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第一章 信じ難い依頼
1-1.二人の異端者
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──北西の王国、ヴァレンウルム。
この国は年間の半分近くが銀世界に閉ざされ、冬がやたらと長いだけではなく、夜も長い事から仄暗く陰鬱な雰囲気が強い。しかし雪解けとなれば、短い春夏を祝福するように花々は次々に咲き乱れる。
国の最北端に位置するミステル領も例外でなく、春の訪れは非常に華やいでいた。町並みは壁面に木工張りを施した愛らしい家屋の群れ。その軒先にはゼラニウムやペチュニア、クロッカスなどが植えられており、穏やかな風に揺れる様はあまりに情緒的だった。そんな事から、有名な詩人や作曲家も幾度も訪れたと言われている。
すり鉢のように街を囲う丘陵は全て葡萄畑。一言で言えば牧歌的な田舎だが、それにも関わらず、石畳の舗装が行き届いている事から活気に満ちている事は目に見てとれる。
その理由は、莫大な財力と侯爵家が管理しているからだろう。南の丘陵に佇む赤砂岩の城はこの街の象徴のように聳えていた。
また、この領地北部には深い森が広がっている事から、その長閑さを際立たせているとも言えるだろう。
──通称、霧の森。
森は国境となり、その果てはソルヤナという国に繋がっている。
厳密に言えば、現在はソルヤナ。かつてはエスピリアという小国があり、その上にソルヤナ・ノキアン・ナヴィアという三国が並んでいた。
何故国が消えたのか。当然のように戦争が原因だ。
それも気が遠くなる程の長い長い争いだったらしい。霧の森の向こう側にある四つの国と、ヴァレンウルム東側に位置する大帝国コルトスが長期的な戦を行い、激しい戦火でエスピリアは焼け墜ちたと言われている。
そして今現在、盟国であったソルヤナと合併した事により、エスピリアは地図の上から消えた。しかし、この長い戦の終結は存外真新しいもので、今から大凡十年程昔だった。
夥しい犠牲を出したのは言うまでも無い。だが、ヴァレンウルムはこの戦に参戦していなかった故、民達は詳しい事を知りもしなかった。
それでもただ一つだけ……。
十六年程昔──エスピリアを焼き落とす炎で森の彼方の空が赤々と染まったとミステルではよく聞くものだった。
それは〝次代の霧の魔女〟として育てられたネーベルも亡き祖母、ドルテから幾度も聞いた事があった。
……そもそも忌まわしい異端〝霧の魔女〟の住まう場所が〝霧の森〟だ。肩書きは勿論、この森から取られていた。
霧の魔女は決して顔を晒さず、名を教えない。薬草を煎じて薬を作り、病に伏せる人を看病する。謂わば医者であり薬師であるが、その他にも占術や白の呪いなどを仕事にしていた。ミステルの民を支える必要不可欠な存在……ではあるが、見てくれの不気味さから霧の魔女は〝容認された異端者〟として蔑まれていた。
ネーベルも今、真っ黒なローブに身を包み、フードを口元まで深く被って顔を晒していない。華やぐ春の街だが、あまりに浮き立っている。しかし、マーケットをすれ違う者達は誰もネーベルに視線なんて向けもしなかった。稀にこちらを見る者が居る事はフード越しから分かるが、決して暖かなものでは無い事くらい理解していた。
きっと底知れぬ畏怖や蔑みだろう。見なくとも分かる。何せ、多感な乙女の間近を横切れば、悲鳴を上げられるのだから。
しかし、視界がこうも遮られているのは難儀だった。とっくに慣れているが、物にぶつかりそうにもなるし躓きそうにもなってしまう。何せ自分の足元しか見えないのだ。商売道具の詰まった鞄が木箱に当たるのを感じてネーベルは立ち止まり、ローブの下で橄欖石の瞳をジト……と、細めた。
(このフード、本当に邪魔だわ)
心で文句を垂れて、ネーベルはフードの裾を掴む。フードの左右、中央に施された水晶の装飾品がきらりと揺れて虹色の光が見えた。陽光が屈折している。つまりきっと快晴──と分かる。未だ春先なのに初夏のようだ。真っ黒なローブは陽光を吸収する所為で、既にしっとりと汗ばんできていた。もう、いっそフードを取り払いたかった。しかし、その手は動かなかった。十八年染みついた掟なんてそう容易く破れる筈も無い。手をスッと下ろして、ネーベルは不快を払うようにやれやれと首を横に振った。
(……買い物を済ませたらさっさと帰りましょう)
一つ息をついて、ネーベルは再び歩み始めた。
林檎に葡萄酒に腸詰め肉に小麦粉。それらを買い終えたネーベルは、踵を返して森に向かって歩み始めた。
街から森の入り口までは、少しばかり距離がある。その間には幅の広いリューゲ川が流れており、石造りの大きな橋を渡って暫く歩む。
丁度正午を過ぎた程だろう。この時間の橋はいつも人が幾らか歩んでいた。辻馬車か或いは侯爵家の馬車かも分からぬが、カラカラと小気味の良い車輪の音が響いていた。
子供の笑い声と足音が前方から響いてくる。しかし、その声が近くなったかと思えばピタリ止まり、通り過ぎればどっと「怖い!」と叫ばれた。
間違い無く自分に向けて放たれた言葉だ。もう日常茶飯事だから慣れている。とは言え、何か自分が悪い事をしたのだろうか。ネーベルはフードの下で眉をひそめた。
先代──祖母だって霧の魔女だった。魔女とはいえ、人々の為を思って働く白魔女だ。何故にこんなに恐れられ、蔑まれなければならないのかは分からない。そういうものだととっくに割り切っているが、少し腑に落ちない部分はあった。
(会った事も無いけど、あの人も同じ気持ちなのかしらね……)
ネーベルは、元来た道を振り返り、ほんの僅かフードを持ち上げる。視線の先の丘陵にはどっしりとした赤砂岩の城が静かに佇んでいる。
この地の領主、侯爵家にはもう一人の異端が居るらしい。
それこそが、侯爵の次男。ラルフ・フェルゲンハウアー。別称、人狼王子と呼ぶ。
貴族の息子であって、次男という点では嫡男でない。しかし何故に〝王子〟と呼ばれるかは、安直にも〝城に住まう〟という点だけと窺える。
街で聞いた噂では、彼の生誕祝いで赴いた王宮専属魔道士が狼憑き……所謂〝人狼〟と曝いた事が発端だそうだ。また、夫人の不貞の子という噂が絶えず、彼の出生から数日で夫人が病死した事も忌まれた要因となるらしい。
──母を殺し、生まれた狼憑き。そう言われてしまえば、確かに忌まれる要因しか無いだろうと、ネーベルも思っていた。だが、産後の死因など羊水塞栓なり危機的出血なり様々あるだろう。そもそもだ、医者がどう頑張ったとしても死産や妊婦の出産死は少なくもない。一概に〝狼憑きの呪い〟だの言えないだろうとは思う。きっと、そんな事は誰もが百も承知に違わない。それでも人間というものは、より凄惨なものを信じるのだろうか。
『ラルフ・フェルゲンハウアーは凶暴だ』『満月の晩に豹変して使用人を襲った事がある』『だから、地下牢に閉じ込めている』など。奇怪な噂は絶えなかった。
しかし、彼が実在するかは不明だった。父である筈の侯爵はおろか、嫡男であり兄であるルーカス・フェルゲンハウアーも彼の存在を民衆に語った事は一度も無い。それに、肖像は一つも公開されていないのだ。
(……実在するならば、私よりも二つ、三つ年上。そもそも存在するのかしらね)
ネーベルはフードを深く被り直して、再び歩み始めた。
そうして暫く……橋を渡り終えると同時だった。ゴゥと唸りを上げた春のつむじ風が橋の上を通り過ぎた。その須臾──ネーベルの狭い視界は一気に開けた。
いつも歩くいつもの道なのに、明るくて煌びやかな世界のよう。土手に茂る草の青々とした美しさや、周囲に広がる肥沃な大地が目の当たりとなり、全く知らない世界に来てしまったような感覚を覚えた。
当然、自分が今置かれている状況を理解するのに時間なんてかからない。まさか、こんな形で……。十八年守り続けた掟を破ってしまったのだ。
ネーベルは腰を折り曲げて俯いた。慌てて背に靡いたフードを掴んで深くかぶる。人気の多い街側でない方だった事が幸いか。足音も無く、行き交う人も居ない事を悟ってネーベルは深い吐息をついた。
(ああ、お祖母様……)
フードの中のネーベルは明らかに動揺していた。
こんな失態今までになかった。きっと祖母が生きていれば雷を落とされそうだ。否や、今晩でも化けて出てきそうな気もしなくもない。ネーベルは澱を吐き出すように深い息をつき、再び帰路に向かう。
……魔女ではあるが、幽霊だ異形の魔物だのそういった超常的な恐ろしい存在は大嫌いだ。たとえ、大好きな祖母の霊でも少し恐ろしく思う。まず霊なんか見た事も無いが……。そんな事を考えつつ、ネーベルはスタスタと橋の残りを歩む。
渡りきってしまえば、森の入り口まではあと少しばかり。さっさと帰ろうと意気込んでネーベルは歩を早める。しかし、己を示す『魔女』というの声が何処からともなく聞こえる気がした。きっと、気のせいだろうと思う。平然を装っていようが、ネーベルは未だフードの下では阿鼻叫喚したままだったのだから。
しかし──
「おい! 無視かよ!」
途端にグイと腕を掴まれた。それも恐らく男に。ネーベルは背筋を戦慄かせる。
幻聴でなかった。しかし、自分に触れようとする物好きなんて今まで居た試しも無い。この状況を理解出来ず、ネーベルはフードの下で、今度は目を瞠って唖然とした。
「へ、あ……」
唐突の出来事で声が裏返ってしまった。
それはもう、声を出したネーベル自身も恥ずかしくなってしまう程。頬が煩わしい程に熱を帯びていく事が分かる。しかし、相手は急用があってわざわざ異端者に触れるまでの行動に出たのだ。
「……何用でしょうか」
気を取り直したネーベルは男が居るであろう方へ顔を向けて、物静かに問いかけた。
すると瞬く間に頭上から「ぶっ」と、吹き出すような笑いが溢れ落ちてくる。
「おお、魔女も人間なんだな。お前の取り乱し方面白れぇな」
この男は何を当然の事を言っているのだろうか。
確かに魔女だって血の通った人間だ。占術と呪術を扱う神秘の力を持ち、何からしらの加護を受けている事は確かだが、れっきとした人間に違いない。
ネーベルはフードの下で目を細め『失礼ね』と、心の中で独りごちる。
「ああ、悪りぃな。気を悪くするな。逆に安心した」
低めの声ではあるが、やや癖がある。声色から察するに、若い男だろう。顔もハッキリと見えないが、声色だけで少し狡猾そうな雰囲気を感じた。
「お前ちょっと家まで来い、話と用事がある」
緊急の依頼だろうか。
これから帰って洗濯物を取り込み、夕飯の準備をしなくてはいけないのに……。ネーベルはフードの下で眉をひそめた。しかし依頼ならば仕方ないだろう。ミステルの民の為に尽くす事。それが霧の魔女だ。耳にタコが出来そうな程に聞かされた祖母の言葉を思い出し、ネーベルは間を置いて頷いた。
「悪りぃな」
詫びる割にはあまり悪びれた返答では無い。やはり軽妙な雰囲気がする。そんな妙な男に導かれ、ネーベルは彼の後を歩み始めた。
この国は年間の半分近くが銀世界に閉ざされ、冬がやたらと長いだけではなく、夜も長い事から仄暗く陰鬱な雰囲気が強い。しかし雪解けとなれば、短い春夏を祝福するように花々は次々に咲き乱れる。
国の最北端に位置するミステル領も例外でなく、春の訪れは非常に華やいでいた。町並みは壁面に木工張りを施した愛らしい家屋の群れ。その軒先にはゼラニウムやペチュニア、クロッカスなどが植えられており、穏やかな風に揺れる様はあまりに情緒的だった。そんな事から、有名な詩人や作曲家も幾度も訪れたと言われている。
すり鉢のように街を囲う丘陵は全て葡萄畑。一言で言えば牧歌的な田舎だが、それにも関わらず、石畳の舗装が行き届いている事から活気に満ちている事は目に見てとれる。
その理由は、莫大な財力と侯爵家が管理しているからだろう。南の丘陵に佇む赤砂岩の城はこの街の象徴のように聳えていた。
また、この領地北部には深い森が広がっている事から、その長閑さを際立たせているとも言えるだろう。
──通称、霧の森。
森は国境となり、その果てはソルヤナという国に繋がっている。
厳密に言えば、現在はソルヤナ。かつてはエスピリアという小国があり、その上にソルヤナ・ノキアン・ナヴィアという三国が並んでいた。
何故国が消えたのか。当然のように戦争が原因だ。
それも気が遠くなる程の長い長い争いだったらしい。霧の森の向こう側にある四つの国と、ヴァレンウルム東側に位置する大帝国コルトスが長期的な戦を行い、激しい戦火でエスピリアは焼け墜ちたと言われている。
そして今現在、盟国であったソルヤナと合併した事により、エスピリアは地図の上から消えた。しかし、この長い戦の終結は存外真新しいもので、今から大凡十年程昔だった。
夥しい犠牲を出したのは言うまでも無い。だが、ヴァレンウルムはこの戦に参戦していなかった故、民達は詳しい事を知りもしなかった。
それでもただ一つだけ……。
十六年程昔──エスピリアを焼き落とす炎で森の彼方の空が赤々と染まったとミステルではよく聞くものだった。
それは〝次代の霧の魔女〟として育てられたネーベルも亡き祖母、ドルテから幾度も聞いた事があった。
……そもそも忌まわしい異端〝霧の魔女〟の住まう場所が〝霧の森〟だ。肩書きは勿論、この森から取られていた。
霧の魔女は決して顔を晒さず、名を教えない。薬草を煎じて薬を作り、病に伏せる人を看病する。謂わば医者であり薬師であるが、その他にも占術や白の呪いなどを仕事にしていた。ミステルの民を支える必要不可欠な存在……ではあるが、見てくれの不気味さから霧の魔女は〝容認された異端者〟として蔑まれていた。
ネーベルも今、真っ黒なローブに身を包み、フードを口元まで深く被って顔を晒していない。華やぐ春の街だが、あまりに浮き立っている。しかし、マーケットをすれ違う者達は誰もネーベルに視線なんて向けもしなかった。稀にこちらを見る者が居る事はフード越しから分かるが、決して暖かなものでは無い事くらい理解していた。
きっと底知れぬ畏怖や蔑みだろう。見なくとも分かる。何せ、多感な乙女の間近を横切れば、悲鳴を上げられるのだから。
しかし、視界がこうも遮られているのは難儀だった。とっくに慣れているが、物にぶつかりそうにもなるし躓きそうにもなってしまう。何せ自分の足元しか見えないのだ。商売道具の詰まった鞄が木箱に当たるのを感じてネーベルは立ち止まり、ローブの下で橄欖石の瞳をジト……と、細めた。
(このフード、本当に邪魔だわ)
心で文句を垂れて、ネーベルはフードの裾を掴む。フードの左右、中央に施された水晶の装飾品がきらりと揺れて虹色の光が見えた。陽光が屈折している。つまりきっと快晴──と分かる。未だ春先なのに初夏のようだ。真っ黒なローブは陽光を吸収する所為で、既にしっとりと汗ばんできていた。もう、いっそフードを取り払いたかった。しかし、その手は動かなかった。十八年染みついた掟なんてそう容易く破れる筈も無い。手をスッと下ろして、ネーベルは不快を払うようにやれやれと首を横に振った。
(……買い物を済ませたらさっさと帰りましょう)
一つ息をついて、ネーベルは再び歩み始めた。
林檎に葡萄酒に腸詰め肉に小麦粉。それらを買い終えたネーベルは、踵を返して森に向かって歩み始めた。
街から森の入り口までは、少しばかり距離がある。その間には幅の広いリューゲ川が流れており、石造りの大きな橋を渡って暫く歩む。
丁度正午を過ぎた程だろう。この時間の橋はいつも人が幾らか歩んでいた。辻馬車か或いは侯爵家の馬車かも分からぬが、カラカラと小気味の良い車輪の音が響いていた。
子供の笑い声と足音が前方から響いてくる。しかし、その声が近くなったかと思えばピタリ止まり、通り過ぎればどっと「怖い!」と叫ばれた。
間違い無く自分に向けて放たれた言葉だ。もう日常茶飯事だから慣れている。とは言え、何か自分が悪い事をしたのだろうか。ネーベルはフードの下で眉をひそめた。
先代──祖母だって霧の魔女だった。魔女とはいえ、人々の為を思って働く白魔女だ。何故にこんなに恐れられ、蔑まれなければならないのかは分からない。そういうものだととっくに割り切っているが、少し腑に落ちない部分はあった。
(会った事も無いけど、あの人も同じ気持ちなのかしらね……)
ネーベルは、元来た道を振り返り、ほんの僅かフードを持ち上げる。視線の先の丘陵にはどっしりとした赤砂岩の城が静かに佇んでいる。
この地の領主、侯爵家にはもう一人の異端が居るらしい。
それこそが、侯爵の次男。ラルフ・フェルゲンハウアー。別称、人狼王子と呼ぶ。
貴族の息子であって、次男という点では嫡男でない。しかし何故に〝王子〟と呼ばれるかは、安直にも〝城に住まう〟という点だけと窺える。
街で聞いた噂では、彼の生誕祝いで赴いた王宮専属魔道士が狼憑き……所謂〝人狼〟と曝いた事が発端だそうだ。また、夫人の不貞の子という噂が絶えず、彼の出生から数日で夫人が病死した事も忌まれた要因となるらしい。
──母を殺し、生まれた狼憑き。そう言われてしまえば、確かに忌まれる要因しか無いだろうと、ネーベルも思っていた。だが、産後の死因など羊水塞栓なり危機的出血なり様々あるだろう。そもそもだ、医者がどう頑張ったとしても死産や妊婦の出産死は少なくもない。一概に〝狼憑きの呪い〟だの言えないだろうとは思う。きっと、そんな事は誰もが百も承知に違わない。それでも人間というものは、より凄惨なものを信じるのだろうか。
『ラルフ・フェルゲンハウアーは凶暴だ』『満月の晩に豹変して使用人を襲った事がある』『だから、地下牢に閉じ込めている』など。奇怪な噂は絶えなかった。
しかし、彼が実在するかは不明だった。父である筈の侯爵はおろか、嫡男であり兄であるルーカス・フェルゲンハウアーも彼の存在を民衆に語った事は一度も無い。それに、肖像は一つも公開されていないのだ。
(……実在するならば、私よりも二つ、三つ年上。そもそも存在するのかしらね)
ネーベルはフードを深く被り直して、再び歩み始めた。
そうして暫く……橋を渡り終えると同時だった。ゴゥと唸りを上げた春のつむじ風が橋の上を通り過ぎた。その須臾──ネーベルの狭い視界は一気に開けた。
いつも歩くいつもの道なのに、明るくて煌びやかな世界のよう。土手に茂る草の青々とした美しさや、周囲に広がる肥沃な大地が目の当たりとなり、全く知らない世界に来てしまったような感覚を覚えた。
当然、自分が今置かれている状況を理解するのに時間なんてかからない。まさか、こんな形で……。十八年守り続けた掟を破ってしまったのだ。
ネーベルは腰を折り曲げて俯いた。慌てて背に靡いたフードを掴んで深くかぶる。人気の多い街側でない方だった事が幸いか。足音も無く、行き交う人も居ない事を悟ってネーベルは深い吐息をついた。
(ああ、お祖母様……)
フードの中のネーベルは明らかに動揺していた。
こんな失態今までになかった。きっと祖母が生きていれば雷を落とされそうだ。否や、今晩でも化けて出てきそうな気もしなくもない。ネーベルは澱を吐き出すように深い息をつき、再び帰路に向かう。
……魔女ではあるが、幽霊だ異形の魔物だのそういった超常的な恐ろしい存在は大嫌いだ。たとえ、大好きな祖母の霊でも少し恐ろしく思う。まず霊なんか見た事も無いが……。そんな事を考えつつ、ネーベルはスタスタと橋の残りを歩む。
渡りきってしまえば、森の入り口まではあと少しばかり。さっさと帰ろうと意気込んでネーベルは歩を早める。しかし、己を示す『魔女』というの声が何処からともなく聞こえる気がした。きっと、気のせいだろうと思う。平然を装っていようが、ネーベルは未だフードの下では阿鼻叫喚したままだったのだから。
しかし──
「おい! 無視かよ!」
途端にグイと腕を掴まれた。それも恐らく男に。ネーベルは背筋を戦慄かせる。
幻聴でなかった。しかし、自分に触れようとする物好きなんて今まで居た試しも無い。この状況を理解出来ず、ネーベルはフードの下で、今度は目を瞠って唖然とした。
「へ、あ……」
唐突の出来事で声が裏返ってしまった。
それはもう、声を出したネーベル自身も恥ずかしくなってしまう程。頬が煩わしい程に熱を帯びていく事が分かる。しかし、相手は急用があってわざわざ異端者に触れるまでの行動に出たのだ。
「……何用でしょうか」
気を取り直したネーベルは男が居るであろう方へ顔を向けて、物静かに問いかけた。
すると瞬く間に頭上から「ぶっ」と、吹き出すような笑いが溢れ落ちてくる。
「おお、魔女も人間なんだな。お前の取り乱し方面白れぇな」
この男は何を当然の事を言っているのだろうか。
確かに魔女だって血の通った人間だ。占術と呪術を扱う神秘の力を持ち、何からしらの加護を受けている事は確かだが、れっきとした人間に違いない。
ネーベルはフードの下で目を細め『失礼ね』と、心の中で独りごちる。
「ああ、悪りぃな。気を悪くするな。逆に安心した」
低めの声ではあるが、やや癖がある。声色から察するに、若い男だろう。顔もハッキリと見えないが、声色だけで少し狡猾そうな雰囲気を感じた。
「お前ちょっと家まで来い、話と用事がある」
緊急の依頼だろうか。
これから帰って洗濯物を取り込み、夕飯の準備をしなくてはいけないのに……。ネーベルはフードの下で眉をひそめた。しかし依頼ならば仕方ないだろう。ミステルの民の為に尽くす事。それが霧の魔女だ。耳にタコが出来そうな程に聞かされた祖母の言葉を思い出し、ネーベルは間を置いて頷いた。
「悪りぃな」
詫びる割にはあまり悪びれた返答では無い。やはり軽妙な雰囲気がする。そんな妙な男に導かれ、ネーベルは彼の後を歩み始めた。
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