまった程だった。
「しかし、女にここまで熱烈な抱擁をされたのは流石に初めてだから何だか嬉しいな」
ラルフはポツリと呟いて、今度はどこか狡猾な笑みを浮かべて見下ろしてくる。
ネーベル当人でさえ、示唆されたからそうしていただけであって全く意識なんてしていなかった。
「あ、あ……」
不覚だった。
乗馬中とは言え、今現在の体勢を理解すると、顔面に火がついてしまいそうな程に熱くなる。ネーベルは、彼の腰に回した腕を緩めようとするが──
「馬鹿、落ちるから降りる迄はしがみついてろ」
と、より荒い口調で示唆した。
確かに彼の言う事は一理あるだろう。
街灯も無い暗闇の中でも、足元を見ればその高さはよく分かる。熱烈な抱擁という部分が腑に落ちないが、危険を納得したネーベルは素直に彼の腰にしっかりと腕を回した。
「で、霧の魔女の家はどこなんだ?」
明かりも無い侘しい道で馬を止め、彼はネーベルに尋ねながら辺りを見渡す。
目の前には青々と茂る針葉樹の森が広がっているだけだ。
空は晴れて月が出ているが、満月でも無いのだから光は頼りない。森の奥は黒い闇が不気味に渦巻いていた。
(確か……この先少しに、家まで近道出来る獣道があったわね)
暗くとも、普段の感覚のお陰で現在の位置をネーベルは充分に把握出来た。
「この辺りで下ろしてください」
ネーベルはラルフの上衣の裾を僅かに引っ張る。すると、彼は馬を止めて振り向いた。
「ここからすぐなのか?」
「家はこれより未だ先ですが、森には狼が居るのでこの辺りで結構です。狼はとても警戒心が強いので馬を見て襲うかも知れません」
「いや待て。狼が居るのに平気なのか?」
やや驚嘆した調子でラルフは切り返す。
しかし、何を驚いているのかネーベルには理解出来なかった。恐らく、狼に襲われないのかと危惧したのだろうか。
「近隣の群れは大丈夫です。皆、私を森の住人のうちの一人だとでも認識してるので、襲いかかってくる事はまずありません」
ネーベルは事実をサラリと述べると、ラルフはポカンと唇を開き二回三回と瞬きをした。
「おい。普通、魔女の使い魔の定番は烏か黒猫じゃないのか?」
黒い動物が定番だとてっきり思っていた。そんな風に付け添えて、彼が動揺する。それが何だか滑稽に思えて、ネーベルは思わず笑いそうになってしまった。
「使い魔なんていませんよ。魔女の使い魔は物語の中だけじゃないでしょうか。でも、私は烏も猫も狼も動物はみんな大好きですよ」
言葉に出せば、笑いが溢れてしまった。そもそも、人狼王子が狼を危険と言い、襲われる事を危惧する事を可笑しく思えてしまったのだ。
「お前さ。笑った顔、可愛いんだな」
鼻から抜けるような、少し意地悪な笑いを含めて彼は言った。
しかし可愛いだの言われても、やはり分からない。再び心の底が擽ったくなり、ネーベルはすぐに視線を反らし俯いた。
「まぁ、レーゲンが食われちまったら困るからな。ならば、ここで下ろすか」
「レーゲン?」
レーゲン……つまり雨。霧を意味する自分の名前とほんの少し似ている。そう思って、ネーベルは小首を傾げてラルフを見る。
「ああ、こいつの名前。俺の愛馬だ」
言って彼は掴んでいた手綱をネーベルにそっと手渡した。
「レーゲンは賢くて大人しい。大丈夫だ」
そうして彼は軽々と馬から下りて、ネーベルに向かい両腕を広げる。
「肩に手を回せ。大丈夫だ。俺が抱えて下ろしてやる」
……つまり、抱き下ろしてくれるのだろう。
それが分かって羞恥が込み上げる。けれど乗馬中はずっと、しがみついていたのだから今更だろう。ネーベルはラルフの言葉に従って、彼の肩に腕を回した。
受け止められた後、ふわりと地面に下ろされてラルフはすぐに解放してくれた。
そして、彼の愛馬レーゲンの方を見る。レーゲンは手綱は握られていなくとも微動だにしないまま。まるで銅像のようにジッと大人しくしていた。
「本当……賢い子ね。ありがとう、レーゲン」
ネーベルはレーゲンの顔の前に歩み寄り、頭を優しく撫でる。すると、嬉しそうに頬を寄せネーベルの頬をぺろりと舐めた。
「この子は男の子? 女の子?」
自分と同じで気象の名前。なんとなく興味を持ってネーベルが訊けば「雌だ」と、ラルフは直ぐに答えた。
「貴女とても綺麗な名前を貰ったのね。良い子ね、本当にありがとう」
とても美人ね。なんて、褒めてあげれば、またも嬉しそうに彼女は頬を寄せてネーベルに甘えた。
「おい。俺、こいつの顔の前に立って髪の毛を食まれた事もあるし蹴られそうになった事もあるが……下手すりゃ俺より懐いていないか」
一方、当の飼い主はどこか腑に落ちない声色でそんな事を呟いた。
「ラルフ様もありがとうございます」
経緯はどうであれ、ここまで送り届けてくれた事にネーベルは素直に礼を述べた。
「いいや、俺の勝手で面倒な事になって悪かった」
確かに、全てそうだっただろう。それでも、過ぎた事を悔やんでも仕方ない。今日の出来事は人生のうちの小さな失態であったのだろうとネーベルは思い正した。
「掟を破ってしまった罪悪感は沢山で、天に召された祖母に叱られそうです。ですが、ラルフ様に普通の娘のように扱ってもらって……少しだけ楽しかったです」
もう会う事も無いだろう。と、思えたから、ネーベルは本音を彼に素直に伝えた。
「なら良かった」
鋭い犬歯を覗かせて、ラルフはヘラリと笑む。やはり狡猾で意地悪な雰囲気を感じるものの、どこか憎めないと思えてしまう。
明日の朝、陽が昇れば異端の魔女として今までと何一つ変わらない一日が始まるだけ。これは彼が見せてくれた一日限りの素敵な夢……。そうとしかネーベルにも考えられなかった。
今後、彼に会う事が仮にあったとしても、素顔を晒す事など金輪際無い。たとえ、彼がどんなに自分に好意を抱こうが、絶対に結ばれる事も無い。
身分差が最もだろうが、そもそも出会って一日も経っていない。彼が自分自身を好きだと言っても、ネーベル自身は当然のように彼に熱情など持ち合わせていない。
──恋とはお互いを知り惹かれ合うもの。
本に書かれていた言葉を思い出すが、顔だけではなく名前さえ教えてはいけない。ネーベルは自分にはやはり関係の無い事だと、一人心の中で納得した。
「そういえば、お前の名前を聞いて無いな、これから何と呼べばいい?」
ラルフはネーベルを見下ろしてポツリと言う。
その言葉にネーベルの面持ちはたちまち曇った。
他人ではない、知り合いにはなったが今日一日だけだと思っていた。これでは、また会う事が前提のよう。ネーベルは複雑な気持ちが交差した。
同じく異端だ。無断で外出を許されない彼が、誰かに自分の名を言う事も少ないだろうと想像出来た。だから、伝えた所で問題は無いだろうと理解出来る。
けれど、未だ守れている掟だ。それに、明日から再び霧の魔女として生きる事を考えているからこそ、己の名は言える筈も無かった。
「……ごめんなさい。それは答えられません」
沈黙の果てに、ネーベルは出した答えは拒否だった。
「そうか、ならば魔女でいいか」
特別落ち込んだ様子でもなく、平坦な声色でラルフは言う。
「それで構いません……それでは、さようならラルフ様」
彼に向き合ってネーベルが僅かに微笑みそう伝えて早々だった──
「さよならじゃねぇよ」
低く、どこか狡猾さを含んだ声色がネーベルの頭の上に落ちてくる。途端に包まれるような優しい感覚が身を覆い、彼の均整の取れた顔がくっつきそうな程に近く感じた。
その途端──やんわりと唇を塞がれるような暖かな感触がした。
暗闇でもハッキリと分かる程に間近に映る長い睫。ふんわりと香る香りは自分の髪の香りでもなく、他人のもの。
今現在、自分の置かれている状況をネーベルが理解したのは一拍置いてからだった。
自分の唇とラルフの唇が重なっている。頭で理解して、ネーベルは目を丸く開いた。
──キスなんて、十八年生きて初めてだった。
霧の魔女には微塵も関係の無い事だと思っていた。
一目惚れと言った。妻にしたいなんて言われた。それが繋がるのかも知れないが、どうしてラルフが今こんな行動をとったのかなんてネーベルには理解出来なかった。
「……俺は本気だからな」
ようやく唇を離した彼の息がネーベルの唇を擽る。
こんな突拍子も無い事をされてしまえば、呆然としてしまう。まるで呪いにかかったようにネーベルは言葉を出す事を忘れ、動く事も出来なかった。
「会いに行く。俺はお前がどうしても欲しい」
彼の言葉はジンと心の奥底に染み渡るようだった。何だか知ってはいけないような感情の扉が開けてしまいそうで、それがひどく恐ろしく感じてしまう。雨なんて降ってもいないのに、霧も広がっていないのに、視界が霞んでいくような感覚がした。
──こんなのは嘘だ。忌まれし異端、霧の魔女が愛される筈も無い。その相手が同じく異端の人狼王子とは言え、ありえない。
ネーベルは叫ぶように心で唱え言い聞かせる。だが、無情にも唇の感触が、彼の体温が未だこの身に残っている所為で今起きた事実を嘘ではないと証明する。
何も言えないままのネーベルだが、身体が動く方が早かった。
荷物を抱え、ネーベルは無言のままラルフに背を向けた。するともう、弾けるように脚が動く。遠ざかっていく背後で彼が何かを言っているが、そんな言葉は耳に届かない。否やしっかりと聞こえてはいたが、意図的に遮断した。
彼の方を一切向く事もなく、ネーベルは闇が渦巻く森の奥へと走り出した。
──木菟がホウホウと鳴く怪しく蒼い夜の森。針葉樹の隙間からは金色の月が淡く夜空を照らし、どこか遠くから狼の遠吠えも聞こえくる。
道無き道を走っては歩む事を繰り返して、ネーベルがようやく家へと辿り着いたのは幾らか時間が経過してからだった。
石造りの小さな家の壁には植物の蔦がびっしりと巻き付いていて、屋根も苔が生している。だが、夜も更けた今は、ただの黒い塊のようにしか映らない。
帰ったら洗濯を取り込む筈だった。けれど、家のすぐ傍に干されたままの洗濯物にさえ目もくれず彼女は家のドアを開けて入っていく。
家に入ったら、やる事だって沢山あった筈だ。しかし、その作業をする事もせずに食事もとらずに、抱えた荷物を置いてネーベルはベッドの上に倒れた。
(今日起きた事、何もかも嘘で夢よ……きっとそうよ)
あまりにも信じられないような事が起きすぎた。よくよく考えれば、それは全て夢であって嘘のように思えてしまう。
目が覚めた時には今まで通り、何も変わらない異端としての日常が始まる。そうに違いない。否や、そうあって欲しい。ネーベルは胸の谷間に埋もれたペンダントを取り出して、握りしめる。
(もう寝よう。寝て忘れよう……)
しかし、なかなか眠りにつけなかった。
彼の狡猾な笑みも、抱きしめられた暖かさも唇の感触も……。何もかもが鮮明すぎた。
結局、彼女が眠れたのは東の空が明るくなり始めた頃合いだった。
ネーベルが目を覚ましたのは、それからどれくらい経過してからだろうか。
昼下がりか。陽光が小さな窓から差し込んでおり、ネーベルは寝返りを打つ。しかし、何だか妙に喧しい。その声が狼の鳴き声だと分かって、ネーベルは面倒臭そうにベッドから起き上がった。
──夜行性の狼がこの時間に騒ぐなんておかしい。
ましてや遠吠えや威嚇するような鳴き声ではない。甘える時に出す犬の鳴くようなクンクンとした鳴き声だ。
恐らく、近場に住まう五匹の群れだろうか……。
自分達で狩りが出来るのだから餌の催促なんてしてくる事はまず無い。しかし本当に何事だろうか……。眉をひそめたままネーベルは家の出入り口に向かい、恐る恐る扉を開く。
それと同時、目に飛び込んで来た光景にネーベルは唖然と口を開く。
夢でなければ、昨日見知った赤銅髪の男が五匹の毛玉の中心に埋もれていたのである。それも、警戒心が強い筈の野生の狼が腹を出して『撫でろ』と男に甘えていたのだから。
「…………」
今見たものを信じる事が出来ず、ネーベルはすぐに家のドアを閉じる。
そして再び、ほんの少しだけドアを開けて盗み見る。
すると、五匹の毛玉に埋もれる男はネーベルに気付いたようで、屈託無い笑みを向けた。
「よぅ。宣言通りに会いに来たぜ、霧の魔女」
それは紛れもなく、昨晩ネーベルの唇を奪った相手。忌まれし異端──人狼王子、ラルフ・フェルゲンハウアーだった。
忙しなく晩餐の給仕に働く数人の使用人と通路を擦れ違ったが、誰もが変装したネーベルを怪しむ事は無かった。やはり領主の城だ。来客も頻繁にあり、さしずめ近隣の領主の娘が遊びに来たと思っているのだろうと、ルーカスは言う。
それから、ラルフの栗毛色の馬に乗せられて、夜の街を横切り北方へ。
馬に乗ったのは初めてだった。当然緊張したが、割とその時間はあっという間に過ぎ去ってしまった。
そして、今現在は森の入り口間近までやってきた。
「乗馬は初めてとか言っていたが、全く問題は無かったな」
「腰がとてもふわふわします……」
思ったままを口に出すと、ラルフは声を出して笑う。
「初めてにしちゃ上出来だ。それに、その格好じゃとても霧の魔女には見えないな」
馬をゆっくりと歩かせて、振り向いた彼はネーベルを見下ろした。
それもそうだろう。着替えが終わった後に、ベルタに姿見を見せてもらったが、今の姿は、まるで別人のように自分でも思ってしまった程だった。
「しかし、女にここまで熱烈な抱擁をされたのは流石に初めてだから何だか嬉しいな」
ラルフはポツリと呟いて、今度はどこか狡猾な笑みを浮かべて見下ろしてくる。
ネーベル当人でさえ、示唆されたからそうしていただけであって全く意識なんてしていなかった。
「あ、あ……」
不覚だった。
乗馬中とは言え、今現在の体勢を理解すると、顔面に火がついてしまいそうな程に熱くなる。ネーベルは、彼の腰に回した腕を緩めようとするが──
「馬鹿、落ちるから降りる迄はしがみついてろ」
と、より荒い口調で示唆した。
確かに彼の言う事は一理あるだろう。
街灯も無い暗闇の中でも、足元を見ればその高さはよく分かる。熱烈な抱擁という部分が腑に落ちないが、危険を納得したネーベルは素直に彼の腰にしっかりと腕を回した。
「で、霧の魔女の家はどこなんだ?」
明かりも無い侘しい道で馬を止め、彼はネーベルに尋ねながら辺りを見渡す。
目の前には青々と茂る針葉樹の森が広がっているだけだ。
空は晴れて月が出ているが、満月でも無いのだから光は頼りない。森の奥は黒い闇が不気味に渦巻いていた。
(確か……この先少しに、家まで近道出来る獣道があったわね)
暗くとも、普段の感覚のお陰で現在の位置をネーベルは充分に把握出来た。
「この辺りで下ろしてください」
ネーベルはラルフの上衣の裾を僅かに引っ張る。すると、彼は馬を止めて振り向いた。
「ここからすぐなのか?」
「家はこれより未だ先ですが、森には狼が居るのでこの辺りで結構です。狼はとても警戒心が強いので馬を見て襲うかも知れません」
「いや待て。狼が居るのに平気なのか?」
やや驚嘆した調子でラルフは切り返す。
しかし、何を驚いているのかネーベルには理解出来なかった。恐らく、狼に襲われないのかと危惧したのだろうか。
「近隣の群れは大丈夫です。皆、私を森の住人のうちの一人だとでも認識してるので、襲いかかってくる事はまずありません」
ネーベルは事実をサラリと述べると、ラルフはポカンと唇を開き二回三回と瞬きをした。
「おい。普通、魔女の使い魔の定番は烏か黒猫じゃないのか?」
黒い動物が定番だとてっきり思っていた。そんな風に付け添えて、彼が動揺する。それが何だか滑稽に思えて、ネーベルは思わず笑いそうになってしまった。
「使い魔なんていませんよ。魔女の使い魔は物語の中だけじゃないでしょうか。でも、私は烏も猫も狼も動物はみんな大好きですよ」
言葉に出せば、笑いが溢れてしまった。そもそも、人狼王子が狼を危険と言い、襲われる事を危惧する事を可笑しく思えてしまったのだ。
「お前さ。笑った顔、可愛いんだな」
鼻から抜けるような、少し意地悪な笑いを含めて彼は言った。
しかし可愛いだの言われても、やはり分からない。再び心の底が擽ったくなり、ネーベルはすぐに視線を反らし俯いた。
「まぁ、レーゲンが食われちまったら困るからな。ならば、ここで下ろすか」
「レーゲン?」
レーゲン……つまり雨。霧を意味する自分の名前とほんの少し似ている。そう思って、ネーベルは小首を傾げてラルフを見る。
「ああ、こいつの名前。俺の愛馬だ」
言って彼は掴んでいた手綱をネーベルにそっと手渡した。
「レーゲンは賢くて大人しい。大丈夫だ」
そうして彼は軽々と馬から下りて、ネーベルに向かい両腕を広げる。
「肩に手を回せ。大丈夫だ。俺が抱えて下ろしてやる」
……つまり、抱き下ろしてくれるのだろう。
それが分かって羞恥が込み上げる。けれど乗馬中はずっと、しがみついていたのだから今更だろう。ネーベルはラルフの言葉に従って、彼の肩に腕を回した。
受け止められた後、ふわりと地面に下ろされてラルフはすぐに解放してくれた。
そして、彼の愛馬レーゲンの方を見る。レーゲンは手綱は握られていなくとも微動だにしないまま。まるで銅像のようにジッと大人しくしていた。
「本当……賢い子ね。ありがとう、レーゲン」
ネーベルはレーゲンの顔の前に歩み寄り、頭を優しく撫でる。すると、嬉しそうに頬を寄せネーベルの頬をぺろりと舐めた。
「この子は男の子? 女の子?」
自分と同じで気象の名前。なんとなく興味を持ってネーベルが訊けば「雌だ」と、ラルフは直ぐに答えた。
「貴女とても綺麗な名前を貰ったのね。良い子ね、本当にありがとう」
とても美人ね。なんて、褒めてあげれば、またも嬉しそうに彼女は頬を寄せてネーベルに甘えた。
「おい。俺、こいつの顔の前に立って髪の毛を食まれた事もあるし蹴られそうになった事もあるが……下手すりゃ俺より懐いていないか」
一方、当の飼い主はどこか腑に落ちない声色でそんな事を呟いた。
「ラルフ様もありがとうございます」
経緯はどうであれ、ここまで送り届けてくれた事にネーベルは素直に礼を述べた。
「いいや、俺の勝手で面倒な事になって悪かった」
確かに、全てそうだっただろう。それでも、過ぎた事を悔やんでも仕方ない。今日の出来事は人生のうちの小さな失態であったのだろうとネーベルは思い正した。
「掟を破ってしまった罪悪感は沢山で、天に召された祖母に叱られそうです。ですが、ラルフ様に普通の娘のように扱ってもらって……少しだけ楽しかったです」
もう会う事も無いだろう。と、思えたから、ネーベルは本音を彼に素直に伝えた。
「なら良かった」
鋭い犬歯を覗かせて、ラルフはヘラリと笑む。やはり狡猾で意地悪な雰囲気を感じるものの、どこか憎めないと思えてしまう。
明日の朝、陽が昇れば異端の魔女として今までと何一つ変わらない一日が始まるだけ。これは彼が見せてくれた一日限りの素敵な夢……。そうとしかネーベルにも考えられなかった。
今後、彼に会う事が仮にあったとしても、素顔を晒す事など金輪際無い。たとえ、彼がどんなに自分に好意を抱こうが、絶対に結ばれる事も無い。
身分差が最もだろうが、そもそも出会って一日も経っていない。彼が自分自身を好きだと言っても、ネーベル自身は当然のように彼に熱情など持ち合わせていない。
──恋とはお互いを知り惹かれ合うもの。
本に書かれていた言葉を思い出すが、顔だけではなく名前さえ教えてはいけない。ネーベルは自分にはやはり関係の無い事だと、一人心の中で納得した。
「そういえば、お前の名前を聞いて無いな、これから何と呼べばいい?」
ラルフはネーベルを見下ろしてポツリと言う。
その言葉にネーベルの面持ちはたちまち曇った。
他人ではない、知り合いにはなったが今日一日だけだと思っていた。これでは、また会う事が前提のよう。ネーベルは複雑な気持ちが交差した。
同じく異端だ。無断で外出を許されない彼が、誰かに自分の名を言う事も少ないだろうと想像出来た。だから、伝えた所で問題は無いだろうと理解出来る。
けれど、未だ守れている掟だ。それに、明日から再び霧の魔女として生きる事を考えているからこそ、己の名は言える筈も無かった。
「……ごめんなさい。それは答えられません」
沈黙の果てに、ネーベルは出した答えは拒否だった。
「そうか、ならば魔女でいいか」
特別落ち込んだ様子でもなく、平坦な声色でラルフは言う。
「それで構いません……それでは、さようならラルフ様」
彼に向き合ってネーベルが僅かに微笑みそう伝えて早々だった──
「さよならじゃねぇよ」
低く、どこか狡猾さを含んだ声色がネーベルの頭の上に落ちてくる。途端に包まれるような優しい感覚が身を覆い、彼の均整の取れた顔がくっつきそうな程に近く感じた。
その途端──やんわりと唇を塞がれるような暖かな感触がした。
暗闇でもハッキリと分かる程に間近に映る長い睫。ふんわりと香る香りは自分の髪の香りでもなく、他人のもの。
今現在、自分の置かれている状況をネーベルが理解したのは一拍置いてからだった。
自分の唇とラルフの唇が重なっている。頭で理解して、ネーベルは目を丸く開いた。
──キスなんて、十八年生きて初めてだった。
霧の魔女には微塵も関係の無い事だと思っていた。
一目惚れと言った。妻にしたいなんて言われた。それが繋がるのかも知れないが、どうしてラルフが今こんな行動をとったのかなんてネーベルには理解出来なかった。
「……俺は本気だからな」
ようやく唇を離した彼の息がネーベルの唇を擽る。
こんな突拍子も無い事をされてしまえば、呆然としてしまう。まるで呪いにかかったようにネーベルは言葉を出す事を忘れ、動く事も出来なかった。
「会いに行く。俺はお前がどうしても欲しい」
彼の言葉はジンと心の奥底に染み渡るようだった。何だか知ってはいけないような感情の扉が開けてしまいそうで、それがひどく恐ろしく感じてしまう。雨なんて降ってもいないのに、霧も広がっていないのに、視界が霞んでいくような感覚がした。
──こんなのは嘘だ。忌まれし異端、霧の魔女が愛される筈も無い。その相手が同じく異端の人狼王子とは言え、ありえない。
ネーベルは叫ぶように心で唱え言い聞かせる。だが、無情にも唇の感触が、彼の体温が未だこの身に残っている所為で今起きた事実を嘘ではないと証明する。
何も言えないままのネーベルだが、身体が動く方が早かった。
荷物を抱え、ネーベルは無言のままラルフに背を向けた。するともう、弾けるように脚が動く。遠ざかっていく背後で彼が何かを言っているが、そんな言葉は耳に届かない。否やしっかりと聞こえてはいたが、意図的に遮断した。
彼の方を一切向く事もなく、ネーベルは闇が渦巻く森の奥へと走り出した。
──木菟がホウホウと鳴く怪しく蒼い夜の森。針葉樹の隙間からは金色の月が淡く夜空を照らし、どこか遠くから狼の遠吠えも聞こえくる。
道無き道を走っては歩む事を繰り返して、ネーベルがようやく家へと辿り着いたのは幾らか時間が経過してからだった。
石造りの小さな家の壁には植物の蔦がびっしりと巻き付いていて、屋根も苔が生している。だが、夜も更けた今は、ただの黒い塊のようにしか映らない。
帰ったら洗濯を取り込む筈だった。けれど、家のすぐ傍に干されたままの洗濯物にさえ目もくれず彼女は家のドアを開けて入っていく。
家に入ったら、やる事だって沢山あった筈だ。しかし、その作業をする事もせずに食事もとらずに、抱えた荷物を置いてネーベルはベッドの上に倒れた。
(今日起きた事、何もかも嘘で夢よ……きっとそうよ)
あまりにも信じられないような事が起きすぎた。よくよく考えれば、それは全て夢であって嘘のように思えてしまう。
目が覚めた時には今まで通り、何も変わらない異端としての日常が始まる。そうに違いない。否や、そうあって欲しい。ネーベルは胸の谷間に埋もれたペンダントを取り出して、握りしめる。
(もう寝よう。寝て忘れよう……)
しかし、なかなか眠りにつけなかった。
彼の狡猾な笑みも、抱きしめられた暖かさも唇の感触も……。何もかもが鮮明すぎた。
結局、彼女が眠れたのは東の空が明るくなり始めた頃合いだった。
ネーベルが目を覚ましたのは、それからどれくらい経過してからだろうか。
昼下がりか。陽光が小さな窓から差し込んでおり、ネーベルは寝返りを打つ。しかし、何だか妙に喧しい。その声が狼の鳴き声だと分かって、ネーベルは面倒臭そうにベッドから起き上がった。
──夜行性の狼がこの時間に騒ぐなんておかしい。
ましてや遠吠えや威嚇するような鳴き声ではない。甘える時に出す犬の鳴くようなクンクンとした鳴き声だ。
恐らく、近場に住まう五匹の群れだろうか……。
自分達で狩りが出来るのだから餌の催促なんてしてくる事はまず無い。しかし本当に何事だろうか……。眉をひそめたままネーベルは家の出入り口に向かい、恐る恐る扉を開く。
それと同時、目に飛び込んで来た光景にネーベルは唖然と口を開く。
夢でなければ、昨日見知った赤銅髪の男が五匹の毛玉の中心に埋もれていたのである。それも、警戒心が強い筈の野生の狼が腹を出して『撫でろ』と男に甘えていたのだから。
「…………」
今見たものを信じる事が出来ず、ネーベルはすぐに家のドアを閉じる。
そして再び、ほんの少しだけドアを開けて盗み見る。
すると、五匹の毛玉に埋もれる男はネーベルに気付いたようで、屈託無い笑みを向けた。
「よぅ。宣言通りに会いに来たぜ、霧の魔女」
それは紛れもなく、昨晩ネーベルの唇を奪った相手。忌まれし異端──人狼王子、ラルフ・フェルゲンハウアーだった。
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どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
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「ゲルハルトさま、愛しています」
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「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
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2021/3/10
しおりを挟んでくださっている皆様へ。
こちらの作品はすごく昔に書いたのをリメイクして連載していたものです。
しかし、古い作品なので……時代背景と言うか……いろいろ突っ込みどころ満載で、修正しながら書いていたのですが、やはり難しかったです(汗)
楽しい作品に仕上げるのが厳しいと判断し、連載を中止させていただくことにしました。
申しわけありません。
新作を書いて更新していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。
お詫びに過去に書いた原文のママ載せておきます。
修正していないのと、若かりし頃の作品のため、
甘めに見てくださいm(__)m
後宮の棘
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スピンオフ「孤児が皇后陛下と呼ばれるまで」の進捗と合わせて番外編を不定期に公開していきます。
第13回ファンタジー大賞特別賞受賞!
ありがとうございました!!
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