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第一章 邂逅
1-4.療養決定
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……しかし、どうしてこうなってしまったのか。
詰め所後ろに留めてあった馬車に強引に押し込まれたイルゼは、あわあわと唇を動かして、馬車の扉を開けようとするが、ミヒャエルが扉に背を預けている所為でピクリとも動かない。
「領主様、どうか待ってください! イルゼは地下牢獄で一ヶ月の監禁を望みました! それなのにどうして!」
馬車の外でヨハンが大声で捲し立てている。それに対して、ミヒャエルは涼しい顔で「何が」と、言わんばかりに耳をほじっていた。否、心底面倒臭そうだった。
「えーだって、あんた地下牢がどんな場所か分かって言ってんの? 胸くそ姉貴に腹が立ったから仕返ししただけの女の子をあんな劣悪な環境に一ヶ月閉じ込めるとか悪魔の所行としか言いようもないと思うんだけど?」
「そうは言いましても! イルゼが自分で決めたものの、貴方は!」
「俺は一応は領主だし、設備くらい知って言ってるんだよ? 光も届かない埃臭い場所でさぁ、鼠がウロチョロ歩き回っててさ……。ベッドに臭せぇカビが生えてるんだよ? 当たり前だけどトイレの設備なんて無い。蓋もないバケツで用を足すけど、そんな檻の中で妹が一ヶ月バケツの中に糞尿を垂れ流すとか想像してみなよ。ついでに面会だって出来ないね。そんな場所に一ヶ月も閉じ込めてたら頭おかしくなるって分かるでしょ。下手すりゃ病気になるね。俺なりの親切だったんだけどさー。勿論さっき言った通り、君の家の支援もするし手伝い寄越すよ? 城ならあんたの面会も喜んで受け付ける」
こんな美味い話ってあるぅ? なんて煽るように言うので、ヨハンは苦虫を噛みつぶしたような面で目を細めていた。
……牢獄というくらいなのだから、鉄格子に囲われた場所だとは思っていたが、そんな劣悪な環境だとは知らなかった。蓋も無いバケツの中に垂れ流しは流石に嫌だ。イルゼは彼の言葉に内心で驚き、必死に馬車のドアを開けようとしていた手を止めた。
変人伯爵であれ、城にいた方がマシだろうか。自分の発言を無視して、金で引き取るなど何事かと思ったが、彼なりの親切だったのだろうか。もしかして助けられたのか……? 果たして、そこに裏や表があるかは未だ分からないが……。
「ですが、領主様……こんな優遇は絶対におかしいです。後に何か要求するのではないですか。イルゼが金髪だからですか……」
おずおずとヨハンが俯いて言うと、彼は耳から指を抜いて塵でも落とすように指を払った。
「んなわけねぇじゃん、なめてんの。君らに要求する程、金に困ってねぇし。確かに、金髪の女の子だぁいすきだよ? 髪、凄い可哀想な事になってるけど、君の義妹も気に入ったよ? だけど、別に取って喰いやしないし」
そこは約束する、多分。と、告げてミヒャエルは馬車の扉に手をかける。しかし、直ぐにヨハンの方を見た。
「……あ、そうだ。あんた城に来る時門前払いされないように名前教えてよ」
「ヨハン・ベッカーです」
「ふぅん。分かった、ヨハンねぇ」
そう言って、ミヒャエルはヨハンに軽く手を振って馬車に乗り込んだ。そうして何食わぬ顔でイルゼの隣に腰掛けると、彼は天井を叩いて御者に出発を知らせる。それから間もなくして、馬車は緩やかに走り始めた。
あの調子である。饒舌と思いきや、存外ミヒャエルは無口だった。馬車が走り出して、幾分経過しても何も口を割らず、彼は車窓に肘をかけて外の景色を眺めていた。
時刻はもう昼下がりだろう。街の中心地にあるひばり横町付近の大通りは活気に満ちており、商売を勤しむ人々が盛んに声を張り上げていた。町並みは白い土壁に木工張りを施した、ヴァレンウルムらしき伝統住宅。それぞれの軒下には赤々としたゼラニウムの花が綻んでおり、白い壁によく映えていた。頭上は雲一つ無い穏やかな晴天だ。しかし、当たり前のようにイルゼの心は晴れやしない。
「……あの」
イルゼが沈黙を破ったのは、馬車が大通りを抜けて、父なる流れ──ハンデル川にかかる大橋を渡り始めた時だった。
「ん。どしたのぉ?」
隣に座した彼は、欠伸混じりに言ってイルゼの方を向く。
「ミヒャエル様、何て言ったら良いか分からないですけど、あの……地下牢獄の事、私……知らなくて。助けて……くれたんですよね?」
おどおどとイルゼが切り出すものの、彼は拍子抜けた顔をする。
「え……あんなんハッタリに決まってるじゃん。まぁ、トイレがバケツや面会禁止は本当だけどもさ。え、あんなの信じちゃったの? 君、すげぇ純粋だね」
それでも、重要部分だ。そんな場所には居たくない。イルゼはブンブンと首を横に振るうと、彼は優しく垂れた空色の瞳を眩しそうに細めた。
まじまじ見て気付いたが、意外にも睫が長い。鼻梁もスッと通っており、本当に端正な顔立ちだと再確認する。しかし、こうもまじまじと見入ってしまうのも失礼だろう。イルゼは彼から直ぐに目を逸らす。
「それに、家業の事も……支援だなんだという話も……」
「あー? そんなん別に大した事ないない。税金から出せば良いだけだし。あれだって俺が贅沢する為にあるわけじゃないし。それよりさ」
そう告げて一拍後──ミヒャエルはイルゼの頤を摘まんで上を向かせる。突然の事で驚いてしまった。すると彼はどこか妖艶な笑みを浮かべてイルゼの顔を覗き込む。
「そんな畏まった敬語、使わなくたっていいよ?」
「……え?」
普通に喋れと? 訳が分からずまごつくと、彼はニタリと唇に弧を描いて、イルゼの頬に口付けを落とした。
突然の事で何をされたのか理解出来なかった。しかし、なぜにキスしたのか。困惑したイルゼは無表情で眉だけを寄せる。
「やー、君おもしれーね」
へにゃりと笑って、彼は頤を持ち上げていた手をようやく離す。しかし、何が面白いのか。全く話が繋がっていない。やはり非常に掴み所が無い。そう思いつつ、イルゼは先程のキスは気にせず話題を掘り返した。
「……庶民が高貴な方と対等な話し方をするのは流石に」
出来ません。と言おうとするや否や、彼は犬を可愛がるようにイルゼの散切り頭をワシャワシャと撫でる。
「んーそうだね。事実伯爵だからねー。でも別にいいんじゃね? 同じ人間じゃん。それに、詰め所で破いた紙の端っこに書いてたけど、君って一応貴族の家系じゃん。殺人やっちまったやべー父親が子爵家で母親が男爵家でしょ? 子爵じゃ第四位。俺の爵位の一つ下で……別にそう、大差なくね?」
あのたった一瞬で紙のその部分を拾ったのかとイルゼは内心で驚嘆した。あの生真面目そうな自警団の男は尋問の最中、紙を埋め尽くす程、細々とした文字を紙いっぱいにびっしりと綴っていたのだ。それをあのたった一瞬で拾い上げて読んだのかと……。
「でも、父は嫡男でなかったです。私の母も同じで……庶民です」
「んーそっかぁ。でもまぁ、俺も伯爵とはいえ、似たようなもんだしねぇ~そもそも正妻の息子でもねぇしー」
なりたくもねぇのに貴族になったようなもの。と、彼はヘラヘラと笑む。
……しかし、正妻の子息でないと。とんでもない事を聞いてしまった気がする。これが、領地に割れれば大騒ぎに違わない。
「それ、私に言って良いのですか?」
淡々とした口調で訊くと、「別にぃ」と彼は気怠げに答える。
「だって、事実だし。それに君、殺人犯の娘だ云々気にしてるのか不明だけど、まず滅多に街に出ないでしょ? 知り合いとかいるの? 言いふらす相手なんて義理の兄貴以外に居ないでしょ? っていうか、友達とか話し相手とかそういうのいなそう」
おっしゃる通りだ。しかし締めくくりはあまりに失礼だろう。相手は伯爵なのではっきり言えたものでは無いが……。イルゼは片方の眉を引き上げていれば「図星でしょ」と彼はどこか悪戯気にニタリと笑んだ。
そうして幾許か──対岸を進み暫くすると緩やかな傾斜が始まった。周り一面葡萄畑だらけだ。丘陵は縦縞模様を描くように葡萄棚となっている。爽やかな晴れという事もあって、青々とした葡萄畑と雲一つ無い青空がよく映えていた。それも先程いた対岸の丘陵も一面葡萄畑で圧巻の光景である。
ツヴァルクは、ヴァレンウルムの中で最も葡萄作りが盛んだそうだ。
春夏の穏やかな気候が栽培に適しているのだろう。これら葡萄は全て最高品質の葡萄酒になるそうで、王宮御用達である。また他国との貿易にも用いられるそうで、異国の金持ちはここぞとツヴァルクの葡萄酒を買うそうだ。
ましてや、この地は父なるハンデル川の流域だ。この河川は、遙か彼方王都を通り越して西の海まで続いている。つまり、船で運搬してしまえば僅か数日で王都まで運べるのだ。車窓から眼下に流るるハンデル川を眺めれば、まさに船へと葡萄酒を運搬している作業風景が見えた。
ハンデル川の流れは極めて穏やかだ。しかし、突飛もなく急流となる難所がある。その箇所こそ、イルゼが住まうボロ屋敷の近辺──〝ローレライ〟と呼ばれる切り立った岩山付近だ。ここで過去に転覆事故が幾度も起きており、夜になると船乗りの幽霊が現れるとも言われている。そうして、幽霊達は仲間欲しさに激流の中に船を引きずり込むそうだ。
しかし問題のローレライの近辺に住まうイルゼは噂話に過ぎないと思っていた。船乗りの幽霊云々以前に殺人事件も起きたような曰く付きの場所に問わず、幽霊なんて一度も見た事が無いからだ。
のんびりと流れるハンデル川を眺めつつ、ぼんやりとそんな事を思っていた矢先、傾斜を終えたようで車内の傾きが平行になった。
窓の外を見つめると、直ぐそこに伯爵の城が高々と聳えていた。
城壁は白い岩とローズブラウン。円柱状の深い緑の三角屋根が一際目立つ、随分と近代的な城だ。
このハンデル川流域には沢山の城や屋敷が並んでいる。更に川を下降して隣の領地に行けば、町中に見張り塔が立っている箇所もある程で、王都までに五十以上の城が立っているそうだ。
今は王国の中に三十程の領地があるが、四世紀・五世紀と昔は一つの国が現在の領地同様の広さだった。それも現在のヴァレンウルムの国土に、五十以上の国があったのだから驚きだ。つまり、川の周囲にあるこれら城の殆どが遠い昔の遺物である。
尚、イルゼとヨハンが住んでいたあのボロ屋敷に関しても、昔の貴族が狩りの為に建てた別荘だそう。しかし、現在のツヴァルク領にある城の殆どは廃墟と化している。そういった面もあるせいか、築二世紀そこそこのこの城は真新しいものとされており、現在のツヴァルクの象徴のようだった。遠目からイルゼは何度も見た事があるが、やはりこうも近くで見ると立派だった。
城門には蔓薔薇が絡んでおり、きっと見頃を迎えたら美しいのだろうと想像出来る。変人伯爵が住んでいるが……存外城の見た目は立派であり普通だった。
遠目ではまともであっても、庭の至る場所に禍々しいグロテスクが設置されているなど悪趣味なものを想像していたが……。そんな事を思いつつ、美しい景観の窓の外を眺めていれば、噴水を備えたアプローチに差し掛かり、どっしりとした城の正面扉の前で馬車が止まった。
「お疲れ。んじゃ、部屋に案内しないとっ……」
隣でミヒャエルは伸びをしながら間抜けた声で言う。イルゼはそれにただ黙って頷いた。
「緊張しないで良いよぉ? どーせ、うちの使用人達、全く気にしやしないと思うしね。長い休暇とでも思って我が物顔で過ごせば良いと思うよー?」
ニタニタと笑みながら言われるが、やはりどう反応すれば良いか分からない。それでも頷けば「よしよし」だなんて言って、彼はイルゼの肩をポンポンと叩いた。
詰め所後ろに留めてあった馬車に強引に押し込まれたイルゼは、あわあわと唇を動かして、馬車の扉を開けようとするが、ミヒャエルが扉に背を預けている所為でピクリとも動かない。
「領主様、どうか待ってください! イルゼは地下牢獄で一ヶ月の監禁を望みました! それなのにどうして!」
馬車の外でヨハンが大声で捲し立てている。それに対して、ミヒャエルは涼しい顔で「何が」と、言わんばかりに耳をほじっていた。否、心底面倒臭そうだった。
「えーだって、あんた地下牢がどんな場所か分かって言ってんの? 胸くそ姉貴に腹が立ったから仕返ししただけの女の子をあんな劣悪な環境に一ヶ月閉じ込めるとか悪魔の所行としか言いようもないと思うんだけど?」
「そうは言いましても! イルゼが自分で決めたものの、貴方は!」
「俺は一応は領主だし、設備くらい知って言ってるんだよ? 光も届かない埃臭い場所でさぁ、鼠がウロチョロ歩き回っててさ……。ベッドに臭せぇカビが生えてるんだよ? 当たり前だけどトイレの設備なんて無い。蓋もないバケツで用を足すけど、そんな檻の中で妹が一ヶ月バケツの中に糞尿を垂れ流すとか想像してみなよ。ついでに面会だって出来ないね。そんな場所に一ヶ月も閉じ込めてたら頭おかしくなるって分かるでしょ。下手すりゃ病気になるね。俺なりの親切だったんだけどさー。勿論さっき言った通り、君の家の支援もするし手伝い寄越すよ? 城ならあんたの面会も喜んで受け付ける」
こんな美味い話ってあるぅ? なんて煽るように言うので、ヨハンは苦虫を噛みつぶしたような面で目を細めていた。
……牢獄というくらいなのだから、鉄格子に囲われた場所だとは思っていたが、そんな劣悪な環境だとは知らなかった。蓋も無いバケツの中に垂れ流しは流石に嫌だ。イルゼは彼の言葉に内心で驚き、必死に馬車のドアを開けようとしていた手を止めた。
変人伯爵であれ、城にいた方がマシだろうか。自分の発言を無視して、金で引き取るなど何事かと思ったが、彼なりの親切だったのだろうか。もしかして助けられたのか……? 果たして、そこに裏や表があるかは未だ分からないが……。
「ですが、領主様……こんな優遇は絶対におかしいです。後に何か要求するのではないですか。イルゼが金髪だからですか……」
おずおずとヨハンが俯いて言うと、彼は耳から指を抜いて塵でも落とすように指を払った。
「んなわけねぇじゃん、なめてんの。君らに要求する程、金に困ってねぇし。確かに、金髪の女の子だぁいすきだよ? 髪、凄い可哀想な事になってるけど、君の義妹も気に入ったよ? だけど、別に取って喰いやしないし」
そこは約束する、多分。と、告げてミヒャエルは馬車の扉に手をかける。しかし、直ぐにヨハンの方を見た。
「……あ、そうだ。あんた城に来る時門前払いされないように名前教えてよ」
「ヨハン・ベッカーです」
「ふぅん。分かった、ヨハンねぇ」
そう言って、ミヒャエルはヨハンに軽く手を振って馬車に乗り込んだ。そうして何食わぬ顔でイルゼの隣に腰掛けると、彼は天井を叩いて御者に出発を知らせる。それから間もなくして、馬車は緩やかに走り始めた。
あの調子である。饒舌と思いきや、存外ミヒャエルは無口だった。馬車が走り出して、幾分経過しても何も口を割らず、彼は車窓に肘をかけて外の景色を眺めていた。
時刻はもう昼下がりだろう。街の中心地にあるひばり横町付近の大通りは活気に満ちており、商売を勤しむ人々が盛んに声を張り上げていた。町並みは白い土壁に木工張りを施した、ヴァレンウルムらしき伝統住宅。それぞれの軒下には赤々としたゼラニウムの花が綻んでおり、白い壁によく映えていた。頭上は雲一つ無い穏やかな晴天だ。しかし、当たり前のようにイルゼの心は晴れやしない。
「……あの」
イルゼが沈黙を破ったのは、馬車が大通りを抜けて、父なる流れ──ハンデル川にかかる大橋を渡り始めた時だった。
「ん。どしたのぉ?」
隣に座した彼は、欠伸混じりに言ってイルゼの方を向く。
「ミヒャエル様、何て言ったら良いか分からないですけど、あの……地下牢獄の事、私……知らなくて。助けて……くれたんですよね?」
おどおどとイルゼが切り出すものの、彼は拍子抜けた顔をする。
「え……あんなんハッタリに決まってるじゃん。まぁ、トイレがバケツや面会禁止は本当だけどもさ。え、あんなの信じちゃったの? 君、すげぇ純粋だね」
それでも、重要部分だ。そんな場所には居たくない。イルゼはブンブンと首を横に振るうと、彼は優しく垂れた空色の瞳を眩しそうに細めた。
まじまじ見て気付いたが、意外にも睫が長い。鼻梁もスッと通っており、本当に端正な顔立ちだと再確認する。しかし、こうもまじまじと見入ってしまうのも失礼だろう。イルゼは彼から直ぐに目を逸らす。
「それに、家業の事も……支援だなんだという話も……」
「あー? そんなん別に大した事ないない。税金から出せば良いだけだし。あれだって俺が贅沢する為にあるわけじゃないし。それよりさ」
そう告げて一拍後──ミヒャエルはイルゼの頤を摘まんで上を向かせる。突然の事で驚いてしまった。すると彼はどこか妖艶な笑みを浮かべてイルゼの顔を覗き込む。
「そんな畏まった敬語、使わなくたっていいよ?」
「……え?」
普通に喋れと? 訳が分からずまごつくと、彼はニタリと唇に弧を描いて、イルゼの頬に口付けを落とした。
突然の事で何をされたのか理解出来なかった。しかし、なぜにキスしたのか。困惑したイルゼは無表情で眉だけを寄せる。
「やー、君おもしれーね」
へにゃりと笑って、彼は頤を持ち上げていた手をようやく離す。しかし、何が面白いのか。全く話が繋がっていない。やはり非常に掴み所が無い。そう思いつつ、イルゼは先程のキスは気にせず話題を掘り返した。
「……庶民が高貴な方と対等な話し方をするのは流石に」
出来ません。と言おうとするや否や、彼は犬を可愛がるようにイルゼの散切り頭をワシャワシャと撫でる。
「んーそうだね。事実伯爵だからねー。でも別にいいんじゃね? 同じ人間じゃん。それに、詰め所で破いた紙の端っこに書いてたけど、君って一応貴族の家系じゃん。殺人やっちまったやべー父親が子爵家で母親が男爵家でしょ? 子爵じゃ第四位。俺の爵位の一つ下で……別にそう、大差なくね?」
あのたった一瞬で紙のその部分を拾ったのかとイルゼは内心で驚嘆した。あの生真面目そうな自警団の男は尋問の最中、紙を埋め尽くす程、細々とした文字を紙いっぱいにびっしりと綴っていたのだ。それをあのたった一瞬で拾い上げて読んだのかと……。
「でも、父は嫡男でなかったです。私の母も同じで……庶民です」
「んーそっかぁ。でもまぁ、俺も伯爵とはいえ、似たようなもんだしねぇ~そもそも正妻の息子でもねぇしー」
なりたくもねぇのに貴族になったようなもの。と、彼はヘラヘラと笑む。
……しかし、正妻の子息でないと。とんでもない事を聞いてしまった気がする。これが、領地に割れれば大騒ぎに違わない。
「それ、私に言って良いのですか?」
淡々とした口調で訊くと、「別にぃ」と彼は気怠げに答える。
「だって、事実だし。それに君、殺人犯の娘だ云々気にしてるのか不明だけど、まず滅多に街に出ないでしょ? 知り合いとかいるの? 言いふらす相手なんて義理の兄貴以外に居ないでしょ? っていうか、友達とか話し相手とかそういうのいなそう」
おっしゃる通りだ。しかし締めくくりはあまりに失礼だろう。相手は伯爵なのではっきり言えたものでは無いが……。イルゼは片方の眉を引き上げていれば「図星でしょ」と彼はどこか悪戯気にニタリと笑んだ。
そうして幾許か──対岸を進み暫くすると緩やかな傾斜が始まった。周り一面葡萄畑だらけだ。丘陵は縦縞模様を描くように葡萄棚となっている。爽やかな晴れという事もあって、青々とした葡萄畑と雲一つ無い青空がよく映えていた。それも先程いた対岸の丘陵も一面葡萄畑で圧巻の光景である。
ツヴァルクは、ヴァレンウルムの中で最も葡萄作りが盛んだそうだ。
春夏の穏やかな気候が栽培に適しているのだろう。これら葡萄は全て最高品質の葡萄酒になるそうで、王宮御用達である。また他国との貿易にも用いられるそうで、異国の金持ちはここぞとツヴァルクの葡萄酒を買うそうだ。
ましてや、この地は父なるハンデル川の流域だ。この河川は、遙か彼方王都を通り越して西の海まで続いている。つまり、船で運搬してしまえば僅か数日で王都まで運べるのだ。車窓から眼下に流るるハンデル川を眺めれば、まさに船へと葡萄酒を運搬している作業風景が見えた。
ハンデル川の流れは極めて穏やかだ。しかし、突飛もなく急流となる難所がある。その箇所こそ、イルゼが住まうボロ屋敷の近辺──〝ローレライ〟と呼ばれる切り立った岩山付近だ。ここで過去に転覆事故が幾度も起きており、夜になると船乗りの幽霊が現れるとも言われている。そうして、幽霊達は仲間欲しさに激流の中に船を引きずり込むそうだ。
しかし問題のローレライの近辺に住まうイルゼは噂話に過ぎないと思っていた。船乗りの幽霊云々以前に殺人事件も起きたような曰く付きの場所に問わず、幽霊なんて一度も見た事が無いからだ。
のんびりと流れるハンデル川を眺めつつ、ぼんやりとそんな事を思っていた矢先、傾斜を終えたようで車内の傾きが平行になった。
窓の外を見つめると、直ぐそこに伯爵の城が高々と聳えていた。
城壁は白い岩とローズブラウン。円柱状の深い緑の三角屋根が一際目立つ、随分と近代的な城だ。
このハンデル川流域には沢山の城や屋敷が並んでいる。更に川を下降して隣の領地に行けば、町中に見張り塔が立っている箇所もある程で、王都までに五十以上の城が立っているそうだ。
今は王国の中に三十程の領地があるが、四世紀・五世紀と昔は一つの国が現在の領地同様の広さだった。それも現在のヴァレンウルムの国土に、五十以上の国があったのだから驚きだ。つまり、川の周囲にあるこれら城の殆どが遠い昔の遺物である。
尚、イルゼとヨハンが住んでいたあのボロ屋敷に関しても、昔の貴族が狩りの為に建てた別荘だそう。しかし、現在のツヴァルク領にある城の殆どは廃墟と化している。そういった面もあるせいか、築二世紀そこそこのこの城は真新しいものとされており、現在のツヴァルクの象徴のようだった。遠目からイルゼは何度も見た事があるが、やはりこうも近くで見ると立派だった。
城門には蔓薔薇が絡んでおり、きっと見頃を迎えたら美しいのだろうと想像出来る。変人伯爵が住んでいるが……存外城の見た目は立派であり普通だった。
遠目ではまともであっても、庭の至る場所に禍々しいグロテスクが設置されているなど悪趣味なものを想像していたが……。そんな事を思いつつ、美しい景観の窓の外を眺めていれば、噴水を備えたアプローチに差し掛かり、どっしりとした城の正面扉の前で馬車が止まった。
「お疲れ。んじゃ、部屋に案内しないとっ……」
隣でミヒャエルは伸びをしながら間抜けた声で言う。イルゼはそれにただ黙って頷いた。
「緊張しないで良いよぉ? どーせ、うちの使用人達、全く気にしやしないと思うしね。長い休暇とでも思って我が物顔で過ごせば良いと思うよー?」
ニタニタと笑みながら言われるが、やはりどう反応すれば良いか分からない。それでも頷けば「よしよし」だなんて言って、彼はイルゼの肩をポンポンと叩いた。
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