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Chapter5.真意と終わりの音

5-8.深層から

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 まるで冷たく暗い水の中にいるかのよう。アルマが意識を戻すと、視界いっぱい濃紺の世界だった。だがその奥底は深淵でも見るかのように酷く暗い。
 エーデルヴァイスの力を発現させてから、人の心の中に何度か潜り込んだが、こうも冷たく暗い世界は初めてだった。
 文面でしか知らないが、まるで深海のようだとアルマは思った。
 やがて、金に光るものが泳ぐように近付いてくる。見るからに魚の形をしている。

 しかし、それが横切った瞬間──アルマの視界は切り替わった。 

 見渡す限り、青と白で統一された美しい町並みだった。白の壁面にはびっしりと蔦が張っており、濃い桃色の花が咲き乱れる異国情緒がこぼれる街だった。
 遠くまで広がる広大な湖があるが……少しばかり塩辛い匂いがする。あれが、海だろうか。
 アルマはその風景を一望する。だが、直ぐに視点は切り替わり、手元のスケッチブックへと移った。
 そこには、海の見える町並みが細やかに描き込まれていた。今の彼の絵ほど上手ではないが、それでも細やかな表現でやはり彼の絵だと分かる。

(ここって……)

 話に聞いた町並みや海の景色が合致する。間違いなく、彼の生まれ故郷だろう。つまり、これはかつての彼の視点。なんとも美しい場所だとアルマが感嘆するのも束の間、スピラス語で話す少女の声が背後から響いた。
 その声に彼は振り向く。そこには、お揃いの帽子と白いワンピースを纏った少女が二人立っていた。銀の髪に菫色の瞳……と、テオファネスと全く同じ色彩をした幼い女の子達だった。
 一人は、十歳を過ぎたほど。少しつり目がちな部分は彼に似ているだろう。どこか活発な印象の女の子だった。もう一人は、未だよちよち歩きの幼児で……。

 何を話しているかは、少しスピラス語を教わっただけのアルマでは分からない。
 それでも幾らか単語を拾う事が出来る。「侯爵」「お兄ちゃん」「一番上」「絵ばかり描いてないで」……一部繋ぎ合わせれば〝侯爵家の嫡男〟になるだろう。

 アルマは目を丸く瞠った。国は違えど、貴族階級としては概念が同じであれば第二位に値する。家庭教師の話といい、どこか高貴な印象を覚えたのも妙に納得する。
 しかし、少女達の和やかな笑い声はぼやけるように次第に消え失せ、視点は変わり、美しい筈の景観が炎に掻き消されていった。

 次に感じたのは薬品臭さだった。真っ暗な室内の鉄格子は酷く歪んで見えた。やがて、啜り泣く彼の声が僅かに聞こえてくる。ぼやけて映るのはテオファネス・メルクーリと彼の名が刻まれた認識票だ。その上にぽたぽたと雫が落ち、彼はまたもスピラス語で何かを言う。だが、これだけはアルマも理解出来た。
『お父さん、お母さん』『死にたくない』と彼は震えた声でそう言った。

 ──視点はどんどんと切り替わる。人の体温を察知する機械の瞳から見えた世界。砲弾の音に男達の怒声や悲鳴。目をらし、耳を塞ぎたくなるような悲惨な戦場の有様。それを幾度も幾度も繰り返した後、カサンドラ准士官の声がぼんやりと聞こえた。

「……通常であれば、長くて三年程度。五年以上の稼働はどう考えても異常だ。つまり、いつ寿命の兆候が来てもおかしくない。処分理由はその寿命を危惧してらしい。そこで私の勝手なエゴだが、人と何ら変わらぬ君に幸せに余生を過ごして欲しく思う」

 ──どうだい、逃げる気はないかい? 幸せな余生が欲しくないかい。そうかれて、彼は戸惑いつつも頷いた。

 そうしてようやく、アルマも知る景色が見えてきた。
 真っ白な万年雪を乗せた霊峰ザルツ・ザフィーアだ。初夏のザフィーア修道院の早朝。鐘の音が鳴り響き、暫くすると何かがぶつかる軽い衝撃を背で感じた。

「痛った……」と、呟いた声は間違いなく自分のもの。

 やがて映し出されたのは、ぼさぼさの三つ編みの自分。間違いなく初対面のあの時だとアルマは直ぐに理解した。

「……俺の身体、硬いから痛かったね。怪我してない?」

「どーも、その三つ編みおさげが朝から気になって」

 次々に響く言葉は、全て聞き覚えのあるものばかり。そして、修道院での過ごし方においての説明を受けた後に彼の視点は切り替わる。

「本当にそれで俺は本当に救われるの。人間に戻れるの?」
 ────俺が死ぬ時は、人として死ねるの。天国に行く救いってあるのかな。 

 彼が心の中で呟いた言葉が聞こえて、アルマはハッと目をみはる。

「本当にそうなの? それでさんくさい力が使えるならさ、万が一俺を救えず今の言葉を裏切った時に君の純潔を奪うかも知れないよ」
 ────君が本当に天使なら、俺の事本当に救ってくれるかな。でもさ俺、君に危害を与えて命を脅かす可能性があるんだ。君、無関係じゃん、俺そんなの嫌だな。

 言葉の裏に隠れた本心が浮き立ち、アルマは戦慄した。そう。相手を分析し挑発する……。特性を発揮している最中の彼は全く別の言葉を心の中で語っていたのだ。

 こんなの気付く筈も無い。分かる筈も無い。

「どうしてテオ……なんで本当に思った事を言わなかったの」

 人には何度も言った癖に自分が守れていない。アルマがそう呟いたと同時だった。

「……言って良い本心と、言って悪い本心ってあると思う。だって、そんなの言ったらアルマは怒るだろ。面倒な役目を押しつけられてさ。もっと嫌な気持ちにさせるだろ。だから、俺アルマには手を借りないで、寿命は迎えようって思った」

 どこからかテオファネスの声が聞こえた。

「テオ!」

 どこなのか分からない。アルマは辺りを見渡すと再び群青の世界に戻される。頭上には先程過った金の魚の群れが泳いでいる。人によって形は違うが、あれが彼の記憶の欠片なのだろう。

「テオ、どこにいるのよ!」

 叫んだ途端だった。ふと視線を下に向ければ、数多の影の手が見えた。あの先に間違いなくテオファネスはいる。アルマは、更に深く深くへと沈んでいった。

 またも金の魚の群れは過ぎ去り、やがて聞こえ始めたのは、彼の心に留めた心の数々だった。
 スピラス語で何を言っているのか分からぬ言葉も多い。それでも「嬉しい」「ありがとう」など様々な暖かな感謝の言葉が分かる。

 それからやがて見え始めたのは、星空だった。それを背景に悪戯気な笑顔を浮かべて笑う自分がいる。そんな自分に彼はスピラス語で何か言った直後だった。

 ──そんなに優しくて、可愛い笑顔を向けられたら、俺、アルマの事を好きになりそうだよ。

 と、ジンと彼の言葉が響き渡ったのだ。しかし彼は「アルマありがとうって言っただけ」と照れ臭そうに言ってみせる。

「え……」

 アルマは思考停止した。まさか、そんな言葉を言っていたなんて思いもしない。
 その時に言われた単語〝アガペ〟とは。

 ──アルマ、愛してる。響いた言葉に、アルマはテオファネスの名を叫んだ。

「──私だって、私だって貴方が好きよ!」

 その途端だった。強く抱き寄せられる感触がしてアルマが目をみはると、彼の腕の中にいた。
 しかし深層にいた彼は、普段とは違う姿だった。双眸は人間のもの。吊り上がった瞳の菫色は濁り無く澄んでおり、腕も金属には侵食されていない。そう、機甲マキナでなく……人間そのものの姿をしていた。

「……ずるいよ。ひどいよ、俺の心の中に入りたいとか言ってさ。この気持ちだって、アルマにとっては重荷で迷惑なものだから。言わないように隠してきたのに。全部知られちゃったじゃん。なんで死ぬ前にそんな事言うんだよ」

 ──諦めきれなくなる。好きでいたい。生きていたくなる。と彼は大粒の涙を溢して、嗚咽を溢した。その涙はふわふわと濃紺の空間を漂い、星のように煌めいた。

「ごめんね、テオ。私、貴方に何が出来るか分からないけれど……赦しと戒めを与えに貴方の心に入ったの。立場上、禁忌に違いないけど、私もテオを愛してるから、だから……」

 しかと伝えると、彼は顔をくしゃりと歪めて肩を震わせて「ずるいよ……」と何度も繰り返す。

「それはこっちの台詞でしょ。大事な事を言わないでさ、本当に最低でしょ」

 泣きながらも呆れつつ言ってやると、彼は「ごめん」と直ぐに詫びを入れた。
 そうしてアルマは、目を瞑るようにとテオファネスを諭す。彼は大粒の涙を流しながらも素直に瞼を伏せた。

「……火曜の天使の名のもとに、迷える機甲マキナテオファネス・メルクーリの影を赦します。貴方が人として天に召される事を私は祈ります。ただし、肉体を失おうと魂が消えるその時まで、私に二度と嘘を吐かず偽りなき心である事を胸に刻み戒めなさい」

 そう呟き、祈りを捧げた途端だった。数多の影の手は一瞬にして金の魚群に変わり二人をぐるりと取り囲む。

「……いい? 何があろうが、必ず守るのよ」

 アルマは未だ大粒の涙を流す彼にそう告げて、くるりときびすを返した。

「分かった。守るよ……」

 背後でそんな声がした直後──一際眩い光を感じ、アルマは押し出されるように深層から上昇した。普通、帰り道の出口が分からなくなる筈だが、不思議と出口が分かるような気がした。それは金の魚群が導くようにアルマを誘っているからだろうか。

 そうして幾何か……遠くで彼の呼ぶ声が聞こえてくる。

 やがてそれは鮮明となり、アルマはぱっと目を開けると、そこは雪明かりの青白い夜。ぞっとするほどの寒さだが、ハタハタと頬に何か熱いものが落ちてきた。

「アルマ!」

 やがて焦点がはっきりと合い、顔を覗き込む彼が大粒の涙を落としている事が分かった。足元がやけに冷たく思うのは雪の上に腰をつけているからだろう。それも彼にきつく抱き寄せられており……。
 テオファネスの瞳もいつものよう、左右非対称の強膜に戻っている。しかし、いつもと彼が明らかに違った。
 黒い筈の強膜の暗度が少し薄まったように思える。今は灰色だ。それに、首筋に見えた機械の継ぎ目が無くなっている。
 心なしか身体の硬さが少なくなっており、アルマは確かめるように彼の左手を触れた。
 手は変わらず金属質だ。しかしその範囲は狭まっている。以前は胸の近くまで硬かったが、肩周辺は人同様の肉感がある。

「テオ……よかった。身体は痛くない? 辛くは、ない?」

 涙を浮かべてアルマが尋ねると、彼はクシャクシャな泣き顔のまま何度も頷いた。

「寿命、伸びたのかなぁ。凄いね……エーデルヴァイスの力」

 私も知らなかった。本当に奇跡みたい。なんてクスリと笑んで、彼の頬を両手で包み込んだと同時だった。
「アルマありがとう」そう告げた彼は、泣き濡れた端正な顔を近付けた。

「愛してる」と続けて告げた言葉は、唇をくすぐり──途端に唇に冷たくも柔らかな感触が触れた。 銀の長い睫が間近に映る。それだけで口付けをされたのだと理解出来て、アルマは抗う事もなく、そっと瞼を伏せた。

 そんな二人を見るものは氷のような銀の月だけ。雪原の世界で一つの塊のように重なり合う二人は、何度も何度も角度を変えて口付けを交わし合う。冷たいが、氷菓のように甘やかに思えてしまう。まるで夢のような心地だとアルマは思うものの、意識は次第に白い波に攫われていった。
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