【R18】氷雪のフリージア

日蔭 スミレ

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第三章 恋の病

3-1.森での出逢い

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 瞼を擽る光の眩しさに、レイヤはゆっくりと睫を持ち上げる。
 真っ白だ。やがて、焦点が定まり始め、全く見慣れない木目調の天井が見えた。レイヤは寝返りを打って今までを思い起こす。

 ──コルトス北部の街を出た後、森へ入って野宿した。その翌日も歩いて……。
 一つ一つを思い返すが、記憶はある一点から完全に消え失せていた。

(確か私、立とうとしたら倒れて。それで酷い獣臭で目を覚ましたらエリアスが熊に襲われそうになっていて……そこからは……)

 レイヤは体を起こして、辺りを見渡す。
 殺風景な一室だった。部屋全体を包む壁は暖かみのある木目調。天井は丸太を幾つも敷き詰めたものだった。寝台の真後ろに窓が一つあるが、硝子を嵌めたものでなく、木の棒で板を持ち上げて開いている──と、極めて簡素なものだった。

 ──宿の一室だろうか。と思った時、キィと部屋の扉が開く。

 ドアの向こうに、恰幅の良い中年女性の姿があった。ふっくらとした頬はまるで林檎のよう。彼女は驚嘆したおもてで、豊満な身体を揺すりレイヤに近付いて来た。
 何かを必死に訴えかけるが、全く聞き馴染みも無い言語で分からない。しかも一ヶ月以上滞在したコルトスの言語とまた違う。困窮したレイヤは目を白黒とさせた。

「な、なに……誰?」

 言葉を出した途端に喉に激痛が走った。それでも慌てて立ち上がろうとするが、彼女はレイヤの肩を押さえるなり無理矢理ベッドに押し込まれた。しかし、布団をかける所作は極めて優しい。

(え、どういう事……)

 あらがおうとしたが、どうにも身体に力が入らない。結局どうする事も出来ず、布団の中でレイヤが途方に暮れた時だった。

「起きたのかい?」

 聞き慣れた声にレイヤはどことなく安堵した。視線を向けると、エリアスが扉の前に立っており、中年女性に会釈すると部屋に踏み入って来た。

「エリアス……」

 ガラガラの声で言うと、彼は首を横に振るう。

「君、喉を相当痛めているよ。今は無理に喋らないで。心配したよ、高熱で倒れて……」

 そのおもてはどこか悲しげであり、非常に申し訳なさそうにも映る。しかし、高熱で倒れたと……? 彼の言葉をはんすうしてレイヤは目をみはった。

「私が倒れた?」

 思わず言葉に出してしまうが、彼の言う通り酷く喉が痛い。

「だから無理に喋らないで……」

 エリアスは心底心配そうにレイヤを窘めた。
 思えばあの日も喉が痛かった。否、次第に痛くなっていった。更に言えば、熊を追い払う為に咆吼を上げた所為もあるだろう。あの声を出すには少なからず喉に負担がかかる。更に痛め付けるような行為だったと想像は容易い。レイヤが頷くと彼はやれやれと首を横に振った。 

「そう。君は三日も眠っていたよ。ただの風邪だったみたいだけどね。熱はすっかり下がったみたいで、もう回復しつつあるみたい」

 そう言われたって信じられまい。レイヤは目をしばたたく。

「──三日も? わ、私が風邪?」

 あまりの驚嘆に復唱するが、やはり喉に激痛が走りレイヤは身悶えた。
 今まで風邪なんて引いた事も無かったので、当然のように信じられない。
 何せ、戦士になる為に今まで生きてきたような人間だ。年間の半分以上が雪と氷に閉ざされた場所で生きてきたのだ。劣悪な環境で生活していたので健康だけは折り紙付きだ。そんな自分が風邪を引いて熱を出したと……。衝撃の事実にレイヤは開いた口が塞がらなかった。

「まだ寒いのに野宿したのが悪かったのかもしれないね。それに君はこうなるまで永久凍土ツンドラから出た事も無い。病原菌に対する抵抗なんて殆ど無いだろうから、こうも悪化したんだと思えるんだ。僕も、ラウラさんにかなりお説教されたよ」

(……ラウラさん?)

 レイヤが神妙な顔をすると、彼は隣に立つふくよかな婦人を丁寧な手つきで示す。

「こちらの方がラウラさんだよ。この針葉樹林タイガの集落に住んでいる方さ。彼女が君の看病をずっとしてくれてたんだよ?」

 紹介された彼女──ラウラは、目尻に深い皺が寄せ、優しい笑みをレイヤに向けた。
 林檎のような丸々赤々としたほっぺたが愛らしい。しかし、その瞳も夏の夜空のよう深い青をたたえており、美しい色彩だ。いかにも優しげで品の良い中年の婦人といった風貌である。それを更に際立たせるのは、こうもふっくらとした恰幅だからだろうか。

 しかし、服装は決して裕福そうに見えない。極めて素朴だ。

 白髪の多く交ざった蜂蜜色の髪を三つ編みして白の頭巾で覆っており、エプロンも少しばかり汚れていた。そんな身なりに負けず、あまりに笑顔が優しいので温かみのある雰囲気を感じた。

「……その、おばさんありがとう」

 言葉は通じないだろうが、レイヤは痛む喉を気にしつつも小声で礼を述べた。
 エリアスが直ぐに異国の言葉で彼女に語りかける。するとラウラはベッドの縁に腰掛けて、レイヤの頬を撫でた。
 きっと、エリアスが言葉を伝えてくれたのだろう。しかし、撫でられると擽ったくて堪らない。それでも彼女の手がひんやりとして気持ちが良く思えた。



 その後、毎日苦いハーブティーを飲み、食後にはしょっぱいような苦いような……お世辞にも美味しいとは言えないリコリスのキャンディーを舐める等と、苦みの伴う治癒が続いた。
 そのお陰で、レイヤは数日で声も出せるようになり、体調も万全に整った。エリアスもレイヤの回復の早さに驚いていたが、彼女は少し腑に落ちなかった。

 そもそも、熱病を拗らせる程に思い悩んだのは全てエリアスの所為に違わない。

 とはいえ、大荷物を担いだ彼は、レイヤとレイヤの分の荷物を抱えて森の道を歩んでいたのだ。幸い途中で目を覚ましたので獣害に遭わず済んだが……彼はナイフを抜いて、自分を守ろうとしてくれた。助けて貰った分際だ。レイヤは彼を責める事が出来なかった。むしろ感謝すべきだろう。そう思えて、レイヤは照れ隠しにそっぽを向きつつ、彼に一言だけ感謝を述べた。

 しかし、あの夜の出来事は依然として忘れる事が出来ず、今も心の奥底で燻っている。それを思い出す都度、腹の奥の方でふつふつとした不快感が沸き立ち、レイヤはそれ以降思い出さぬように努めていた。
 こうして、無事に完治したの再出発する筈だった。しかし、このまま何もせず立ち去るのも後味も悪い。レイヤは看病してくれたラウラにどうにかして恩を返したかった。
 何か返したい、礼がしたい、だから〝もう少しこの針葉樹林タイガの集落に留まりたい〟とレイヤはエリアスに伝えた。
 渋るかと思ったが……エリアスは快諾してくれた。何やら彼も彼で彼女の夫、モーゼフに深い恩があるそうだ。その旨をエリアスに頼み、夕食の席で話してもらったところ<いくらでも、好きなだけ滞在なさい>と言ってくれたそうだ。 
 それに、あとひと月程で夏至となる。<夏至祭はきっと、大勢でお祝いした方が楽しいから滞在は大歓迎だわ>と、ラウラは言ってくれたそうだ。



 針葉樹の緑の香りをたっぷり含んだ風の吹く静かな午後。
 レイヤはラウラの焼いたジンジャークッキーを頬張りながら、テーブルで熱心に文字を綴っていた。 

 それは一見、文字に見えぬだろう。否、かろうじて読める人には読めるかもしれないが……一言で言えば、ミミズがのたくったようなヘタクソなものだった。しかし、紙の上でミミズを量産する当の本人は、栗鼠のようにクッキーで頬を膨らませているものの、真剣そのもののつらがまえだった。

「凄いね……だいぶ上手くなったね」

 正面に座したエリアスは、ヘタクソな字を優しく褒める。
「でしょう!」と、自信満々な顔でレイヤが言うと、彼は何度も頷いた。

 レイヤの手はインクで汚れており、なぜか頬にもインク跡がついている。しかし、彼女はそんな事を気に留めずに、ペンの先にインクを足して再び紙に向き合った。

 ──フリージアの文化に文字という概念は一応ある。だが、戦士と育てられる身には不要なものとされており、レイヤはろくに文字の読み書きが出来なかった。

 言語や文字の勉強を始めたのは、ラウラやモーゼフと関わるようになった事が一因している。レイヤがラウラやモーゼフに何かを伝えたくとも、全てエリアス伝いだからだ。
 当たり前のように不便極まりない。滞在が決まった日から少しずつ、レイヤはノキアン語とソルヤナ語の勉強をしていた。

 エリアスの話によれば、ソルヤナを含めた北の三国(及びに亡国のエスピリア)は訛りによる発音の差、名詞の呼びにやや違いがある程度で、言語自体の共通点が非常に多いらしい。またソルヤナ語に関しては、フリージアの言語と近しい部分が最も多いそうで、覚える事は決して難しい事ではないと彼は説いた。

 ……思えばコルトスで初めてエリアスに会った時、彼の言葉が少し拙く聞こえたのはこの所為もあったのだとレイヤは理解した。つまりあの時彼は、ソルヤナ語で話しかけていたのだ。そして、レイヤの話すフリージアの言語の特色を理解して、彼はそれに合わせて話していたとおぼしい。

(だったらもしかして……)

 何か思い立ったレイヤは、ペンを置く。

「……ん。どうしたの?」

 本を読むエリアスは、ちらりとレイヤを一瞥した。

<エリアス。私、ソルヤナの言葉、話せてる?>

 初めて会った時の彼の言葉を思い出しつつ、レイヤはおずおずと声に出す。すると彼は、目をみはってレイヤに向き合った。

<……すごいじゃないかレイヤ。完璧だよ>

「ほんの少しだけど違いが分かったの。初めにエリアスが私に話した言葉はソルヤナ語でしょ。ほんの少し発音や言い回しが違うだけであって……フリージアの言語とさほど変わらないって気付いたよ。不思議だね。ここまで似てるなら、これじゃあ元々同じ場所に住んでいた人間みたいだもの」

 笑みつつ言うと、彼は目を丸くして頷いた。

「そうだね。君たちは永久凍土ツンドラに残った者とソルヤナに降りた者で二つに分かれたと言うが……千年も昔は、ソルヤナ人だって同じ民族だったのかもしれないね」

 博識な彼に言われると、なぜか非常に納得してしまう。レイヤは頷いた後、再びペンを握って紙に視線を戻した。

 ……きっとソルヤナ語は慣れればなんとかなるだろう。だが、問題はノキアン語だ。

 彼曰く、ノキアン語は、ソルヤナ語とも似通った部分があるが、独特な発音があり名詞がかなり違うそう。そして、文字に関しては書くのも読むのも難しいとレイヤは思った。〝モノにしてしまえば簡単〟とエリアスは言うが、レイヤは、滞在中に夫妻と意思疎通出来るようになるか不安だった。

「出来るようになるのかな」思わず独りごちれば、彼はクスクスと笑む。

「喋れれるようになるか心配? 大丈夫さ、ソルヤナ人の僕が数日で簡単に使えこなせた程なんだ。つまりその逆。君たちの言葉の方が丁寧なんだよ。だけどその分、変な癖が無いんだ。吸収しやすいんじゃないかと思うよ。それに、レイヤは考えただけで、ここまでソルヤナ語を喋れるから君は充分に飲み込みが早いと思うよ」

 きっと直ぐに慣れるさ。と付け添えて。彼は、紅茶を一口飲んで優しい笑みを向ける。
 しかし何度でも思うが、彼の優しい笑み方が腹が立つ程に綺麗だ。その顔を見ていると、腹に甘やかな擽ったさを覚えて、次第にムシャクシャした気持ちが膨れてくる。

<……そんな根拠、どこにあるの>

 レイヤはソルヤナ語で言うと、プイとそっぽを向いた。
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