【R18】水声の小夜曲

日蔭 スミレ

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第五章 慟哭

5-8.償いと懺悔

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 あの豪雨の翌朝──イルゼが目を覚ますとすっかり見慣れたてんがい裏が直ぐに飛び込んできた。
 しかし、その直後にはメラニーに抱きつかれ「イルゼの馬鹿!」と恐ろしい程の血相で怒鳴られたが、その二秒後には「良かった」と泣きじゃくられたものだった。
 こうも泣きじゃくられてしまうと、酷い罪悪感がのしかかるもので、死んでしまいたいなんて陰鬱な感情は綺麗さっぱりと消し飛んでしまった。寧ろ、自分の分まで彼女が泣いてくれたような気もする所為かどういった訳か、気分が以前よりさっぱりとしてしまった。しかし、それでも深い罪悪感だけは拭えやしなかった。

 そう。川底に沈んだ自分を救ったのは他にもないルードヴィヒだった。それも、彼はローレライの断崖絶壁からイルゼの後を追うように飛び降りたらしい。そんな彼は四日経った今でも眠ったまま──昏睡状態だった。 

 彼は今、自室のベッドで静かに眠っていた。今にも瞼を持ち上げて、星屑の光に似た儚げな銀鼠ぎんねずの瞳をこちらに向けそうだが、瞼は固く閉じてピクリとも動かない。それでもかろうじて胸が上下している事が分かるが、イルゼが目を覚ました翌日からずっとこの様子から変わる事がなかった。
 医者の話によれば、幸いにも命に別状はないそうだが、こうも昏睡状態が長く続く事にイルゼは途方もない不安に駆られた。

 影武者ファルシユとはいえ領主だ。不貞の子とはいえ、正真正銘の貴族の血統ではある。この状態が延々と続くのは悪い事に違わない。

 しかしまさか彼が、後を追って助けに来るだなんて思いもしなかった。何もかもに失望したからと言って、流石に後先も考えない行動だった。
 そう。彼がこうなってしまったのには自分に責任がある。
 確かに、彼のやり口や横暴さには如何なものかと思ったが、全てを悪い風に捉えて、微塵も彼の言葉を信用しなかった事もこのような結果を招いたに違わない。もっと話し合うべきだっただろうと、後悔は後から後へと沸き立ってくる。
 そう。たとえ執着されているにしたって、彼の思いも与えてくれた愛情も本物に違わなかったのだ。そうでなければ、あの断崖絶壁から身を投げてまで自分を救おうなど思いもしなかっただろう。確かに、ヨハンを殴りつける彼の面には畏怖を抱いたが……。何が何でも自分を守ろうとしてくれた事には変わりない。
 それを今更のように確認し、イルゼは眠る彼を見つめて「ごめんなさい」と何度目になるか分からぬ謝罪の言葉を口にして、彼の前髪を優しく撫でた。

 ……しかし、メラニーの話によれば、あの時不思議な事が起きたそうだ。

 イルゼが水面に落ちて直ぐ──水面が青々とした光を放ち濁流が一時凪いだそうだ。それは、もはや奇跡が起きたとしか言いようもないとの事。その光景を目撃したメラニーは興奮気味にそんな話を語った。
 しかし、それには身に覚えがある。何せ、亡き者にされた母と川底で邂逅するという不可思議な体験までしてしまったからだ。川底は青々と澄んでおり、数多の白い花が咲き乱れる幻視を見た。つまり、これがメラニーの言う奇跡の瞬間と繋がるのだろうと思える。
 しかし、あまりに現実的でなく幻想じみていた。それでも〝全てが本当に起きた事〟と物語るように救助されたイルゼは母のしていた夜空色の鉱石の嵌め込まれたペンダントをきつく握っていたのだ。それは今も勿論、イルゼが持っている。ディアンドルのエプロンのポケットから夜空色の石の嵌め込まれたペンダントを取り出したイルゼは深い息をついて、ベッドに横たわるルードヴィヒに目をやった。

(もう一つ奇跡を起こして……お願いだから、彼を目覚めさせて。私は、しっかりと彼に向き合って謝らなくてはならない。浅はかな事をした事を出来る限りの事をして償わなくてはならない)

 華奢な手を組み合わせて、イルゼは随分長い事祈り続けた。
 
 ……だが、それから二日が経過しても、彼は目を覚まさなかった。 
 それでもたった二日間で、イルゼの周りにはいくらか変化が起き始めた。

 まずはルードヴィヒの暴行により負傷したヨハンが退院し、収容された知らせだった。

 ──長年にわたり義妹を監禁した事や、強制猥褻の容疑にかけられヨハン・ベッカー自警団により捕縛された。容疑はその他にも。犯行の口封じの為、援護するようにと実の妹を恐喝した。それは当事者である、ヨハンの実の妹であるリンダ・ベッカーが自警団にて供述したのだそう。
 リンダの供述によれば、犯行の手口は、義妹の食事に毎晩のように睡眠薬を盛り卑猥な行為をしていた……と、計画的で悪質極まりないものだった。

 ヴァレンウルムで信仰される教えでは、兄弟への姦淫は禁忌とされている。それは当然、血は繋がらなくとも同等だ。判事の元、彼の罪は公正に裁かれたそうだ。
 ヨハンは殺人を犯してはいないので、処刑は免れたらしいが、西の離島に向かい土地開拓の強制労働をする事となったらしい。
 そう、もうヴァレンウルムのある大陸には二度とは帰って来られない永久追放。ほぼ無期懲役に等しい程である。既に彼の身は王都に向かう船に乗せられたとの事だ。

 しかし、まさかリンダが直接供述したとは思わず驚かされた。

 恐らく、自分の潔白を証明したいとの意図があったのだろうとは窺えるが、更に驚かされたのはヘルゲからリンダが綴ったとされる手紙を渡された事だった。

 ──今は私も心に整理がつけられない。だけど、何も罪も無い貴女を蔑み貶めた事を謝罪するわ。それでも、いずれ貴女に直接伝えなくてはならない事がある。もし良かったら返事を頂戴と……。

 手紙にはただ、それだけが綴られていた。
 しかし、あの身勝手で傲慢なリンダの口から謝罪なんて言葉が出るなんて思いもしなかった。だが、それこそ本当にどう返事したら良いかも分からぬもので、イルゼは返信を書けずにいた。
 更にヘルゲから世間には強制猥褻の容疑は周囲に明かされていないとの事を直接言い渡された。尚、自警団の男達には一切この事を口にする事や他者に広げる事を禁ずる事を自警団の男達に強く言ったらしい。
 ……なぜそうしたかと言えば、イルゼ自身の名誉を守る為だそう。
 確かに、義兄に穢され続けたなんて割れれば、更なる奇異の目を向けられたっておかしくない。この計らいには、イルゼは心から有り難く思った。
 尚、殺人犯の娘というレッテルにおいては、存外街の人たちはさして気にしていないそう。寧ろ、この事件を通して、殺人犯の娘という弱みを利用して、残酷な仕事を義兄に強要され、監禁され続けた娘として浸透しつつあるそうだ。そういった訳で、特に街の女性達は強くイルゼを援護しているらしい。
 確かに事実なのだろうし、これには有り難いとは思えるが……こうも都合が良いのは腑に落ちなかった。
 それに対してヘルゲは「きっと、素直なイルゼさんも、屈折して捻くれてるルードヴィヒも苦手な言葉の言い回しです。要は、生きやすくする為の知恵ですよ」と、ニコリと笑んでイルゼを諭した。

 そんなヘルゲは今だからもう言える……と、更なる暴露をイルゼにした。

 何やらリンダと既に形式上で婚姻関係を結んでいるとの事で……。イルゼは目を瞠って驚いたのは言うまでも無い。ヨハンの事を内偵する為に仕入れたのだとはルードヴィヒから聞いたが、まさか仕入れる為にそんな関係まで結んでいたとは驚いてしまう。
 それも……〝なかなかに素直じゃなくて可愛い〟やら〝少し濁っていますけど、良い女性です〟とヘルゲがニコニコと言うものだからイルゼは狼狽えてしまった。
「どれだけ時間が経過したとしても、いつか貴女に許せる時が来たら、彼女の話を聞いてあげてくださいね」と、そんな言葉を残して彼は去って行った。

 そして、もう一つの報告は……実の母の事だった。

 救助された時に偶然にも母がいつも身につけていたこのペンダントをイルゼが拾い上げた事から、川の水量がようやく戻った昨日、自警団が調査に当たったところ、川底に母のものと思しき骨が見つかったと、つい先程報告を受けた。
 衣類の残骸など他は何も見つからなかったそうだが、鉄の鎖が結び付けられた大きな石がいくつも見つかったそうで、恐らく……浮かんでこないようにと重りをつけてローレライから遺体を打ち捨てられたのだとおぼしい。恐らく殺したのは父だろうとの事。どこの骨かも分からぬが、小さな化粧瓶に詰められて母の遺骨はイルゼの元へとやってきた。
 ずっと川底に沈んでいて寂しかったのだろうか。しかし、あの時見せてくれた川底の花は庭園で見た薔薇に負けず劣らずに美しかった。イルゼは遺骨の入った瓶を両手で包むように抱き締めて、ルードヴィヒの部屋に向かう。

「ねぇ、お母さん。彼はルードヴィヒ。ルイっていうの。お母さんが居なくなった一年後くらいかな……彼、私に昔会ってるの。少し変わった人よ。私が愛した人。色々あってね、今は好きかどうかは分からないけど、彼には感謝もしているし謝りたい事も沢山あるの」

 そこに居る筈も無い母に語りかけるよう、イルゼは彼の顔を覗き込む。

「お母さんが教えてくれた歌。すいせい小夜曲セレナーデっていうらしいの。その曲名も知らなかった続きも彼から教わったの。この歌、彼の遠い遠い先祖……シュロイエを歌ったものらしいの。ルイはね、とても綺麗な星の光みたいな瞳をしてるの」

 静かに告げてイルゼは息を吸い、ゆったりとすいせい小夜曲セレナーデを歌い始めた。しかし──歌い始めて間もなく。叩扉が響き、イルゼは慌てて歌を止める。

「はい」と、中から返事をして間もなく扉が開く。しかし、そこに姿を現した者の姿にイルゼは目を丸く瞠った。
 足が悪くて普段は、最下階にしかいない古くからの使用人──バルバラだったのだから。 イルゼは慌てて立ち上がり、彼女を椅子に案内すると彼女は口角を緩ませて優しげな視線をイルゼに送った。

「バルバラさん足は……こんな上階まで」

「ええ大丈夫ですよ。どうしても時間はかかりますがこれしきは。それよりも、イルゼさんの事もルードヴィヒ様の事も心配で堪らなく。わたくしがイルゼさんにルードヴィヒ様を止めて欲しいと言ってしまったばかりに、こんな事態を招いてしまい……」

 そう言って、バルバラは悲しげな瞳をそのまま眠るルードヴィヒに向けた。

「バルバラさんは何も悪くないと思います」

 率直な言葉を出すと、彼女は「本当にすみません」と沈痛な面で詫びを入れた後、そのままイルゼに視線を向けた。

「……そういえば、イルゼさん。随分とお懐かしゅう歌を歌っていましたね」

 聞いていたのか。歌を聞かれたのはルードヴィヒだけだ。少しばかり恥ずかしくなって、イルゼが赤くなると、バルバラは「お上手ですね」と優しく笑む。

「……その。母から教わったものです。この歌。ルイも気に入ってたようで、それを母に教えようって思ったんです」

 イルゼは紅潮したまま、もじもじと言うと彼女は唇を綻ばせて、優しい声色ですいせい小夜曲セレナーデを歌い始めた。
 まるで語り部の如く。歌詞がジンと心に染み渡る歌声だった。

 まるで歌う事に慣れているかのよう。それに驚き、イルゼがバルバラを見つめたままでいると、彼女はイルゼに目配せをした。つまり、一緒に歌おうとの事だろうか……。イルゼは一呼吸を置いて、彼女と共に一節を歌い上げる。するとバルバラは一呼吸をおいて、イルゼが首からぶら下げたペンダントと大事に抱える瓶を一瞥した。

「……あの。もしやとは思いますが、イルゼさんのお母様のお名前はリーナですか? 子爵家の娘じゃなかったでしょうか」

 途端に言われた言葉にイルゼが目をしばたたく。そうだ、確かにリーナだが。頷くと、彼女はまたも優しく笑んで「やはり」と、深く頷いた。

「わたくしもこの城に仕えて以来、外に出なかったので知らなかったのですけどね。その瑠璃ラピスブラオのペンダントを見て間違いないと確信致しました。初めて見た時から、あまりに貴女の髪色も顔立ちも、教え子だったリーナに似てるので驚いたのですよ」

 懐かしむように言われた言葉に、イルゼは驚いて目を丸く瞠った。それにこのペンダントの宝石の名前だって初めて知った。イルゼはペンダントとバルバラを交互に見て何度も目をしばたたく。

「教え子……?」

「ええ。この城に仕える前。未だわたくしが若い頃の話ですが、子爵家のお嬢さん相手に歌の教師をしていたものです。本当によく似ていると思いました。しかしそれは……」

 母の遺骨が川底から見つかったと、自警団の者達が尋ねてきて、バルバラがお茶を出した程だ。彼女があまりに切なげに瓶を見るものだから、イルゼも釣られるように眉を下げた。

「リーナはとても愛らしい子でした。〝私も、歌の先生になりたい〟だなんてよく言っておりました。すいせい小夜曲セレナーデを教えたのはわたくし自身でしたからね……しかしまさか、こうも繋がるだなんて思いもしません。それでも、教え子の娘の貴女に会えた事は喜ばしくも思います」

 言葉の端に行く程にバルバラの声は震えていた。そのつぶらな瞳からツゥと涙が伝う様が見えて、イルゼは言葉を失った。
 するとバルバラは眠るルードヴィヒの方を向き、彼の手に優しく触れる。

「もう起きてください。イルゼさんにこれ以上に悲しい思いをさせてはなりません。貴方は誇り高きシュロイエの血を引く者でしょう。大事なものを守らずどうするのですか」

 まるで母親のように眠るルードヴィヒを咎めると、彼女は伸びやかで優しい声色で次節を緩やかに歌い始めた。イルゼも促されるように彼女の歌声に次いで歌い始める。そして、彼の前髪に触れたと同時──固く閉ざしていたルードヴィヒの瞼がピクリと動いたのである。やがて、歌は終盤に。その時、彼は緩やかに瞼を持ち上げた。

「イルゼ……? バルバラ? ん、俺……」

 覗き込む二人を交互に見つめ、ルードヴィヒは眠たげな瞼を擦る。生きている。ちゃんと目を覚ました。信じられぬ思いと、計り知れぬ喜び。イルゼは歌うのを止め、母の遺骨を抱き締めたまま彼の胸元に飛び込んだ。

「ごめんなさい。ルイ……私、貴方を信じられなかった、それなのに……!」

 後から後から溢れて止まらぬ涙を拭いつつ、幾度も同じ言葉を出すと彼は身体を起こし上げて、イルゼを大事に抱え直す。

「それ、こっちの台詞。なぁ。俺、これから一つずつ、償っていっても良いか?」

 何より、無事で良かった。と、彼がはにかむとイルゼの短い後ろ髪を撫でて、額に優しい口付けを落とした。
 
 ──どうか幸せになりなさい。誰にも聞こえぬ程、最後の一節を静かに一人歌い上げたバルバラは、つぶらな瞳に涙を溜めつつも、二人に穏やかな笑みを向けていた。
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