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第三章 接近
3-2.滅びた部族
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六月上旬。初夏に差し掛かり、すっかり日の入りが遅くなった。現在午後四時に差し掛かるが、未だ太陽は煌々と輝いており、イルゼは額に滲み出た汗を拭い、窓の外を眺めて一つ吐息をつく。
城に来て早くも一ヶ月が経過した。
あれ以降、イルゼは部屋の外を出て、メラニーにくっついて歩き、使用人の手伝いをこなすようになった。
そうしてメラニーとより深く関わるようになって知った事だが、彼女の掃除技術はイルゼの予想の斜め上をいっていた。
まるで猿の身のこなしが軽く、手際が良いのだ。高い場所の窓掃除も何のその。腕力と脚力だけで壁をよじ登り、難なく塵を払っていた。どう見たって華奢な娘なのに、恐ろしい程の身体能力を持つギャップにイルゼが驚かされたのは言うまでもない。
……それ以外にも驚かされたのは、ミヒャエルから預かった手紙を渡す時だ。
初めこそは手渡しされていた手紙だが、最近ではイルゼが気付かぬうちにディアンドルのポケットの中に入れておくのである。
まやかしか手品かと思ったが、すれ違い様に入れ込むらしい。ミヒャエルからの手紙が無い時は、包み紙に入ったあめ玉の時を入れられる事もある。それを〝いつ入れたでしょうか〟と、当てるゲームを毎日のようにするが、未だに特定出来やしない。
子供の頃はおてんば娘だったのだろう。と、前々から思っていたが……度を過ぎる程に予想以上だった。
そんなメラニーを含めて、城内で働く使用人は四人だけ。
彼女の兄──ヘルゲとザシャとはもうすっかり顔見知り。二人ともメラニーと変わらぬ朗らかな対応なので、人見知りのイルゼでも少しずつ彼らに馴染み始めた。
そして、もう一人の使用人は調理場を担当している初老の女だった。
赤みを強く含んだ茶髪は白髪が交ざり。これがまた綺麗に交ざり合っているので、紅葉を終えて色褪せた葉のように見えた。ましてや、細く筋張った四肢という体躯から、枯れ葉のような印象を与える。それを際立たせるのは、片足を引き摺るような歩き方をするからだろう。晩秋を迎え、木枯らしに耐える葉のように映ってしまった。
間違いなく、足腰が悪い。だからきっと、調理しか担っていないと納得出来る。
そんな彼女は非常に寡黙な女だった。名はバルバラと言うらしい。
──使用人達の手伝いをすると決まった翌日、メラニーを介して彼女に会い、イルゼはおどおどと挨拶したが、彼女は眉間に深く皺を寄せた気難しい顔のまま一言も返事しなかった。ただ深く頷くだけ。
その様から、厄介者に思われているのだろうと思い込んだが……メラニー曰く、これが至って普通だそうだ。別に不機嫌な訳でないらしい。
その証拠と言わんばかりに、掃除が一段落つくとお茶を持って来てくれるなど、気に掛けてくれている事が窺えた。恐らく自分と同じで、人と喋る事が極度に苦手なのだろうと憶測が立つ。だが、それもまた違うように思えた。
……何やらメラニーの話によると、バルバラは前領主の時からこの城で働いていたそうだ。それもミヒャエルの乳母だそう。
現在のミヒャエルことルードヴィヒは、前領主時代の使用人全てに暇を出した。そんな中で彼女だけ残しているのは不自然で仕方ない。間違いなくルードヴィヒがミヒャエルの影武者である事をよく存じていると考えられる。きっと、彼にとって信用における存在なのだろうか。
確かに、口数は少ないどころか全く喋らないので、無駄口を叩いたりもしなそうだ。否、わざとそうするように彼に命じられているのかもしれないが……。
(考えたって分からない……)
はたきを置いたイルゼは窓辺の壁に背を預けて、瞼を伏せた。
そよそよと頬を擽る風が心地良い。日差しも暖かいので眠気が穏やかにやってくるが、まだまだやる事は山積みだ。イルゼはゆっくりと瞼を開き、再び掃除に取りかかった。
現在イルゼが居る場所は、城の東側。塔の真下にある図書室だった。
こぢんまりとした空間だが、背の高い本棚がぎっちりと並んでおり、その中も所狭しと本が詰まっていた。
見たところ古い本が多い。真新しいものもそれなりにあるが、殆どの見出しが色褪せていた。しかし、なぜに一人で図書室の掃除をしているのか。その理由は、昨日ミヒャエル本人に直々に頼まれたからだ。
────重要な文献なんて置いていないけれど、どうにも使用人達は入りにくいらしい。たまに俺が日干しに行くけれど、結構埃が積もっている。悪いが、お願い出来るか?
と、そのような旨の書かれた手紙を渡されて、イルゼは直ぐに快諾した。
炊事の下ごしらえに洗濯に掃除と使用人の仕事は山のようにある。とはいえ、掃除に関しては、一日で全てを終わらせる訳でない。掃除箇所を数日に分けて回しているのだ。自分が加わった事によって確実に効率が良くなったのだろう。ローテーションがあまりに早く来る事から、メラニーも戸惑っていた。流石に使用人達の仕事を余計に奪うのは良くないと思えたので、イルゼは彼のお願いが丁度良く思った。
しかし本当に、図書室は掃除をしていなかったのだろう。インクに埃とカビの臭いが混ざっており、部屋に踏み入った時は思わず鼻を摘まむ程だった。なので直ぐに換気をしたが、染みついているので臭いは簡単に剥がれない。それでも、流石に数時間も居れば慣れてしまう。イルゼははたきを持ち、脚立によじ登って再び本棚の上の埃を払い始めた。
そうして、幾許か。本棚の上の掃除を終えた頃には壁掛け時計の針が丁度午後五時を示していた。あと二時間ばかりで夕食の時間となる。まだ日も沈んでもいないので、六時くらいは粘ろう。やり切れなかった分は明日に回せば良い。そう思って、イルゼは本棚の中の掃除を始めた。
とりあえず、面倒臭そうな分厚い文献が詰まった棚から始める事にした。
一冊如き大した重量でないが、二冊三冊と欲張って持ってしまうと、やはり重たい。〝重要な文献なんて置いていない〟と、彼は言ったが、それでも破損などさせたら大変だろう。慎重に慎重に……と、部屋の隅に設置されたテーブルの上に置こうとしたが、それが大きな誤算だった。
テーブルの高さは自分の腰より高い。欲張って分厚い本を三冊も持ってしまったので、腕がとてもでなく上がらないのだ。そこで、床にでも置いた方が良かっただろう。だが、〝重要でない〟とはいえ、明らかに古い本だ。大事に違わない。
「──んっ!」
イルゼはありったけの力を振り絞ってテーブルの上に置こうとしたが、腕の力の限界が来る方が早かった。滑り落ちるように三冊の本がバラバラと床の上に散らばった。見たところ破損や破れはないが、これはマズイ事になった。慌ててイルゼは本の確認をする事間もなく、破損が無い事が分かり、直ぐにほっと胸を撫で下ろす。
(よかった……)
そうして一冊ずつ、本をテーブルの上に置くが、床の上にメモが落ちていた事に気付いた。恐らく、本の中に挟まっていたのだろうか。それを拾い上げてイルゼは首を傾げる。メモの字は随分乱雑な筆跡だった。紙が黄ばんでいるので最近のものでないと窺える。
──眼球の色を変える呪術。満月の晩、水面に映る月の光を小瓶に入れる。その水で目を潤した後、星の祈りを込めた銀のフォークで眼球を刺す。その後、変えたい色合いの塗料を解かした月の水で再び眼球を潤す。
その一文を読み、想像する痛みにイルゼは身震いした。眼球をフォークで刺すなんて、正気の沙汰と思えな
い。
依頼先……王宮専属魔導士に依頼、北方ミステル領、魔女へと依頼──と、紙の端に小さく記されているが、王宮専属魔道士の部分には取消線が二重に引かれて潰されていた。
そういえば、ミヒャエルことルードヴィヒ本人が呪術で色を変えていると言ったが、これの事だろうか。しかし、まさかとは言うが、こんな訳の分からぬ手段を取ったのだろうか。これでは失明したっておかしくない。しかし、彼の顔を見る限り、目に傷痕も無ければ眼球だって普通なのでこんな馬鹿げた手段は取っていないのだと想像出来る。
確か……〝シュロイエの残党〟と、彼は言っただろうか。全く聞き馴染みも無い言葉だが、何だか耳に残る響きだ。それはいったい何か……。イルゼは、眉を寄せて三冊の分厚い本を捲る事幾許か、めぼしい項目に辿り着いた。
────シュロイエ。南東の山間部に住まう騎馬民族。
青みを帯びた黒髪と銀の瞳を持つ。南東部のツヴァルク、キーファー、ヴァイデ、フリーダなどの国々への侵攻。無尽蔵に街を焼く他、女や子供を攫う等の悪行を繰り返した事により〝悪魔〟とも喩えられ、銀の瞳は〝災いの瞳〟と呼ばれた。国々が束なり滅亡させるまでに半世紀がかかる。
その一文を読んだイルゼは直ぐにこめかみを揉んだ。
『災いの瞳って言われてるらしーよ』
ふと、以前彼の言った言葉が頭の中を駆け巡る。確かに歴史を紐解けばそうなってしまうだろう。
……ツヴァルクやキーファーなど、これらは現在は領地の名だが、ヴァレンウルム王国として統合される前は各々が独立した国だった。つまり、シュロイエという騎馬民族がいたのは三世紀も四世紀も昔……否、もしかすればもっと昔の事となる。こんな昔の事を、未だに言って迫害を受けていただの、信じられなかったかった。
実際に生まれてこの方、ツヴァルク領に住まうイルゼだって知らなかった事だ。否……自分が知らないだけか。だが、外との交流があるヨハンだってリンダだって一度も口にしなかった。つまり、皆ろくに存じていないと思しい。杞憂するのは、学がある者か遠い昔の話をよく知る老人くらいに違わないだろう。
間違いなく、王宮側だってそんな事大して気にしないだろうと思しい。何せ、国が現在の領地レベルに狭かった時代といえば、日常的に戦が起こり、各々が領地拡大に奮闘していたような時期なのだ。そうして勝った国に敗戦国が吸収され、幾度も同じ事を繰り返して、現在のヴァレンウルムが成り立っているに違いないのだ。
領地も保たぬ山岳の騎馬民族、シュロイエだってその歴史の一部に違わないだろう。
しかし、そんな民族がいたなど本当に知らなかった。イルゼは深い息を吐きつつ、ぼんやりと項を眺める事幾許か……途端にハッと目を瞠る。よく思えば、全く知らない訳でないと思ったのだ。
ふと過ったのは母から教わった銀色の瞳を保つ男の民謡。それから川底の歌の一節だ。
──星の瞳を持つ者は夜風に駆ける。赤い花は水面に揺らぐ。
普通に聞くだけでは、川辺での美しい夜の光景のように思えるが……星の瞳。
反芻する程に、それはシュロイエを示すように思えた。赤い花とは恐らく炎だ。水面に揺らぐ赤い花……つまり、争いの炎が水面に映った事を表現しているようにさえ思えた。
──もう戻れない愛しき日々。愛しいあなたの幸を祈り……。
続きに関しても、戦で息絶えた者の歌のように思えてしまう。考え過ぎだろうか。だが、あれは古い民謡らしい。そんな隠喩はあったとしたっておかしくない。
だが、それにしたって惨いだろう。確かに、彼は青光りする黒髪に銀鼠の瞳と書物に記された通りのシュロイエの特徴があるが……。
(だからって、こんな昔の事の所為で……)
何の罪も無い少年を虐げ、影武者と仕立て上げた。本物が亡くなった事により本物になった。否、させられた。
イルゼはそのページにメモ書きを挟んで、そっと本を閉じた。
……しかし、人が苦手な筈の自分がなぜにこんなに他人を気遣うのか不審に思った。
牢獄送りにされかけた自分を救ってくれたからか。とんでもない秘密を知ってしまったからか。過去に邂逅していたからか……哀れみか。理由は並べれば沢山あるだろうが、考えれば考えるほどに頭が痛くなる。しかし、自分を匿って良くしたところで何の利点も無い筈だ。それも見返りなど求めちゃいないとまで言った程だ。
放っておけなかった。自分のようにさせたくなかった。と、彼の根の優しさが窺えるが……過去にたった一度邂逅しようが自分達は赤の他人に違わない。ろくに街にも出ない庶民の娘に恩を売ったところで何一つ得がない筈だ。
見えてくる答えは〝不器用すぎるただのお人好し〟。言葉は下手だが、先日のメラニーとのやりとりを見ても、誰に対してもあぁも優しいのだろうと窺えた。
ミヒャエルとして君臨する自分の正体を隠し通す為に人を雇わないと窺えるが、あの優しい性質を利用されないように誰かが、そう言いつけたとも考えられる。
否、あくまで憶測なので、そこまでは流石に考え過ぎかもしれないが……。
……しかし、毎日のように手紙を交わすが、未だに彼の事は何一つ理解出来ていない。と、イルゼはふと思った。だが、それを分かる必要があるのか。知る必要があるのか。と、思えてしまう部分もある。
この療養が終われば、自分は恐らく養鶏業の手伝いをしつつ、修道院行きを考えるのだ。ヨハンともしっかり話をつけなくてはならない。誰のものでもなく自分の人生に違いないのだ。
それでも、せめてこの城に居る間は彼から貰った恩を返したいと素直に思えた。
その恩はあまりに大きい。劣悪な環境に行かずに済んだ事が最もだが、現在ヘルゲやザシャや、中年の御者が一日おきに養鶏業の手伝いに来ていると先日、城に見舞いに来たヨハンから聞いたばかりだった。それも二人の働きぶりがキビキビとして頼りになると。安定した収入が入り、軌道に乗れば男の働き手を雇っても良いとまで言った程だ。
何か、彼に出来る事が無いか……。
呆然と考えていれば、柱時計が六時の鐘を打った。
……本棚の掃除は明日にしよう。澱を吐き出すように深く息をついたイルゼは、分厚い本を一冊ずつ所定の場所に戻し、窓を閉めて図書室を後にした。
城に来て早くも一ヶ月が経過した。
あれ以降、イルゼは部屋の外を出て、メラニーにくっついて歩き、使用人の手伝いをこなすようになった。
そうしてメラニーとより深く関わるようになって知った事だが、彼女の掃除技術はイルゼの予想の斜め上をいっていた。
まるで猿の身のこなしが軽く、手際が良いのだ。高い場所の窓掃除も何のその。腕力と脚力だけで壁をよじ登り、難なく塵を払っていた。どう見たって華奢な娘なのに、恐ろしい程の身体能力を持つギャップにイルゼが驚かされたのは言うまでもない。
……それ以外にも驚かされたのは、ミヒャエルから預かった手紙を渡す時だ。
初めこそは手渡しされていた手紙だが、最近ではイルゼが気付かぬうちにディアンドルのポケットの中に入れておくのである。
まやかしか手品かと思ったが、すれ違い様に入れ込むらしい。ミヒャエルからの手紙が無い時は、包み紙に入ったあめ玉の時を入れられる事もある。それを〝いつ入れたでしょうか〟と、当てるゲームを毎日のようにするが、未だに特定出来やしない。
子供の頃はおてんば娘だったのだろう。と、前々から思っていたが……度を過ぎる程に予想以上だった。
そんなメラニーを含めて、城内で働く使用人は四人だけ。
彼女の兄──ヘルゲとザシャとはもうすっかり顔見知り。二人ともメラニーと変わらぬ朗らかな対応なので、人見知りのイルゼでも少しずつ彼らに馴染み始めた。
そして、もう一人の使用人は調理場を担当している初老の女だった。
赤みを強く含んだ茶髪は白髪が交ざり。これがまた綺麗に交ざり合っているので、紅葉を終えて色褪せた葉のように見えた。ましてや、細く筋張った四肢という体躯から、枯れ葉のような印象を与える。それを際立たせるのは、片足を引き摺るような歩き方をするからだろう。晩秋を迎え、木枯らしに耐える葉のように映ってしまった。
間違いなく、足腰が悪い。だからきっと、調理しか担っていないと納得出来る。
そんな彼女は非常に寡黙な女だった。名はバルバラと言うらしい。
──使用人達の手伝いをすると決まった翌日、メラニーを介して彼女に会い、イルゼはおどおどと挨拶したが、彼女は眉間に深く皺を寄せた気難しい顔のまま一言も返事しなかった。ただ深く頷くだけ。
その様から、厄介者に思われているのだろうと思い込んだが……メラニー曰く、これが至って普通だそうだ。別に不機嫌な訳でないらしい。
その証拠と言わんばかりに、掃除が一段落つくとお茶を持って来てくれるなど、気に掛けてくれている事が窺えた。恐らく自分と同じで、人と喋る事が極度に苦手なのだろうと憶測が立つ。だが、それもまた違うように思えた。
……何やらメラニーの話によると、バルバラは前領主の時からこの城で働いていたそうだ。それもミヒャエルの乳母だそう。
現在のミヒャエルことルードヴィヒは、前領主時代の使用人全てに暇を出した。そんな中で彼女だけ残しているのは不自然で仕方ない。間違いなくルードヴィヒがミヒャエルの影武者である事をよく存じていると考えられる。きっと、彼にとって信用における存在なのだろうか。
確かに、口数は少ないどころか全く喋らないので、無駄口を叩いたりもしなそうだ。否、わざとそうするように彼に命じられているのかもしれないが……。
(考えたって分からない……)
はたきを置いたイルゼは窓辺の壁に背を預けて、瞼を伏せた。
そよそよと頬を擽る風が心地良い。日差しも暖かいので眠気が穏やかにやってくるが、まだまだやる事は山積みだ。イルゼはゆっくりと瞼を開き、再び掃除に取りかかった。
現在イルゼが居る場所は、城の東側。塔の真下にある図書室だった。
こぢんまりとした空間だが、背の高い本棚がぎっちりと並んでおり、その中も所狭しと本が詰まっていた。
見たところ古い本が多い。真新しいものもそれなりにあるが、殆どの見出しが色褪せていた。しかし、なぜに一人で図書室の掃除をしているのか。その理由は、昨日ミヒャエル本人に直々に頼まれたからだ。
────重要な文献なんて置いていないけれど、どうにも使用人達は入りにくいらしい。たまに俺が日干しに行くけれど、結構埃が積もっている。悪いが、お願い出来るか?
と、そのような旨の書かれた手紙を渡されて、イルゼは直ぐに快諾した。
炊事の下ごしらえに洗濯に掃除と使用人の仕事は山のようにある。とはいえ、掃除に関しては、一日で全てを終わらせる訳でない。掃除箇所を数日に分けて回しているのだ。自分が加わった事によって確実に効率が良くなったのだろう。ローテーションがあまりに早く来る事から、メラニーも戸惑っていた。流石に使用人達の仕事を余計に奪うのは良くないと思えたので、イルゼは彼のお願いが丁度良く思った。
しかし本当に、図書室は掃除をしていなかったのだろう。インクに埃とカビの臭いが混ざっており、部屋に踏み入った時は思わず鼻を摘まむ程だった。なので直ぐに換気をしたが、染みついているので臭いは簡単に剥がれない。それでも、流石に数時間も居れば慣れてしまう。イルゼははたきを持ち、脚立によじ登って再び本棚の上の埃を払い始めた。
そうして、幾許か。本棚の上の掃除を終えた頃には壁掛け時計の針が丁度午後五時を示していた。あと二時間ばかりで夕食の時間となる。まだ日も沈んでもいないので、六時くらいは粘ろう。やり切れなかった分は明日に回せば良い。そう思って、イルゼは本棚の中の掃除を始めた。
とりあえず、面倒臭そうな分厚い文献が詰まった棚から始める事にした。
一冊如き大した重量でないが、二冊三冊と欲張って持ってしまうと、やはり重たい。〝重要な文献なんて置いていない〟と、彼は言ったが、それでも破損などさせたら大変だろう。慎重に慎重に……と、部屋の隅に設置されたテーブルの上に置こうとしたが、それが大きな誤算だった。
テーブルの高さは自分の腰より高い。欲張って分厚い本を三冊も持ってしまったので、腕がとてもでなく上がらないのだ。そこで、床にでも置いた方が良かっただろう。だが、〝重要でない〟とはいえ、明らかに古い本だ。大事に違わない。
「──んっ!」
イルゼはありったけの力を振り絞ってテーブルの上に置こうとしたが、腕の力の限界が来る方が早かった。滑り落ちるように三冊の本がバラバラと床の上に散らばった。見たところ破損や破れはないが、これはマズイ事になった。慌ててイルゼは本の確認をする事間もなく、破損が無い事が分かり、直ぐにほっと胸を撫で下ろす。
(よかった……)
そうして一冊ずつ、本をテーブルの上に置くが、床の上にメモが落ちていた事に気付いた。恐らく、本の中に挟まっていたのだろうか。それを拾い上げてイルゼは首を傾げる。メモの字は随分乱雑な筆跡だった。紙が黄ばんでいるので最近のものでないと窺える。
──眼球の色を変える呪術。満月の晩、水面に映る月の光を小瓶に入れる。その水で目を潤した後、星の祈りを込めた銀のフォークで眼球を刺す。その後、変えたい色合いの塗料を解かした月の水で再び眼球を潤す。
その一文を読み、想像する痛みにイルゼは身震いした。眼球をフォークで刺すなんて、正気の沙汰と思えな
い。
依頼先……王宮専属魔導士に依頼、北方ミステル領、魔女へと依頼──と、紙の端に小さく記されているが、王宮専属魔道士の部分には取消線が二重に引かれて潰されていた。
そういえば、ミヒャエルことルードヴィヒ本人が呪術で色を変えていると言ったが、これの事だろうか。しかし、まさかとは言うが、こんな訳の分からぬ手段を取ったのだろうか。これでは失明したっておかしくない。しかし、彼の顔を見る限り、目に傷痕も無ければ眼球だって普通なのでこんな馬鹿げた手段は取っていないのだと想像出来る。
確か……〝シュロイエの残党〟と、彼は言っただろうか。全く聞き馴染みも無い言葉だが、何だか耳に残る響きだ。それはいったい何か……。イルゼは、眉を寄せて三冊の分厚い本を捲る事幾許か、めぼしい項目に辿り着いた。
────シュロイエ。南東の山間部に住まう騎馬民族。
青みを帯びた黒髪と銀の瞳を持つ。南東部のツヴァルク、キーファー、ヴァイデ、フリーダなどの国々への侵攻。無尽蔵に街を焼く他、女や子供を攫う等の悪行を繰り返した事により〝悪魔〟とも喩えられ、銀の瞳は〝災いの瞳〟と呼ばれた。国々が束なり滅亡させるまでに半世紀がかかる。
その一文を読んだイルゼは直ぐにこめかみを揉んだ。
『災いの瞳って言われてるらしーよ』
ふと、以前彼の言った言葉が頭の中を駆け巡る。確かに歴史を紐解けばそうなってしまうだろう。
……ツヴァルクやキーファーなど、これらは現在は領地の名だが、ヴァレンウルム王国として統合される前は各々が独立した国だった。つまり、シュロイエという騎馬民族がいたのは三世紀も四世紀も昔……否、もしかすればもっと昔の事となる。こんな昔の事を、未だに言って迫害を受けていただの、信じられなかったかった。
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間違いなく、王宮側だってそんな事大して気にしないだろうと思しい。何せ、国が現在の領地レベルに狭かった時代といえば、日常的に戦が起こり、各々が領地拡大に奮闘していたような時期なのだ。そうして勝った国に敗戦国が吸収され、幾度も同じ事を繰り返して、現在のヴァレンウルムが成り立っているに違いないのだ。
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しかし、そんな民族がいたなど本当に知らなかった。イルゼは深い息を吐きつつ、ぼんやりと項を眺める事幾許か……途端にハッと目を瞠る。よく思えば、全く知らない訳でないと思ったのだ。
ふと過ったのは母から教わった銀色の瞳を保つ男の民謡。それから川底の歌の一節だ。
──星の瞳を持つ者は夜風に駆ける。赤い花は水面に揺らぐ。
普通に聞くだけでは、川辺での美しい夜の光景のように思えるが……星の瞳。
反芻する程に、それはシュロイエを示すように思えた。赤い花とは恐らく炎だ。水面に揺らぐ赤い花……つまり、争いの炎が水面に映った事を表現しているようにさえ思えた。
──もう戻れない愛しき日々。愛しいあなたの幸を祈り……。
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だが、それにしたって惨いだろう。確かに、彼は青光りする黒髪に銀鼠の瞳と書物に記された通りのシュロイエの特徴があるが……。
(だからって、こんな昔の事の所為で……)
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イルゼはそのページにメモ書きを挟んで、そっと本を閉じた。
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放っておけなかった。自分のようにさせたくなかった。と、彼の根の優しさが窺えるが……過去にたった一度邂逅しようが自分達は赤の他人に違わない。ろくに街にも出ない庶民の娘に恩を売ったところで何一つ得がない筈だ。
見えてくる答えは〝不器用すぎるただのお人好し〟。言葉は下手だが、先日のメラニーとのやりとりを見ても、誰に対してもあぁも優しいのだろうと窺えた。
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否、あくまで憶測なので、そこまでは流石に考え過ぎかもしれないが……。
……しかし、毎日のように手紙を交わすが、未だに彼の事は何一つ理解出来ていない。と、イルゼはふと思った。だが、それを分かる必要があるのか。知る必要があるのか。と、思えてしまう部分もある。
この療養が終われば、自分は恐らく養鶏業の手伝いをしつつ、修道院行きを考えるのだ。ヨハンともしっかり話をつけなくてはならない。誰のものでもなく自分の人生に違いないのだ。
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その恩はあまりに大きい。劣悪な環境に行かずに済んだ事が最もだが、現在ヘルゲやザシャや、中年の御者が一日おきに養鶏業の手伝いに来ていると先日、城に見舞いに来たヨハンから聞いたばかりだった。それも二人の働きぶりがキビキビとして頼りになると。安定した収入が入り、軌道に乗れば男の働き手を雇っても良いとまで言った程だ。
何か、彼に出来る事が無いか……。
呆然と考えていれば、柱時計が六時の鐘を打った。
……本棚の掃除は明日にしよう。澱を吐き出すように深く息をついたイルゼは、分厚い本を一冊ずつ所定の場所に戻し、窓を閉めて図書室を後にした。
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