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第四章 熱情
4-3.素直に生きる事
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それから二週間以上が経過して、七月の初旬に──本格的な夏を迎えた。
あんな事があったばかりだ。ヨハンの猛反対やイルゼが堰を切ったように泣き始めた事を気遣って、ミヒャエルは次週も今週も精神科医を呼んでいた。
今現在、その席にはヨハンとミヒャエルの姿もある。
しかし、今日はイルゼの部屋でなく、エントランスにほど近い応接間を使っていた。
応接間は部屋に比べれば、質素で落ち着いた雰囲気だった。それでも椅子に張られた布はマラカイトグリーンのベルベット。綿が入ってふかふかで、座り心地が良い。
テーブルを隔てて正面には医師とミヒャエル。そしてイルゼの隣には、ヨハンが座していた。
応接間は厨房がほど近いからか、給仕はバルバラが行っていた。四人分のお茶を淹れた後、テーブルの上に音も無く焼き菓子を置くと彼女は恭しく頭を下げて、その場を去って行った。
そうして彼女が去った事を見計らった後、ミヒャエルや医師はカップを掴む。それと同時、ヨハンは重々しく口を開いた。
「お医者様。イルゼは至って普通の精神状態ですよね? ならば、戻したところで何の問題は無いでしょう」
この長い療養に何の意味があるのか。と、ヨハンは前のめりになって切り出した。
「……養鶏業もやらなくて構わないと言いました。妹はこうも自己主張が出来ないので、本当は寂しく、もう家に帰りたいのではないのかと俺は心配で堪りません……牢獄に入るにしても一ヶ月の刑でした。いくら何でも長すぎます。本当は寂しかったとしたら、酷でないでしょうか」
心底苦痛そうにヨハンが言うと、ミヒャエルはカップを置いて眉をひそめる。
「何、この療養が実刑と同じような扱いだと思ってるの? っていうかイルゼ本人が寂しいとか言ったの? じゃあ、訊くけど……イルゼ直ぐに帰りたい?」
思わぬ場面で話を振られて、イルゼは固まってしまった。
「別にそうは思いません。同じ歳の友達も出来たので決して寂しくはないです。ただ、養鶏業の方をこちらの使用人の方や、義兄さんに任せきりな事が引っかかってます」
思ったままを告げるが直ぐに、ヨハンは大きく首を震う。
「お言葉ですが領主様。これじゃ貴方様が言わせているようにしか聞こえません。まず、イルゼはろくに自分の意志などありません」
しっかり自分の意志で言葉にしたのに、こうもはっきり言われてしまうと酷く悲しくなった。一番長い間、自分を見ているヨハンだからこそ、こう思ってしまうのだろうか。
「義兄さん、違う。私、これは自分の意志で……」
心からそう思うと言おうとするが、ヨハンは首を大きく横に振るい言葉を遮った。
「そんな筈ない。イルゼは自分の事だってろくに考えられない。誰がそれを一番よく知っていると思うんだ! 無礼も承知だが、領主様だってそこまでイルゼを知らないだろう。お医者様は診断すればどんな病名でも付けられる! イルゼは自分の事をろくに考えられる筈もないんだ。この間、修道院に行きたいだの言ったが、そんな事イルゼが考えられる筈も無い!」
ヨハンが言い放った言葉に、イルゼの心は凍てつくように一瞬で冷やされた。
間違いなく、ヨハンは心配してここから連れ戻そうとしている事は分かる。だが、あまりの言い様だ。〝酷い〟と、言葉にしたいが、やはり上手く出てこない。軽率に口走れば、どんな非難の言葉が飛ばされるか分からず、慄いてしまったのだ。
何も言えずにイルゼが俯いたと同時──心底面倒臭そうな吐息が真っ正面から響いてきた。
「ねぇ。この間からそーだけど、マジで喧嘩売ってんの? 俺の事はともかく、あんた本人目の前にして〝自分の事もろくに考えられない〟だのよく言えるね。イルゼはちゃんと意志がある。この前だって、イルゼはしっかりとあんたの言葉に傷ついてたんだけど」
──早く連れ戻したい為の演技かもしれないけど、嫌われたくねぇなら本気でそこは謝れ。と、冷ややかにミヒャエルが付け添えるとヨハンは唇を固く結んだ。
訪れた静謐は、まるで時でも止めたかのように不気味だった。
そうして幾許か、今まで沈黙を貫いていた医者は重たい息を漏らした後、ゆったりと口を開く。
「……ヨハンさん。医師が診断すれば病名は簡単に付けられる事は、確かに貴方が言う通りですよ。ですけどね、たとえ早くイルゼさんを連れ戻したいと思うにしても、そんな事をいってはいけませんよ。血は繋がっていなくとも兄弟ですから。大事に思うのもよく分かりますけどね」
そう言って、初老の医師は鞄の中から一枚紙を取り出してイルゼの名と診断書と綴った。
「確かに、イルゼさんは感情表現が極端に下手なだけであって元より心は健常でしょう。ただ随分と長い期間抑圧されていた分、調節が少し難しかったのだと窺えます。だいぶこうして感情が表面に出てきた事嬉しい事ですよ。あと残り一ヶ月、どうかお待ちください」
病名、自律神経の軽度障害。療養期限──八月一日まで。と書き記して、医師は丁重な所作でヨハンに手渡した。
「心配するお気持ちも痛い程に分かりますよ。気遣った上での発言、演技だとしてもちゃんとそこはイルゼさんに謝ってくださいね」
誰だって、そんな事言われれば傷付きます。と、諭すように医師が言えば、ヨハンは僅かにイルゼに目をやった。
「悪かったイルゼ……」
やや申し訳なさそうに言われるが、その面は腑に落ちないような色が全面に見えた。
しかし、そこまで自分を帰したいのはなぜか。領主にまで刃向かって言ったのはなぜか……。ミヒャエルがこんな性質なので、それは無かったが、上流階級者に盾突くなど下手をすれば不敬罪で捕らわれたっておかしくはないだろうに。
その後の面談中もイルゼは頭の片隅からヨハンの事が離れなかった。
その晩──イルゼは、ぼんやりと本を読みつつ夜遅くまで過ごしていた。靄が散らばるように、遠くから柱時計が十二の鐘を打つ音が聞こえてくる。日付を跨いだ事を物語るが、どうにも眠たくなかった。
療養終了まで一ヶ月を切った。もうそんなに時間が経過してしまったのだと思うが、残り少ないと思うと、やはりどこか侘しさがある。サイドテーブルの上の燭台の炎を吹き消した後、イルゼは窓辺に歩み寄りカーテンを開いて出窓に肘をつく。
窓の外は今日も快晴。月が新月に向かって半分以上欠けており、先週の満月の時に比べて星明かりが一際眩く映る。
(あと一ヶ月、もう……ない)
ぼんやりと、イルゼが頬杖をついたと同時──ほんのり部屋の一部が明るくなった。
「あ、やっぱ起きてた」
ミヒャエルの声だった。慌てて視線を向けると、手燭を持った彼がベールを捲ってイルゼの部屋に入って来た。
彼も彼で読書の最中だったのだろうか。片方の手には小さく薄めの本が握られていた。
「どうしたんですか……こんな夜遅くに」
「いや。カーテン開ける音が聞こえたから起きてるかなぁって思っただけ。あと、今日の事ちょっと心配だったから」
ついでに歌でも歌うかなぁって思って観客に来ただけ。と、悪戯気に笑んで、ミヒャエルはイルゼの隣に来ると手燭を出窓に置く。
確かに、どこか腑に落ちない顔をしていたヨハンの事は気がかりだ。きっとあれは自分の思うようにいかなかったからとしか考えられない。それに義兄は石頭という訳でない。少しは話が分かっただろうし、こうも大きな悶着には二度とならないだろうと思えた。
「大丈夫です」と、答えるとミヒャエルは安堵したようで、唇の端を僅かに綻ばせる。
「あ。歌……何か、要望があれば歌いますけど」
歌わないかと観客に来たと彼の言った事を直ぐに思い返し、イルゼが言うと、彼は目を丸くして唇を綻ばす。
「マジで良いの? ふと、思ったけど。歌じゃなくても良い?」
嬉々として彼は言うが、歌でないとは……。イルゼが首を傾げると、彼はそっと手に持っていた本を差し出した。
「この詩集。イルゼの音読で聞きたいけど……良い?」
「構いませんけど、上手に読めるか分かりません。私、あまり抑揚とか無い方ですし」
「いや、普通に朗読すれば良いよ。好きな詩がいくらかあってね。イルゼの声で聞きたいって思っただけなんだよね」
そうは言われたが、朗読など初めてだ。イルゼは不安に思いつつ詩集を捲った。
詩集はどれも、この地──ツヴァルクを歌ったものばかりだった。
短い春夏に長い冬。そんな四季を綴ったものから、父なるハンネス川の優美な流れや雨の日の雄々しき流れ。その中で育まれる生と死。実る恋に散る恋。まるで民謡のよう。一語一句が詠みやすく、イルゼはスラスラと読み上げる。
抑揚など上手く付けられないと思ったが、実際に目にした事があるような景色が次々と浮かぶもので、イルゼは感嘆と息をついたり冬の日差しのように優しく語ったりと、自分でも驚く程の抑揚が出た。
そして最後のページに……。
「水声の小夜曲」
題名を読んで直ぐ。詩を見たイルゼは目を丸く開いて言葉を飲んだ。
それこそが、イルゼが母から伝え聞いた民謡だったからだ。
「こ……これ」
思わず隣のミヒャエルを見上げると、彼はニコリと優しい笑みを浮かべていた。しかしどことなく何かを期待しているようで……。
イルゼは息を深く吸い歌い始める。しかし二番があったとは初めて知った。
──星の瞳を持つ者は夜風に溶ける。赤い花は地面に咲く。
戻らない愛しき夜風、愛しいあなたが昇る空に祈り、銀の星にあなたを重ね、私は川底で美しい花を咲かせて必ず待つ。どうか、どうか……忘れないで。
歌い上げて、それがあまりに悲しい恋の歌のように思えた。愛しき夜風、銀の星にあなたを重ね……恐らくシュロイエの男に恋したように思える。
イルゼが言葉を失ったと同時だった。
「イルゼがよく歌ってるこの歌。偶然にもシュロイエを歌ったものだよ。敵対同士の報われない恋らしいよ。この詩を綴ったのは、遠い昔のツヴァルクの城に仕えていた使用人なんだとか。民謡の成り立ちの伝記によれば、たまたまシュロイエの青年と森で鉢合わせたらしく、焦って転んで足をくじいちゃったら、何だか助けて貰ったんだとか」
──それをきっかけに、二人は頻繁に合うようになり心が通じ合った。けれど、その内通がバレて、シュロイエの男は殺され使用人はハンネス川に沈められた。
嘘か真実かは分からないけれど。と、付け添えて、彼は詩集をパタリと閉じる。
「……ごめんなさい私」
シュロイエを歌ったものとは、図書室で調べた時に薄々気付いていた。イルゼがそれを一言詫びると、彼は直ぐに首を横に振るう。
「そんな事は微塵も気にしてないよ? 特徴あるとはいえ、自分の事でもねーし俺もこの歌好きだし。それにさ、イルゼは確か……この歌を実の母さんから教わったんでしょ?」
頷くと、彼は優しい所作でポンポンとイルゼの後ろ髪を撫でる。
「ね。それはイルゼにとって大事な思い出。この続き、悲しいものだから教えるかどうか悩んでたけど……この歌がイルゼとイルゼのお母さんを繋いだ大事なものに違いない。だから教えたくなったし、この詩集イルゼにあげようって思ったんだ。それと……」
するとミヒャエルは跪き、イルゼの手を取り甲に口付けを落とす。
突然の事でドキリとしてしまった。しかしなぜに跪くのか。イルゼは頬を赤く染めて、彼を見下ろしたまま目を瞠る。
「俺、イルゼを妻にしたいだとかしれっと言ったけど、あの気持ちは嘘じゃないよ。〝ローレライ〟の存在は、あの日から俺にとっての暗闇を照らす月明かりだった」
──だから、ずっと探していた。そして出会い、君の不器用な部分も謙虚すぎる部分も含めて惹かれた。
ゆったりと切り出した彼の口調はいつもとはうって変わって真面目なものだった。それも優しい口ぶりで、彼は真っ直ぐにイルゼに星の光に似た色彩の瞳で射貫く。
「……領主として一人の男として、必ずイルゼ・ジルヒャーの生涯を幸せなものとし、守る事を固く誓います」
それを聞いたイルゼは目を瞠って息を飲んだ。馬鹿と真面目にこんな事を言われると思いもしなかった。確かに〝言うならちゃんとした場所で改まって言うべきだよなぁ〟なんてつい最近言われたばかりだが……。
「貴女を愛しています。どうか俺と結婚を前提としたお付き合いを申し込ませてください」
はっきりと言われて、イルゼの視界は一瞬にして曇った。
こんなに嬉しい事は無い。自分だって好きだと言いたいが、どうにも上手く言葉が出てこない。しゃくりあげるような嗚咽を溢してしまうと、彼は直ぐに立ち上がりイルゼを抱き寄せ背を摩った。
「……ぇ、ちょ、ちょっと待って。そんなに泣くほど嫌だったの?」
違う。と、その意志表示に首を振ると、直ぐに彼の安堵したような吐息が頬を擽った。
「え、じゃあ……なんでそんなに泣くの?」
心底困ったような面で覗き込まれて、イルゼは涙を払うようにプルプルと首を横に振るう。
「わたしも、貴方を好きなっちゃったから……嬉しいから、こんなに嬉しくて思って良いのかなって思っちゃったから」
遠い修道院行って早く忘れた方が良いと思ったから。だけど夏が、終わらなければいいって思ったから。身分差も甚だしい。本当に結ばれるなどきっと難しい事に違いない。そんな様々な思いがあるから……。
しかし、どれも上手に言葉になんてなりやしない。それでも懸命に伝えようとすれば、彼は黙って耳を傾けてくれた。
「ん……イルゼが心配する事なんか何も無いよ。出来れば今後もいつだって俺を信じて欲しいな?」
イルゼの髪を掻き分けて、額と額をくっつけて彼はやんわり笑む。頬を撫でられて、こそばゆさに身じろぎすると、彼は「そういえば」と言葉を切り出した。
「庭園で昼寝した時に、ミヒャエルじゃない名前言ったでしょ。あれのお陰で俺、忘れてた事を殆ど思い出したけど……イルゼって優しいよね。俺の昔話ちょっとしたから、教えたら俺が嫌な事でも鮮明に思い出すんじゃとかそういう心配したのかな。どーも、ミヒャエルとも全く呼ばないし……」
それを聞いて、イルゼの涙はピタリと引っ込んだ。
思わず小言を漏らした記憶はある。しかしあの時、彼は寝息を立てて眠っていた筈だ。眠りが浅いとは聞いたが、まさかそこまでと誰が思うものか。
「えと……」
口籠もると、彼は神妙な面でイルゼの顔を覗き込んだ。
「名前、呼んで欲しいな。イルゼには本当の名前で呼ばれたい」
縋るように甘やかに言われて、イルゼの胸は妙に高鳴った。
戸惑いつつ震えた唇で「ルイ」と彼の愛称を口にすると、彼はどこか儚げな笑顔を浮かべてイルゼの頬に口付けを落とした。
「ありがと。で、イルゼ。もう落ち着いたみたいだし、さっきの返事ちゃんと聞かせてくれない?」
──まずは恋人になってくれる? と、今一度聞かれて、イルゼは顔を赤く染めながらも深く頷いた。
「はい。私を……ルイの……ルードヴィヒ様の恋人にしてください」
そう告げて一拍後「はい、喜んで」と、ルードヴィヒは笑みつつ言って、イルゼの唇にやんわりとした口付けを落とした。
あんな事があったばかりだ。ヨハンの猛反対やイルゼが堰を切ったように泣き始めた事を気遣って、ミヒャエルは次週も今週も精神科医を呼んでいた。
今現在、その席にはヨハンとミヒャエルの姿もある。
しかし、今日はイルゼの部屋でなく、エントランスにほど近い応接間を使っていた。
応接間は部屋に比べれば、質素で落ち着いた雰囲気だった。それでも椅子に張られた布はマラカイトグリーンのベルベット。綿が入ってふかふかで、座り心地が良い。
テーブルを隔てて正面には医師とミヒャエル。そしてイルゼの隣には、ヨハンが座していた。
応接間は厨房がほど近いからか、給仕はバルバラが行っていた。四人分のお茶を淹れた後、テーブルの上に音も無く焼き菓子を置くと彼女は恭しく頭を下げて、その場を去って行った。
そうして彼女が去った事を見計らった後、ミヒャエルや医師はカップを掴む。それと同時、ヨハンは重々しく口を開いた。
「お医者様。イルゼは至って普通の精神状態ですよね? ならば、戻したところで何の問題は無いでしょう」
この長い療養に何の意味があるのか。と、ヨハンは前のめりになって切り出した。
「……養鶏業もやらなくて構わないと言いました。妹はこうも自己主張が出来ないので、本当は寂しく、もう家に帰りたいのではないのかと俺は心配で堪りません……牢獄に入るにしても一ヶ月の刑でした。いくら何でも長すぎます。本当は寂しかったとしたら、酷でないでしょうか」
心底苦痛そうにヨハンが言うと、ミヒャエルはカップを置いて眉をひそめる。
「何、この療養が実刑と同じような扱いだと思ってるの? っていうかイルゼ本人が寂しいとか言ったの? じゃあ、訊くけど……イルゼ直ぐに帰りたい?」
思わぬ場面で話を振られて、イルゼは固まってしまった。
「別にそうは思いません。同じ歳の友達も出来たので決して寂しくはないです。ただ、養鶏業の方をこちらの使用人の方や、義兄さんに任せきりな事が引っかかってます」
思ったままを告げるが直ぐに、ヨハンは大きく首を震う。
「お言葉ですが領主様。これじゃ貴方様が言わせているようにしか聞こえません。まず、イルゼはろくに自分の意志などありません」
しっかり自分の意志で言葉にしたのに、こうもはっきり言われてしまうと酷く悲しくなった。一番長い間、自分を見ているヨハンだからこそ、こう思ってしまうのだろうか。
「義兄さん、違う。私、これは自分の意志で……」
心からそう思うと言おうとするが、ヨハンは首を大きく横に振るい言葉を遮った。
「そんな筈ない。イルゼは自分の事だってろくに考えられない。誰がそれを一番よく知っていると思うんだ! 無礼も承知だが、領主様だってそこまでイルゼを知らないだろう。お医者様は診断すればどんな病名でも付けられる! イルゼは自分の事をろくに考えられる筈もないんだ。この間、修道院に行きたいだの言ったが、そんな事イルゼが考えられる筈も無い!」
ヨハンが言い放った言葉に、イルゼの心は凍てつくように一瞬で冷やされた。
間違いなく、ヨハンは心配してここから連れ戻そうとしている事は分かる。だが、あまりの言い様だ。〝酷い〟と、言葉にしたいが、やはり上手く出てこない。軽率に口走れば、どんな非難の言葉が飛ばされるか分からず、慄いてしまったのだ。
何も言えずにイルゼが俯いたと同時──心底面倒臭そうな吐息が真っ正面から響いてきた。
「ねぇ。この間からそーだけど、マジで喧嘩売ってんの? 俺の事はともかく、あんた本人目の前にして〝自分の事もろくに考えられない〟だのよく言えるね。イルゼはちゃんと意志がある。この前だって、イルゼはしっかりとあんたの言葉に傷ついてたんだけど」
──早く連れ戻したい為の演技かもしれないけど、嫌われたくねぇなら本気でそこは謝れ。と、冷ややかにミヒャエルが付け添えるとヨハンは唇を固く結んだ。
訪れた静謐は、まるで時でも止めたかのように不気味だった。
そうして幾許か、今まで沈黙を貫いていた医者は重たい息を漏らした後、ゆったりと口を開く。
「……ヨハンさん。医師が診断すれば病名は簡単に付けられる事は、確かに貴方が言う通りですよ。ですけどね、たとえ早くイルゼさんを連れ戻したいと思うにしても、そんな事をいってはいけませんよ。血は繋がっていなくとも兄弟ですから。大事に思うのもよく分かりますけどね」
そう言って、初老の医師は鞄の中から一枚紙を取り出してイルゼの名と診断書と綴った。
「確かに、イルゼさんは感情表現が極端に下手なだけであって元より心は健常でしょう。ただ随分と長い期間抑圧されていた分、調節が少し難しかったのだと窺えます。だいぶこうして感情が表面に出てきた事嬉しい事ですよ。あと残り一ヶ月、どうかお待ちください」
病名、自律神経の軽度障害。療養期限──八月一日まで。と書き記して、医師は丁重な所作でヨハンに手渡した。
「心配するお気持ちも痛い程に分かりますよ。気遣った上での発言、演技だとしてもちゃんとそこはイルゼさんに謝ってくださいね」
誰だって、そんな事言われれば傷付きます。と、諭すように医師が言えば、ヨハンは僅かにイルゼに目をやった。
「悪かったイルゼ……」
やや申し訳なさそうに言われるが、その面は腑に落ちないような色が全面に見えた。
しかし、そこまで自分を帰したいのはなぜか。領主にまで刃向かって言ったのはなぜか……。ミヒャエルがこんな性質なので、それは無かったが、上流階級者に盾突くなど下手をすれば不敬罪で捕らわれたっておかしくはないだろうに。
その後の面談中もイルゼは頭の片隅からヨハンの事が離れなかった。
その晩──イルゼは、ぼんやりと本を読みつつ夜遅くまで過ごしていた。靄が散らばるように、遠くから柱時計が十二の鐘を打つ音が聞こえてくる。日付を跨いだ事を物語るが、どうにも眠たくなかった。
療養終了まで一ヶ月を切った。もうそんなに時間が経過してしまったのだと思うが、残り少ないと思うと、やはりどこか侘しさがある。サイドテーブルの上の燭台の炎を吹き消した後、イルゼは窓辺に歩み寄りカーテンを開いて出窓に肘をつく。
窓の外は今日も快晴。月が新月に向かって半分以上欠けており、先週の満月の時に比べて星明かりが一際眩く映る。
(あと一ヶ月、もう……ない)
ぼんやりと、イルゼが頬杖をついたと同時──ほんのり部屋の一部が明るくなった。
「あ、やっぱ起きてた」
ミヒャエルの声だった。慌てて視線を向けると、手燭を持った彼がベールを捲ってイルゼの部屋に入って来た。
彼も彼で読書の最中だったのだろうか。片方の手には小さく薄めの本が握られていた。
「どうしたんですか……こんな夜遅くに」
「いや。カーテン開ける音が聞こえたから起きてるかなぁって思っただけ。あと、今日の事ちょっと心配だったから」
ついでに歌でも歌うかなぁって思って観客に来ただけ。と、悪戯気に笑んで、ミヒャエルはイルゼの隣に来ると手燭を出窓に置く。
確かに、どこか腑に落ちない顔をしていたヨハンの事は気がかりだ。きっとあれは自分の思うようにいかなかったからとしか考えられない。それに義兄は石頭という訳でない。少しは話が分かっただろうし、こうも大きな悶着には二度とならないだろうと思えた。
「大丈夫です」と、答えるとミヒャエルは安堵したようで、唇の端を僅かに綻ばせる。
「あ。歌……何か、要望があれば歌いますけど」
歌わないかと観客に来たと彼の言った事を直ぐに思い返し、イルゼが言うと、彼は目を丸くして唇を綻ばす。
「マジで良いの? ふと、思ったけど。歌じゃなくても良い?」
嬉々として彼は言うが、歌でないとは……。イルゼが首を傾げると、彼はそっと手に持っていた本を差し出した。
「この詩集。イルゼの音読で聞きたいけど……良い?」
「構いませんけど、上手に読めるか分かりません。私、あまり抑揚とか無い方ですし」
「いや、普通に朗読すれば良いよ。好きな詩がいくらかあってね。イルゼの声で聞きたいって思っただけなんだよね」
そうは言われたが、朗読など初めてだ。イルゼは不安に思いつつ詩集を捲った。
詩集はどれも、この地──ツヴァルクを歌ったものばかりだった。
短い春夏に長い冬。そんな四季を綴ったものから、父なるハンネス川の優美な流れや雨の日の雄々しき流れ。その中で育まれる生と死。実る恋に散る恋。まるで民謡のよう。一語一句が詠みやすく、イルゼはスラスラと読み上げる。
抑揚など上手く付けられないと思ったが、実際に目にした事があるような景色が次々と浮かぶもので、イルゼは感嘆と息をついたり冬の日差しのように優しく語ったりと、自分でも驚く程の抑揚が出た。
そして最後のページに……。
「水声の小夜曲」
題名を読んで直ぐ。詩を見たイルゼは目を丸く開いて言葉を飲んだ。
それこそが、イルゼが母から伝え聞いた民謡だったからだ。
「こ……これ」
思わず隣のミヒャエルを見上げると、彼はニコリと優しい笑みを浮かべていた。しかしどことなく何かを期待しているようで……。
イルゼは息を深く吸い歌い始める。しかし二番があったとは初めて知った。
──星の瞳を持つ者は夜風に溶ける。赤い花は地面に咲く。
戻らない愛しき夜風、愛しいあなたが昇る空に祈り、銀の星にあなたを重ね、私は川底で美しい花を咲かせて必ず待つ。どうか、どうか……忘れないで。
歌い上げて、それがあまりに悲しい恋の歌のように思えた。愛しき夜風、銀の星にあなたを重ね……恐らくシュロイエの男に恋したように思える。
イルゼが言葉を失ったと同時だった。
「イルゼがよく歌ってるこの歌。偶然にもシュロイエを歌ったものだよ。敵対同士の報われない恋らしいよ。この詩を綴ったのは、遠い昔のツヴァルクの城に仕えていた使用人なんだとか。民謡の成り立ちの伝記によれば、たまたまシュロイエの青年と森で鉢合わせたらしく、焦って転んで足をくじいちゃったら、何だか助けて貰ったんだとか」
──それをきっかけに、二人は頻繁に合うようになり心が通じ合った。けれど、その内通がバレて、シュロイエの男は殺され使用人はハンネス川に沈められた。
嘘か真実かは分からないけれど。と、付け添えて、彼は詩集をパタリと閉じる。
「……ごめんなさい私」
シュロイエを歌ったものとは、図書室で調べた時に薄々気付いていた。イルゼがそれを一言詫びると、彼は直ぐに首を横に振るう。
「そんな事は微塵も気にしてないよ? 特徴あるとはいえ、自分の事でもねーし俺もこの歌好きだし。それにさ、イルゼは確か……この歌を実の母さんから教わったんでしょ?」
頷くと、彼は優しい所作でポンポンとイルゼの後ろ髪を撫でる。
「ね。それはイルゼにとって大事な思い出。この続き、悲しいものだから教えるかどうか悩んでたけど……この歌がイルゼとイルゼのお母さんを繋いだ大事なものに違いない。だから教えたくなったし、この詩集イルゼにあげようって思ったんだ。それと……」
するとミヒャエルは跪き、イルゼの手を取り甲に口付けを落とす。
突然の事でドキリとしてしまった。しかしなぜに跪くのか。イルゼは頬を赤く染めて、彼を見下ろしたまま目を瞠る。
「俺、イルゼを妻にしたいだとかしれっと言ったけど、あの気持ちは嘘じゃないよ。〝ローレライ〟の存在は、あの日から俺にとっての暗闇を照らす月明かりだった」
──だから、ずっと探していた。そして出会い、君の不器用な部分も謙虚すぎる部分も含めて惹かれた。
ゆったりと切り出した彼の口調はいつもとはうって変わって真面目なものだった。それも優しい口ぶりで、彼は真っ直ぐにイルゼに星の光に似た色彩の瞳で射貫く。
「……領主として一人の男として、必ずイルゼ・ジルヒャーの生涯を幸せなものとし、守る事を固く誓います」
それを聞いたイルゼは目を瞠って息を飲んだ。馬鹿と真面目にこんな事を言われると思いもしなかった。確かに〝言うならちゃんとした場所で改まって言うべきだよなぁ〟なんてつい最近言われたばかりだが……。
「貴女を愛しています。どうか俺と結婚を前提としたお付き合いを申し込ませてください」
はっきりと言われて、イルゼの視界は一瞬にして曇った。
こんなに嬉しい事は無い。自分だって好きだと言いたいが、どうにも上手く言葉が出てこない。しゃくりあげるような嗚咽を溢してしまうと、彼は直ぐに立ち上がりイルゼを抱き寄せ背を摩った。
「……ぇ、ちょ、ちょっと待って。そんなに泣くほど嫌だったの?」
違う。と、その意志表示に首を振ると、直ぐに彼の安堵したような吐息が頬を擽った。
「え、じゃあ……なんでそんなに泣くの?」
心底困ったような面で覗き込まれて、イルゼは涙を払うようにプルプルと首を横に振るう。
「わたしも、貴方を好きなっちゃったから……嬉しいから、こんなに嬉しくて思って良いのかなって思っちゃったから」
遠い修道院行って早く忘れた方が良いと思ったから。だけど夏が、終わらなければいいって思ったから。身分差も甚だしい。本当に結ばれるなどきっと難しい事に違いない。そんな様々な思いがあるから……。
しかし、どれも上手に言葉になんてなりやしない。それでも懸命に伝えようとすれば、彼は黙って耳を傾けてくれた。
「ん……イルゼが心配する事なんか何も無いよ。出来れば今後もいつだって俺を信じて欲しいな?」
イルゼの髪を掻き分けて、額と額をくっつけて彼はやんわり笑む。頬を撫でられて、こそばゆさに身じろぎすると、彼は「そういえば」と言葉を切り出した。
「庭園で昼寝した時に、ミヒャエルじゃない名前言ったでしょ。あれのお陰で俺、忘れてた事を殆ど思い出したけど……イルゼって優しいよね。俺の昔話ちょっとしたから、教えたら俺が嫌な事でも鮮明に思い出すんじゃとかそういう心配したのかな。どーも、ミヒャエルとも全く呼ばないし……」
それを聞いて、イルゼの涙はピタリと引っ込んだ。
思わず小言を漏らした記憶はある。しかしあの時、彼は寝息を立てて眠っていた筈だ。眠りが浅いとは聞いたが、まさかそこまでと誰が思うものか。
「えと……」
口籠もると、彼は神妙な面でイルゼの顔を覗き込んだ。
「名前、呼んで欲しいな。イルゼには本当の名前で呼ばれたい」
縋るように甘やかに言われて、イルゼの胸は妙に高鳴った。
戸惑いつつ震えた唇で「ルイ」と彼の愛称を口にすると、彼はどこか儚げな笑顔を浮かべてイルゼの頬に口付けを落とした。
「ありがと。で、イルゼ。もう落ち着いたみたいだし、さっきの返事ちゃんと聞かせてくれない?」
──まずは恋人になってくれる? と、今一度聞かれて、イルゼは顔を赤く染めながらも深く頷いた。
「はい。私を……ルイの……ルードヴィヒ様の恋人にしてください」
そう告げて一拍後「はい、喜んで」と、ルードヴィヒは笑みつつ言って、イルゼの唇にやんわりとした口付けを落とした。
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