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第三章 恋の病
3-2.大きな誤解
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恩返しの為、夫妻の家に留まる事、早二週間以上が経過した。
エリアスはモーゼフを手伝い、共に狩りに出掛ける他、薪割り等の力仕事をしている。片やレイヤは、ラウラについて部屋の掃除や炊事の手伝いを行っていた。
その合間を縫って、レイヤは必死に言葉と文字の勉強をしていた甲斐もあり、ノキアン語での少しのやりとりが出来るようになりつつあった。
夏至が近付くにつれて、日の入りは遅くなる。現在午後二十時近くだが、陽は僅かに西の空に傾く程度で、あかりを灯さずとも窓から差し込む日差しで室内は明るい。
夕食後、カチャカチャと食器を洗う音が部屋に反響していた。レイヤは洗い物をするラウラの元へ手際よく食器を運んでいた。
<いつもありがとうね、あなたがいると本当に助かるわ>
──ありがとう、助かる。
断片的に理解して、レイヤは首を横に振る。
<ううん。ラウラおばさん、食事、作ってくれた。おいしかったの。今日も、ありがとう>
〝ラウラおばさんの作った食事は今日も美味しかった、ありがとう〟と、レイヤは覚えたてのノキアンの言葉で、素直に礼を述べる。しかし、ラウラが首を傾げて考えるので、未だ拙いようだ。
しょんぼりしてしまうと、彼女はレイヤに向き合い愛おしげに髪を撫で始めた。
……もう十六歳。立派な大人なのに、まるで子供扱いだ。それでも彼女に髪を撫でられるのは嫌でない。ただ少しだけ腑に落ちないだけだ。レイヤは、真っ白な頬を薔薇色に染め、居心地が悪そうに身じろぎすると彼女はようやく手を離してくれた。
<悪いわね。あなたって本当に愛らしいから、つい撫でたくなっちゃう。エリアスから十六歳って聞いたから、もう子供でもないと思うのに>
やだわぁ。とラウラは手を払って笑いつつ言う。
ラウラの言葉は半分程度しか理解出来なかった。やはりノキアン語は発音が独特で聞き取りににくい。それに、単語が所々違う。レイヤが小首を傾げてラウラをジッと射貫くと、彼女は<そういえば>と、話を切り出した。
<ねぇ。レイヤ、エリアスからも詳しくは聞いてないけど、あなたはどこから来たの? ソルヤナでは無いみたいだけど>
ラウラは、丁寧に言葉を区切ってレイヤに訊いた。
これならば何となくだが分かる。〝ソルヤナじゃない、どこ、来た〟と──この単語から、〝どこからやって来たのか〟と分かり、レイヤは頷く。
<遠い北、永久凍土。もう無い>
少し前までは、思い出すだけで辛くなる言葉だった。
だが今は、口にしてもさほど胸は痛まなくなった。とは言っても、愛おしい故郷や馴染みの顔を忘れた日は一日も無かった。
本来、無関係の異国の民に語る気なんか無かった。訊かれたら適当にはぐらかす事だって考えていたが……不思議と言ってしまった事にレイヤは自分で驚いた。
きっと、彼女ら夫妻が好奇の目を向けず軽蔑もしなからだろうか。レイヤは困ったように笑んだと同時──包まれる暖かさを感じた。
鼻腔を擽る、林檎とよく似た香りはカモミール──ラウラの纏う匂いだ。
ラウラに抱き締められていると直ぐに理解するが、一体なぜに。レイヤは目をしばたたき、小首を傾げた。
他人に触られる事をやけに嫌ってきた筈なのに、やはり不思議と嫌でなかった。エリアスに何度か抱き締められた事があるが、無骨な男の身体とは違い、その抱擁はとても柔らかく心地良い。更に後ろ髪を優しく撫でられ穏やかな気持ちに満たされる。レイヤはラウラの胸の中、微睡むように目を細めた。
<ねぇレイヤ。もう一つだけ訊いてもいいかしら? あなたとエリアスって……少し歳は離れてるけど、恋人かしら? どうやって知り合ったの? 馴れ初めが聞いてみたいわ>
──エリアスと自分が恋人か。どうやって知り合ったのか。分かった単語を掻い摘まみ、彼女の言わんとしている事をレイヤはどことなく理解した。
<恋人じゃない。エリアス、コルトスで私を買った……ソルヤナの旅、奴隷>
〝恋人ではない。奴隷として売られた自分を買って助けてくれた。一緒にソルヤナに帰ろうと言ってくれた〟……と、言いたいが伝わるだろうか。不安に思ったと同時、ラウラはスッとレイヤから身体を離した。
どうしたのだろうか。そう思って、レイヤは彼女の顔を見上て直ぐ、ギョッとしてしまった。
ラウラは大抵いつだってにこやかだ。優しげな笑みを浮かべて温かな光を瞳にたたえているが、今の形相は全く違う。顔を真っ赤に染め、険しい相好をしていたのだから……。
<……おばさん?>
レイヤは臆しつつも訊くが、ラウラは一瞥もせず、ふくよかな身体を揺すってキッチンから出て行ってしまった。
いったい何だというのか。レイヤはラウラの去った方を呆然と見つめる事暫く──家の外で彼女の怒鳴り声が響いた。
*
食事を終えて、エリアスは外で黙々と薪を割っていた。
薪割りは初めてだったが、意外にも重労働だとこの二週間で思い知った。
時刻で言えば、夜も深まる頃合いだが、空はまだ明るい。
額から滲み出る汗を拭って一休みをしようとエリアスが切り株に座した途端だった。中年女性が自分の名を怒鳴りながら呼ぶのだ。やがて姿を現したのはラウラだった。彼女はふくよかな身体を揺らして歩み寄って来る。
──何事だろうか。怒られるような事をした覚えは無い。エリアスは立ち上がり、詰め寄るラウラに小首を傾げる。
「どうしたのですか?」
何かレイヤが粗相をしたのだろうか。しかし、見たところ彼女は下手をすれば自分よりもラウラに心を開いていると窺える節がある程だ。不躾な真似はしないだろうと思しい。それに、彼女ら夫妻に詳細に語らなかったものの、レイヤは狩猟遊牧民の出生上、長らく原初的な生活を送っていた事を伝えている。故に、フォークやナイフが上手く使えなくとも彼女らは一切咎めやしなかった。ゆっくりと慣れていけば良い。と温かく彼女を見守っていた筈だ。
エリアスは複雑な面を浮かべて、怒り震えるラウラをジッと射貫く。
「本当にどうしたのですか……何をそんなにお怒り……」
エリアスが全てを言う前に、ラウラに彼の胸ぐらを掴みかかった。
「エリアス! 私、あの子から聞いたわ! レイヤを買ったってどういう事よ!」
予想だにしなかった事を言い放たれ、エリアスは硬直した。
「どうしたんだい、母ちゃんよ」
騒ぎに気付いたモーゼフは家の裏手から姿を現した。その後ろには、不安そうな表情を貼り付けたレイヤの姿もある。
……それだけで薄々分かった。きっとレイヤは〝どこから来たか、自分とどんな関係か〟と訊かれたのだろう。
彼女のノキアン語が未だ拙い。否、そもそも言葉に無駄が無い。必要なだけ端折って伝えてしまい、このような誤解が生じたのだろう。しかも、なぜにラウラが怒るのか分かっていない。でなければ、レイヤ当人がこんなに不安そうな顔なんてしないだろう。
(まずいな……どうやって誤解を解こう)
エリアスが思考を巡らせたと同時だった。
「雪のような髪色に氷河のように青い瞳。伝え聞く民と姿と全くもって一致するわ。郵便配達員が持ってきた噂話で最近滅びたと聞いていた。だからね、あの子が白き地獄の娘だって私は薄々勘付いたけど……買ったって、あなたは!」
惨めな娘を慰みにするなんて──! と叫ぶラウラの声と共にエリアスは突き飛ばされた。
しかし、どう答えて良いか分からなかった。
どう足掻いたって、買った事実は変わらないのだ。人を買う。即ち命を買うと同義だ。
とは言っても、彼女を買った理由はやましいものでない。エリアスは、慎重に言葉を選びつつ唇を開いた。
「事実、レイヤは白き地獄に住まうフリージアの末裔だ。奴隷としてコルトスで売られていたのも事実だ。それを僕が買ったのだって事実だ、でも……」
──慰みではない。大事な旅の相棒であって、守るべき存在。心から愛している。と、告げようするが、ラウラが言葉を割る方が早かった。
「お黙りなさい! あの子を置いて、今すぐに出てお行きなさい! お金が欲しいなら、ありったけの財産を渡すわ!」
「僕は彼女に何も危害は加えていない! 慰みになんてしていない! ラウラさん、どうか、僕を信じてくれ!」
エリアスは首を振り、声を張り上げた途端──ラウラは大きく手を振りかざした。
──撲たれる。エリアスは目を瞑る。しかし、一向に衝撃も痛みも来ない。恐る恐るエリアスが瞼を持ち上げると、ラウラの手を必死に押さえる少女の姿があった。
「嫌だ! エリアスに意地悪しないで」
悲鳴混じりの甲高い声だった。レイヤの話すノキアン語はフリージアの言語で話す時と違って、角が無くどこか稚く聞こえる。彼女は今にも泣きそうな面で、ラウラとエリアスを交互に見るとブンブンと首を横に振る。
「おばさんやめて! エリアス、叩かないで!」
「レイヤ、あなたはこの人に騙されているのよ」
諭すように言って、ラウラはレイヤの華奢な腕をやんわりと解いて握りしめる。返す言葉を整理しようとしているんか、レイヤが眉を寄せて暫く──
「違う。エリアス、私にひどい事しない! ごめんなさい私、言葉が下手。まって」
と、彼女はきっぱりと言い放つ。それから暫く経過して、息を整えるとレイヤはゆったりと言葉を切り出した。
「……私、エリアスがとても大事。私、奴隷。それで、助けてくれた。ソルヤナに連れて行く約束してくれた。私たちは旅人。私、エリアスが今一番大切に思う」
だから、意地悪しないで。と、拙い言葉でレイヤは付け添える。
「母ちゃんよ、嬢ちゃんの言う通りだと思うよ。兄ちゃんは悪い奴ではないさ。それは俺も保証するよ。何って言ったって、初めて会った時、兄ちゃんは倒れた嬢ちゃんを見て泣きそうな顔を浮かべてたくらいだ」
奴隷と思うなら、そこまで大事にする訳がないだろう。そう付け添えて、モーゼフは、宥めるようにラウラの肩を撫でる。
「そうよね……本人がそう言うなら間違い無いわね。言葉が未だ拙いのは分かっていたのに。〝買った〟って言葉を聞いて、頭に血が上って私、あなたにひどい事を言ってしまったわ……」
ごめんなさい。と、ラウラはエリアスに深々と頭を垂れた。
これで誤解は解けた。胸を撫で下ろしたエリアスは、深く息を吐き、首を横に振った。
「ラウラさん、どうか気にしないでください。事情を詳しくは言えなかった僕も悪いのです。それに、こうして顰蹙を買うのも恐れていた部分は少なからずありました。理由はどうであれ、買った事実は変わらない。こればっかりは、誤解されたっておかしくない事ですから」
だから、顔を上げてくださいとエリアスが促すと、そこでようやくラウラは顔を上げた。
「今回の件で、彼女をそこまで想ってくれた貴女が本当に心優しい人だと思いました。こうして長い滞在を快く承諾して下さった事も感謝しきれません」
今度はエリアスが深々と頭を垂れた。「そんな感謝するような事でも無いわ! よしてちょうだい!」とラウラは慌ててエリアスの肩を揺すり顔を上げるように促した。
片やレイヤは、二人を見て未だ心配そうな面を浮かべている。それに見かねたのだろうか。モーゼフは手を叩き、注目を集めた。
「さあさぁ皆。集落の連中に〝何の騒ぎだ〟ってびっくりされちまう。家に入ろうじゃないか」
モーゼフに言われ辺りを見渡すと、集落の者達が窓を開けて、様子を窺っていると分かる。まだ仄かに明るいが、誰もが黙ると静謐としており、明るくとも夜と再確認する。
「小さい集落だから、母ちゃんが兄ちゃんを怒鳴ったなんて、すぐに噂になっちまうぞ。母ちゃんよ兄ちゃんにお茶でも淹れてやってくれ。まだまだ斧を振り下ろすのがへなちょこながらも、頑張ってずっと薪を割ってたんだ」
さぁさ。と、ラウラの手を引いたモーゼフは、家の方へと歩み始めた。
「そうねぇ。もうすぐ就寝の時間にもなるでしょうが、折角だしお茶でもしましょう。レイヤが好きな木苺のパイもあるわよ。エリアスも早く手を洗って上がってらっしゃい」
先程までの怒りは消え失せており、ラウラは普段通りの優しげな面持ちで朗らかに言う。
「木苺!」
大好物に反応したレイヤは、嬉しそうに復唱するとエリアスの腕を強く引く。
……彼女は触れる事を拒み、自ら触れてくる事さえ無かった。そんな彼女が触れてくるのは初めてだろう。エリアスは目を瞠って隣を歩む彼女を見下ろすと、直ぐに視線が交わった。
「ごめん。私が言葉が下手な所為で、エリアスに嫌な思いをさせた」
レイヤは申し訳無さそうにフリージアの言葉で謝罪を述べるが、エリアスは直ぐに首を横に振った。
「いいんだよ。むしろ、はっきりと言えて良かった」
そう言って、エリアスは彼女の手を握りしめる。レイヤは目を瞠った後──たちまち首まで赤くして俯いてしまった。
激昂に冷えた瞳でなくなった。彼女の瞳の中には今でこそ爛々とした光が躍りはじめた事を悟るが、素直ではないのは相変わらずだ。それでも握った手を払われないのは、嫌悪を持たれていない何よりもの証拠だろう。
それに、〝大事〟と言ってくれたのだ。彼女の性質上、嘘が吐けないだろうと思しい。そもそも言葉に無駄が無いのだ。〝紛れもない本心〟と思うと、心が擽ったくなり、エリアスは思わず声を出して笑みを漏らしてしまい、ハッとするが──時は既に遅かった。
「……なに笑ってるの。エリアスなんか気味悪いよ」
訝しげに見上げていたレイヤに、随分と上達したソルヤナ語で呆れたように言われてしまったのであった。
エリアスはモーゼフを手伝い、共に狩りに出掛ける他、薪割り等の力仕事をしている。片やレイヤは、ラウラについて部屋の掃除や炊事の手伝いを行っていた。
その合間を縫って、レイヤは必死に言葉と文字の勉強をしていた甲斐もあり、ノキアン語での少しのやりとりが出来るようになりつつあった。
夏至が近付くにつれて、日の入りは遅くなる。現在午後二十時近くだが、陽は僅かに西の空に傾く程度で、あかりを灯さずとも窓から差し込む日差しで室内は明るい。
夕食後、カチャカチャと食器を洗う音が部屋に反響していた。レイヤは洗い物をするラウラの元へ手際よく食器を運んでいた。
<いつもありがとうね、あなたがいると本当に助かるわ>
──ありがとう、助かる。
断片的に理解して、レイヤは首を横に振る。
<ううん。ラウラおばさん、食事、作ってくれた。おいしかったの。今日も、ありがとう>
〝ラウラおばさんの作った食事は今日も美味しかった、ありがとう〟と、レイヤは覚えたてのノキアンの言葉で、素直に礼を述べる。しかし、ラウラが首を傾げて考えるので、未だ拙いようだ。
しょんぼりしてしまうと、彼女はレイヤに向き合い愛おしげに髪を撫で始めた。
……もう十六歳。立派な大人なのに、まるで子供扱いだ。それでも彼女に髪を撫でられるのは嫌でない。ただ少しだけ腑に落ちないだけだ。レイヤは、真っ白な頬を薔薇色に染め、居心地が悪そうに身じろぎすると彼女はようやく手を離してくれた。
<悪いわね。あなたって本当に愛らしいから、つい撫でたくなっちゃう。エリアスから十六歳って聞いたから、もう子供でもないと思うのに>
やだわぁ。とラウラは手を払って笑いつつ言う。
ラウラの言葉は半分程度しか理解出来なかった。やはりノキアン語は発音が独特で聞き取りににくい。それに、単語が所々違う。レイヤが小首を傾げてラウラをジッと射貫くと、彼女は<そういえば>と、話を切り出した。
<ねぇ。レイヤ、エリアスからも詳しくは聞いてないけど、あなたはどこから来たの? ソルヤナでは無いみたいだけど>
ラウラは、丁寧に言葉を区切ってレイヤに訊いた。
これならば何となくだが分かる。〝ソルヤナじゃない、どこ、来た〟と──この単語から、〝どこからやって来たのか〟と分かり、レイヤは頷く。
<遠い北、永久凍土。もう無い>
少し前までは、思い出すだけで辛くなる言葉だった。
だが今は、口にしてもさほど胸は痛まなくなった。とは言っても、愛おしい故郷や馴染みの顔を忘れた日は一日も無かった。
本来、無関係の異国の民に語る気なんか無かった。訊かれたら適当にはぐらかす事だって考えていたが……不思議と言ってしまった事にレイヤは自分で驚いた。
きっと、彼女ら夫妻が好奇の目を向けず軽蔑もしなからだろうか。レイヤは困ったように笑んだと同時──包まれる暖かさを感じた。
鼻腔を擽る、林檎とよく似た香りはカモミール──ラウラの纏う匂いだ。
ラウラに抱き締められていると直ぐに理解するが、一体なぜに。レイヤは目をしばたたき、小首を傾げた。
他人に触られる事をやけに嫌ってきた筈なのに、やはり不思議と嫌でなかった。エリアスに何度か抱き締められた事があるが、無骨な男の身体とは違い、その抱擁はとても柔らかく心地良い。更に後ろ髪を優しく撫でられ穏やかな気持ちに満たされる。レイヤはラウラの胸の中、微睡むように目を細めた。
<ねぇレイヤ。もう一つだけ訊いてもいいかしら? あなたとエリアスって……少し歳は離れてるけど、恋人かしら? どうやって知り合ったの? 馴れ初めが聞いてみたいわ>
──エリアスと自分が恋人か。どうやって知り合ったのか。分かった単語を掻い摘まみ、彼女の言わんとしている事をレイヤはどことなく理解した。
<恋人じゃない。エリアス、コルトスで私を買った……ソルヤナの旅、奴隷>
〝恋人ではない。奴隷として売られた自分を買って助けてくれた。一緒にソルヤナに帰ろうと言ってくれた〟……と、言いたいが伝わるだろうか。不安に思ったと同時、ラウラはスッとレイヤから身体を離した。
どうしたのだろうか。そう思って、レイヤは彼女の顔を見上て直ぐ、ギョッとしてしまった。
ラウラは大抵いつだってにこやかだ。優しげな笑みを浮かべて温かな光を瞳にたたえているが、今の形相は全く違う。顔を真っ赤に染め、険しい相好をしていたのだから……。
<……おばさん?>
レイヤは臆しつつも訊くが、ラウラは一瞥もせず、ふくよかな身体を揺すってキッチンから出て行ってしまった。
いったい何だというのか。レイヤはラウラの去った方を呆然と見つめる事暫く──家の外で彼女の怒鳴り声が響いた。
*
食事を終えて、エリアスは外で黙々と薪を割っていた。
薪割りは初めてだったが、意外にも重労働だとこの二週間で思い知った。
時刻で言えば、夜も深まる頃合いだが、空はまだ明るい。
額から滲み出る汗を拭って一休みをしようとエリアスが切り株に座した途端だった。中年女性が自分の名を怒鳴りながら呼ぶのだ。やがて姿を現したのはラウラだった。彼女はふくよかな身体を揺らして歩み寄って来る。
──何事だろうか。怒られるような事をした覚えは無い。エリアスは立ち上がり、詰め寄るラウラに小首を傾げる。
「どうしたのですか?」
何かレイヤが粗相をしたのだろうか。しかし、見たところ彼女は下手をすれば自分よりもラウラに心を開いていると窺える節がある程だ。不躾な真似はしないだろうと思しい。それに、彼女ら夫妻に詳細に語らなかったものの、レイヤは狩猟遊牧民の出生上、長らく原初的な生活を送っていた事を伝えている。故に、フォークやナイフが上手く使えなくとも彼女らは一切咎めやしなかった。ゆっくりと慣れていけば良い。と温かく彼女を見守っていた筈だ。
エリアスは複雑な面を浮かべて、怒り震えるラウラをジッと射貫く。
「本当にどうしたのですか……何をそんなにお怒り……」
エリアスが全てを言う前に、ラウラに彼の胸ぐらを掴みかかった。
「エリアス! 私、あの子から聞いたわ! レイヤを買ったってどういう事よ!」
予想だにしなかった事を言い放たれ、エリアスは硬直した。
「どうしたんだい、母ちゃんよ」
騒ぎに気付いたモーゼフは家の裏手から姿を現した。その後ろには、不安そうな表情を貼り付けたレイヤの姿もある。
……それだけで薄々分かった。きっとレイヤは〝どこから来たか、自分とどんな関係か〟と訊かれたのだろう。
彼女のノキアン語が未だ拙い。否、そもそも言葉に無駄が無い。必要なだけ端折って伝えてしまい、このような誤解が生じたのだろう。しかも、なぜにラウラが怒るのか分かっていない。でなければ、レイヤ当人がこんなに不安そうな顔なんてしないだろう。
(まずいな……どうやって誤解を解こう)
エリアスが思考を巡らせたと同時だった。
「雪のような髪色に氷河のように青い瞳。伝え聞く民と姿と全くもって一致するわ。郵便配達員が持ってきた噂話で最近滅びたと聞いていた。だからね、あの子が白き地獄の娘だって私は薄々勘付いたけど……買ったって、あなたは!」
惨めな娘を慰みにするなんて──! と叫ぶラウラの声と共にエリアスは突き飛ばされた。
しかし、どう答えて良いか分からなかった。
どう足掻いたって、買った事実は変わらないのだ。人を買う。即ち命を買うと同義だ。
とは言っても、彼女を買った理由はやましいものでない。エリアスは、慎重に言葉を選びつつ唇を開いた。
「事実、レイヤは白き地獄に住まうフリージアの末裔だ。奴隷としてコルトスで売られていたのも事実だ。それを僕が買ったのだって事実だ、でも……」
──慰みではない。大事な旅の相棒であって、守るべき存在。心から愛している。と、告げようするが、ラウラが言葉を割る方が早かった。
「お黙りなさい! あの子を置いて、今すぐに出てお行きなさい! お金が欲しいなら、ありったけの財産を渡すわ!」
「僕は彼女に何も危害は加えていない! 慰みになんてしていない! ラウラさん、どうか、僕を信じてくれ!」
エリアスは首を振り、声を張り上げた途端──ラウラは大きく手を振りかざした。
──撲たれる。エリアスは目を瞑る。しかし、一向に衝撃も痛みも来ない。恐る恐るエリアスが瞼を持ち上げると、ラウラの手を必死に押さえる少女の姿があった。
「嫌だ! エリアスに意地悪しないで」
悲鳴混じりの甲高い声だった。レイヤの話すノキアン語はフリージアの言語で話す時と違って、角が無くどこか稚く聞こえる。彼女は今にも泣きそうな面で、ラウラとエリアスを交互に見るとブンブンと首を横に振る。
「おばさんやめて! エリアス、叩かないで!」
「レイヤ、あなたはこの人に騙されているのよ」
諭すように言って、ラウラはレイヤの華奢な腕をやんわりと解いて握りしめる。返す言葉を整理しようとしているんか、レイヤが眉を寄せて暫く──
「違う。エリアス、私にひどい事しない! ごめんなさい私、言葉が下手。まって」
と、彼女はきっぱりと言い放つ。それから暫く経過して、息を整えるとレイヤはゆったりと言葉を切り出した。
「……私、エリアスがとても大事。私、奴隷。それで、助けてくれた。ソルヤナに連れて行く約束してくれた。私たちは旅人。私、エリアスが今一番大切に思う」
だから、意地悪しないで。と、拙い言葉でレイヤは付け添える。
「母ちゃんよ、嬢ちゃんの言う通りだと思うよ。兄ちゃんは悪い奴ではないさ。それは俺も保証するよ。何って言ったって、初めて会った時、兄ちゃんは倒れた嬢ちゃんを見て泣きそうな顔を浮かべてたくらいだ」
奴隷と思うなら、そこまで大事にする訳がないだろう。そう付け添えて、モーゼフは、宥めるようにラウラの肩を撫でる。
「そうよね……本人がそう言うなら間違い無いわね。言葉が未だ拙いのは分かっていたのに。〝買った〟って言葉を聞いて、頭に血が上って私、あなたにひどい事を言ってしまったわ……」
ごめんなさい。と、ラウラはエリアスに深々と頭を垂れた。
これで誤解は解けた。胸を撫で下ろしたエリアスは、深く息を吐き、首を横に振った。
「ラウラさん、どうか気にしないでください。事情を詳しくは言えなかった僕も悪いのです。それに、こうして顰蹙を買うのも恐れていた部分は少なからずありました。理由はどうであれ、買った事実は変わらない。こればっかりは、誤解されたっておかしくない事ですから」
だから、顔を上げてくださいとエリアスが促すと、そこでようやくラウラは顔を上げた。
「今回の件で、彼女をそこまで想ってくれた貴女が本当に心優しい人だと思いました。こうして長い滞在を快く承諾して下さった事も感謝しきれません」
今度はエリアスが深々と頭を垂れた。「そんな感謝するような事でも無いわ! よしてちょうだい!」とラウラは慌ててエリアスの肩を揺すり顔を上げるように促した。
片やレイヤは、二人を見て未だ心配そうな面を浮かべている。それに見かねたのだろうか。モーゼフは手を叩き、注目を集めた。
「さあさぁ皆。集落の連中に〝何の騒ぎだ〟ってびっくりされちまう。家に入ろうじゃないか」
モーゼフに言われ辺りを見渡すと、集落の者達が窓を開けて、様子を窺っていると分かる。まだ仄かに明るいが、誰もが黙ると静謐としており、明るくとも夜と再確認する。
「小さい集落だから、母ちゃんが兄ちゃんを怒鳴ったなんて、すぐに噂になっちまうぞ。母ちゃんよ兄ちゃんにお茶でも淹れてやってくれ。まだまだ斧を振り下ろすのがへなちょこながらも、頑張ってずっと薪を割ってたんだ」
さぁさ。と、ラウラの手を引いたモーゼフは、家の方へと歩み始めた。
「そうねぇ。もうすぐ就寝の時間にもなるでしょうが、折角だしお茶でもしましょう。レイヤが好きな木苺のパイもあるわよ。エリアスも早く手を洗って上がってらっしゃい」
先程までの怒りは消え失せており、ラウラは普段通りの優しげな面持ちで朗らかに言う。
「木苺!」
大好物に反応したレイヤは、嬉しそうに復唱するとエリアスの腕を強く引く。
……彼女は触れる事を拒み、自ら触れてくる事さえ無かった。そんな彼女が触れてくるのは初めてだろう。エリアスは目を瞠って隣を歩む彼女を見下ろすと、直ぐに視線が交わった。
「ごめん。私が言葉が下手な所為で、エリアスに嫌な思いをさせた」
レイヤは申し訳無さそうにフリージアの言葉で謝罪を述べるが、エリアスは直ぐに首を横に振った。
「いいんだよ。むしろ、はっきりと言えて良かった」
そう言って、エリアスは彼女の手を握りしめる。レイヤは目を瞠った後──たちまち首まで赤くして俯いてしまった。
激昂に冷えた瞳でなくなった。彼女の瞳の中には今でこそ爛々とした光が躍りはじめた事を悟るが、素直ではないのは相変わらずだ。それでも握った手を払われないのは、嫌悪を持たれていない何よりもの証拠だろう。
それに、〝大事〟と言ってくれたのだ。彼女の性質上、嘘が吐けないだろうと思しい。そもそも言葉に無駄が無いのだ。〝紛れもない本心〟と思うと、心が擽ったくなり、エリアスは思わず声を出して笑みを漏らしてしまい、ハッとするが──時は既に遅かった。
「……なに笑ってるの。エリアスなんか気味悪いよ」
訝しげに見上げていたレイヤに、随分と上達したソルヤナ語で呆れたように言われてしまったのであった。
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