【R18】氷雪のフリージア

日蔭 スミレ

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第一章 最初で最後の戦

1-3.〝戦姫〟という名前

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 建物を出て、石畳で舗装された庭園の小道を歩む。
 ほどなくして、別館の湯殿に辿り着いたレイヤは、目に飛び込んだ光景に息を飲んだ。

 広い、そして美しい。
 まるで雪のように白々とした大理石のタイルが敷き詰められた大きな浴室だったのだ。

 競りに出される前にいた場所に浴室は無かった。楢の木の桶に湯を張って、洗濯物の如くじゃぶじゃぶと洗われていた。それでも小柄なレイヤが一人で入るに何も困らない。だが、今レイヤの目の前にある湯船ときたら大人が十人は浸かれるであろう広さだ。

 白い石造りの湯船は装飾まで細かい。天使のレリーフが一面に彫られており、羽のついた獅子が湯を吐き出している。みなには薄紅の花片が浮かんでおり、うっとりとしてしまう程に甘い香りが充満していた。
 女中達は当たり前のようにレイヤの服を脱がし始めた。素っ裸になったら、髪を洗い身体を洗われ……と、丁寧な作業のように進んでいく。
 売られる直前も、これと同じだったのでいい加減に慣れてしまったが、ここまで人に世話を焼かれるのは良い気分がしなかった。今は手足も自由だ。なぜにここまで面倒を見られるかレイヤには微塵も理解出来なかった。しかし、間違い無く言葉が通じないと分かっている。
「やめろ」と捲し立てたって、暴れもしなければ解放されないだろう。しかし、暴れない約束だ。だからレイヤは、借りてきた猫のように大人しく洗われていた。

 たっぷりのサボンで髪や身体を清められ湯で濯がれると、『どうぞ』と言わんばかりに女中は湯船を示す。
 中に入れと。理解して、レイヤが湯船に浸かると、甘い香りは鼻腔を越して頭いっぱいに染みこんできた。まるで自分がこの香り一色になってしまうのではないのかと錯覚してしまう程だ。だが、嫌な匂いではない。

 ……皮肉な事ではあるが、湯に浸かると心地良いものだとレイヤはこの数日間で知ってしまった。そもそも湯に浸かるなんて、こうなってしまう前まで考えた事など無かった。

 永久凍土ツンドラに湯浴みという概念は無い。清潔を保つ為の手段はもっぱらサウナだ。これは天幕テントの中に大量の焼き石をくべて、その上に雪や氷を置き水蒸気を発生させる。
 その時、白樺の葉で身体を叩き、身体を清めると同時に心の穢れを払う。所謂、禊ぎだ。汗だくになって、出ては入っての繰り返し。そうして、清潔を保っていたが……やはりここまで大量の湯に浸かるのは、やはり違う。とろんとアイスブルーの瞳を細めたレイヤは、膝を伸ばして、みなに漂う花片を指で弾いてみる。

(なんだっけ、さっきの花……チューリップ? あれとは違う?)

 ふと、チューリップを思い出した途端にエリアスの顔が浮かんでしまった。
 嫌味なほどに、それはもう腹が立つ程に綺麗な男だった。しかし、少しなよなよとして、やけに丁寧に扱ってくるので気味が悪い。レイヤは唇を拉げ、澱を吐き出すように大きなため息を漏らした。
 閑散とした開放的な浴場だ。フリージアの戦士が得意とする〝白熊さえ脅かす獰猛な咆吼〟を上げてスッキリしてやりたいが「良い子にしているように」との言いつけが頭を巡る。レイヤは目を細めたまま口まで湯に浸かった。

 ……そう。優しい奴は怒るとだいたい怖い。麗しい巫女ヘレナもそうだが、いつもニコニコとした長老の爺さんもそうだった。レイヤは懐かしむように思い起こす。

(ヘレナ、私どうなっちゃうのかな)

 離れ離れになった親友の名前を心で呟き、レイヤは瞼を伏せる。
 彼女は今頃どうしているのだろうか無性に気になった。酷い事をされていないだろうかと不安もかげる。だが今となっては、彼女が生きているかも定かで無い。だが、彼女は美しい。きっと大丈夫だろう。そう言い聞かせて、レイヤは彼女の顔を思い出す。

 ……あの夜、〝レイヤは幸せになる〟とヘレナは言った。だが、今となってはあれは彼女の精一杯の優しさだったのだろうと思えた。
 レイヤからしても、ヘレナは優しすぎる幼馴染みだった。
 困っている者がいれば絶対に放っておかない。慈悲深き女神のような存在だった。民の言葉に必ず耳を傾け、精霊や星の導きを語り民を先導する。誰からも好かれる絶対的な存在だった。

 そう。優しい彼女の言ったあの言葉は、とてつもなく優しい嘘に違わないと今更ながらレイヤは痛感した。何せ、馬車に乗せられた直後の自分は怪我も気にせず、怒りくるって暴れ藻掻いていたのだ。二日以上は不眠で延々と足枷を千切ろうとしていた。そんな姿を見て、これ以上不安にさせないように、しっかりと眠らせる為に気遣ったのだとおぼしい。

(ごめんね、ヘレナ……本当にありがとう)

 レイヤは心の中で彼女に深謝した。
 この後、あの青年……エリアスに純潔を奪われると容易く想像出来た。何せ、湯浴みがあまりに入念だからだ。そもそも女奴隷の使い道なんて、身体目的以外に無い。
 初めから冷たくあしらって、暴力を振るわれていれば全てに諦めがついただろう。あんなに生優しい態度は怒りばかりが燻って、ちっとも泣く事が出来ないのだ。
 そう……泣いてしまえたらきっと全てが終わって楽になるだろうとレイヤは思った。

(もう、考えるの止めよう)

 行く末はどう足掻いても絶望しか無い。今一度悟れば、気分がかげってくる。もうどうだっていい。自分に言い聞かせて、レイヤは入浴を終わらせた。

 うっとりする程甘い香りの香油を全身に塗られた後、湯上がりのレイヤは漆黒の夜着を纏っていた。裾に向かう程に広がっており、繊細なレースが至る所にあしらわれた愛らしいデザインだ。思えば、青・赤・白・茶色以外の色を纏うのは初めてだとふと思った。
 目が全く見慣れない。だから、何だか服に着られているような感覚だった。それでも、まんざらでも無いのだろう。後ろで髪を梳く女中は鏡越しで終始にこやかな笑みを浮かべてレイヤを見つめていた。そうして、身支度が終えると女中はレイヤに目配せをして退出を促した。
 言葉が全く通じないのだから、態度で示してくれるのは、ほんの少しありがたく思う。そう思いつつ、レイヤは女中の後について浴場を後にした。

 庭園を抜けて来た道を戻る。螺旋階段に差し掛かると、それを上った。上りきると、直線に伸びた板張りの廊下に突き当たる。廊下を奥まで進み、女中は一番奥の部屋をこうする。
 中から響くのはエリアスの声だ。すると間もなく扉は開き、当たり前のようにエリアスが顔を出した。

 彼は帽子とコートを脱いでいた。襟元のくたびれたシャツではあるが、白くきめ細かな首元の所為か、妙にだらしなさが目立たない。それどころか、上手く着こなしているようにも映ってしまう。尚、短い灰金髪もやや無造作に跳ねているが、不思議と似合っている。
 そんな柔らかな髪質にレイヤは妙に共感を覚えた。彼も自分と同じで猫っ毛で寝癖がつきやすく、跳ねやすいのだろうと……。思わず呆然と見てしまった事を自覚して、レイヤは視線を逸らす。

 彼と女中が何か一言二言会話を交わした後、女中は去って行った。
 二人きりになってしまった事に妙な緊張が走る。面倒だ、出来る事ならば話なんかしたくない。そう願っていれば──

「見違えたよ。君って元々可愛らしいけど、きよくの色も似合うね。とても似合っている」
 と、彼は反吐が出そうな程に甘く言葉を吐いた。

 たちまち腹の奥で妙な不快を覚えレイヤは唇を拉げる。しかし、きよくの色──と。上手いたとえと思って、そこだけは感心してしまった。

 だが「可愛い」と言われてもちっとも嬉しくない。ヘレナに言われた時はムズ痒い反面、どこか嬉しかったのに、人を買う〝ろくでないし〟に言われたら虫酸が走る程に不快極まりない。
 レイヤは目を釣り上げてエリアスを睨むが、依然として彼は優しい眼差しをレイヤに送っていた。

 ……しかし思う。やはりエリアス腹が立つ程に整った顔立ちだ。

 身なりはどうであれ、やはり高貴な身分に映ってしまう。否や、奴隷を買うならば本来それなりの身分があるのだろうか……。

 王子と恋をする……。ふと、ヘレナの言葉を思い出してレイヤは首を横に振った。

 ──彼の素性がどうであれ、〝主人〟と〝奴隷〟に変わらない。彼と結ばれるなんて運命は十中八句ありえないだろう。
 あまりにジッと見ていたからだろうか。エリアスは少しばかり居心地悪そうな顔をして、苦笑いを溢した。

「僕がどうかしたの? 入りなよ」

「なんでも無い」と素っ気なく答えて、レイヤは部屋に入った。

 ──部屋の中は、浴室同様に豪華絢爛だった。壁至る場所に白の金箔の貼られたしつくい装飾が施された煌びやかだ。天井中央に設置されたリコリスを逆さにしたようなシャンデリアは〝豪奢〟の一言に尽きる。室内の奥には深い緑の天蓋つき寝台が設置されており、窓辺には二人がけのテーブルと椅子がある。その上には様々な料理が乗せられており、白い湯気がふわふわと上っている様から出来たてだとおぼしい。
 肉の良い匂いがふわりと漂って来て、レイヤがまじまじと食事を見たと同時だった。キュル……と、腹の虫が鳴いた。

 思えば昨晩から何も口にしていなかった。裸は恥ずかしくないが、腹の虫の音を聞かれるのはどことなく恥ずかしい。それを初対面の相手に聞かれたら尚更で……。レイヤは顔を赤々と染めて俯いた。しかし彼は全くそれを気にする様子も無い。

「食事にしよう。遠慮無く沢山食べていいからね」

 さぁおいで。と、エリアスはレイヤの手を取るが──何か思い出したようで「あっ」と短く言って振り返る。

「そうだよ。君の名前を聞いてなかったね」

 教えてくれないかい。と優しくかれて、レイヤは自分の名を素っ気なく答えた。

「レイヤか。僕の国に伝わる神話の女神──戦姫のフレイヤと響きが似ているね」

 君に似合う綺麗な名前──と言って、エリアスは綺麗に笑んだ。

 ──戦姫フレイヤ。確かに響きは似ているだろう。

 精霊と星を信仰するフリージアだが、語り継がれた神話もある。その中の登場人物に女神フレイヤは存在した。彼の言う通り、フレイヤは戦を司る女神であるが、同時に豊穣と死を迎える女神と言われている。彼の言う神話と同一だろうか……レイヤはふと考えた。
 だが、「戦姫フレイヤ」と言われた事に、悪い気は全くしなかった。事実、生まれたその日から女戦士となる宿命を背負っていたのだ この由来が正しいかは不明だが、顔も知らぬ父母が与えた名の本当の意味を知った気もして、どこか誇らしくも思えた。

 しかし、どう返事をして良いかも分からない。
 レイヤは眉を寄せて床を見つたと同時……近くから腹の虫の音が聞こえた。自分でない。レイヤは思わずエリアスを見ると、彼の頬にはたちまち朱が差した。

「……実は、僕も朝から何も食べてないからおなかが減っているんだよね。さ、食べようよ」

 少し気まずそうに、エリアスはレイヤを丁重にテーブルに案内した。
 それから間もなく。テーブルを挟んで対面した彼は、何かに祈りを捧げた後、食事を始めた。片やレイヤは、困惑したおもてで数々の料理を見つめた後、一つ吐息を溢した。

 端に添えられた銀のカトラリーをどう使って良いかも分からなかったのだ。そもそも初めて見た。ジッと彼を見つめていれば、それらを上手に使って肉を切り分け口に運ぶ。

 なるほど……。と、納得して、レイヤは銀のフォークを握りしめザクリと肉に突き刺した。
 その様を対面するエリアスは目をみはって見つめている。彼に構わずレイヤは肉に齧り付いた。

 馴鹿トナカイや鹿でない。何の肉かは不明だがそれは芳醇で美味しい。目を輝かせたレイヤは、彼を目に留めずにガツガツと肉を貪り始めた。
 唇の端に赤々としたベリーのソースが付着するがそれも気にせずに咀嚼する。飲み込めば、今度はバスケットに手を伸ばしてパンを掴み取った。千切る事もなく、そのまま齧り付いてレイヤは目を丸くする。
 そもそもパンを初めて食べたのは、つい最近。馬車の中で与えられた硬くて味気ないパンが初めてだった。その後、幾度か食べたものだってお世辞にもどれも美味しいなんて言えなかった。しかし、今食べているパンはふわふわと柔らかくて甘みがある。

(何これ、おいしい!)

 目を輝かせたレイヤは、夢中になってパンを次から次へと貪った。
 パン屑が夜着にボロボロと溢れ落ちるが、それだってお構いなしだった。
 遠慮しないで食べて良いと言ったのだから良いのだろう。とりあえず腹を満たそうと思った。
 しかし、何を食べたってどれも本当に美味しい。挙げ句にフォークを使うのも面倒になり、レイヤは手掴みで白身魚を食べ始める。甘く濃厚なクリームソースが唇の端に付着してそれをぺろりと舐め取ったと同時だった。

「美味しいかい?」エリアスに嬉しそうにかれ、黙って頷くと彼は綺麗に微笑する。

「でもね、その食べ方じゃ服を汚してしまうからね。今度ちゃんと食器の使い方を教えるよ」

「腹に入れば、何だって同じじゃないのか」

 魚を飲み込んだレイヤは小首を傾げてエリアスに答える。すると、彼はまた嬉しそうに唇を綻ばせた。

「そうだね。だけど、文化が違う場所に来ればその地に合わせた方が都合が良く上手に生きる事が出来るんだ。勿論、自分の生まれは誇りいつだって心に留めているよ」

 僕は旅人だから、それをよく知っている。と、付け添えて。彼はどこか憂いを含んだおもてで再び食事を始めた。
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