【R18】水声の小夜曲

日蔭 スミレ

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第二章 療養

2-2.問診と誘い

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 療養生活三日目──今日は、午前のうちに精神科医が来るとの事でイルゼは夜明け前に目を覚ました。
 この生活になって、不思議と目覚めが良い。養鶏業を営む上で夜明けと共に起きる事が習慣になっているが、イルゼは朝が弱かった。否、午前中が気怠くて仕方なかった。具体的に言うと、月の障りの期間を除いた殆どが寝起きが悪い。とはいえ、眠いだけで他に何か支障があるわけでなかった。

『突然食欲が増したり、眠くもないのに欠伸が出たり他にも色々とね……命を宿す機能がある時点で女性の身体は神秘的なものよ』

 そんな事を初潮が来た頃に義母から聞いていたので、これを特別不安に思う事は無かった。しかし、ああも眠かったのに、たった三日で爽快だ。もしかしたら養鶏業を営む上で精神的な負荷を抱えていたのではと思えてしまう。確かに屠殺は自分の担当で、いつも心が痛んでいたが……。
 伸びをしたイルゼは、天窓に歩み寄り静かにカーテンを開く。もう直ぐ空が白み始めるのだろう。夜の色──深いライラックの名残を残した紫色の世界には薄ぼけてきゆうりよう一面に縦縞模様を作る葡萄棚が見えた。そうして幾許か、次第に空が白み始めて、遠くに穏やかに流れるハンデル川が鮮明に見え始める。
 ボロ屋敷ではこんな光景は望めない。同じ領地だというのに、この城から望む夜明けは本当に美しい。これが、とてつもなく贅沢に思えてしまい。イルゼは感嘆とした息を一つつく。

 しかし、見取れている場合でない。早急に着替えなくては……。イルゼはクローゼットの前に歩み寄り夜着を脱ぎ始めた。

 イルゼが早起きする事が分かった初日から、メラニーは日の出と共に朝食を持ってくるのだ。別に食事なんて遅くたって構わないが……と、言えば「その方が早く次の仕事に取りかかれるし、何よりイルゼともっと話がしてみたいから!」と爛々と目を輝かせるものだからイルゼは困惑した。

 こんな自分と話がしたいなど、物好きで奇特としか言いようもない。実の父親が殺人犯だ。養鶏業を営む上で鶏を常日頃から潰しているというのに……。若い娘が好みそうなお洒落の話や恋の話などろくに出来もしないと言うのに……。否、それ以前に喋る事が得意で無いのに。しかし、療養という名目で城に置いて貰っている以上は突っ撥ねるなんて出来もしない。決して迷惑と思わないが、雨のように質問を浴びせられても上手く言葉に出来ないのだ。
 それでも、メラニーは聞きたがりだった。昨日は、鶏の事を聞かれた。屠殺の事も聞かれたので……かなりぼかして話したが、彼女は青ざめる事も引く事も無く「凄い」やら「イルゼみたいな仕事をしている人がいるから美味しい鶏肉が食べられるんだわ!」と全肯定してきたものだから、流石に驚きを隠しきれず照れくさくなってしまった。

 いったい今日は何をかれるのか……。暖かな不安を抱えつつ、イルゼはクローゼットの中を眺めた。

 あれからミヒャエルと数度文を交わしたが、〝クローゼットのものは着替えとして好きに着てくれ〟との事だった。
 しかし、絢爛豪華なドレスなんて庶民が易々と着られるものでない。そもそも、コルセットを締めるなど手間もかかるだろうしドレスは一人で着られる筈も無い。流石に困却して〝お代は必ず後で払いますのでディアンドルを買って頂けないでしょうか〟と、返事を書いた所、即日メラニーがディアンドルを五着も持ってきてくれた。
 ……既製品だが新品らしい。それもどう見ても肌触りの良い上質な布を使ったものや、高価な金糸で細やかな花刺繍を施したものなど、明らかに自分の所得二ヶ月分近くしそうな代物だった。更に返信には〝お代なんか要らない。あげる〟と書かれていたので、イルゼは頭を抱えた。だが、払う・要らないの堂々巡りになりそうなのでイルゼは厚意を素直に受け取る事にした。
 孔雀の羽に似たマラカイトグリーンのディアンドルを選んだイルゼはブラウスを着込んで、スカートをはく。付属品のエプロンを腰に巻き……と、そうしている間に軽快な叩扉が響き、朝食を運びに来たメラニーが入ってきた。

「イルゼおはよう。今日も早いわね」

「おはよう……?」

 メラニーが隠しもせず軽い口調で言った事に驚き、イルゼは目をしばたたく。それも通常の声量でだ。いったいなぜ……。心配になって、彼の部屋に続く天鵞絨ビロードのベールの方に目をやると、メラニーは噴き出すようにケラケラと笑い出した。

「私、どうも気分があがっちゃうと、声が大きくなるみたいでね。敬語使わないで喋ってるの旦那様にバレちゃったの。そしたら別に良いんじゃないのって」

「……そうなの?」

 確かに昨日の鶏の話をした時の彼女の反応や声量を思い返すと、バレそうな気がしていた。否、彼女の性格を考えるとボロが出そうな気がして仕方なかった。
 だが、馬鹿と丁寧な口調で話されるより気が楽だ。何せ〝様〟なんてたいそうな敬称を付けて呼ばれるなんて背中がムズ痒くて仕方ない。それに僅か三日ではあるが、イルゼは彼女に少し慣れはじめ丁寧な言葉使いを止めた。否、彼女に「そっちこそ敬語はやめろ」と言われたのだ。
 イルゼは昨日を思い返し、彼女を一瞥して一つ息を吐く。しかし、彼女ときたら……何のその。と、いった具合に、おてんばな笑みを浮かべていた。

「あら。今日のディアンドルも可愛いじゃない。よく似合ってるわ。いいなぁーディアンドル。可愛いからちょっと羨ましい」

 そう言って、メラニーはお仕着せの裾を摘まんで眉を寄せた。
 ……畜産業と同じく、貴族に仕える商人だって年中無休とおぼしい。イルゼは直ぐそれを理解して「今度、着てみる?」とけば彼女は即座に首を横に振った。

「いいなぁーとは思うけどね、そういうのじゃないの。そんな事したら、今度こそ怒られるわ。さぁさ、午前中に診察でしょ? 午前って言っても私もいつに来るか分からないから早めに食事にしちゃって」

 そうして、メラニーはテーブルの上に朝食を並べ終えると退室した。



 ミヒャエルが医者と義兄のヨハンを連れてきたのはイルゼが食事を終えて、三時間ほど──時計の針が午前九時近くだった。
 毎日顔を合わせていた義兄だったが、三日も離れるとどうにも懐かしく思えてしまった。ヨハンはイルゼと会うなりに腕の中に閉じ込めるようなきつい抱擁をする。

「イルゼ元気にしてたか? 何か辛い事とかはないか?」


 首を振る前に、直ぐ近くからわざとらしい咳払いが響く。

「俺、変人だとか言われてるらしーけどさぁ、流石にこんな立場の女の子相手に、辛い事なんかさせるわけないんだけど? っていうか何。お義兄にいさんさぁ……俺がこの子に酷い事でもしたと思ってんの? あん?」

 締めくくりの「あん?」は随分と濁点含んだ発音だった。彼はヨハンを睨み据え、端正な面に歪めて顎を聳やかす。

「滅相も無い! そういう事ではないです!」

 ヨハンはサッとイルゼを解放してブンブンと首を横に振り乱した。

(そういえば、こういう喋り方だった……)

 やはり、あの文面や綺麗な書体とは全く違うと思った。
 この態度はわざとか……取り繕っているのか。そう思ったと同時、一緒に入室した医師は一つ咳払いをした。

「ミヒャエル様、そろそろ診察を初めて宜しいですかね?」

 見かけは気難しそうな痩せ細った初老の男だが、口調は極めて穏やかだった。

「あ、悪りぃね、せんせー。始めていいよ。俺達いたら、答える事も上手に答えられないと困るから、俺とお義兄にいさん外に出てるから」

 間延びた口調でそう言うと、ミヒャエルはヨハンの肩に腕を回して、引き摺るように部屋を出た。

「では、イルゼさん……でしたね? どうぞ座ってください。問診をしていきますね」

 医者に促され、イルゼはソファに腰掛けた。 
 問診内容はありふれた質問ばかりだった。仕事や日常生活、兄弟関係など何か辛く思う事は無いか。それから、悩みや苦しんでいる事など。これらをイルゼは言える範囲で短絡的に答えた。
 そして、最後の質問と。医師は少しばかりおずおずとして、イルゼの方を見つめる。

「……お父様の事が心的外傷になっていますか? 貴女はそこで人生が変わったに違いないです。人と関わりが持てなくなったと思えます」

 白内障か……。少し白みを含んだ医師の目から目が逸らせなかった。一拍置いて、イルゼは首を横に振るう。

「それは大丈夫です。私には、義兄にいさんが居るので」

 抑揚も無い淡々とした口調で答えるが、医師は安堵したように唇の端を綻ばせた。

「貴女の心に悪い場所なんて無い。ただ、こういった事件があった上、お義姉様からの言葉の暴力もあって、きっと感情を閉ざしてしまったのでしょう。だからきっと、抑えきれなくなって爆発したと言えますね。しかし、どの道、一定期間の療養が必要になります」

 感情を閉ざした。その言葉をイルゼははんすうした。
 大いに自覚ある事だ。父の一件以来、何事にも動じなくなってしまった。腹が立ってもろくに気にしない。否、自分の中で全てを消化しようとした。きっと何もかも時間が経過すれば忘れるだろうと思えたのだ。そう、諦めたのだ。だが、一定期間の療養とは……。

「どのくらい療養すれば良いですか……」

「個人差もありますけど、三ヶ月くらいは見た方が良いかと思いますね。七月の終わりを目安にして頂ければと。私がミヒャエル様にお伝えしますよ」

 三ヶ月……。随分と長い。イルゼは、澱を吐き出すように深い息をつくと、医者は「そう、案じないでください」と切り出した。

「養鶏業を営んでいらして、まして屠殺を貴女が担っていたとは。割り切って深く考えずいても、お父様の事を少なからずどこかで思い出し、負荷がかかっていたしょう」

 いずれ自立して領地を出るか、遠くの修道院に身を寄せる事を視野に入れるのも良い選択でないか。と提案されて、イルゼは少しだけ眉を寄せた。

 確かにこの領地では、殺人犯の娘として名が知れている。自立は悪くない選択だろうとはイルゼも思った。
 だが、自分は義兄と鶏と過ごしているだけで社会に慣れていないのだ。
 思った事も上手く言葉に出せない人間が、自立して生きていけるかと考えると不安に思えた。そう考えると、後者の方が現実的だった。
 遠くの領地の修道院なら、深く詮索されないだろう。それに、この身の上なので結婚なんて一生しないだろうし、神に嫁ぎ祈り続ける一生の方が有意義に思えた。ただ、義兄に会えなくなるのは寂しいとは思うが……。イルゼは深く頷くと、医者は「焦ってはいけませんよ」と優しくイルゼの背を撫でた。

「貴女は貴女です。お父様に縛られてはなりません。一度限りの人生を恨みの捌け口に使われ続けるなんて惨い事はないでしょう。もっと素直に生きるべきです」

 さとすように言われるが、素直には頷けなかった。数拍経ても無反応に見かねたのだろうか。医師は僅かに唸った後に「あぁ、そうですよ」と朗らかに切り出す。

「ミヒャエル様にこの城で働けないかと直談判するのもありではないですか?」

 衝撃の発言に礫でもぶつけられたかのような気分になった。イルゼは目を丸くして、ブンブンと首を横に振れば、医師は朗らかな笑い声を溢す。

「こうも赤の他人を助けようとするなど、あの方もきっと、過去の自分を重ねてしまったんだと思いますしね……。貴女と境遇は違いますが、あの方も酷く辛い思いをしてきた。きっと、力になってくれそうだと思いますけどね……」

「私に、重ねた……?」

 ふと過ぎるのは背中の夥しい傷痕だ。イルゼが復唱すると、医師は額に手を当ててゆるゆると首を横に振るう。

「あぁ、ごめんなさい。余計な事を話しました。医師がこうも目上の人の話をするなど良くないですね。私が怒られてしまいします。どうか、忘れてください」

 念を押されるように言われたので、イルゼはただ黙って頷いた。

 ……この言い方では過去に彼を診察していたのだろう。またも、見てはいけないものを見てしまったような気持ちになり、イルゼは口を噤んで今一度深く頷いた。
 問診を終えると、医師は一礼した後、部屋を出て行った。それから幾許か、医師から話を聞いたであろう、ヨハンとミヒャエルが部屋に入ってきた。

「城での療養期間は三ヶ月」

 逃げんなよ。と、どこかこうかつにミヒャエルは言う。片やヨハンは気が気で無いようだった。そうして、医者とヨハンを送って行くとミヒャエルは部屋を出て行った。馬車の見送りをするとイルゼは言ったが、階段がきついだろうから大丈夫だ。と、ヨハンはやんわりと断った。
 二人が部屋を出て行く最中だった。ミヒャエルはイルゼの背後から何かを手渡して握らせた。質感からして紙──恐らく手紙だと分かる。

「読んでね」

 小さな声でイルゼの耳元に吹き込むと、彼は何食わぬ顔で部屋を出て行った。
 彼らの足音が遠ざかったのを確認して、イルゼは手紙を開く。

 ────今夜、夕食を一緒に取らないか? この間の詫びもしたいし、君になら色々な事を話しても良い気がした。しっかりと君と話がしてみたい。無理にと言わない。

 まるで招待状のよう。参加の有無をくように〝はい・いいえ〟の選択肢があった。
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