【R18】水声の小夜曲

日蔭 スミレ

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第二章 療養

2-6.あの日の水声Ⅱ

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 部屋に戻ったミヒャエルは、直ぐにベッドの中に潜り込み、横寝になって瞼を伏せた。
 ……やっと会えた。やはりそうだった。間違いなかった。
 先程聞いたばかりの彼女の歌声を思い出すと、次第に真っ暗な瞼の裏に幼き日のイルゼの顔が浮かび上がった。

 
 ──過去の記憶が曖昧だった。死にかけた本物のミヒャエルの為に〝お前がミヒャエル様になれ〟と、母親から引き剥がされて、この城にやって来たのだ。

 しかし、初めて会った父親にこうも蔑まれ傷付けられるなど思いもしなかった。本当の名前さえ忘れた程だ。あらすじだけで詳細な内容などろくに覚えていない。
 そうして本物のミヒャエルが息絶えた後、次第に自分が空っぽになりはじめた。苦痛しかない生活にとうとう自死を決意した。ハンデル川に身を投げよう。濁流に身を投げればきっと助からない。最も急流となる場所──ローレライで身を投げよう。そう誓い、夜半に城を抜け出して、岩山へ向かった。 

 しかし、そこには先客がいたのだ。大雨で増水した濁流の音を伴奏に月明かりの元で歌う少女と出会ったのだ。
 歳は自分より僅かに年下とおぼしい少女だった。月の光を糸にして紡いだような長い金の髪に、小さな鼻。目のぱっちりとした……やや気の強そうな顔立ちの少女だった。
 初めこそ幽霊かと思った。ローレライと呼ばれるこの岩山付近は流れが速い。舵が取りにくく、船がよく沈むと言われている所為で〝水死した幽霊が仲間を求めて、人を水面に引きずり込む〟とさえ言われている程だ。しかし──「まさか、ここから飛び降りる気なの?」と、かれて頷いたところ、直ぐに制止されたのだ。
 その挙げ句には、彼女の母親の知恵を語られた。今は子供だから何も出来ないけれど、大人になったら分からない……と。 

 そうして彼女が歌い始めて間もなく、彼女の正体が〝ただの人〟と気付いた。

 ……そう。亡霊にしては透けていないのだ。幽霊は、実体が無いからこそ向こう側が透けると聞くが、彼女は至って普通の人間のようだった。またセイレーンを自称していたがこれも違うだろうと分かった。本当にセイレーンであれば、この歌で川底に引き摺り落とすように仕向けたに違わないからだ。だが、情けなくも怖じ気づいたままだった。それどころか、彼女と話して、心の重いしがらみが解かれるような心地がした。
 水底を歌ったその歌詞は仄かに暗くどこか不気味に思えるが、優しいメロディーは耳障りが良かった。そうして彼女が何曲か歌い終えた後、やはり生きようと思って、城に帰る決意をした。

 ──生きていれば希望がある。いつか大人になれば変わるかもしれない。自分より年下の少女の言葉だが、ただそれだけに強い希望を覚えたからだ。
 そうして彼女と別れたが、その時自分が名乗ったかなんて覚えていない。

 しかし、その後の日々はまたも凄惨の繰り返しだった。日々の摂関に、次第に空っぽになっていった。使用人達もそれに見かねたのか、最終的には療養所に入れられた。否、これが仕上げだったのだろう。
 強い薬物を与え精神を徹底的に壊し、新しい人格が築かれた。幻覚だって何度も見た。自我が剥がれ落ちていく感覚だってした。そうして毎日、呪いのように植えられた〝ミヒャエル〟の名で、本当の名前がとうとう思い出せなくなった。そう、療養という名の人格生成……所謂洗脳だ。
 それでも生きたいと願った。忘れたくない事があった。あの晩出会った金髪の少女の事だ。瞼を閉じると、〝ローレライ〟と名乗ったあの金髪の少女だけが浮かぶのだ。これだけは誰にも言わず、彼は隠し続けていた。

 ……大人になったら変わるかもしれない。と、言った彼女こそ希望の象徴へと変わったのだ。

 そうして、父の死後……彼はミヒャエルとして新たな領主となった。その権限を駆使して、金髪の娘を探し続けた。ローレライの岩山周辺の民家も従者達に尋ねさせたが、そんな娘は見つからなかった。挙げ句には金髪の娼婦を束にして買い、彼女らに歌を歌わせた。しかし、どう足掻いても彼女は見つからなかったのだ。
 こんな奇行を訝しげに思ったのか。使用人は幾人もやめていった。もうそこで面倒になったので一旦使用人を全員解雇した。
 変人だのなんだの言われようが評判なんてどうだって良かった。出来ればぐちぐち内密な事を言わぬ存在を側仕えにしたかった。そう出来れば従順が良い。そこで目を付けたのが、貧困者やこのハンネス川の税関をしばしば襲う盗賊だ。こういった輩は、満足な生活を与えて、これでもかと恩を売れば案外いつまでも尽くしてくれる。否、犬のように飼い慣らせそうだと思った。そうして、手に入れた人材は盗賊の双子とその妹。三人とも随分と手癖が悪いが、存外話の分かる連中だったので、非常に扱いやすかった。それどころか、存外良い信頼関係を築けて今に至る。

「……そうだなぁ。こうして今も生きていられる事、あの子に沢山お礼していかないと」

 一つ寝返りを打って、彼は薄く瞼を開く。
 しかし、こうも直ぐ手の届く場所に置くと手放したくなくなってきた。

 療養と称した三ヶ月だけでは物足りない。出来れば永遠に……。どうすれば、彼女を手に入れる事が出来るか。否、どうすれば離れたくなくなるか。そんな事を思いつつ、彼はゆっくりと瞼を伏せた。
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