【R18】水声の小夜曲

日蔭 スミレ

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第五章 慟哭

5-6.息絶える恋

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 イルゼは部屋に戻ると所定の場所に本を置き、ベールへと歩み寄った。
 恐らく未だ仕事中だろう。静かにベールを開けると、案の定彼は書き物机の前に座して帳簿をつけていた。しかし気付くのは直ぐで、彼は目を丸くして直ぐに立ち上がる。

「どうしたの? 未だ仕事中だけど」

 普段なら胸の奥が痒くなる程の甘ったるい口調が今は酷く胸の奥を締め付けた。
 彼は何食わぬ顔で近付くなり、頬に口付けを落とそうとするがイルゼは身を捩って阻止を入れる。

「……え? なに。どしたの?」

 まさか拒絶されると思いもしなかったのだろう。彼は驚いた顔でイルゼを見下ろした。

「……ルイ。ねぇ、どうして姉さんが城に居るの。私の家族の事でも探りを入れてるの」

 何をしているのか。と、静かにけば、彼は額に手を当ててやれやれと首を横に振るう。

「あぁ……ごめん。鉢合わせちゃった?」

「そうだけど、直接は会ってない。バルバラさんに匿ってもらったの」

 バルバラ……。と、名前を出すなりに彼は額に当てていた手を外すなりスッと真顔になった。

「……ねぇ。バルバラは何か喋った?」

 喋ったとは言えやしない。イルゼは唇を引き結び、首を振ると彼はニタリとこうかつに笑む。

「超分かりやす……嘘吐き」

 彼の言葉はどこか悪戯気だが、まるで傷ついたとでも言わんばかりの落胆の色が含んでいた。悲しげな顔でもされたかと思ったが、彼は柔らかく笑んでいる。しかし、目が全く笑っていない。
 目を合わせるのが怖い。そう思ったのは初対面以降初めてだった。イルゼは直ぐに視線を逸らそうとするが、ルードヴィヒはイルゼのおとがいを摘まんで無理矢理視線を合わせてくる。

「……あの人ねぇ。しっかり喋れるよ? 喋ったんでしょ?」

 何か聞いたの? と、甘やかに聞かれてイルゼは尚も首を横に振ろうとするが、顎を固定されているので微塵も動作出来ない。
「喋ってない……」おどおどと言えば、彼は噴き出すように笑いを溢す。

「見え見えの嘘はもういいよ。イルゼって素直だから嘘を吐いてるのなんて簡単に見抜けるよ。別に怒ってないし怒らないって約束するから答えてよ」

 やんわりと言うと、彼はおとがいに当てた手を離して宥めるようにイルゼの肩を摩る。ふと彼の顔を一瞥すれば、先程のような不自然さは消え失せ、いつも通りだった。それに安堵して一つ頷くと、イルゼは嘘を吐いた事を一言詫びた。

「……んで、内偵の話だっけ?」

 仕切り直すようにかれて頷くと、彼は決心したようで深い息をつく。

「少し思うところがあってさぁ。ヨハンがやましいんだ。その為にリンダを買い取って証言してもらったわけ」

「……思うところ?」

 税金の滞納だってしていないし、何も悪い面など無い筈だ。非の打ち所も無い義兄である。それを言うと彼は深く頷いた。

「そう。そういった面は何もかも問題ない。ただ、その……」

 そこまで言うが彼は言い淀んだ。しかし、言い淀むという事は間違いなく自分絡みなのだろうと思った。修道院行きを言って悶着したのだって未だ最近の話。しかも義姉を買うまでした程だ。よほどの事に違わないとは憶測が立つ。

「私の事……?」

 告げるなり、彼は渋い顔で頷いた。

「……無自覚かもしれないけど、初めて抱いた時に俺からしたらとんでもねー違和があったんだよね。イルゼ、処女の割に拓けすぎてた事でね」

 確かにあの時、全く痛くもなかったが……。しかし、まさかそんな話を今切り出されるとは思いもしなかった。

「まさかとは思うけど、義理とはいえ兄弟で姦淫していた事でも疑ったの?」

 そんな事はしていない。と断言すれば、額に手を当てて首を振った。

「〝無自覚〟って言ったでしょ? つまりはイルゼが知らない事……。だからこそ、リンダを強請って証言させた。ヨハン不眠症だろ。あれは嘘だ」

 嘘。と、言われてイルゼは息を飲んだ。
 ……無自覚。不眠症が嘘。そう言われて、しまうと彼が言わんとしている事が頭の中で自然と結び付く。
 つまり、ヨハンが睡眠薬を盛って、散々に卑しい行為をしたと言いたいのだろう。

 確かに、月の障り以外は夕食後、直ぐに眠くなっていた。この城に来てからというものの、夕食を食べると眠くなる事は無かったが、あの時は養鶏業で疲労を抱えていた事もあったのだろう。今はろくに肉体労働もしていないし大した疲れも無いのだ。

「だから、リンダを呼んだ。そしたら全部吐いてくれた。確かにあの女、イルゼの事は好いていないが全部ヨハンの指示。髪を切った事もそう。自分を心の拠り所にする為に仕組んだ事で……」

 言葉を選んでいるのか、彼は区切り区切りに吐露する。それだけで真剣に言っており、彼が嘘を並べている訳でないと理解出来るが、やはり信じがたい。

 ……そう。あの義姉だ。
 とんでもない性悪女な事は誰よりもイルゼが理解している。ヨハンに言いつけられた事とでっちあげた事だって憶測出来た。
 もうこれ以上は聞きたくもない。だが幸いにも相当言葉を選んでいる所為か、彼は多くを語ろうとしなかった。
「分かった」分かりたくもないし、信じてもいないがそう告げると、彼はいかにも胸を撫で下ろした面でイルゼを優しく見下ろす。

「ごめんねぇ。城に連れてくる以上小細工をもう少ししようと思ったけど、限界があったねぇ。しかしバルバラかぁ……」

 そう言って彼はこめかみを揉んで、やれやれと首を横に振るう。一息ついて、彼は遠くを見つめるが、その瞳がやけに冷たくイルゼには映った。

「……話しちゃいけないって、ルイがそう制限したとは聞いたけど、お願いだからバルバラさんに罰を与えたりしないで」

 臆しつつも懇願するようにイルゼが言うと、彼は直ぐに頷いた。

「イルゼがそう願うなら、そんな事しないよ。まぁ。あの人って脚悪いからね。歳も歳だし、そろそろ解雇するかもしれねーけど」

 解雇の一言でイルゼはサッと顔を青くした。
 ……側仕えしていた古い使用人の殆どが消息不明になったとの事。その裏付けの憶測が過ぎってイルゼは頭を横に振り乱す。

「ずっとこのお城にいさせてあげて。バルバラさんは生涯をかけてルイに仕える事を望んでるの。貴方の事を本物のミヒャエル様のように愛してるの。お願いだから……」

「へぇ。そんな事いってたの……。イルゼが言うなら考慮しておくよ」

 彼は薄い唇を綻ばせて笑むが、やはり全く目が笑っていない。儚い星の光の如き銀鼠ぎんねずの瞳──それが妙に冷ややかに映ってしまい、イルゼはゾッとして背筋を震わせた。

 ……とんでもない相手を好きになってしまったのだろうと今更のように思った。否、その熱が嘘のように徐々に冷めていく事を自覚する。まるで衰弱するよう、恋が死んでいく心地さえした。
 愛される喜びや愛する幸せを教えてくれたが、これだって星の光の如く幻だ。
 彼が自分に抱く感情は恋慕であろうが、裏を返せば途方も無い執着だ。過去に出会い、自死を止めただけなのに、まるで自分を神格化するかのように思っている。
 金を叩いて自警団の詰め所で自分を救ったが、そのやり口だって汚い。どこまでも傲慢で手に入れる為ならば手段を微塵も選ばない。更に、唯一無二の義兄に疑いをかけ貶めようとする。そして途方もない程にこうかつ。全てを奪い尽くす……。本の中で見たシュロイエそのものだ。そもそも、気が触れた精神異常者だ。そうして、側仕えしていた昔の使用人達を消してきた。そう、自分を抱く時のあの優しさや、たまに向ける無邪気な笑みは取り繕ったものではないかと思えてしまった。

 自分は今まで何を見ていたのだろう。どうして彼に惹かれたのだろう。イルゼは冷たくなった胸元を暖めるように両腕を抱き、首を横に振るう。

「お願いだから……バルバラさんに酷い事はしないで。義兄にいさんの事ももう良いから……その。お仕事邪魔してごめんなさい。ちょっと考え事がしたいの。夕飯、一人で食べても良い? 出来たら一晩ゆっくり一人で過ごしたいの」

 強請るようにそう告げると、ルードヴィヒは「お安いご用」と快く了承してくれた。

「ありがとう」

 精一杯にやんわりと笑むと、イルゼは何食わぬ顔をして踵を返した。



 ──夕食後、先程の事を思い出しつつイルゼは手紙を綴っていた。

 貴方を愛せない。信じられない。ごめんなさいと。

 まるで自分の心模様を映し出すよう。いつの間にか窓の外でザァザァと雨粒が叩き付ける音が聞こえた。
 イルゼはその手紙を封筒に入れて、宛名に〝ルードヴィヒ様へ〟と書き終えると、ペンを置いて窓の外を見る。
 父が殺人犯になった時点で自分は幸が薄い人生を歩んでいるとは思ってはいたが、運だけは悪くないように思えた。
 出来ない子。と言われた事だけは腑に落ちないが、優しく面倒見の良い義兄がいた事が尤もだ。それに、こんな日に限って大雨が降るなんてそうとしか言いようもない。
 ……これなら外に出たってきっと彼は気付きやしないだろう。それにこの時間になれば使用人達も一日の仕事を終え、部屋に篭もっている筈だ。この機だけが絶対に逃す訳にいかない。意を固めたイルゼは足早に部屋を出た。

 それから数時間後──頭の上から足の先までびしょ濡れになったイルゼは丘を登り終えてボロ屋敷の前にいた。吹きすさぶ風にガタガタと震える家屋はまるで悲鳴でも上げているかのよう。今にも崩れてしまうのではないかと思えてしまう。
 幸いにも誰も追って来なかった。この暴風雨だ。自分が出て行った事など誰も気付いていないに違いない。翌朝大騒ぎになるだろうが……と、思うがあの城には何一つ未練が残っていなかった。
 あんな手紙を置いてきたくらいだ。間違いなく、ルードヴィヒはやってくるだろうが、連れ戻す事は考えがたい。途方も無い執着を持っているが、話が分からぬ男でないのだ。きっと、しっかりと理解すると見通せた。

 自分を買った金を請求されたならば何としてでも働いて返せばいいだけだ。伯爵と姦淫した事実を不敬罪と言われたならば、その時は素直に罪を認めようとは思った。断頭台だろうが絞首だろうが別にどうでも良いとイルゼは思えてしまった。それほどまでに投げやりで、空虚しかもう残っていなかったのだ。
 きっと雨で濡れた所為もあるだろう。否、瞼が熱いので泣いているのかもしれないが……屋敷から漏れる光が酷く霞んで見えた。

 イルゼはノッカーを掴んで叩く事幾許か──薄く扉が開き、僅かにヨハンが顔を出す。

「……え?」

 どういった事か理解出来なかったのだろう。霞んだ視界の先、ヨハンはヘーゼルの瞳を丸く開くが、直ぐにドアを開けて急ぎイルゼを中へと招き入れる。

「どうしたんだ!」

「もう、ここに帰りたい……」

 自分でも驚く程に声が震えていた。だが、それを言葉にしてしまうと、ドッと熱いものが目の中から溢れてきた。次第に息が苦しくなり、背を震わせたイルゼが泣き崩れてしまうと、ヨハンは優しくイルゼの背を摩る。

「……何も言わなくて良い。今、替えの服とリネンを持ってくるから、ちょっと待ってろ。温かいミルクを作ってやるからな。蜂蜜入れた甘いやつ、好きだろ? いいか。大人しくリビングで待ってろ」

 イルゼの背を軽く叩いてそう示唆すると、ヨハンは正面の階段を急ぎ駆け上っていった。

   *
 
 夜が深まる程に強まる雨音に嫌な胸騒ぎがした時には既に遅かった。
 イルゼの部屋はもぬけの殻。テーブルには自分に宛てた手紙だけが残っており〝──貴方を愛せない。信じられない。ごめんなさい〟と震えた筆跡で綴られていた。

 彼女からの手紙をくしゃりと握りつぶして、ルードヴィヒは下唇を強く噛みしめる。

 ……流石にリンダを城に呼び込む事は悪かった。だが、理由があってこそだ。全てはイルゼを守る為の事。あまり深刻にならぬよう、物事をぼかして伝えたというのに、どうにも彼女の捉え方が深刻だった事を物語る。
 しかし、彼女の行く先など知れている。ヨハンの元に違いない。素直な彼女の事だ。きっとヨハンに自分が言った事を虚偽でないかとくのではないかと憶測が出来た。

 しかしそれはあまりに危険だ。彼女を更に失望し傷付ける可能性だって充分に考えられる。ルードヴィヒはくしゃくしゃになった手紙を下衣のポケットに突っ込むと急いで、中階層へ降り、ヘルゲ、ザシャ、メラニーの部屋に向かい、彼らを呼び集めた。

 そこには当たり前のようにイルゼの義姉、リンダの姿もあった。彼女は、随分扇情的な真っ黒な夜着を纏ってヘルゲと一緒に出てきた。事の経緯を話せば、皆驚嘆したのか片方の眉を持ち上げて同じような面をする。しかし、リンダに関しては眉一つも動かさず唇を固く引き結んでいた。

「こんな大雨の日に! 夜になって出るなんて何が何でも危険でしょう! あの子の家はきゆうりようの上よね。無事に辿り着けてるならまだしも、足を滑らせて怪我なんてしていたら大変だわ」

「それも言えてるけどさ。本当の危害は家の中。どちらかというとそっちの方がイルゼさんには危険だね」

 リンダとザシャは顔を見合わせて、直ぐに着替えに戻った。

「貴方、本当誤解されやすいのですから、言動に気をつけろと散々に言いましたよね?」

 やれやれといったそぶりでヘルゲはこめかみを揉みつつ深い息をつく。その隣でリンダは随分長いため息をついて、床に戻った。そんな後ろ姿を見ていると、彼女は「何よ」とこちらを一瞥もせずにため息交じりに言う。

「いまいましいだとか憎いとか消えて欲しいとは思ったけど……何も、死んで欲しいなんて思ってないわ。万が一の事があって死なれたら明日からの寝覚めが悪すぎるわね。伯爵様なら庶民の娘一人くらい連れ戻すには簡単な事でなくて?」

 随分と刺々しい言い方をするものの「違う」と彼女は首を振った後、ルードヴィヒを真っ直ぐに見据えた。

「……伯爵様お願い。私の義妹を必ず城まで戻して。お互いに時間が必要でしょうが、命じられたとはいえ、あの子の髪を切り落とした事だけは、いつか謝りたいの。髪は女の命よ。あの子の命を刈り取った事への罪悪感だけは拭えなかった。どんくさい私が行ったって足手まといなだけ。それに今、あの子が私に会ったら、もっと嫌な思いをさせるわ」

 ──私は城から逃げたりなんてしないからヘルゲさんも行って頂戴。と、全てを言い終えると、彼女は深い息をついて額に手を当てた。
 それをいていたヘルゲは着替えをはじめ、リンダの前に歩み寄る。

「分かりました。尻軽な貴女ですが、約束は守り使用人として働こうと努力するなど、働く事に関しては随分と強情で負けず嫌いな部分は大好きです。その言葉、夫としても使用人の上役としても信用しますよ」

 ヘルゲがベッドに座したリンダの前に屈んで笑むと、彼女はツンと鼻を鳴らして「二言三言余計よ」と突っ撥ねて、プイと顔を背けた。

 そうしてヘルゲも着替えを済ませた後に、四人は城を出た。外に出て改めて知った事だが、風も強いので雨脚が速い。この雨の中、馬車で向かうには困難だ。厩舎で馬に乗るなり早々、ルードヴィヒは先陣を切るように馬を走らせた。


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