【R18】水声の小夜曲

日蔭 スミレ

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第三章 接近

3-1.包み隠さぬ素直さ

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 ────ミヒャエル様。私がローレライと知っていたのですね。私がローレライと語ったのは貴方だけです。いいえ、貴方以外にあの岩山の上で会った事が無いので、私は貴方を鮮明に覚えています。貴方が忘れた本当の名を……。 

 そこまで書いてイルゼはペンを止め、こめかみを揉んだ。

 あの夜から一週間近くが経過しようとしている。ミヒャエルことルードヴィヒとは幾度か手紙でのやりとりをした。それだけでなくお茶に二度も誘われたが、彼の口から昔の話は一度も出てこなかった。

 ……いつか会える事を夢に見ていた。

 つまり、ずっと探していたのだとおぼしい。きっと彼は本名を知る手がかりにして自分を探していたのだろうと憶測出来る。そう考えれば、療養と称したこのもてなしだって頷けるし、彼が金髪の娘に異常な程の執着を持っていた噂も納得出来る。
 それなのに、彼はこの件を一切いて来ないのだ。
 果たして彼は何を考えているのか……。どう思っているのか。深い息を吐き出したイルゼは便箋を丸めてくずかごに捨てた。

(本当に何を考えているか分からない。それに、私が名を教えて良いのか……)

 出過ぎた真似かもしれない。聞かれるまで何も言わぬ方が良いか……。
 イルゼが散らばった便箋を片付け始めたと同時──軽快な叩扉が二つ響いた。メラニーだろう。「はい」と短く返事して間もなく、姿を現したのは案の定メラニーだった。

「三時だしお茶はどう?」

 彼女は穏やかに告げると、ワゴンを引いてテーブルの前までやって来る。だが、イルゼは直ぐに立ち上がり、給仕を始めようとする彼女を遮った。
 やはり、こんな好待遇は慣れないし、おかしいと思う。

「毎日、いいよ……私、お客さんじゃないし」

 これを言うのはかれこれ三度目だ。イルゼがおどおどと言えば、彼女は深いため息をついて首を横に振った。

「だって……イルゼは療養中。お客様としてもてなせって旦那様が言ったんだもの」

「でも別に……私、身体はどこも悪くない」

「それは知ってるけど。でも、包丁振り回すくらいに心が荒んでたでしょう? 出来る限りゆっくりと穏やかに時間を過ごすべきだと思うわ?」

「それかもしれないけど……。でも、こうも毎日、一日も二回もお茶の時間なんて設けられたら……」

 太りそう。と、率直な思いを消え入りそうな声で言えば、彼女は大きく目を瞠った後ケラケラと声を上げて笑った。

 笑うところだろうか。事実、前よりほっぺたがふっくらとした気がするし、太股にムチムチと肉が付いた気がしてならないのだ。それもたった二週間あまりでだ。まさか、丸々と太らせる気だろうか……と思えてしまう程。腑に落ちない様子のイルゼに対してメラニーは「またまたぁ~」と茶化すように言って腕を組む。

「貴女、細すぎよ。旦那様が言ってたわよ? 〝あの子さぁ……めっちゃ軽いんだよねぇ~抱き心地が悪そ〟だって?」

 絶妙に真似が似ていた。しかし、抱き心地とは……。イルゼが眉をひそめるが、次第に頬が熱くなる事を自覚する。

 抱き心地……。この場合艶っぽい意味だろうか。

 まさか、それが最終的な要求か。イルゼは目を瞠ったまま呆然とした。
 しかし、彼が自分を特別好いているように見えない。キスはされたが、額や頬だけだ。そんなの挨拶に違わないだろう。それに、彼は娼婦を束で買うだの噂になっているので……そういった面は満足しているに違いない。

(夜伽をさせるなら、経験も無い下手な娘より娼婦の方が……)

 そう。義姉のように、いかにも扇情的な女の方が良いに決まっている。心でそう呟いて、イルゼは頬に上った熱を払うように首を振った。

「大丈夫? 顔が真っ赤……」

 またも茶化すように言われて、イルゼは何度も頷いた。

「大丈夫。でも、こうも待遇が良すぎるのもどうかと思うの。その……何かお手伝いとか無いの?」

 思い切ってくと、メラニーは気難しそうに眉根を寄せて首を捻る。

「うーん。存知とは思うけど、使用人が少ないからね。一人増えれば少し楽が出来るかなぁ~って思うけど、事が足りてるのよ。でも……強いていうならお掃除くらい?」

「それやる」と即答すれば、彼女は目をしばたたき──唇をぽかんと開いた。

「お手伝い、なんだってやる! お料理は最低限なら出来る。お掃除はちゃんと出来る。だって、だって! こんな待遇は絶対におかしい!」

「うん……その気持ちは有り難いけどさ。あくまでも療養患者としてイルゼは居るわけだし……そこは私が判断を下して良いとは思えないわよ」

 ううん。と彼女はこめかみを揉んで眉を寄せるが、「お願い」と、イルゼは念を押すように詰め寄った。

「分かった! 分かったわよ! じゃあ、その件は……旦那様に直接言うなりお手紙にするなり……」

 すれば良い。と、彼女が言い切る前に「良いんじゃない?」とあの軽妙な声が響き、イルゼは目を丸くした。

 後方に目をやれば、いつの間にか部屋を委ねたベールの前にミヒャエルが腕を組んで立っていた。

 ……そうだ。大抵、彼は隣の部屋に居る。勿論、外出している事もあるが、この二週間でそちらの方が希だった。
 手紙のやりとりで知った事だが、よほどの事が無い限りは彼は表に出ないそうだ。表の仕事の殆どメラニーの兄達に任せて、税金の割り当てや土地開拓の計画など主に事務作業をこなしている事が多いそうである。

 表に出る時といえば、大きな金額が動く場合のみ。ちなみにイルゼと出会ったあの時は、自警団の人件費や設備改良の為に金を渡したついでに、どうやって人員を増やすかなどの相談に乗っていたらしい。

「あ……あ……旦那様すみません」 

 慌ててメラニーはヘコヘコと頭を下げと、ミヒャエルは少年のように悪戯気に笑んで「すげぇ取り乱し方」と嘲るように言った。

「まぁ。二週間も経つのに、イルゼは部屋に引きこもってるみたいだしねぇ。遠慮しすぎなんだよ? 少しは身体動かした方が気分も良いし、それは大賛成。しかしさぁ……」 

 メラニー、俺の真似下手すぎね? と、ミヒャエルが嗜虐的に笑むので、メラニーは二歩三歩と後退りした。

「……き、聞かれていたのですね。大変、失礼致しました」

「えー。だってぇー部屋、隣り合ってるでしょ? 俺、静かに帳簿をつけてただけだし、何もかも筒抜け。まぁ面白いからいいけどさぁー」

「た、大変失礼しました」

「それと、なあに? イルゼはこんな生活を続けてたら、ぶくぶく太りそうだって気にしてるってゆーの?」

 その通りだ。おどおどしながら頷くと、彼は背を折り曲げてイルゼを覗き込む事、一拍後──ニヤリとした卑しい笑みを浮かべた。

「やーイルゼはまだ太っても良いでしょ? っていうか、鶏の餌でも食べて育ったの……ってくらい細っせーし、軽いし」

 鶏の餌……。それは流石に失礼だろう。

 やはりこの人は一言余計で言葉の選択が悪すぎる。この言い方ではいつも食材を買ってきていた義兄を侮辱するようだ。少しばかりカチンときたイルゼは、恨めしそうに彼を見上げるとミヒャエルはクスクスと軽い笑いを溢した。

「イルゼ、だいぶ色んな顔が出来るようになったねぇー」

 感嘆として言われるが、返す言葉も見当たらないので、悔し紛れに少し睨むしか出来なかった。
 確かに、彼の言う通り、僅か二週間で表情に出るようになった事は大いに自覚した。
 顔を覆い尽くしていた石膏がバラバラと剥がされたよう。ほんの少し、人と話すようになっただけというのに……魔法のような心地だってした。
 仮にも貴族だ。こうも睨んでは失礼だろうが、これくらい彼は気にする性質で無いとはいい加減に見通せる。案の定、顔色を窺う限りミヒャエルは微塵も気にしていない。寧ろ興味津々といった面で見下ろしているので、かえって恥ずかしくなってきた。 

 羞恥に拍車をかけるのは、つい先程メラニー伝に聞いた〝抱き心地〟もあるだろう。

 長い睨めっこはイルゼの敗北だった。羞恥のあまりイルゼが俯くと、彼は大きなため息を漏らして、やれやれと首を振る。きっと怒っているのだと勘違いしたのだろう。彼は少し申し訳なさそうに「ごめん」と一言詫びた。
 しかし、まさか謝られるとは。少し驚いてイルゼは彼に目をやると、ミヒャエルは申し悪そうに後ろ髪を掻いていた。

「……気をつけてはいるけど、俺どーも思った事をなんでも口に出す悪癖あって……。さっきの言い方が悪すぎた。口は災いのもと。俺、口頭はやっぱり良くねぇかも。掃除だとか使用人のお手伝い、許可するから許してくれないか」

「……本当です?」

 確認するようにけば、彼は神秘的な銀鼠ぎんねずの瞳を細めて頷いた。

「ん……いいよ? 療養って名目でお客さんとしてもてなしてるけどさ。好きに過ごして良いって言ったの俺だし」

 やんわりとした口調で言われてイルゼは深く頷く。しかし、彼は直ぐに視線をテーブルに移して目を細めた。

「でもさぁ。メラニーがイルゼの為を思って持って来たお茶に違わないから勿体ないから食べて欲しいなぁ。俺はメラニーにそんな事しろなんて一言も言ってねーんだ。使用人には食材なんか好きにして良いって言っちゃいるけど、これはメラニーの厚意だし」

 そう言われて、メラニーを見ると彼女は、気まずそうな笑みをイルゼに向ける。

 ……言葉は悪いが、やはり人を思い遣る心はある。寧ろ、その厚意にさえ気付かず、一人で勝手に気負っていたのは自分自身。そう気付いて、イルゼは黙って席についた。

「あの、熱いのに入れ直しますよ?」

 主人の前だからか、メラニーは丁寧な口調で言う。イルゼは首を横に振り、カップに注がれたお茶を一口含んだ。生ぬるくなってしまったが、それでも充分に美味しい。寧ろ蒸し暑くなりつつある今の時期なら丁度良いと思えてしまう程だ。

「折角だし、俺もここで休憩してくかなぁ。こんなにあるし、菓子貰っても良い?」

 対面の椅子に座して、彼はテーブルの中央に置かれた焼き菓子に手を伸ばす。

「あ、旦那様のカップも持ってきますよ!」

 メラニーは慌てて、部屋を出ようとするがミヒャエルは直ぐにそれを遮った。

「別に良い。っていうか俺の部屋にカップあるし。あんな長い階段上り下りするの面倒でしょー? っていうか、お前もお茶くらい飲んで行けば良いんじゃね?」

 ちょっと待って。と、モゴモゴと菓子を咀嚼しながら立ち上がった彼は、颯爽と部屋に戻って行った。そして暫くすると、二つのカップと椅子を引き摺って彼は戻ってきた。
 しかし椅子まで。貴族の主人がするような事で無いのに。と、イルゼは驚いてしまうが、メラニーも同様だった。慌ててメラニーは彼から椅子を奪うように取ろうとするが、ミヒャエルは心底面倒臭そうに首を振る。

「こんくらい、いいわ。ほら、お前はお茶でも汲んで。俺が淹れるより確実に上手く淹れられるでしょ?」

 自分の仕事をしろ。と言って、ミヒャエルがテーブルにカップを置くと、メラニーは慌ててお茶を注ぎ始めた。

「ですが旦那様……このお茶、結構冷めちゃってますけど」

「ん? さっきも言った。気温高けぇーし丁度いいでしょ? イルゼ、それまずいか?」

 かれて、イルゼが首を振ると「な?」と言って、彼はメラニーにニタリと笑む。

「そ、それじゃあ……お言葉に甘える事にします」

「うん。そーして。っていうか、マジで今度からはお前の分と俺の分のお茶と菓子も用意して? この時間さぁ、小腹も減ってどーも何か摘まみたくなる。俺の作業効率も上がるわイルゼも太れるし、どう考えたって一石二鳥じゃん……?」

 やはり太らせる気か。イルゼは目を細めるが、先程のように不機嫌にならなかった。
 言葉が悪いだけで、やはり彼は根が優しいのだ。
 使用人に対してもこうも気遣いがある。両手離しで褒められる事ばかりではないが、それでも彼は立派な主人としてこの城に君臨しているのだと素直に思えた。影武者ファルシユでもなんでもない。本当に立派な主人だと……。

 
 そうしてお茶を終えた後、彼は椅子を引き摺って部屋に戻って行った。メラニーは急いで立ち、自分が持とうとするが、それも彼は遮った。

「だからー別に良いって。っていうか、お前はお茶を飲み終わってないだろ? 行儀悪ぃな。飲んでから立て。女らしく女同士で色々話でも弾ませてろ」と。一蹴りだ。
 恐らく〝行儀悪い〟が効いたのだろう。メラニーは踵を返して席に着き、残ったお茶を飲み干すと、大きなため息を溢す。

「本当……旦那様って変わってるわ」

 気疲れしたのだろう。やれやれと彼女が首を振るので、同情したイルゼは黙って頷いた。

「身分云々の前に、年功序列って部分もあるのにね。そもそも私達は雇われてるだけだし、利害関係の一致や打算で結び付いてるようなもんでしょうに。こうも気遣われて対等にされるの変なかんじ」

 仕えているというなら主従の筈……。なぜに利害関係や打算か。イルゼはメラニーの言葉に訝しげに眉を寄せた。

 そもそも彼女は貴族の出では無いと言っていたし、双子の兄達の態度を見る限り、完全な主従で無い事は薄々勘付いていたが……なぜにそんな言い回しをするのか。意味が見えず首を傾げていれば、メラニーはハッとイルゼの方を向いて苦笑いを浮かべた。

「イルゼってどうも話しかけやすい所為か、変な事言っちゃったわ……。あの、気にしないで。あんまり喋ると旦那様じゃなくて、兄達に怒られそうだわ」

 兄達の事はもう知っているでしょう? と誤魔化すように微笑まれたので、気になろうが深追いするようにかない方が良いと思えた。黙って頷くと、安堵したように彼女はヘラリと笑む。

「何より、お手伝いの許可が下りて良かったね?」

 折角だし沢山コキ使っちゃお。なんて、少しばかり意地悪そうに付け添えて。メラニーは手際よく茶器を片付け始めた。
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