【R18】水声の小夜曲

日蔭 スミレ

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第三章 接近

3-6.閉ざされた暗い塔

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 部屋に戻ってそれぞれ昼寝だろう。と、思ったが……ぐねぐねと曲がる白薔薇の迷宮のを進む事幾許か、出た先は蔓草の生い茂った見張り塔ベルクフリートの前だった。
 流石見張り塔ベルクフリートなだけあって、ここは頑強な石造りだ。そもそも見張り塔ベルクフリートは戦時に捕虜を閉じ込める他、最後の砦ともなる。だからこそ屈強そうな作りに違わないが……。イルゼは後方に聳える城を見て目を細めると、ミヒャエルは見張り塔ベルクフリートに向かってスタスタと歩み出す。

「イルゼおいで。最高の昼寝場所兼、俺の秘密の場所に案内するよぉ」

 そう言って、ミヒャエルが嬉しそうに手招きするので、イルゼは不思議に思いつつ彼の方へ歩み寄った。
 ミヒャエルはジレの内胸元から鍵を取り出して施錠を外す。そうして、扉を開くとそこにはこぢんまりとした小さな部屋になっていた。
 ベッドにソファ。書き物机に、本棚も。床にはカーペットが敷かれており、もはやここで生活出来そうな程にしっかりとした作りだった。イルゼは呆気に取られて空間を眺望する。しかし、やはり外見の通り窓なんて無いので薄暗い。随分上の方に二つ三つ窓があるが、そこから差し込む光なんてあまりに頼りなかった。

「まぁー見張り塔ベルクフリートだし、暗いんだけどねぇ。ほら、ベッド使って良いよ。ちゃんとシーツも清潔だから安心してねぇ」

 煤けた燭台を持つ彼は顎ベッドを示し、イルゼに使うように促した。とりあえず座っていようと腰掛けると、確かにふかふかで心地良い。
 そして、彼はマッチを擦ると燭台に火を入れて、重々しい扉を閉める。
 扉が閉まったと同時、空間は擬似的な夜に変わった。暖かな橙の光がほんのりと辺りを照らす様はどこか心が和む。それに眠気が拍車をかけるように迫ってくるが……、ギシとベッドのスプリングが跳ねてイルゼは重たい瞼を限界まで持ち上げた。

「ほれ。寝るぞー。俺、滅茶苦茶眠り浅いから夕方には起こすから安心して昼寝して」

 早速彼は、ベッドに横になり来い来いと手招きする。

「……え」

 イルゼは唇をぽかんと開けて硬直すると、ミヒャエルは訝しげに眉を寄せた。

「眠いんだろ?」

「そ、そうですけど……私はソファ使います」

 身分云々の前に婚前の男女だ。イルゼの持つ一般常識的にはありえない。だが、娼婦を束で買う彼からしたら造作も無い事だろうか。

「馬鹿いえ。女にそんな場所で寝させらんねぇーけど。ほら、おいで」


 別に取って食ったりしない。と、呆れたように言われたしゆ、腕を引かれてベッドの中に上半身を引きずり込まれてしまった。

「ちょ、ちょっとまってください、靴が……」

「ん。それは脱いで?」

 随分とあっさりとした口調で言われてかえって安堵した。イルゼは足をもぞもぞ動かして靴を脱ぐと、観念したかのように上掛け布団の脚も入れる。
 すると彼は満足気に笑んで、力一杯にイルゼの身を引き寄せた。それもこうも顔が近いので嫌な程に顔面に熱が攻め寄せた。いたたまれない程の羞恥に追いやられたイルゼはきゅっと瞼を伏せて、身を捩る。
 目を瞑った事で嗅覚が敏感になった。ほんのり香る彼のコロンの匂いが鼻腔をつき、彼に抱き締められていると嫌でも思い知らされた。
 何もしないと言ったではないか。否、彼が変人な事を忘れて、油断していた部分もあっただろうか。咄嗟に昨晩の夢が過ってイルゼは更に瞼をきつく閉ざした。

「……ちょ、ちょっとまって!」

「んーやだ。なーんか、抱き枕にしたいーって思ったんだけど、ダメ?」

 全く良くない。イルゼは怖々と瞼を持ち上げると、彼が少しばかり悪戯気な視線を向けていた。だが、昨晩の夢とは違い劣欲の色は微塵も宿していない。どちらかというと、悪戯そうな子供のする嗜虐的なものだった。少しばかり安堵して、イルゼが大きなため息をつくと、彼はケラケラと子供のように笑いこける。

「……性質、悪いです。夜伽まがいな事でも要求されるかと思いました」

 本当に焦ったのだ。悔しくなったので思った事を不機嫌に言ってやると、彼はククと押し殺した笑いを溢す。

「安心して。俺、何か知らねーけど、寝起きと相当疲れてる時以外殆ど勃たねーもん」

 あっさりとそんな事を言われると思わなかった。
 勃つ……とは昨日読んだ本の中で一応理解している。真っ赤になってしまうと「赤くなってる?」なんて指摘されるものだから、イルゼは少しばかり布団の中に潜って彼の首元に顔を埋めた。

「なんか意外。イルゼって婚前交接が不浄~だとか、そういう貞操的概念の常識あんま無さそうだって勝手に思い込んでたんだけど。そんなに恥ずかしい?」

「当たり前、です……。貴方は娼婦を束にして買うだとかって噂がありますけど、私はそんな経験ないですもん」

 恥ずかしさとほんの少しの腹立たしさで困惑が隠せない。羞恥で震え上がった声で思ったままを言ってやると、彼は「あー」と、間延びした返事をする。

「まぁー事実、十人くらいは束にして何度か買ってるけど、全部仕事絡みだしなぁ。そいでも一人だけ事情聴取に呼んだ時、〝仕事しないと帰れない〟だとか言われて……押し倒されて乗られて喰われたから……そーいう事した事ねぇーって言ったら嘘になるけど、さっきも言ったけど俺、そういう時ってマジで勃たねぇんだわ」

 なんかそん時、途中で俺が萎えちゃってリタイア。なんて彼は、苦笑いで付け添えた。
 なるほど。事実らしいが、そういう目的で無い事が意外だった。しかし、女に強姦まがいな事をされたなど……ご愁傷様としか言いようもない。それでも、そういう経験があるのかと思うと、今更のように少しばかり心の奥にチクチクとした痛みを感じた。
 それがなぜかは、自覚したくない。きっと、これが貪欲で醜い感情だと……それが何という感情に結び付くかを自覚したくなかったからだ。

 一つ呼吸を置き、イルゼは僅かに彼を見上げてみる。こんな事を語らせて、少し機嫌でも悪そうな顔でもしているか。と思ったが、存外そうでもなかった。

「嫉妬でもした?」

 しれっとした口調で言われて驚いてしまった。

「なんで、そうなるんです……」

 さっぱりとした口調で切り返すと、彼にワシャワシャと後ろ髪を撫でられた。短くなってしまったので、うなじが丸見えだ。触れられるとこそばゆく思えて、身を竦めると、彼はまどろんだ面で優しく笑む。
 やはり、こういう顔が卑怯だと思う。優しい笑みがどうも胸が締め付けられる。とてもでなく直視出来なくなり、イルゼが視線を落とすと彼は眠気で更にやんわりとした口調で切り出した。

「まー多分さぁ。生理現象で一応勃つんだし完全な不全じゃねーだろうけどさ。横になった所為で今、かなり眠いから半分くらいって勃っちゃってるし、寝起きギンギンかもしれないけど別に盛りやしない……とは思うから多分。そこは安心して」

 そんな実況と状況説明しないで頂きたい。寧ろ恥ずかしい。やはり変人に違わない。彼には恥じらいという概念が無いのだろうか……。イルゼは心の中で独りごちて、深いため息を吐き出した。

 しかし、貴族の男で不全は致命的でないだろうか。貴族なんて結婚すればお淫ら三昧で、そうして世継ぎを作るらしい。勿論、これも昨日読んだ本で知った知識だが……。
 イルゼが顔を上げると、彼は困ったような面を浮かべて額に口付ける。しかし、なぜにキスするのか。益々行動が分からなくて、眉をひそめるとミヒャエルは苦笑いを浮かべた。

「イルゼの年齢を考慮して、まー平気だろって昨日、本を適当に選んだけどさぁ。あの、恋愛物語って結構過激な事書いてるやつだったしね。こんなに初じゃ、なんか厭らしい夢でも見たとか、俺とえっちな事する想像しちゃったのかなぁとは思ったけど、そう?」

 なーんか迎えに来た時から、妙によそよそしいもん。なんてふわふわとした口調で言われてしまい、イルゼは言葉を失った。

 まさかそんな事を見抜いていたなど思いもしなかったのだ。違う。と直ぐに言える筈なのに、どうにも言葉が喉を詰まって出てこない。

「……図星?」

 追い打ちをかけるような言葉を言わないで頂きたい。真っ赤になってイルゼが首を振ると、彼は眠たげな目を細めて、イルゼの短い後ろ髪を撫で始めた。

「可愛いなぁ、もう。好き」

 そう告げて数拍後。スゥスゥと隣から規則正しい寝息が聞こえてきた。

 ……可愛いは何度か聞いたが、好きとは。
 イルゼは更に赤くなって何度も目をしばたたく。あんなに眠たかった筈なのに、もう眠気はどこにやら。
 好きとは、本に書かれた恋愛的意味だろうか。否、愛玩的意味か。しかし、どちらにしても好かれる意味が分からない。だが、きっと後者だろうとイルゼは自分なりに理解した。 そう思って幾許か。イルゼは落ち着きを取り戻すと、次第に眠気が膨れてきた。

「ルイのばか……」

 消え入りそうな声でそう呟いて、イルゼは瞼を伏せた。

 *

「ルイのばか……」

 消え入りそうな声が霞がかった耳に届き、ミヒャエルは薄く目を開いた。
 ルイ。今、彼女は自分をそう呼んだだろうか。馬鹿というのは少し聞き捨てならないが……。ミヒャエルは、パチリと目を開いて自分の腕の中を見ると、スゥスゥと規則正しい寝息を立てて眠るイルゼの顔が映る。非常に穏やかな寝顔だ。
 だが、ルイと……。呼ばれた名を心の中で復唱した途端──ミヒャエルは背中に疼くような痛みを覚え、視界はやがて暗転する。

 ──こことはまた別の見張り塔ベルクフリートで散々拷問に等しい虐待を父から受けた。確か、北側だっただろうか。

 父は一度も自分の本当の名を呼んだ事が無い。否、自分の名前なんてこの城では誰も呼んでくれなかった。
 いまいましい。汚らわしい。なぜに本妻の息子が死ぬのだと。死ぬのはお前が良かったと。本当に厄災の瞳だと。
 だったら、愛人なんか作らなければ良かったじゃないか。自分を作らなければ良かった。どうして自分がこんな目に遭わなくてはならない。そうは思ったが、更に酷い目に遭う事を恐れてそんな事は言えなかった。やがて、言葉も失い何も言えなくなった。それでもただ一人、自分を気に掛けてくれた人が居た。それこそが本物のミヒャエルの乳母だったバルバラだけで……。

 やがて断片的だった記憶が全て鮮明に浮かび上がる。

 ……心が空っぽになる最中、自ら死を選んで、あの夜、断崖絶壁から身を投げようと城を抜け出した。
 別に本当の名前に執着などない。知ったところで、どうだって良い。そもそも、名を名乗ったかなんて覚えていなかったので、彼女にきもしなかったが、イルゼはしかいていた。そうして自分は答えただろう。「ルードヴィヒ。ルイでも良いよ」と。

 ルイは愛称だが、母や母の仕事仲間の娼婦達が愛おしむようにいつもそう呼んでくれたのだ。そう呼ばれるのが好きだった。またいつか大人になって会える時があれば、彼女にそう呼んで貰いたい。あの夜の帰り道、そんな事を思っただろう。

 ──ルードヴィヒ。今一度自分の名を心の内で彼ははんすうする。

 事実凄惨な過去だった。しかし、この名を思い出さなければきっと、母の声も母の顔も嬉しかった記憶も何もかも思い出せなかっただろう。

「……名前、呼んでくれてありがと」

 眠るイルゼの額に口付けて、ルードヴィヒは小さく呟いた。

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