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第四章 熱情
4-1.言えぬ望み
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六月中旬。夏至を越え、夏が深まりつつあった。
今年は猛暑なのだろう。未だ午前中、室内に居るにも関わらず、既に背中にじっとりと汗が滲む。イルゼは先程やって来て正面に座したばかりの精神科医をジッと眺めていた。かれこれ彼の診察はこれで四度目だ。別に精神異常を来していないが、療養の名目上との事でミヒャエルは定期カウンセリングに彼を呼んでいた。しかし、その内容は人生相談に近しいだろう。
初老の精神科医は相変わらず気難しそうな顔だった。額から滲み出る汗をハンカチーフで拭い、やれやれと首を振るう。顔だけ見れば、やはり近寄りがたい威圧感を覚える。だが、イルゼに視線を向けると強ばった表情は緩やかに解けるように綻んだ。
「こうも暑いと困りますねぇ。喜ぶのは葡萄農家だけでしょう」
なぜに葡萄農家だけが喜ぶのかよく分からない。イルゼが首を傾げると、彼はほっほと笑みを溢して白く濁った瞳を向けた。
「葡萄は難儀な果実でしてね。最高級の葡萄酒になるには、厳しい暑さがあった方が旨みが増すそうですよ。そして初冬まで実を残したものは、中が引き締まって甘みを増すのです。これで作った葡萄酒は実に美味いのですよ。苦しい思いをする程に、人はそれだけ優しくなれるものなので、葡萄と人の精神は少しだけ似ているように思えますね」
流石精神科医なだけある。こうして話を繋げたのかと感心して、イルゼが深く頷くと彼はハンカチーフを置いて人の良さそうな笑みを向けた。
「イルゼさんはそれだけお優しい人間になっているのではと思いますよ。ところで、先の事はもうお決めになったのですか?」
こうも肯定されるのはムズ痒い。イルゼは戸惑いつつも頷いた。
「……この療養を終えたら、修道院に身を寄せようと考えています。先生のおっしゃる通り、私……自立したいです。義兄さんに会えなくなる事はとても寂しく思いますが、一度しかない自分の人生をしっかりと歩みたいと思います」
誰かの役に立つ事をしたい。幸せを与えられる人間になりたい。と、はっきりと宣言すると、医者は穏やかな面で深く頷いた。
「立派な考えだと思いますよ。しかし、イルゼさんだいぶ表情が明るくなられましたね」
素敵だと、褒められてイルゼが紅潮すると彼はクスクスと笑みを溢す。
そうして、人生相談から雑談に変わり午前十一時の鐘の音が聞こえる事間もなく医師は退席した。イルゼはその後について扉の外まで見送ると、そこでミヒャエルが待機していた。医師はミヒャエルに恭しく頭を垂れるが、彼は軽い調子で手を上げる。
「せんせー、イルゼもお疲れぇ。俺、休憩がてらせんせー下まで送るよ?」
「あぁ、お気遣いありがとうございますミヒャエル様」
今一度医師は頭を垂れるが「いいって」と彼は軽い調子で遮った。
「私も下までお伴します。先生のお見送りをさせてください」
そう申し出ると「階段疲れるよぉ……」なんてミヒャエルは渋るように言うが、イルゼは首を横に振るう。
「お掃除のお手伝いで私、一番下の階まで行き来してるのでだいぶ慣れましたし」
きっぱり言うと、ミヒャエルは少しばかり心配そうな視線を送るものの頷いた。
そうして、三人で最下層まで階段を下り医者を送り届ける。その間、ミヒャエルと医師は他愛も無い会話に花を咲かせていた。
ミヒャエルは相変わらずに軽い調子だが、流石元主治医という事もあって医師も慣れているらしく。朗らかな調子で会話を楽しんでいた。そうして正面玄関まで送り届けて、ドアを開くと既にそこには馬車が待機している。
「じゃあ、せんせーまたね」
「はい、ミヒャエル様。イルゼさんも、次の診察までどうぞお達者で」
そう言われて、イルゼは馬車に乗り込もうとする医師に丁寧な一礼する。しかし、医師は途端に何か思い出したようで「あ」と小さな声を上げて、イルゼに目をやった。
「そうえいば、お義兄さんは今日もいらっしゃいます?」
訊かれた事にイルゼは直ぐに頷いた。
「ええ、夕方までにはこちらに訪れるそうです。私、そろそろ今後の事を義兄さんにしっかりと話をしようかと思います」
「ああ、そうですか。是非、貴女の状態など直々にお話したいと思っていましたが、お仕事もなかなかにお忙しそうですね。自分がどうしたいかを断言する事には勇気がいるでしょうが、応援しておりますよ」
優しい笑みを向けて、今一度頭を垂れた後、医師は馬車に乗り込んだ。
そうして間もなく、御者が手綱を握ると、馬車は緩やかに走り始める。中で手を振る医師にイルゼは唇を綻ばせて僅かに手を振り替えし、馬車が見えなくなると一礼した。
しかし、礼から直ろうとすれば、妙に視線を感じた。直ぐに隣を見上げた途端、銀鼠の瞳と視線が絡まり合ったのだ。
ミヒャエルは、どことなく腑に落ちないような面を浮かべて後ろ髪を掻いている。何か言いたげだが、相変わらずによく分からない。
「どうしました?」と、とりあえずで訊けば、彼は腕を組んでやれやれと首を横に振るう。
「修道院行きも良い選択だと思うけどさぁ。俺としては、もう城で働いちゃえば良いじゃんって思うんだけど。同じ領地なんだしさぁ。その方がヨハンだって顔出しやすいじゃん?」
……これを言われたのはかれこれもう三度目程だろうか。イルゼは困却して口籠もってしまった。
つい先週。ミヒャエルに庭園を案内された後、見張り塔の中に作られた隠れ家で眠ってしまった事があった。
夕刻に起こされて城に戻る帰り道、療養後どうするのかという話題になった。当たり前のように、修道院行きを選ぶと話したところ城に留まる事を彼から提案されたのである。
領地から離れなくても良い。会おうと思えば、ヨハンにだって何時だって会える。鶏も殺さなくて良いし、胸くそ悪い義姉に会わない。養鶏業の援助や人員確保だって援助出来る。〝別にイルゼ一人くらい俺、一生かけて面倒くらい見られるし、守れるけど〟と……。
確かに修道院に入ってしまえば、男子禁制。恐らく義兄と二度と会えなくなる。それに自分だけでなくヨハンにとっても何から何まで条件が良すぎるので、この提案に甘えたくなるが、それが良い選択と思えなかった。
自分はただの庶民だ。こうも領主に特別扱いされ、彼に面倒を見て貰うのは気が引けた。街の人たちに全てがバレてしまったら、彼がこれ以上にない顰蹙を買ったっておかしくない。自分はどう足掻いたって、悪名高い殺人犯の娘なのだ。
勿論対価として働く事になるが、それでも何から何まで条件が良すぎる。ここまでして貰う事が流石に申し訳ないと思えて、イルゼは返事なんか出来なかった。ただほんの少し、そう言われた事は嬉しいとは思えたが、決してこれは叶えてはならない事と思えた。
「……でも」
戸惑いつつ言うと、背に腕を回されて、城の中に入ろうと促される。
「まぁ。この提案はイルゼさえ良ければだけどな。というか、城に居る選択がおかしいって思うなら、メラニーと双子の兄貴は庶民どころか、散々にハンネス川の関所襲ってた盗賊なんだけど?」
そんな事は初耳だ。イルゼは目を丸く開いて、思わず彼の方を見る。
確かに、窓掃除をするメラニーはとてつもなく機敏とは思ったし、エプロンのポケットに知らぬ間にミヒャエルからの手紙を入れる事もあったので、随分と手先が妙に器用と思ったが……。
それ以前に表に出て働く、伯爵の手先の使用人が〝ゴロツキの如く恐ろしい〟なんて噂話は聞いていたが……そういう事だったのか。と、大いに納得する。
呆気に取られたまま彼を見上げていれば「すげぇ驚き方」なんて彼はクスクスと笑んだ。
天地がひっくり返っても、罪人を雇うなど絶対にありえない事だ。これ以上に何か後ろ暗い事でもあるのか。
「え……盗賊をどうして」
丁度、長く薄暗い階段に差し掛かり、イルゼがぼかしつつ訊けば、彼は軽い笑いを溢す。
「ローレライよりもう少し手前……川の中州に〝リスの塔〟って言われ関所あるの知ってる?」
確か、あまりぱっとしないクリーム色の石を積み上げた短い塔だ。そこで船の通行料を取る。と母から訊いた事があった。イルゼが頷くと、ミヒャエルは話を続けた。
「あの関所を襲う盗賊って結構いたもんだけど、自警団や有志で関所の警備強化したら、存外簡単に捕まえられたんだよね。だけど、それさえすり抜ける随分と小賢しいのが居てね。それがあの兄弟。まぁ、話し合いだよ。そしたら利害関係が一致した。あいつらが望む以上の対価を与えて……言い方は悪いけど、縛り付けた。それでね、使えそうだわって思って試しに雇ったら、想像以上の働きをしてくれたからねぇ。税金もよく集まるし」
正直、貴族の出の使用人なんかよりよく働く。それに俺だって元々、貴族育ちじゃねーから気楽。だから、イルゼが居ても俺からしたら何の違和も無い。と、彼はきっぱりと言い放った。
……メラニーが〝利害関係〟で成り立つと言っていた言葉を改めて納得した。
しかし、そうとは言え……。
「私、盗賊でなくとも殺人犯の娘です。領地の人にそんな娘を匿ってるだとか割れたら、間違いなく貴方が顰蹙を買います」
自分で言っていてやはり心が痛かった。だが、尤もな事だ。しかしミヒャエルは「バレやしないだろ」と直ぐさま一蹴りする。
「それにさぁ。いつまでも、殺人犯の娘だの、そんな事で忌まれるのっておかしいと思うんだ。まぁそういう人の不幸をいネタに笑い続けるの好きな奴って貴族に多いけどそれ以外にも腐るほどいるだろうけどな。でもイルゼは何もやってないでしょ? 肉切り包丁振り回した事だけは……悪いとは思うけど」
でも元はといえば、胸くそ悪い義姉だろ。どんな腐れ女かマジで見てみたい……。なんて鼻で嗤い、ミヒャエルは更に言葉に続けた。
「じゃあさぁ。その事実を帳消しにする為に〝領主が城に療養中の娘に惚れ込んで、大恋愛の末に妻にしました〟って事にする?」
「はぁ」
何が何だか……。といった調子でイルゼが曖昧な相槌を打つ。しかし、今彼はこれまでに無い突飛も無い事を言っただろう。慌ててイルゼが彼を見上げると、ミヒャエルは口角を吊り上げてニヒヒとどこか狡猾な笑みを溢した。
「もう〝これ以上は文句言わせねぇぞ〟って事にする為に……イルゼが俺のお嫁さんになる? って訊いてるんだけど」
あっさりと言われて、イルゼは驚きのあまり立ち止まってしまった。
「いや、や……なんでそうなるんですか? 私、庶民ですよ?」
彼を一瞥もせず、無理難題を押しつけないでください。と、きっぱり言えば「釣れないなぁ、っていうか声、震えてない?」と、気の抜けた返事が響く。
そう指摘されたのが急速に恥ずかしくなってきた。イルゼは足早になって、先に階段を上り出すと直ぐ背後で彼の笑い声が響く。
「やーそもそも俺、縁談とか無いしさぁ。社交界シーズンになっても殆ど出やしねぇもん。国税しっかり渡して王室に葡萄酒献上してるだけで、承諾されてるよーなもんだし」
本気か嘘かは口調からでは分からない。イルゼが僅かに彼を振り向こうとするが、歩は進めたまま。薄暗い階段で足元を見なかった事が災いしたのだろう。ふとした拍子に踏み外してしまって後によろけるが──直ぐにミヒャエルに背中を支えられた。
「危ないって。前ちゃんと見て」
「……ご、ごめんなさい」
一歩間違えれば、彼に怪我させてしまうところだった。イルゼが謝ると、彼は「いーえ」とこれまた軽い調子で言う。
そうして階段を半分ほど上り終えて、一呼吸置いたイルゼは「変な冗談、言わないでください」と、彼を一瞥せずに溢した。
「……さっきの? 割と本気で言ったけど。自分の名前を忘れる癖にイルゼの言葉は覚えてるくらいだしな。まぁそういう大事な事、言うならちゃんとした場所で改まって言うべきだよなぁ」
ごめんな。なんて軽い調子で謝られるが、やはりどう返事して良いか分からなかった。しかし、それを改まって言われたとしても、それこそ本当にどう答えて良いか分からない。
別に彼の事は嫌いで無い。否、寧ろ好きだろう。変人だが、存外正直だ。その上、途方も無い包容力がある。一緒に居る事で安らぎ、妙に心が穏やかになる。
そう気付かされたのは庭園に案内されたあの日だ。
認めたくも無かったが、改めてイルゼは彼が好きなのだろう。と、自覚した。
しかし、なぜに好きと思えたかは、添い寝されたあの時、宣告通りに手を出されなかった事もあるだろう。それに、彼が仕事で呼び込んだ娼婦とそういう事になったと聞いた時の自分の反応だ。間違いなく、嫉妬心を抱いたからだ。
(……きっと私、ルイを好きになり始めてる。療養が……この夏が終わらなきゃいいのにって思っちゃう。離れるのが辛くなる。手遅れになる前に忘れなきゃいけない)
いくら影武者で娼婦の息子であろうが、シュロイエの残党と囁かれても、前領主の子息に違わない。身分差も甚だしいのだ。どんなに思ったところで実る筈も無い。そんな都合良く行く訳が無い。無理に決まっている。いくら自分の気持ちに正直に生きろ、人に甘えろと言ったところで、それとこれとでは話が別だ。
そう……贅沢になってはいけない。高望みをしてはならない。
……イルゼは自分に言い聞かせて、唇を固く閉ざした。
今年は猛暑なのだろう。未だ午前中、室内に居るにも関わらず、既に背中にじっとりと汗が滲む。イルゼは先程やって来て正面に座したばかりの精神科医をジッと眺めていた。かれこれ彼の診察はこれで四度目だ。別に精神異常を来していないが、療養の名目上との事でミヒャエルは定期カウンセリングに彼を呼んでいた。しかし、その内容は人生相談に近しいだろう。
初老の精神科医は相変わらず気難しそうな顔だった。額から滲み出る汗をハンカチーフで拭い、やれやれと首を振るう。顔だけ見れば、やはり近寄りがたい威圧感を覚える。だが、イルゼに視線を向けると強ばった表情は緩やかに解けるように綻んだ。
「こうも暑いと困りますねぇ。喜ぶのは葡萄農家だけでしょう」
なぜに葡萄農家だけが喜ぶのかよく分からない。イルゼが首を傾げると、彼はほっほと笑みを溢して白く濁った瞳を向けた。
「葡萄は難儀な果実でしてね。最高級の葡萄酒になるには、厳しい暑さがあった方が旨みが増すそうですよ。そして初冬まで実を残したものは、中が引き締まって甘みを増すのです。これで作った葡萄酒は実に美味いのですよ。苦しい思いをする程に、人はそれだけ優しくなれるものなので、葡萄と人の精神は少しだけ似ているように思えますね」
流石精神科医なだけある。こうして話を繋げたのかと感心して、イルゼが深く頷くと彼はハンカチーフを置いて人の良さそうな笑みを向けた。
「イルゼさんはそれだけお優しい人間になっているのではと思いますよ。ところで、先の事はもうお決めになったのですか?」
こうも肯定されるのはムズ痒い。イルゼは戸惑いつつも頷いた。
「……この療養を終えたら、修道院に身を寄せようと考えています。先生のおっしゃる通り、私……自立したいです。義兄さんに会えなくなる事はとても寂しく思いますが、一度しかない自分の人生をしっかりと歩みたいと思います」
誰かの役に立つ事をしたい。幸せを与えられる人間になりたい。と、はっきりと宣言すると、医者は穏やかな面で深く頷いた。
「立派な考えだと思いますよ。しかし、イルゼさんだいぶ表情が明るくなられましたね」
素敵だと、褒められてイルゼが紅潮すると彼はクスクスと笑みを溢す。
そうして、人生相談から雑談に変わり午前十一時の鐘の音が聞こえる事間もなく医師は退席した。イルゼはその後について扉の外まで見送ると、そこでミヒャエルが待機していた。医師はミヒャエルに恭しく頭を垂れるが、彼は軽い調子で手を上げる。
「せんせー、イルゼもお疲れぇ。俺、休憩がてらせんせー下まで送るよ?」
「あぁ、お気遣いありがとうございますミヒャエル様」
今一度医師は頭を垂れるが「いいって」と彼は軽い調子で遮った。
「私も下までお伴します。先生のお見送りをさせてください」
そう申し出ると「階段疲れるよぉ……」なんてミヒャエルは渋るように言うが、イルゼは首を横に振るう。
「お掃除のお手伝いで私、一番下の階まで行き来してるのでだいぶ慣れましたし」
きっぱり言うと、ミヒャエルは少しばかり心配そうな視線を送るものの頷いた。
そうして、三人で最下層まで階段を下り医者を送り届ける。その間、ミヒャエルと医師は他愛も無い会話に花を咲かせていた。
ミヒャエルは相変わらずに軽い調子だが、流石元主治医という事もあって医師も慣れているらしく。朗らかな調子で会話を楽しんでいた。そうして正面玄関まで送り届けて、ドアを開くと既にそこには馬車が待機している。
「じゃあ、せんせーまたね」
「はい、ミヒャエル様。イルゼさんも、次の診察までどうぞお達者で」
そう言われて、イルゼは馬車に乗り込もうとする医師に丁寧な一礼する。しかし、医師は途端に何か思い出したようで「あ」と小さな声を上げて、イルゼに目をやった。
「そうえいば、お義兄さんは今日もいらっしゃいます?」
訊かれた事にイルゼは直ぐに頷いた。
「ええ、夕方までにはこちらに訪れるそうです。私、そろそろ今後の事を義兄さんにしっかりと話をしようかと思います」
「ああ、そうですか。是非、貴女の状態など直々にお話したいと思っていましたが、お仕事もなかなかにお忙しそうですね。自分がどうしたいかを断言する事には勇気がいるでしょうが、応援しておりますよ」
優しい笑みを向けて、今一度頭を垂れた後、医師は馬車に乗り込んだ。
そうして間もなく、御者が手綱を握ると、馬車は緩やかに走り始める。中で手を振る医師にイルゼは唇を綻ばせて僅かに手を振り替えし、馬車が見えなくなると一礼した。
しかし、礼から直ろうとすれば、妙に視線を感じた。直ぐに隣を見上げた途端、銀鼠の瞳と視線が絡まり合ったのだ。
ミヒャエルは、どことなく腑に落ちないような面を浮かべて後ろ髪を掻いている。何か言いたげだが、相変わらずによく分からない。
「どうしました?」と、とりあえずで訊けば、彼は腕を組んでやれやれと首を横に振るう。
「修道院行きも良い選択だと思うけどさぁ。俺としては、もう城で働いちゃえば良いじゃんって思うんだけど。同じ領地なんだしさぁ。その方がヨハンだって顔出しやすいじゃん?」
……これを言われたのはかれこれもう三度目程だろうか。イルゼは困却して口籠もってしまった。
つい先週。ミヒャエルに庭園を案内された後、見張り塔の中に作られた隠れ家で眠ってしまった事があった。
夕刻に起こされて城に戻る帰り道、療養後どうするのかという話題になった。当たり前のように、修道院行きを選ぶと話したところ城に留まる事を彼から提案されたのである。
領地から離れなくても良い。会おうと思えば、ヨハンにだって何時だって会える。鶏も殺さなくて良いし、胸くそ悪い義姉に会わない。養鶏業の援助や人員確保だって援助出来る。〝別にイルゼ一人くらい俺、一生かけて面倒くらい見られるし、守れるけど〟と……。
確かに修道院に入ってしまえば、男子禁制。恐らく義兄と二度と会えなくなる。それに自分だけでなくヨハンにとっても何から何まで条件が良すぎるので、この提案に甘えたくなるが、それが良い選択と思えなかった。
自分はただの庶民だ。こうも領主に特別扱いされ、彼に面倒を見て貰うのは気が引けた。街の人たちに全てがバレてしまったら、彼がこれ以上にない顰蹙を買ったっておかしくない。自分はどう足掻いたって、悪名高い殺人犯の娘なのだ。
勿論対価として働く事になるが、それでも何から何まで条件が良すぎる。ここまでして貰う事が流石に申し訳ないと思えて、イルゼは返事なんか出来なかった。ただほんの少し、そう言われた事は嬉しいとは思えたが、決してこれは叶えてはならない事と思えた。
「……でも」
戸惑いつつ言うと、背に腕を回されて、城の中に入ろうと促される。
「まぁ。この提案はイルゼさえ良ければだけどな。というか、城に居る選択がおかしいって思うなら、メラニーと双子の兄貴は庶民どころか、散々にハンネス川の関所襲ってた盗賊なんだけど?」
そんな事は初耳だ。イルゼは目を丸く開いて、思わず彼の方を見る。
確かに、窓掃除をするメラニーはとてつもなく機敏とは思ったし、エプロンのポケットに知らぬ間にミヒャエルからの手紙を入れる事もあったので、随分と手先が妙に器用と思ったが……。
それ以前に表に出て働く、伯爵の手先の使用人が〝ゴロツキの如く恐ろしい〟なんて噂話は聞いていたが……そういう事だったのか。と、大いに納得する。
呆気に取られたまま彼を見上げていれば「すげぇ驚き方」なんて彼はクスクスと笑んだ。
天地がひっくり返っても、罪人を雇うなど絶対にありえない事だ。これ以上に何か後ろ暗い事でもあるのか。
「え……盗賊をどうして」
丁度、長く薄暗い階段に差し掛かり、イルゼがぼかしつつ訊けば、彼は軽い笑いを溢す。
「ローレライよりもう少し手前……川の中州に〝リスの塔〟って言われ関所あるの知ってる?」
確か、あまりぱっとしないクリーム色の石を積み上げた短い塔だ。そこで船の通行料を取る。と母から訊いた事があった。イルゼが頷くと、ミヒャエルは話を続けた。
「あの関所を襲う盗賊って結構いたもんだけど、自警団や有志で関所の警備強化したら、存外簡単に捕まえられたんだよね。だけど、それさえすり抜ける随分と小賢しいのが居てね。それがあの兄弟。まぁ、話し合いだよ。そしたら利害関係が一致した。あいつらが望む以上の対価を与えて……言い方は悪いけど、縛り付けた。それでね、使えそうだわって思って試しに雇ったら、想像以上の働きをしてくれたからねぇ。税金もよく集まるし」
正直、貴族の出の使用人なんかよりよく働く。それに俺だって元々、貴族育ちじゃねーから気楽。だから、イルゼが居ても俺からしたら何の違和も無い。と、彼はきっぱりと言い放った。
……メラニーが〝利害関係〟で成り立つと言っていた言葉を改めて納得した。
しかし、そうとは言え……。
「私、盗賊でなくとも殺人犯の娘です。領地の人にそんな娘を匿ってるだとか割れたら、間違いなく貴方が顰蹙を買います」
自分で言っていてやはり心が痛かった。だが、尤もな事だ。しかしミヒャエルは「バレやしないだろ」と直ぐさま一蹴りする。
「それにさぁ。いつまでも、殺人犯の娘だの、そんな事で忌まれるのっておかしいと思うんだ。まぁそういう人の不幸をいネタに笑い続けるの好きな奴って貴族に多いけどそれ以外にも腐るほどいるだろうけどな。でもイルゼは何もやってないでしょ? 肉切り包丁振り回した事だけは……悪いとは思うけど」
でも元はといえば、胸くそ悪い義姉だろ。どんな腐れ女かマジで見てみたい……。なんて鼻で嗤い、ミヒャエルは更に言葉に続けた。
「じゃあさぁ。その事実を帳消しにする為に〝領主が城に療養中の娘に惚れ込んで、大恋愛の末に妻にしました〟って事にする?」
「はぁ」
何が何だか……。といった調子でイルゼが曖昧な相槌を打つ。しかし、今彼はこれまでに無い突飛も無い事を言っただろう。慌ててイルゼが彼を見上げると、ミヒャエルは口角を吊り上げてニヒヒとどこか狡猾な笑みを溢した。
「もう〝これ以上は文句言わせねぇぞ〟って事にする為に……イルゼが俺のお嫁さんになる? って訊いてるんだけど」
あっさりと言われて、イルゼは驚きのあまり立ち止まってしまった。
「いや、や……なんでそうなるんですか? 私、庶民ですよ?」
彼を一瞥もせず、無理難題を押しつけないでください。と、きっぱり言えば「釣れないなぁ、っていうか声、震えてない?」と、気の抜けた返事が響く。
そう指摘されたのが急速に恥ずかしくなってきた。イルゼは足早になって、先に階段を上り出すと直ぐ背後で彼の笑い声が響く。
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「……ご、ごめんなさい」
一歩間違えれば、彼に怪我させてしまうところだった。イルゼが謝ると、彼は「いーえ」とこれまた軽い調子で言う。
そうして階段を半分ほど上り終えて、一呼吸置いたイルゼは「変な冗談、言わないでください」と、彼を一瞥せずに溢した。
「……さっきの? 割と本気で言ったけど。自分の名前を忘れる癖にイルゼの言葉は覚えてるくらいだしな。まぁそういう大事な事、言うならちゃんとした場所で改まって言うべきだよなぁ」
ごめんな。なんて軽い調子で謝られるが、やはりどう返事して良いか分からなかった。しかし、それを改まって言われたとしても、それこそ本当にどう答えて良いか分からない。
別に彼の事は嫌いで無い。否、寧ろ好きだろう。変人だが、存外正直だ。その上、途方も無い包容力がある。一緒に居る事で安らぎ、妙に心が穏やかになる。
そう気付かされたのは庭園に案内されたあの日だ。
認めたくも無かったが、改めてイルゼは彼が好きなのだろう。と、自覚した。
しかし、なぜに好きと思えたかは、添い寝されたあの時、宣告通りに手を出されなかった事もあるだろう。それに、彼が仕事で呼び込んだ娼婦とそういう事になったと聞いた時の自分の反応だ。間違いなく、嫉妬心を抱いたからだ。
(……きっと私、ルイを好きになり始めてる。療養が……この夏が終わらなきゃいいのにって思っちゃう。離れるのが辛くなる。手遅れになる前に忘れなきゃいけない)
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そう……贅沢になってはいけない。高望みをしてはならない。
……イルゼは自分に言い聞かせて、唇を固く閉ざした。
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