【R18】水声の小夜曲

日蔭 スミレ

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終章

私達は必ず、幸せに生きなければならない

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 秋を迎え、冬を越して……一年の月日が巡った。

 イルゼは相変わらずに、城に留まり続けルードヴィヒの隣の部屋で暮らしていた。 
 しかし、この一年の間で本当に様々な事が起きたものだと、薔薇園の迷宮の果てにある東屋で休憩するイルゼは頬杖をついてはんすうする。
 外野は随分と賑やかだった。老若男女人の話し声が多数響いており、それだけでなく鶏の鳴き声までするのだ。

 ……そう。昨年秋にはヨハンと営んでいた養鶏所を折り畳んだ。ルードヴィヒは〝こんな場所で女の子が一人暮らしなんて逆に危ないし、気負わず城の部屋を好きに使って良いから〟との事で……イルゼは屋敷を売り払ったと同時、ルードヴィヒが買い取ってしまったのだ。
 あまりに家屋が古い事から、取り壊す事も検討しているそうで、別荘として新しい住居を作る事を検討しているらしい。 
 ちなみに鶏は、他に養鶏業を営む人達にいくらか引き取って貰ったが、それでも数が多すぎた事から、結局十羽ほど城の敷地内で雌鶏飼う事になった。
 これだけの数ならば世話など造作も無い。庭園の見張り塔ベルクフリートの端に鶏小屋を設置して、イルゼは毎日のように鶏小屋の掃除や卵拾いに行くようになった。
 鶏はこうして晴れた日には庭園の中を放し飼いにしている。そのお陰もあって、薔薇には害虫もつかず、庭師は大助かりだそうだ。そして今現在も数羽の鶏が歩き回っていた。散々鶏の首を刎ねていたが、鶏如きがそんな事を知る筈も無い。毎日世話をするので少し懐いているのだろう。

 ……そして、ルードヴィヒとの関係だが、彼が目覚めた後、お互いに話し合った上で、心の整理を付ける為に健全な友人関係から始める事となった。

 しかし互いに話す事も増えたので、以前よりも関係は良好となり、恋人関係に戻ったのは存外早く……年を跨ぐ頃、彼から再び交際を申し込まれて今に至る。
 そう恋人関係に戻ったのだ。だが、未だはっきりとはプロポーズはされていない。それでも夫婦の部屋の片方に未だ自分を住ませているという事は、には違わないのだろう。それに、彼も忙しいのだろうとは理解していたので、この件をイルゼは微塵も触れなかった。

 ……そう、ツヴァルクの領主は変わったのだ。

 前領主、ミヒャエル・ベルネットが死去した事により、彼の友であり異母兄弟であるルードヴィヒ・ベルネットがツヴァルク領の領主となったのである。

 ……あの後、彼は影武者ファルシユであった事を王宮に明かした。下手をすれば、詐欺容疑からの不敬罪などに問われる恐れもあったが、彼は瞳の色も変えずにバルバラと共に王宮に出向き、国王にこれまでの事を洗いざらいに全て話した。
 しかし、存外国王が寛容だったそうで、事実ちやくなんでなくとも先代の領主の息子である事や、前領主よりも上手に領地を取り仕切っている評判を聞いている事から、そのまま正式に爵位を継ぐ事となった。
 そうして領地に戻って数日後──ルードヴィヒは民の前に立ち、ミヒャエルの死を伝え、今まで彼の名を借りて地を取り仕切って居た事や、改めての更迭を発表したが、存外領地の人達は彼の銀鼠ぎんねずの瞳を気にする事もなく、非難する者は誰一人いなかった。

 それもそうだろう。変人とは散々に噂になっていたものの、所得の多い者に税を重くし、少ない者には軽くする他、領地整備などの意見も直ぐに取り入れるなど、彼のやり方には不満が微塵も無かったからだ。ましてや、かつての忌まれた部族の血が流れているとはいえ、領主としての彼の有能さに文句なんて付けようも無かったのである。
 しかし皆、群衆の前で姿なんて出しもしない領主がようやく顔を出しただけでも嬉しい事だと活気づいていた。
 そもそも、病弱と言われたミヒャエル様がこうまでして、領地を取り仕切る事は難しいと考えていたそうで、本物かと言われる程に些細な噂にさえなっていたそうだ。

 そして、殺人犯の娘で監禁され続けたイルゼを保護し、恋仲の関係になっている事まで彼は明かしてしまったが、これについても、男達は皆口笛を吹き、女もロマンチックじゃないとキャーキャー言う程。全く問題が無かった。

 ……しかし、古い側仕えが消息不明になった件がずっとイルゼの中では引っかかっていた。これについて聞くと、誤解を解く為にと、バルバラも呼んで彼は打ち明けてくれた。 彼は誰一人として古い使用人を殺めていないそうだ。そもそもそんな物騒な事については、考えた事もないと。影武者ファルシユと言いふらされれば面倒だからと、口止め料と手切れ金を父の遺産から出したのだと彼は言う。「探せば他の領地できっと存命だ」と、彼が言った時のバルバラの心底安堵した面をした事が妙に印象的に残った。
 そして、バルバラに話すなと命じた事について、ルードヴィヒは心の底から詫びを入れていた。そして、いつまで仕えようが自由だと彼女に言った。
 その結果もあってだろう。ヘルゲとザシャの薦めでバルバラはこの城の使用頭となった。 そう。本当に何もかもが恐ろしい程に順調だったのだ。
 ましてや、彼が以前「一般に解放出来たらな」と言っていた、閉ざされた薔薇園も見頃を迎えた今日一般に解放された。
 一応は見ておくべきかもしれないと、イルゼも今日様子を見に来たが……どうにも人が多い事や、歩けば随分と人に話しかけられるもので、早速疲労困憊してしまい、この東屋に逃げてきたのである。
 しかし、ここは迷宮だ。好奇心旺盛な子供達が幾度か顔を出す。つい、先程も鶏を追いかけてやってきた二人の男の子に絡まれたばかりだ。本当に子供は人の話も聞かない癖に質問攻め。別に嫌いではないが……どうにも疲れてしまう。その時のやりとりを思い返してぐったりしたイルゼは、テーブルに突っ伏せて間もなくだった。

「あら。ちょっと貴女大丈夫? 具合でも悪いの?」

 突然声をかけられて、イルゼは慌てて顔を上げようとしたが、直ぐに躊躇った。予想だにしない人物からの声だからだ。忘れもしない。この癪に障る甘ったるい喋り口調は義姉リンダのものに違いない。恐らく自分だと認識していないだろう。しかし──「ちょっと、ねぇ大丈夫……誰か呼んだ方が良いかしら?」と肩を揺すられてしまい、観念してイルゼが顔を上げると、お仕着せのドレスを纏ったリンダが目を丸く開いて口を開けて突っ立っていた。
 扇情的で毒々しい印象しかなかった義姉だが、どうにも化粧も薄くなった所為か、幾分か幼く見える。それに、お仕着せの紺色のドレスが似合っており、妙にしっくりときた。

「大丈夫ありがとう。どこも悪くない」

 とりあえず短く答えると、彼女は非常に気まずそうに俯いた。

「ねぇ……イルゼ今ちょっと良いかしら」

 都合は悪くないか。と、真面目な口調で聞かれて、妙に緊張が走った。
 一年程前に手紙を寄越されたが、イルゼは返事を書いていなかった。それどころか、使用人達の計らいで鉢合わせを避ける為、リンダとは会わぬようになっていた。

「……大丈夫」

 緊張しつつ答えれば、彼女は小さな声で一言礼を述べる。

「……その。兄の指示とはいえ、髪の毛を切り落とした事。あれだけは謝りたかったわ。肉切り包丁を振り回したっておかしくないとは思う。髪は女の命だもの……どうしても、この事だけは……」

 心底申し訳なさそうに言われて、イルゼは困却した。
 話したい事と言ったのだから、ヨハンに関する愚痴などかと思っていたので、率直に驚いてしまった。イルゼは目を丸く瞠って呆気にとられてしまうと「何よその顔」と彼女は直ぐさま不機嫌そうに眉を寄せた。逆にこれで安心した。ケバくなくなろうが、やがり義姉である。
 しかし、確かに今更な言葉だ。それに一年も経過したので、すっかり後ろ髪も肩を越す程にはもう伸びている。それにうなじが出る程の短い前下がりのだって慣れてしまえば割と気に入ってはいたのだ。

「髪なんか伸びるから別に……もうこんなに伸びてるし」

 イルゼがあっさりと言えば、リンダは「馬鹿」と言って唇を拉げる。

「そうかもしれないけど。そうじゃ済まされないでしょ……」

「そう言われたって義姉ねえさん……そうとしか思わないもの。こっちこそ、肉切り包丁を振り回してごめんなさい。本当に腹が立って、一時の感情でも流石にやりすぎたと思う。あと、返事書けなくてごめんなさい。何て言えば良いか本当に分からなかったの」

 素直な気持ちを伝えると、リンダは「いいのよ」と首を横に振り穏やかに笑む。
 嘲笑うような笑顔以外に見た事も無かったので、義姉がこんな表情も出来るのかとイルゼはその時初めて知った。存外メラニーと変わらぬ、普通の女のように映ってしまい、イルゼは呆気に取られてしまう。

「そうよ。私、サボってる場合じゃないわ……ちょっと休憩だったけど。早く戻らないとヘルゲとザシャにどやされるわ。全くメラニーがあんたの侍女みたいな事してる所為もあって仕事が多くて仕方ないわ」

 そんな嫌味を垂れて「また」と手を上げるとリンダはお仕着せのスカートを翻して迷宮の奥へと去って行った。
 そうして足音が聞こえなくなると、イルゼの身にドッとした疲労感に襲いかかる。

(あんなのずるい……許す他ないじゃない)

 先程の敵意も無い笑顔をはんすうするとどうにも胸の奥がムズ痒い。
 しかし、またとは。きっと、また会えば話をする事になるのだろう。 

 過去の事を思い浮かべると、未だ胸の奥がチクリとは痛むが、それでも彼女は変わりつつある。否、本来の自分に戻りつつあるのだろう。そう思うと、自分もこのままではいけないように思えてくる。人に慣れ、心を開き、一から歩み出さなくてはならない。
 さて、あと心の中で十秒ほどしたら立ち上がろう。そう思った途端だった。またも迷宮の東屋に向かって来る足音が聞こえてきたのだ。またリンダだろうか……。否、今度はメラニーか。それか、迷い込んだ街の人か。イルゼが顔をやれやれと十秒経過する前に顔を上げると、そこにはルードヴィヒの姿があった。

「イルゼここにいたの?」

 人疲れ? なんておどけて言われるので、戸惑いつつ頷くと「だろうと思った」なんて悪戯気に笑んで彼はイルゼに近付いてきた。

「あれ。ルイは仕事じゃないの?」

「まぁ気晴らし。別に急ぎでもないしさ。イルゼが庭園に行ったってメラニーが言ってたら来たけど……人多すぎて俺も疲れたわ」

 だって、みんな話しかけてくるし……。なんて唇を尖らせて言うものだから、そんな仕草が少しばかり可愛く思えてイルゼはクスクスと笑んでしまう。

「領主様がそれじゃ困るでしょ? これから、だってもっと人が多い場所に顔を出すのでしょうし」

「まぁそりゃ言えてるけどさぁ。葡萄畑の手伝いが足りないから俺も手が空いた時は行こうかなって思うし。あと、結婚式の事もそろそろ考えたいしなぁ……」

 しかし、領主自ら葡萄畑の手伝いに行くのは農夫達が困ってしまいそうだ……。そんな風に思ったものだが、最後の方にとんでもない発言があっただろう。

「え……」

 時差式でイルゼが目を丸くすれば彼は「結婚式」と同じ言葉を復唱する。

「え……」

 二度聞いても全く同じ反応をしてしまった。イルゼが目をしばたたくと彼は、イルゼの髪をワシャワシャと乱雑に撫でてニタリと笑む。

「俺とイルゼの結婚式だけどー」

 一応は分かっている。しかし、未だプロポーズだってされていない。確かに、初めて彼に抱かれる前にそんなニュアンスの事を言われたが……友達からやり直したので、あれは無効でないだろうか。イルゼが真っ赤になりつつも眉をひそめると、彼はそんな反応に噴き出すように笑った。

「んーだって言ったじゃん。前に」

「そ、それはそうだけど……」

 面倒臭い思考かもしれないが、友達から再び始めたので妙に腑に落ちない。夫婦の部屋を使っているし、いずれはそうなる気がしていたがそれでも……。結婚という言葉を出すならば、ちゃんとそういった言葉が欲しかった。
 あぁ、やはり彼は不器用なのだろう。自分も言えたものではないが……。そう思いつつ、イルゼが照れくさそうにはにかむと、彼は即座にイルゼの前に跪く。

「じゃあ、もう一回言おうね?」

 それも妙に甘ったるく言われてしまったので、頬に夥しい熱が攻め寄せる。
 しかし、ここは外だ。庭だって一般開放されているので、何時誰が、ここにやって来て、聞くかだって分からない。
 しかし、彼はお構いなしに「イルゼ!」と大きな声を張り上げた。

「その一生涯を幸せにする事を心から誓う。俺は君を傷付けるものから精一杯に守る! 僕は未熟な領主かもしれないが、しっかりとこの地をおさめて、必ず君と幸せな家庭を築いていきたい! だから、どうか……」
 ──俺と、結婚してくれ! と、声を張り上げて言われてしまい、イルゼは目を幾度もしばたたく。

 まさか、こんな大声で言われる何て思いもしなかった。否、普段の彼というとさして声量が大きくもないので……。真っ赤になってぽかんと口を開けてしまうと、彼は「返事は?」と目を細めて催促した。

「……はい。よろしくお願いします。ルイの、ルードヴィヒ様の妻にしてください」

 羞恥でプルプルと震えつつ、頭を垂れる。そうして顔を上げたと同時だった。ぎゅっと彼に抱き寄せられ、おとがいを摘ままれた。そうして、上を向かされ落ちてきたのは何よりも甘やかな口付けで……。イルゼは真っ赤になってその口付けに答えて彼の唇を食んだ。
 ……そうして幾許か。二人で薔薇の迷宮と出たと同時だった。チカチカと白んだ外から途端に大きな拍手が送られたのである。 

 何事か。と、イルゼが眩さに慣れ始めて目を開けると、陽光の下、庭に訪れていた街の人達、それから使用人のヘルゲにザシャ、メラニーにリンダ、バルバラまで。誰もが拍手を送っていたのだ。

「ご主人、イルゼおめでとう!」

 メラニーは涙を拭いつつも手を叩く。

「あんた普段、喋り口調にもやる気ねぇ割にでけぇ声出せるんすね。なかなかに良いプロポーズだったすよ!」

「そうですねぇ。証人もこう沢山いるものですし。人嫌いな貴方にしてはよく頑張って、誓いを立てましたね」

 二人は手を叩きつつそんな事を言う横で、リンダは先程と変わらぬ穏やかな笑みを二人に送っていた。

「ルードヴィヒ様、ご立派です。イルゼさんもおめでとうございます」

 まるで息子を見る母の如く。優しく笑むバルバラの顔を見た途端に、ルードヴィヒは首まで真っ赤になった。それはもういたたまれない程に赤くなっており、彼は真っ赤に染まった頬を掻いて、居心地が悪そうに口をモゴモゴとさせていた。



 祝福の嵐が過ぎた後、二人は庭園を去る。その時、一陣の風が通り過ぎて、イルゼはふと後ろを振り向いた。
 燦々とした陽光の下、やけに薄暗く見える薔薇の迷宮の入り口が目に入った。

 ……ふと思えてしまった事だが、あれはまるで自分達のこれまでの人生のように思う。

 閉ざされた場所に二人は居た。しかし、偶然にも出会い、再会し、歩み寄り一緒に迷宮から出てきたのだ。
 本当に様々な事があったが、ローレライの断崖絶壁から濁流に身を投げた二人だ。自分達ならば並大抵の事ならば、必ず乗り越えられるような気がしてならない。
 突然に立ち止まったイルゼを不思議に思ったのだろう。ルードヴィヒは「どうした?」なんて言うものだから、イルゼは首を横に振るう。

「なんでもない。ルイ、これからもよろしくね。私もルイを幸せに出来るように頑張る」

 そう言ってイルゼが明るく笑むと、彼は照れくさそうでありながらも幸せそうに目を細めた。

 ──そう。私達は必ず、幸せに生きなければならないのだから。

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