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第五章 慟哭
5-5.開かれた唇
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*
七月中旬。今週も面談があったが、あれ以降、すっかりヨハンは来なくなった。
今日も忙しいらしいと、部屋を訪れたザシャから報告を受けたが、本当にそれだけだろうかとイルゼは疑わしく思っていた。
あんなにもぶつかり合ったのだ。義兄は自分を厭わしく思うようになったように窺える節がある。
とは言っても、ヨハンは唯一、自分に優しくしてくれた身内だ。いがみあったままにはなりたくない。それに、ルードヴィヒとの関係もしっかりと言わなくてはいけないだろう。十中八九、反対されるに違いないだろうが……。
窓辺から望む晴れやかな夏空とは裏腹に心の中は真冬のようだった。澱を吐き出すように重たい息を吐き出した。
……ここ数日で不可解な出来事があった。
不要不急で部屋の外に行く事をメラニーに禁じられたのだ。図書室や庭園に行っても良いが、最下階には極力立ち寄らず速やかに移動するようにと。と、なれば……使用人の手伝いは全面禁止。
当然これには不審を抱いた。理由を訊けば〝新しい使用人を雇ったから教育中〟と彼女は呆れ混じりに言った。
別に使用人ならば顔を合わせたって何も問題ないように思えてしまう。だが〝本当に出来が悪いから。療養患者で旦那様の大事なお客様の貴女に迷惑をかけたら困るわ〟との事で……。不思議に思いつつもイルゼはその条件に頷く他無かった。
しかしこれでは、初めの頃と変わらない。あの時は外に出る気も無くて、好き勝手に城の中は歩き回って良いとさえ言われたが……。環境にすっかり慣れた今だと暇を持て余してしまう。イルゼはベッドのローテーブルに置いた昨晩読み切った本を持って、静かに部屋を出る。
(本当に、どれだけ出来ない使用人なんだろう……)
否、なぜにそんな人材を雇ったのか。だが、メラニーも彼の兄達も元盗賊。やはり相当なワケアリを雇ったのだと想像が容易いもので、イルゼはそれ以上考える事を止めた。
そうして部屋を出て廊下を歩み、長い階段を下って、言いつけ通りに速やかに最下階を歩んでいれば、玉葱の焦げる美味しそうな匂いが漂ってくる。
もう夕食の準備をしているのだろう。もう直ぐで厨房の前だ。イルゼは颯爽と歩もうとするが、開いた扉の向こうのバルバラと直ぐに目が合った。とりあえずで会釈をするが、彼女は相変わらずなしかめっ面のまま。だが、彼女はイルゼの方へ近付き、慌てたそぶりで手を掴むと厨房の奥へと引きずり込む。
丁度竈の横……麻袋に入った馬鈴薯やトウモロコシ、それらが置かれた場所まで連れて行かれると、身振りだけで座るように促された。
いったい何事か。本を抱き締めたまま座したイルゼが不審に思いつつ彼女を見上げて間もなくだった。遠くから、ヘルゲとメラニー、そしてどこか聞き覚えのある女の声が聞こえて来た。
「まだ、まだ……やるの?」
「何を当たり前の事を。この後は、西側の床掃除です。日没までに終わらせなければなりませんよ」
「そうよ? こんな事で音を上げてたらダメでしょ。あんた本当にイルゼより何も出来ないじゃないの」
「あの子の名前を出さないで頂戴!」
……癪に障る甘ったるい喋り方。甘美でどこか妖艶。聞き間違える筈も無い。義姉のリンダだ。イルゼは息をひそめて震え上がる。
なぜ義姉がこの城に居るのか。だがこれで、自分を最下階に行かせない理由が明白になった。しかし、どうして義姉を雇ったのか。間違いなく、自分に絡む魂胆がある事は窺えるが……。本をぎゅっと抱き寄せて、怯えた瞳でバルバラを見上げるが、当然のように彼女は何も答えない。しかし、自分を見下ろす眼光は優しく〝安心して〟とでも言うように、彼女は僅かに口角を綻ばせた。
……そうして幾許か。三人が通り過ぎて声が聞こえなくなると、バルバラは隣にしゃがみ込んで、イルゼの背を宥めるように優しく撫でる。
「バルバラさん……」
震えた声で呼ぶと、彼女は戸惑いつつもゆったりと唇を開く。
「もう去りましたよ。貴女は旦那様の大事なお客様ゆえ。貴女を傷付けるような事は絶対に致しませぬ」
随分と古風な喋り方だった。それも、想像を絶するほどに暖かみと柔らかさのある口調だ。イルゼが目をしばたたくと、彼女は法令線に深い皺を寄せて口角を引き上げる。
「すみませんねイルゼさん。わたくし、古くから働いているもので、余計な事を決して口にせぬよう、旦那様から誰とも喋るなと言いつけられていますゆえ。しかしこれだけは……わたくしも目を瞑れませぬ」
喋る事が出来ない以外にも、喋る事が許されないと彼女に会ったばかりの頃に考えた事もあるが、この事実が当たった事にイルゼは畏怖を覚えた。人としての自由さえ奪うような事に違わない。それも、ルイから……。計り知れぬ畏怖を覚えて、イルゼの顔は一瞬にして青ざめた。
「貴女のお義姉様が城に居るのは、貴女の家庭環境を内偵する為だそうで。旦那様は貴女のお義姉様を買いました」
内偵……。いったい何の為に。頭では分かるがどうにも理解が追いつかず、イルゼは眉をひそめて唇を固く引き結ぶ。それに見かねたのか、バルバラは再び宥めるようにイルゼの背を優しく撫で始めた。
「主に貴女のお義兄様についての事だそうで。それで事情聴取を含めてお義姉様をお買いになったそうです」
──あの方はミヒャエル様として立派にやってきました。しかし、これは目に余る。過激ゆえに貴女を傷付ける。流石に、このやり方には如何なものかと。と、呟くように言い切ると、バルバラは澱を吐き出すように深い息をつく。
「……ルイが、なんで」
放心して言葉を出すと、彼女は「ルイ」とイルゼの言った彼の愛称を復唱する。
「イルゼさんそれは……。やはり、貴女がローレライだったのですか……」
イルゼは戸惑いつつも頷いた。
しかし──ミヒャエル様として立派にやってきた。ローレライという母と彼しか知らぬ偽りの名前を知っている。と……。そうだろうとは思っていたが、本当に彼女は彼の過去をよく存じているのだろうと理解出来る。
「……彼の名はルードヴィヒです。ローレライとして、私は過去に彼に確かに会いました。バルバラさん、貴女がこの城の前代の領主、彼のお父様の代から屋敷に仕えていて、本物のミヒャエル様の乳母だったとお聞きしました、何か……何か知っているのですか」
イルゼが震えた唇で静かに言葉を紡ぐと、彼女は深く頷くものの眉間に深い皺を寄せた。
「貴女があの子の光になったローレライならば、話すべきですね……」
一つ息を抜いて、バルバラはヒビの入った血の気の無い唇を開いた。
────齢はたったの十一歳。病弱なミヒャエル様は余命一年と宣告されました。その上、旦那様も心臓に持病を持っており、余生はそう長くないと言われておりました。
ミヒャエル様の下に兄弟もおりませぬ。つまり世継ぎがおりませぬ。
間違いなく伯爵家は没落致します。これを王宮に告げ、他の者に領地の管理を継がせる事も考えれば良いものの……旦那様的はそれでは納得がいかなかったのでしょう。
そうしておぞましい事を言うのです。〝ミヒャエルをもう一人用意しよう〟と……。正気の沙汰とは思えませぬ。そうして旦那様は愛人の子を探し回りました。
その捜索中になんと奇跡が起きたのです。母親は違うともミヒャエル様に瓜二つの子が居たのです。歳も一つしか変わりませぬ。それが現在、この領地でミヒャエル様として領主をするあの方でございます。
しかし似ているといえ、瞳の色は銀鼠。かつてこの地方やこの近隣を大いに蹂躙したシュロイエの特徴を持つ忌み子でした。
今ではそれを気にする者などおりませぬが、やはり貴族となれば違いましょう。
それにも関わらず、こんな幸運は二度と無い。旦那様はあの子をミヒャエル様にする事にしたのです。
当然あの子の存在は秘されました。その当時の使用人達でも、影武者となったあの子の存在を知る者はほんの数名。その上、わたくしどもはあの子の本当の名さえも知りませんでした。
あの子をミヒャエル様にさせる為、まず眼球の色を変えなければなりませんでした。国境間近の北方まではるばると足を運び、森の魔女に相談致しました。
そうして目の色を変える処置を行いましたが、なかなか上手くはいきませぬ。感情が高ぶるだけで簡単に術が解けてしまうのです。それに自分で上手に調整さえも出来ません。そう。今のあの方からは想像も出来ませんでしょうが、あの子はとてつもなく気が弱く、よく泣く子でした。そう、病弱ながらも凜然たるミヒャエル様のような振る舞いが出来なかったのです。それはもう、母を求めて泣き出す始末です。
それに腹が立てたのでしょうね。旦那様は激昂した挙げ句、あの子を狭く暗い見張り塔に閉じ込め、散々に虐げました。
たとえ忌み子であろうと罪も無い子に暴力を振るうなんて倫理的に反します。影武者を知る数人の女の使用人達は耐えきれませぬ。一人、また一人と使用人は辞めていきました。
そうして二年ほど。本物のミヒャエル様が逝去致しました。誰もそれを知りませぬ。それを知る使用人は、その時にはもう、わたくしとあと一人だけでした。
そんな年の嵐が去ったある夏の晩の事です。あの子は城から逃げ出しました。わたくしともう一人の使用人は大騒ぎです。あの子は見るからに精神が危ういものでした。きっと自死を選んだのだと容易く想像出来ましたゆえ。
しかしなぜか、あの子は帰って来たのです。何か諦めたようでありながらも、どこか希望をたたえた目をして帰ってきたのです。
当たり前のように、あの子は旦那様からどやされました。そうして、今までに無い程の酷い摂関を受け、心はとうとう死にました。身体もボロボロです。肋骨骨折。背には鞭打ちの痕以外にも新たに、酷い火傷を負っていました。それはもう、目を覆いたくなる程です。自分で飲み食いだってもう出来ない程。自我も残っておらず、完全な精神剥奪状態でした。
そんなあの子が譫言のように言い続けた言葉は〝ローレライ〟〝もう一度会いたい〟と。
……それだけが後にも延々と残り続けました。本当の自分を忘れようとも、最後の希望となったあの子は金髪の娘に執着しイルゼさんを探し続けたのでしょう。
しかし、傷の状態はいつまで経過しても芳しくはなりませんでした。旦那様がそんなになったあの子にも摂関を続けたからでしょう。本当に、なぜにそこまでミヒャエル様にこだわるのか、わたくしどもには分かりませんでした。あくまで推測ですが、本妻である奥様を産後熱で亡くしており、ミヒャエル様が唯一の跡継ぎであった事もあるのでしょうか。この執着には、旦那様に悪魔でも憑いているように見えたものです。
しかし、このままでは暴行によって殺してしまう事を恐れて、わたくしともう一人の使用人は逃がすように、あの子を療養所に送りました。
ですが、これさえも誤った選択でした。わたくしどもは怒られもしませんでした。「機会が分からず、下手をしたら殺していたかもしれないから助かった」とさえ旦那様は褒めたのです。そう……旦那様は、療養所にあの子をミヒャエル様にする為に完全な洗脳を言い渡したのです。
事情を知らぬ他の使用人達にはミヒャエル様はご勉学に行ったという事にしておりました。
しかし、数年後に戻ってきたあの子はかつての気弱な面影が無い程に気が触れてしまいました。完全に人格破綻の精神異常。洗脳は失敗に終わったのです。それはもう、旦那様を見れば興奮を抑えられぬもので、容赦なく殴りかかる程。まるで獰猛な獣のようでした。
精神が揉みくちゃになって一度は殺されたとはいえ、きっと虐待を心のどこかで覚えていたのでしょうね。それでも精神科医のカウンセリングとセラピーを続けた結果、あそこまで落ち着きを取り戻し、幾分か理知的になれたものです。
それから数年後、旦那様も病に伏せ逝去。一応は旦那様の望み通り、ミヒャエル様と化した異常なあの子がこの領地に君臨する事になったのです。
しかし、気の触れたミヒャエル様に怯えた使用人達は去っていきました。
本物のミヒャエル様にお会いした事のある者達はこれが影武者と皆気付いていたでしょう。何せ時折、眼球の色が銀鼠に戻ってしまうのですから。
その後の去った者達の消息は皆掴めません。挙げ句に彼は殆どの使用人を突然追い出しました。わたくしはしがみつき、新たに入れた者に口をきかぬ条件で留まっております。あの子を連れ出して、王宮にこの凄惨な事実を突き出すなり出来たでしょうに、良かれと思った事さえ悪い結果を招いた。何も出来ず、ただただあの子を不幸にさせてしまった事への贖罪の為です。
領地の者達は当然影武者だなんて誰一人、知りませぬ。
しかし皮肉な事にも、成長したあの子はとてつもなく頭が良く、前の領主様以上に領地を上手に切り盛りするようになったのです。
本物のミヒャエル様は病弱ゆえに社交界にも出ませんでした。そこを上手に利用したのでしょう。王宮には病弱を理由に、最高品質の葡萄酒の献上によって社交界への招待などを彼は上手に躱しました。
ええ。確かに今のあの子は、前の領主様に比べものにならない程に、本当に立派で優れた領主と言えますが……。
そこまで言い切ると、バルバラは深く息をついた。
聞き入っていたイルゼは言葉が見当たらなかった。ワケアリとは思ったが、まさかここまでとは思うまい。しかし、根が優しいと思った彼がこうも人権を踏み躙っていたと思いたくもなかった。消えた使用人達についてもだ。消息も掴めないという事は……口封じの為に殺しを依頼した事も考えられる。何せ、盗賊に手先にする程だ。
この凄惨な身の上を聞けばこの城に君臨する偽りのミヒャエルであり続ける事が彼にとっての最高の復讐とも分かる。しかし……。
イルゼは顔を青くして身震いした。
あんなに甘やかに優しく抱き締めてくれたのに、こんな危険な人とは思いたくもなかった。しかしバルバラの話を聞くからに、自分の事を心の底から好いている事はよく分かる。だが、それは執着的な程に……。
果たして義兄の何を探っているのかは分からない。気に喰わないという理由で、下手をすればヨハンが殺されたっておかしくない。
「バルバラさん、話してくれてありがとうございます」
イルゼが震えた声で告げると、バルバラは穏やかな面で首を横に振るう。
「いいえ……。この話が出来るのはあの子の愛しいローレライしか居ないように思えました。きっとイルゼさんの話なら聞いて聞いてくれる筈です。どうか、どうか……あの子が過ちを犯す前に止めてください」
懇願するように言われてイルゼは戸惑った。
この話をすれば、バルバラが彼に殺されたっておかしくない。
贖罪だと言った程だ。そうして頑なに口を結んできた。そう、彼女はルードヴィヒをずっと気に掛けていたのだ。〝あの子〟と、呼ぶ彼女の顔があまりに優しい事から、本物のミヒャエル同様に哀れみながらも愛おしく思った事は窺えた。
彼女を亡き者にさせる……そんな理不尽な結末は許せなかった。
「私が力になれるかは分かりません。それでも、間違っている事は正すべきです」
それだけ告げると、イルゼは踵を返し急ぎ部屋へと戻った。
七月中旬。今週も面談があったが、あれ以降、すっかりヨハンは来なくなった。
今日も忙しいらしいと、部屋を訪れたザシャから報告を受けたが、本当にそれだけだろうかとイルゼは疑わしく思っていた。
あんなにもぶつかり合ったのだ。義兄は自分を厭わしく思うようになったように窺える節がある。
とは言っても、ヨハンは唯一、自分に優しくしてくれた身内だ。いがみあったままにはなりたくない。それに、ルードヴィヒとの関係もしっかりと言わなくてはいけないだろう。十中八九、反対されるに違いないだろうが……。
窓辺から望む晴れやかな夏空とは裏腹に心の中は真冬のようだった。澱を吐き出すように重たい息を吐き出した。
……ここ数日で不可解な出来事があった。
不要不急で部屋の外に行く事をメラニーに禁じられたのだ。図書室や庭園に行っても良いが、最下階には極力立ち寄らず速やかに移動するようにと。と、なれば……使用人の手伝いは全面禁止。
当然これには不審を抱いた。理由を訊けば〝新しい使用人を雇ったから教育中〟と彼女は呆れ混じりに言った。
別に使用人ならば顔を合わせたって何も問題ないように思えてしまう。だが〝本当に出来が悪いから。療養患者で旦那様の大事なお客様の貴女に迷惑をかけたら困るわ〟との事で……。不思議に思いつつもイルゼはその条件に頷く他無かった。
しかしこれでは、初めの頃と変わらない。あの時は外に出る気も無くて、好き勝手に城の中は歩き回って良いとさえ言われたが……。環境にすっかり慣れた今だと暇を持て余してしまう。イルゼはベッドのローテーブルに置いた昨晩読み切った本を持って、静かに部屋を出る。
(本当に、どれだけ出来ない使用人なんだろう……)
否、なぜにそんな人材を雇ったのか。だが、メラニーも彼の兄達も元盗賊。やはり相当なワケアリを雇ったのだと想像が容易いもので、イルゼはそれ以上考える事を止めた。
そうして部屋を出て廊下を歩み、長い階段を下って、言いつけ通りに速やかに最下階を歩んでいれば、玉葱の焦げる美味しそうな匂いが漂ってくる。
もう夕食の準備をしているのだろう。もう直ぐで厨房の前だ。イルゼは颯爽と歩もうとするが、開いた扉の向こうのバルバラと直ぐに目が合った。とりあえずで会釈をするが、彼女は相変わらずなしかめっ面のまま。だが、彼女はイルゼの方へ近付き、慌てたそぶりで手を掴むと厨房の奥へと引きずり込む。
丁度竈の横……麻袋に入った馬鈴薯やトウモロコシ、それらが置かれた場所まで連れて行かれると、身振りだけで座るように促された。
いったい何事か。本を抱き締めたまま座したイルゼが不審に思いつつ彼女を見上げて間もなくだった。遠くから、ヘルゲとメラニー、そしてどこか聞き覚えのある女の声が聞こえて来た。
「まだ、まだ……やるの?」
「何を当たり前の事を。この後は、西側の床掃除です。日没までに終わらせなければなりませんよ」
「そうよ? こんな事で音を上げてたらダメでしょ。あんた本当にイルゼより何も出来ないじゃないの」
「あの子の名前を出さないで頂戴!」
……癪に障る甘ったるい喋り方。甘美でどこか妖艶。聞き間違える筈も無い。義姉のリンダだ。イルゼは息をひそめて震え上がる。
なぜ義姉がこの城に居るのか。だがこれで、自分を最下階に行かせない理由が明白になった。しかし、どうして義姉を雇ったのか。間違いなく、自分に絡む魂胆がある事は窺えるが……。本をぎゅっと抱き寄せて、怯えた瞳でバルバラを見上げるが、当然のように彼女は何も答えない。しかし、自分を見下ろす眼光は優しく〝安心して〟とでも言うように、彼女は僅かに口角を綻ばせた。
……そうして幾許か。三人が通り過ぎて声が聞こえなくなると、バルバラは隣にしゃがみ込んで、イルゼの背を宥めるように優しく撫でる。
「バルバラさん……」
震えた声で呼ぶと、彼女は戸惑いつつもゆったりと唇を開く。
「もう去りましたよ。貴女は旦那様の大事なお客様ゆえ。貴女を傷付けるような事は絶対に致しませぬ」
随分と古風な喋り方だった。それも、想像を絶するほどに暖かみと柔らかさのある口調だ。イルゼが目をしばたたくと、彼女は法令線に深い皺を寄せて口角を引き上げる。
「すみませんねイルゼさん。わたくし、古くから働いているもので、余計な事を決して口にせぬよう、旦那様から誰とも喋るなと言いつけられていますゆえ。しかしこれだけは……わたくしも目を瞑れませぬ」
喋る事が出来ない以外にも、喋る事が許されないと彼女に会ったばかりの頃に考えた事もあるが、この事実が当たった事にイルゼは畏怖を覚えた。人としての自由さえ奪うような事に違わない。それも、ルイから……。計り知れぬ畏怖を覚えて、イルゼの顔は一瞬にして青ざめた。
「貴女のお義姉様が城に居るのは、貴女の家庭環境を内偵する為だそうで。旦那様は貴女のお義姉様を買いました」
内偵……。いったい何の為に。頭では分かるがどうにも理解が追いつかず、イルゼは眉をひそめて唇を固く引き結ぶ。それに見かねたのか、バルバラは再び宥めるようにイルゼの背を優しく撫で始めた。
「主に貴女のお義兄様についての事だそうで。それで事情聴取を含めてお義姉様をお買いになったそうです」
──あの方はミヒャエル様として立派にやってきました。しかし、これは目に余る。過激ゆえに貴女を傷付ける。流石に、このやり方には如何なものかと。と、呟くように言い切ると、バルバラは澱を吐き出すように深い息をつく。
「……ルイが、なんで」
放心して言葉を出すと、彼女は「ルイ」とイルゼの言った彼の愛称を復唱する。
「イルゼさんそれは……。やはり、貴女がローレライだったのですか……」
イルゼは戸惑いつつも頷いた。
しかし──ミヒャエル様として立派にやってきた。ローレライという母と彼しか知らぬ偽りの名前を知っている。と……。そうだろうとは思っていたが、本当に彼女は彼の過去をよく存じているのだろうと理解出来る。
「……彼の名はルードヴィヒです。ローレライとして、私は過去に彼に確かに会いました。バルバラさん、貴女がこの城の前代の領主、彼のお父様の代から屋敷に仕えていて、本物のミヒャエル様の乳母だったとお聞きしました、何か……何か知っているのですか」
イルゼが震えた唇で静かに言葉を紡ぐと、彼女は深く頷くものの眉間に深い皺を寄せた。
「貴女があの子の光になったローレライならば、話すべきですね……」
一つ息を抜いて、バルバラはヒビの入った血の気の無い唇を開いた。
────齢はたったの十一歳。病弱なミヒャエル様は余命一年と宣告されました。その上、旦那様も心臓に持病を持っており、余生はそう長くないと言われておりました。
ミヒャエル様の下に兄弟もおりませぬ。つまり世継ぎがおりませぬ。
間違いなく伯爵家は没落致します。これを王宮に告げ、他の者に領地の管理を継がせる事も考えれば良いものの……旦那様的はそれでは納得がいかなかったのでしょう。
そうしておぞましい事を言うのです。〝ミヒャエルをもう一人用意しよう〟と……。正気の沙汰とは思えませぬ。そうして旦那様は愛人の子を探し回りました。
その捜索中になんと奇跡が起きたのです。母親は違うともミヒャエル様に瓜二つの子が居たのです。歳も一つしか変わりませぬ。それが現在、この領地でミヒャエル様として領主をするあの方でございます。
しかし似ているといえ、瞳の色は銀鼠。かつてこの地方やこの近隣を大いに蹂躙したシュロイエの特徴を持つ忌み子でした。
今ではそれを気にする者などおりませぬが、やはり貴族となれば違いましょう。
それにも関わらず、こんな幸運は二度と無い。旦那様はあの子をミヒャエル様にする事にしたのです。
当然あの子の存在は秘されました。その当時の使用人達でも、影武者となったあの子の存在を知る者はほんの数名。その上、わたくしどもはあの子の本当の名さえも知りませんでした。
あの子をミヒャエル様にさせる為、まず眼球の色を変えなければなりませんでした。国境間近の北方まではるばると足を運び、森の魔女に相談致しました。
そうして目の色を変える処置を行いましたが、なかなか上手くはいきませぬ。感情が高ぶるだけで簡単に術が解けてしまうのです。それに自分で上手に調整さえも出来ません。そう。今のあの方からは想像も出来ませんでしょうが、あの子はとてつもなく気が弱く、よく泣く子でした。そう、病弱ながらも凜然たるミヒャエル様のような振る舞いが出来なかったのです。それはもう、母を求めて泣き出す始末です。
それに腹が立てたのでしょうね。旦那様は激昂した挙げ句、あの子を狭く暗い見張り塔に閉じ込め、散々に虐げました。
たとえ忌み子であろうと罪も無い子に暴力を振るうなんて倫理的に反します。影武者を知る数人の女の使用人達は耐えきれませぬ。一人、また一人と使用人は辞めていきました。
そうして二年ほど。本物のミヒャエル様が逝去致しました。誰もそれを知りませぬ。それを知る使用人は、その時にはもう、わたくしとあと一人だけでした。
そんな年の嵐が去ったある夏の晩の事です。あの子は城から逃げ出しました。わたくしともう一人の使用人は大騒ぎです。あの子は見るからに精神が危ういものでした。きっと自死を選んだのだと容易く想像出来ましたゆえ。
しかしなぜか、あの子は帰って来たのです。何か諦めたようでありながらも、どこか希望をたたえた目をして帰ってきたのです。
当たり前のように、あの子は旦那様からどやされました。そうして、今までに無い程の酷い摂関を受け、心はとうとう死にました。身体もボロボロです。肋骨骨折。背には鞭打ちの痕以外にも新たに、酷い火傷を負っていました。それはもう、目を覆いたくなる程です。自分で飲み食いだってもう出来ない程。自我も残っておらず、完全な精神剥奪状態でした。
そんなあの子が譫言のように言い続けた言葉は〝ローレライ〟〝もう一度会いたい〟と。
……それだけが後にも延々と残り続けました。本当の自分を忘れようとも、最後の希望となったあの子は金髪の娘に執着しイルゼさんを探し続けたのでしょう。
しかし、傷の状態はいつまで経過しても芳しくはなりませんでした。旦那様がそんなになったあの子にも摂関を続けたからでしょう。本当に、なぜにそこまでミヒャエル様にこだわるのか、わたくしどもには分かりませんでした。あくまで推測ですが、本妻である奥様を産後熱で亡くしており、ミヒャエル様が唯一の跡継ぎであった事もあるのでしょうか。この執着には、旦那様に悪魔でも憑いているように見えたものです。
しかし、このままでは暴行によって殺してしまう事を恐れて、わたくしともう一人の使用人は逃がすように、あの子を療養所に送りました。
ですが、これさえも誤った選択でした。わたくしどもは怒られもしませんでした。「機会が分からず、下手をしたら殺していたかもしれないから助かった」とさえ旦那様は褒めたのです。そう……旦那様は、療養所にあの子をミヒャエル様にする為に完全な洗脳を言い渡したのです。
事情を知らぬ他の使用人達にはミヒャエル様はご勉学に行ったという事にしておりました。
しかし、数年後に戻ってきたあの子はかつての気弱な面影が無い程に気が触れてしまいました。完全に人格破綻の精神異常。洗脳は失敗に終わったのです。それはもう、旦那様を見れば興奮を抑えられぬもので、容赦なく殴りかかる程。まるで獰猛な獣のようでした。
精神が揉みくちゃになって一度は殺されたとはいえ、きっと虐待を心のどこかで覚えていたのでしょうね。それでも精神科医のカウンセリングとセラピーを続けた結果、あそこまで落ち着きを取り戻し、幾分か理知的になれたものです。
それから数年後、旦那様も病に伏せ逝去。一応は旦那様の望み通り、ミヒャエル様と化した異常なあの子がこの領地に君臨する事になったのです。
しかし、気の触れたミヒャエル様に怯えた使用人達は去っていきました。
本物のミヒャエル様にお会いした事のある者達はこれが影武者と皆気付いていたでしょう。何せ時折、眼球の色が銀鼠に戻ってしまうのですから。
その後の去った者達の消息は皆掴めません。挙げ句に彼は殆どの使用人を突然追い出しました。わたくしはしがみつき、新たに入れた者に口をきかぬ条件で留まっております。あの子を連れ出して、王宮にこの凄惨な事実を突き出すなり出来たでしょうに、良かれと思った事さえ悪い結果を招いた。何も出来ず、ただただあの子を不幸にさせてしまった事への贖罪の為です。
領地の者達は当然影武者だなんて誰一人、知りませぬ。
しかし皮肉な事にも、成長したあの子はとてつもなく頭が良く、前の領主様以上に領地を上手に切り盛りするようになったのです。
本物のミヒャエル様は病弱ゆえに社交界にも出ませんでした。そこを上手に利用したのでしょう。王宮には病弱を理由に、最高品質の葡萄酒の献上によって社交界への招待などを彼は上手に躱しました。
ええ。確かに今のあの子は、前の領主様に比べものにならない程に、本当に立派で優れた領主と言えますが……。
そこまで言い切ると、バルバラは深く息をついた。
聞き入っていたイルゼは言葉が見当たらなかった。ワケアリとは思ったが、まさかここまでとは思うまい。しかし、根が優しいと思った彼がこうも人権を踏み躙っていたと思いたくもなかった。消えた使用人達についてもだ。消息も掴めないという事は……口封じの為に殺しを依頼した事も考えられる。何せ、盗賊に手先にする程だ。
この凄惨な身の上を聞けばこの城に君臨する偽りのミヒャエルであり続ける事が彼にとっての最高の復讐とも分かる。しかし……。
イルゼは顔を青くして身震いした。
あんなに甘やかに優しく抱き締めてくれたのに、こんな危険な人とは思いたくもなかった。しかしバルバラの話を聞くからに、自分の事を心の底から好いている事はよく分かる。だが、それは執着的な程に……。
果たして義兄の何を探っているのかは分からない。気に喰わないという理由で、下手をすればヨハンが殺されたっておかしくない。
「バルバラさん、話してくれてありがとうございます」
イルゼが震えた声で告げると、バルバラは穏やかな面で首を横に振るう。
「いいえ……。この話が出来るのはあの子の愛しいローレライしか居ないように思えました。きっとイルゼさんの話なら聞いて聞いてくれる筈です。どうか、どうか……あの子が過ちを犯す前に止めてください」
懇願するように言われてイルゼは戸惑った。
この話をすれば、バルバラが彼に殺されたっておかしくない。
贖罪だと言った程だ。そうして頑なに口を結んできた。そう、彼女はルードヴィヒをずっと気に掛けていたのだ。〝あの子〟と、呼ぶ彼女の顔があまりに優しい事から、本物のミヒャエル同様に哀れみながらも愛おしく思った事は窺えた。
彼女を亡き者にさせる……そんな理不尽な結末は許せなかった。
「私が力になれるかは分かりません。それでも、間違っている事は正すべきです」
それだけ告げると、イルゼは踵を返し急ぎ部屋へと戻った。
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