12 / 33
第二章 療養
2-6.あの日の水声Ⅱ
しおりを挟む
*
部屋に戻ったミヒャエルは、直ぐにベッドの中に潜り込み、横寝になって瞼を伏せた。
……やっと会えた。やはりそうだった。間違いなかった。
先程聞いたばかりの彼女の歌声を思い出すと、次第に真っ暗な瞼の裏に幼き日のイルゼの顔が浮かび上がった。
──過去の記憶が曖昧だった。死にかけた本物のミヒャエルの為に〝お前がミヒャエル様になれ〟と、母親から引き剥がされて、この城にやって来たのだ。
しかし、初めて会った父親にこうも蔑まれ傷付けられるなど思いもしなかった。本当の名前さえ忘れた程だ。あらすじだけで詳細な内容などろくに覚えていない。
そうして本物のミヒャエルが息絶えた後、次第に自分が空っぽになりはじめた。苦痛しかない生活にとうとう自死を決意した。ハンデル川に身を投げよう。濁流に身を投げればきっと助からない。最も急流となる場所──ローレライで身を投げよう。そう誓い、夜半に城を抜け出して、岩山へ向かった。
しかし、そこには先客がいたのだ。大雨で増水した濁流の音を伴奏に月明かりの元で歌う少女と出会ったのだ。
歳は自分より僅かに年下と思しい少女だった。月の光を糸にして紡いだような長い金の髪に、小さな鼻。目のぱっちりとした……やや気の強そうな顔立ちの少女だった。
初めこそ幽霊かと思った。ローレライと呼ばれるこの岩山付近は流れが速い。舵が取りにくく、船がよく沈むと言われている所為で〝水死した幽霊が仲間を求めて、人を水面に引きずり込む〟とさえ言われている程だ。しかし──「まさか、ここから飛び降りる気なの?」と、訊かれて頷いたところ、直ぐに制止されたのだ。
その挙げ句には、彼女の母親の知恵を語られた。今は子供だから何も出来ないけれど、大人になったら分からない……と。
そうして彼女が歌い始めて間もなく、彼女の正体が〝ただの人〟と気付いた。
……そう。亡霊にしては透けていないのだ。幽霊は、実体が無いからこそ向こう側が透けると聞くが、彼女は至って普通の人間のようだった。またセイレーンを自称していたがこれも違うだろうと分かった。本当にセイレーンであれば、この歌で川底に引き摺り落とすように仕向けたに違わないからだ。だが、情けなくも怖じ気づいたままだった。それどころか、彼女と話して、心の重いしがらみが解かれるような心地がした。
水底を歌ったその歌詞は仄かに暗くどこか不気味に思えるが、優しいメロディーは耳障りが良かった。そうして彼女が何曲か歌い終えた後、やはり生きようと思って、城に帰る決意をした。
──生きていれば希望がある。いつか大人になれば変わるかもしれない。自分より年下の少女の言葉だが、ただそれだけに強い希望を覚えたからだ。
そうして彼女と別れたが、その時自分が名乗ったかなんて覚えていない。
しかし、その後の日々はまたも凄惨の繰り返しだった。日々の摂関に、次第に空っぽになっていった。使用人達もそれに見かねたのか、最終的には療養所に入れられた。否、これが仕上げだったのだろう。
強い薬物を与え精神を徹底的に壊し、新しい人格が築かれた。幻覚だって何度も見た。自我が剥がれ落ちていく感覚だってした。そうして毎日、呪いのように植えられた〝ミヒャエル〟の名で、本当の名前がとうとう思い出せなくなった。そう、療養という名の人格生成……所謂洗脳だ。
それでも生きたいと願った。忘れたくない事があった。あの晩出会った金髪の少女の事だ。瞼を閉じると、〝ローレライ〟と名乗ったあの金髪の少女だけが浮かぶのだ。これだけは誰にも言わず、彼は隠し続けていた。
……大人になったら変わるかもしれない。と、言った彼女こそ希望の象徴へと変わったのだ。
そうして、父の死後……彼はミヒャエルとして新たな領主となった。その権限を駆使して、金髪の娘を探し続けた。ローレライの岩山周辺の民家も従者達に尋ねさせたが、そんな娘は見つからなかった。挙げ句には金髪の娼婦を束にして買い、彼女らに歌を歌わせた。しかし、どう足掻いても彼女は見つからなかったのだ。
こんな奇行を訝しげに思ったのか。使用人は幾人もやめていった。もうそこで面倒になったので一旦使用人を全員解雇した。
変人だのなんだの言われようが評判なんてどうだって良かった。出来ればぐちぐち内密な事を言わぬ存在を側仕えにしたかった。そう出来れば従順が良い。そこで目を付けたのが、貧困者やこのハンネス川の税関をしばしば襲う盗賊だ。こういった輩は、満足な生活を与えて、これでもかと恩を売れば案外いつまでも尽くしてくれる。否、犬のように飼い慣らせそうだと思った。そうして、手に入れた人材は盗賊の双子とその妹。三人とも随分と手癖が悪いが、存外話の分かる連中だったので、非常に扱いやすかった。それどころか、存外良い信頼関係を築けて今に至る。
「……そうだなぁ。こうして今も生きていられる事、あの子に沢山お礼していかないと」
一つ寝返りを打って、彼は薄く瞼を開く。
しかし、こうも直ぐ手の届く場所に置くと手放したくなくなってきた。
療養と称した三ヶ月だけでは物足りない。出来れば永遠に……。どうすれば、彼女を手に入れる事が出来るか。否、どうすれば離れたくなくなるか。そんな事を思いつつ、彼はゆっくりと瞼を伏せた。
部屋に戻ったミヒャエルは、直ぐにベッドの中に潜り込み、横寝になって瞼を伏せた。
……やっと会えた。やはりそうだった。間違いなかった。
先程聞いたばかりの彼女の歌声を思い出すと、次第に真っ暗な瞼の裏に幼き日のイルゼの顔が浮かび上がった。
──過去の記憶が曖昧だった。死にかけた本物のミヒャエルの為に〝お前がミヒャエル様になれ〟と、母親から引き剥がされて、この城にやって来たのだ。
しかし、初めて会った父親にこうも蔑まれ傷付けられるなど思いもしなかった。本当の名前さえ忘れた程だ。あらすじだけで詳細な内容などろくに覚えていない。
そうして本物のミヒャエルが息絶えた後、次第に自分が空っぽになりはじめた。苦痛しかない生活にとうとう自死を決意した。ハンデル川に身を投げよう。濁流に身を投げればきっと助からない。最も急流となる場所──ローレライで身を投げよう。そう誓い、夜半に城を抜け出して、岩山へ向かった。
しかし、そこには先客がいたのだ。大雨で増水した濁流の音を伴奏に月明かりの元で歌う少女と出会ったのだ。
歳は自分より僅かに年下と思しい少女だった。月の光を糸にして紡いだような長い金の髪に、小さな鼻。目のぱっちりとした……やや気の強そうな顔立ちの少女だった。
初めこそ幽霊かと思った。ローレライと呼ばれるこの岩山付近は流れが速い。舵が取りにくく、船がよく沈むと言われている所為で〝水死した幽霊が仲間を求めて、人を水面に引きずり込む〟とさえ言われている程だ。しかし──「まさか、ここから飛び降りる気なの?」と、訊かれて頷いたところ、直ぐに制止されたのだ。
その挙げ句には、彼女の母親の知恵を語られた。今は子供だから何も出来ないけれど、大人になったら分からない……と。
そうして彼女が歌い始めて間もなく、彼女の正体が〝ただの人〟と気付いた。
……そう。亡霊にしては透けていないのだ。幽霊は、実体が無いからこそ向こう側が透けると聞くが、彼女は至って普通の人間のようだった。またセイレーンを自称していたがこれも違うだろうと分かった。本当にセイレーンであれば、この歌で川底に引き摺り落とすように仕向けたに違わないからだ。だが、情けなくも怖じ気づいたままだった。それどころか、彼女と話して、心の重いしがらみが解かれるような心地がした。
水底を歌ったその歌詞は仄かに暗くどこか不気味に思えるが、優しいメロディーは耳障りが良かった。そうして彼女が何曲か歌い終えた後、やはり生きようと思って、城に帰る決意をした。
──生きていれば希望がある。いつか大人になれば変わるかもしれない。自分より年下の少女の言葉だが、ただそれだけに強い希望を覚えたからだ。
そうして彼女と別れたが、その時自分が名乗ったかなんて覚えていない。
しかし、その後の日々はまたも凄惨の繰り返しだった。日々の摂関に、次第に空っぽになっていった。使用人達もそれに見かねたのか、最終的には療養所に入れられた。否、これが仕上げだったのだろう。
強い薬物を与え精神を徹底的に壊し、新しい人格が築かれた。幻覚だって何度も見た。自我が剥がれ落ちていく感覚だってした。そうして毎日、呪いのように植えられた〝ミヒャエル〟の名で、本当の名前がとうとう思い出せなくなった。そう、療養という名の人格生成……所謂洗脳だ。
それでも生きたいと願った。忘れたくない事があった。あの晩出会った金髪の少女の事だ。瞼を閉じると、〝ローレライ〟と名乗ったあの金髪の少女だけが浮かぶのだ。これだけは誰にも言わず、彼は隠し続けていた。
……大人になったら変わるかもしれない。と、言った彼女こそ希望の象徴へと変わったのだ。
そうして、父の死後……彼はミヒャエルとして新たな領主となった。その権限を駆使して、金髪の娘を探し続けた。ローレライの岩山周辺の民家も従者達に尋ねさせたが、そんな娘は見つからなかった。挙げ句には金髪の娼婦を束にして買い、彼女らに歌を歌わせた。しかし、どう足掻いても彼女は見つからなかったのだ。
こんな奇行を訝しげに思ったのか。使用人は幾人もやめていった。もうそこで面倒になったので一旦使用人を全員解雇した。
変人だのなんだの言われようが評判なんてどうだって良かった。出来ればぐちぐち内密な事を言わぬ存在を側仕えにしたかった。そう出来れば従順が良い。そこで目を付けたのが、貧困者やこのハンネス川の税関をしばしば襲う盗賊だ。こういった輩は、満足な生活を与えて、これでもかと恩を売れば案外いつまでも尽くしてくれる。否、犬のように飼い慣らせそうだと思った。そうして、手に入れた人材は盗賊の双子とその妹。三人とも随分と手癖が悪いが、存外話の分かる連中だったので、非常に扱いやすかった。それどころか、存外良い信頼関係を築けて今に至る。
「……そうだなぁ。こうして今も生きていられる事、あの子に沢山お礼していかないと」
一つ寝返りを打って、彼は薄く瞼を開く。
しかし、こうも直ぐ手の届く場所に置くと手放したくなくなってきた。
療養と称した三ヶ月だけでは物足りない。出来れば永遠に……。どうすれば、彼女を手に入れる事が出来るか。否、どうすれば離れたくなくなるか。そんな事を思いつつ、彼はゆっくりと瞼を伏せた。
0
お気に入りに追加
45
あなたにおすすめの小説

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

密室に二人閉じ込められたら?
水瀬かずか
恋愛
気がつけば会社の倉庫に閉じ込められていました。明日会社に人 が来るまで凍える倉庫で一晩過ごすしかない。一緒にいるのは営業 のエースといわれている強面の先輩。怯える私に「こっちへ来い」 と先輩が声をかけてきて……?

淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
隠れドS上司をうっかり襲ったら、独占愛で縛られました
加地アヤメ
恋愛
商品企画部で働く三十歳の春陽は、周囲の怒涛の結婚ラッシュに財布と心を痛める日々。結婚相手どころか何年も恋人すらいない自分は、このまま一生独り身かも――と盛大に凹んでいたある日、酔った勢いでクールな上司・千木良を押し倒してしまった!? 幸か不幸か何も覚えていない春陽に、全てなかったことにしてくれた千木良。だけど、不意打ちのように甘やかしてくる彼の思わせぶりな言動に、どうしようもなく心と体が疼いてしまい……。「どうやら私は、かなり独占欲が強い、嫉妬深い男のようだよ」クールな隠れドS上司をうっかりその気にさせてしまったアラサー女子の、甘すぎる受難!
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる