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第一章 邂逅
1-2.取り返しのつかない罪
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(何を……)
イルゼは青緑の瞳を瞠って、怖々と背後にのしかかるリンダを見るが、彼女が手にしていたものに思考が止まる。
リンダが右手に持つものは屠殺用に用意した肉切り包丁。そして左手いっぱいに持つのは……長年伸ばしてきたイルゼの長い髪だった。
殺人鬼の娘だ。当然自分の事なんて好きになれやしない。それでも唯一好きな部分だ。母に褒められ、義母にも褒められて、愛おしげに触ってくれた自慢の髪だ。イルゼの瞳にはたちまち分厚い水膜が張った。
「やったぁ。本当ぉ~この金髪、昔っから気に喰わなかったのよ」
ざまぁみろ。と、リンダは吐き捨てるように言って、ゴミでも投げ付けるように、切り落とした髪の毛と包丁を放り投げた。
そうして間もなくリンダは立ち上がる。それと同時──イルゼはリンダの放り投げた肉切り包丁に手を伸ばしてユラリと立ち上がった。
「そうそう。あんたみたいなクズには惨たらしい散切り頭の方が似合うわよ?」
そう言って、癪に障る声で嗤われた途端にイルゼの心臓は嫌な程ばくばくと脈打った。
「──この売女!」
顔を上げたイルゼの面は普段はありえもしない程に歪んでいた。頬を上気させ、大粒の涙を溢し、眉間には鋭い皺を寄せており、その面を見たリンダの面は一瞬にして青ざめる。
「な……何よ」
リンダは一歩二歩と後退して、血の気の失せた唇をはくはくと震わせた。
「許さない……こんなの、絶対に許さない!」
私は殺人犯の娘なだけ。私が何をした。何の罪がある。呪詛のように呟き、リンダに詰め寄る最中だった。
「お前たち! 何をしている!」
悶着にようやく気付いたヨハンが鶏舎から駆け寄ってきたのだ。しかし、イルゼはヨハンを気に留めず肉切り包丁を振り上げて一拍後──嫌な感触を覚えてイルゼは我に返った。
瞬く間に血の臭いが漂ったのだ。
「痛っ……」
呻くように呟いた声はヨハンのものだった。彼の声によって、イルゼは正気を取り戻し、背を向けた彼を怖々と見た。
ヨハンの纏うシャツにはゆっくりと赤い染みが広がり始めていた。咄嗟にリンダを守ろうとしたのだろう。ヨハンはリンダの抱き締めるように庇っていたのだ。
「リンダ。大丈夫か? イルゼ……お前も大丈夫か? 髪……可哀想に。俺の妹が意地悪したんだろ。我慢出来なかったんだな。ごめんな、辛かったな」
俺がリンダを叱れた筈だ。イルゼはこんな事をしないで済むように早く来てあげればよかった。と、ヨハンは優しく笑む。しかし顔色が蒼白だ。斬られた背中が痛むのか、彼は深い息を吐き出し顔を歪めた。
何て事をしてしまったのか……。放心したイルゼの手からスルリと包丁が転がり落ちた。それが地面に転がり落ちるとカランと金属質な音が妙に響き渡る。
──それから二拍三拍と経て、金切り声を上げたリンダはヨハンを撥ね除けて、走り去って行った。
その後、イルゼは急ぎヨハンを処置した。幸いにも傷は浅く大事に至っていないようで、処置をして間もなく出血は止まった。イルゼは幾度もヨハンに詫びたが「気にしてない」と彼は優しくイルゼを窘めた。
どこまでも懐の広い義兄だ。だが、そんな優しさが酷く胸を締め付ける。
とんでもない罪を犯してしまったのだ。これからどう償えば良いのか……。処置を終えたイルゼは深い息をついた。
リンダは恐らく自警団を呼びに行ったのだと思しい。辺鄙な場所にあるこのボロ屋敷からツヴァルクの街は幾分か離れている。自警団の男達を連れて戻るには恐らく一時間近くの時間がかかるだろう。
しかし、それにしてもリンダは薄情だとイルゼは内心呆れ返っていた。彼女からしてみればヨハンは実の兄だ。まるで自分の身を守るよう、逃げるように怪我を負った兄を撥ね除けたのだ。ああも取り乱していたなら仕方ないと思うが、普通であれば義兄を心配して、怪我の手当を直ぐに当たるだろうに。それにイルゼだって直ぐに正気に戻っていたのだ。
あの上から目線で「さっさと自首に行って」と顎を聳やかして言えるだろうに。肉切り包丁を振り回した自分が言えたものでは無いが……。と、思いつつ、イルゼがため息をつけばヨハンの苦笑い間近から聞こえた。
「多分、リンダが自警団を連れてくるだろうけど、俺が上手い事説得するよ。交渉は得意だからな。包丁を振り回したのはマズイだろうけど……脅しであって、殺意は無かったんだよな?」
優しい眼差しを向けて訊かれるが、イルゼは答える事が出来なかった。
「……それより、義兄さん。お医者さんに見て貰わないと」
怪我の方が気がかりだ。と、眉を下げてイルゼが言うと、ヨハンは少し厳しい顔をした。「答えになってない。どっちなんだ。殺意は無かったんだよな?」
ヨハンはイルゼの肩をガシリと掴んで真っ向から同じ事を訊く。イルゼは唇を固く結んで黙り込んでしまった。
……分からなかった。髪を切られて、積もり積もった憎悪が破裂しただけだ。その時ばかりは確かに殺してやりたい程に憎く思ったかもしれないだろう。だが、冷静になると別に殺したいだの思わない。そんな事に自らの手を汚したくないからだ。
今となれば、髪を切られたくらいで……とは思う。確かにショックだったが、皮膚を切り裂かれた訳でないだ。
「どうなんだイルゼ」
静かに訊かれて、イルゼは瞼を伏せて首を振る。
「髪の毛切られた時に……何も考えられないくらい頭に血が上っただけ……。だって義姉さんはずっと私に〝殺人鬼の娘〟とか〝薄汚い鶏女〟って言うし。義姉さんが要らないと置いていったディアンドルを着てたから……それが気に喰わないって髪を切られて。確かに私はあのお父さんの娘だけど、私、何も悪い事なんかしてないのに」
──義兄が居ない場所ではいつもそうだった。暴力は振るわれないが、理不尽な罵詈雑言を投げ付けてきた。それら全てを吐露すると、ヨハンは深い息をつく。すると、たちまちヨハンに抱き寄せられ、イルゼはハッと目を開いた。
「ごめんな……俺、頼りなかった。こんなに意地悪の範疇を超えているなんて思いもしなかった。実の妹の事なのに……」
「別に義兄さんが謝る事じゃ……」
「いや、リンダは血の繋がった妹だ。だから俺だって同罪だ」
ヨハンは抱き締めていたイルゼを解放して、苦い顔をして言う。しかし、どう答えて良いかイルゼは分からなかった。
義兄はこうも優しい。だから、余計な心配をかけたくなく言えなかったのだ。
……ヨハンもリンダも親族と絶縁状態だった。母側の親族なり既に故人である父側の親族だって頼る場所はあっただろうが、厄介事を避ける為か金の援助だけして縁を絶っている。父が継母を殺めた時、ヨハンは十六歳。既に成人だった。リンダにおいても十四歳。自分の事くらい自分で解決出来ると見なされたのだろう。或いは、面倒事に巻き込まれたくなかったのだろうか……。理由は恐らくこれら双方と思しい。二人だって、親族から見放された哀れな存在だった。否、ある意味自分より凄惨な立場だろうとイルゼも理解していた。だからこそ、理不尽にリンダに辛く当たられたって、イルゼは我慢してきた。
二人だって、頼る場所が無かったのだ。そうして、遺産や彼ら親族の縁切りに寄越した金でヨハンの提案により、養鶏業を始めたものだが……リンダはそれがどうにも性に合わず、街に出た。そうして酒場で働きつつ僅か十六歳にして娼婦になったのだ。
本当は嫌だったのだかもしれない。普通、好き好んで娼婦になる女など居ないだろう。仕方なしに身体を売るに違わない。こんな身の上だ。雇う側だって厄介に思うに違わない。それは、養鶏業を営む前、仕事を探していたヨハンを見て理解していた。
賃金の安い葡萄畑の下働きか、どぶさらいなど。肉体労働くらいしか仕事なんて無かったのだ。
『──このあばずれが!』
父がよく母に浴びせていた言葉をイルゼは反芻した。この歳にもなれば、あばずれの意味は理解出来る。
あの頃、母も身体を売って生活を支えていたのだとイルゼはどことなく理解出来るようになっていた。何せ、あの頃の母は昼過ぎに家を出て、夜遅くに帰ってきたからだ。夜中になると、毎度父母は悶着を起こしていた。つまり、身体を売って稼いだ金が少ないからと、父がどやしていたのだろうと自然と結び付く。
(義姉さんも義姉さんで不幸に違わない……生きる為に違わない。私の言葉は、酷い言葉だったかもしれない)
反芻する程に、イルゼは自分の犯した罪の重さを思い知った。今までの苦渋を思い出すと、謝る気になんてなれやしないが、倫理に反した行動を起こした事だけは謝るべきだろうと思った
しかし、稼ぎが良いのに、なぜに義姉は〝家族費〟など称してこちらにたかるのか。借金でも背負っているのか。と、今更のような疑問が過ぎる。単なる嫌がらせな気がしてならない部分もあるが、普通に考えて、金は持っているだろうし、家族費なんて要らないだろう。態々嫌いな義妹の所に来るのだっておかしい。ただの憂さ晴らしの為か。しかし、なぜに……。
そんな事を考えている矢先に──喧噪が近付いて来る事が分かった。間違いなく、自警団の男達だろう。
「イルゼ・ジルヒャーはいるか!」
罵声じみた声に、イルゼは立ち上がろうとするが、ヨハンは直ぐにイルゼの手を掴む。
「イルゼは素直に話せ。必要以上に語らなくて良い……これから詰め所には行くだろうが最終的には俺が話をつける。自警団も馬鹿じゃないだろう。被害者の話ならば信じるし聞くだろう。心配するな」
ヨハンに強く示唆されて、イルゼは黙って頷いた。
そうして幾許か。捕縛されたイルゼはヨハンと共に馬車に揺られ、自警団の詰め所に向かっていた。
車窓から外を見れば、通りを歩く人たちが、立ち止まってこちらを眺めている。もはや〝訳あり兄弟〟と領地中に知れているもので、好奇の視線を向けているのだろう。否、街に向かう最中にリンダが言いふらした可能性も無きしもあらず。イルゼは深いため息を溢して少しばかり俯いた。
その正面には、赤ら顔の自警団副団長が腕を組んでイルゼを睨み据えている。恰幅も良く強面な所為か非常に迫力がある。それもどこか頑固そうに見えてしまうのは、彼が硬く唇を引き結んでいる所為もあるだろう。
「ああ、可哀想にイルゼ。か細い腕に縄が食い込んで……。副団長さん。これどうにかならないものです?」
隣に座したヨハンはイルゼの手首を撫でつつ副団長に言うが、彼が否と首を横に振るう。
「被害者がこうも加害者を庇うのは珍しい。お前の妹が大袈裟に物を言っている気がしてならん。何せ、酒場の女らしく随分派手好きとの調査もある程だ。あの殺人犯トビアス・ジルヒャーの娘とはいえ、そこは微塵も関係無いだろう。お前が言った通り、随分と派手な姉妹喧嘩に過ぎないと俺も思う」
拘束は解いても構わんと思うが、形式ってもんがある。と、地鳴りのような低い声で告げると、彼は再び硬そうな唇を引き結ぶ。
……本当に頑固そうだ。しかし、殺人犯の娘という部分を気にしている訳でないと分かり──この男、存外話が分かる分かるような気もしてきた。ヨハンも同じように思ったのだろう。顔を見合わせると、彼は悪戯気に片方の眉毛を上げた。
イルゼは青緑の瞳を瞠って、怖々と背後にのしかかるリンダを見るが、彼女が手にしていたものに思考が止まる。
リンダが右手に持つものは屠殺用に用意した肉切り包丁。そして左手いっぱいに持つのは……長年伸ばしてきたイルゼの長い髪だった。
殺人鬼の娘だ。当然自分の事なんて好きになれやしない。それでも唯一好きな部分だ。母に褒められ、義母にも褒められて、愛おしげに触ってくれた自慢の髪だ。イルゼの瞳にはたちまち分厚い水膜が張った。
「やったぁ。本当ぉ~この金髪、昔っから気に喰わなかったのよ」
ざまぁみろ。と、リンダは吐き捨てるように言って、ゴミでも投げ付けるように、切り落とした髪の毛と包丁を放り投げた。
そうして間もなくリンダは立ち上がる。それと同時──イルゼはリンダの放り投げた肉切り包丁に手を伸ばしてユラリと立ち上がった。
「そうそう。あんたみたいなクズには惨たらしい散切り頭の方が似合うわよ?」
そう言って、癪に障る声で嗤われた途端にイルゼの心臓は嫌な程ばくばくと脈打った。
「──この売女!」
顔を上げたイルゼの面は普段はありえもしない程に歪んでいた。頬を上気させ、大粒の涙を溢し、眉間には鋭い皺を寄せており、その面を見たリンダの面は一瞬にして青ざめる。
「な……何よ」
リンダは一歩二歩と後退して、血の気の失せた唇をはくはくと震わせた。
「許さない……こんなの、絶対に許さない!」
私は殺人犯の娘なだけ。私が何をした。何の罪がある。呪詛のように呟き、リンダに詰め寄る最中だった。
「お前たち! 何をしている!」
悶着にようやく気付いたヨハンが鶏舎から駆け寄ってきたのだ。しかし、イルゼはヨハンを気に留めず肉切り包丁を振り上げて一拍後──嫌な感触を覚えてイルゼは我に返った。
瞬く間に血の臭いが漂ったのだ。
「痛っ……」
呻くように呟いた声はヨハンのものだった。彼の声によって、イルゼは正気を取り戻し、背を向けた彼を怖々と見た。
ヨハンの纏うシャツにはゆっくりと赤い染みが広がり始めていた。咄嗟にリンダを守ろうとしたのだろう。ヨハンはリンダの抱き締めるように庇っていたのだ。
「リンダ。大丈夫か? イルゼ……お前も大丈夫か? 髪……可哀想に。俺の妹が意地悪したんだろ。我慢出来なかったんだな。ごめんな、辛かったな」
俺がリンダを叱れた筈だ。イルゼはこんな事をしないで済むように早く来てあげればよかった。と、ヨハンは優しく笑む。しかし顔色が蒼白だ。斬られた背中が痛むのか、彼は深い息を吐き出し顔を歪めた。
何て事をしてしまったのか……。放心したイルゼの手からスルリと包丁が転がり落ちた。それが地面に転がり落ちるとカランと金属質な音が妙に響き渡る。
──それから二拍三拍と経て、金切り声を上げたリンダはヨハンを撥ね除けて、走り去って行った。
その後、イルゼは急ぎヨハンを処置した。幸いにも傷は浅く大事に至っていないようで、処置をして間もなく出血は止まった。イルゼは幾度もヨハンに詫びたが「気にしてない」と彼は優しくイルゼを窘めた。
どこまでも懐の広い義兄だ。だが、そんな優しさが酷く胸を締め付ける。
とんでもない罪を犯してしまったのだ。これからどう償えば良いのか……。処置を終えたイルゼは深い息をついた。
リンダは恐らく自警団を呼びに行ったのだと思しい。辺鄙な場所にあるこのボロ屋敷からツヴァルクの街は幾分か離れている。自警団の男達を連れて戻るには恐らく一時間近くの時間がかかるだろう。
しかし、それにしてもリンダは薄情だとイルゼは内心呆れ返っていた。彼女からしてみればヨハンは実の兄だ。まるで自分の身を守るよう、逃げるように怪我を負った兄を撥ね除けたのだ。ああも取り乱していたなら仕方ないと思うが、普通であれば義兄を心配して、怪我の手当を直ぐに当たるだろうに。それにイルゼだって直ぐに正気に戻っていたのだ。
あの上から目線で「さっさと自首に行って」と顎を聳やかして言えるだろうに。肉切り包丁を振り回した自分が言えたものでは無いが……。と、思いつつ、イルゼがため息をつけばヨハンの苦笑い間近から聞こえた。
「多分、リンダが自警団を連れてくるだろうけど、俺が上手い事説得するよ。交渉は得意だからな。包丁を振り回したのはマズイだろうけど……脅しであって、殺意は無かったんだよな?」
優しい眼差しを向けて訊かれるが、イルゼは答える事が出来なかった。
「……それより、義兄さん。お医者さんに見て貰わないと」
怪我の方が気がかりだ。と、眉を下げてイルゼが言うと、ヨハンは少し厳しい顔をした。「答えになってない。どっちなんだ。殺意は無かったんだよな?」
ヨハンはイルゼの肩をガシリと掴んで真っ向から同じ事を訊く。イルゼは唇を固く結んで黙り込んでしまった。
……分からなかった。髪を切られて、積もり積もった憎悪が破裂しただけだ。その時ばかりは確かに殺してやりたい程に憎く思ったかもしれないだろう。だが、冷静になると別に殺したいだの思わない。そんな事に自らの手を汚したくないからだ。
今となれば、髪を切られたくらいで……とは思う。確かにショックだったが、皮膚を切り裂かれた訳でないだ。
「どうなんだイルゼ」
静かに訊かれて、イルゼは瞼を伏せて首を振る。
「髪の毛切られた時に……何も考えられないくらい頭に血が上っただけ……。だって義姉さんはずっと私に〝殺人鬼の娘〟とか〝薄汚い鶏女〟って言うし。義姉さんが要らないと置いていったディアンドルを着てたから……それが気に喰わないって髪を切られて。確かに私はあのお父さんの娘だけど、私、何も悪い事なんかしてないのに」
──義兄が居ない場所ではいつもそうだった。暴力は振るわれないが、理不尽な罵詈雑言を投げ付けてきた。それら全てを吐露すると、ヨハンは深い息をつく。すると、たちまちヨハンに抱き寄せられ、イルゼはハッと目を開いた。
「ごめんな……俺、頼りなかった。こんなに意地悪の範疇を超えているなんて思いもしなかった。実の妹の事なのに……」
「別に義兄さんが謝る事じゃ……」
「いや、リンダは血の繋がった妹だ。だから俺だって同罪だ」
ヨハンは抱き締めていたイルゼを解放して、苦い顔をして言う。しかし、どう答えて良いかイルゼは分からなかった。
義兄はこうも優しい。だから、余計な心配をかけたくなく言えなかったのだ。
……ヨハンもリンダも親族と絶縁状態だった。母側の親族なり既に故人である父側の親族だって頼る場所はあっただろうが、厄介事を避ける為か金の援助だけして縁を絶っている。父が継母を殺めた時、ヨハンは十六歳。既に成人だった。リンダにおいても十四歳。自分の事くらい自分で解決出来ると見なされたのだろう。或いは、面倒事に巻き込まれたくなかったのだろうか……。理由は恐らくこれら双方と思しい。二人だって、親族から見放された哀れな存在だった。否、ある意味自分より凄惨な立場だろうとイルゼも理解していた。だからこそ、理不尽にリンダに辛く当たられたって、イルゼは我慢してきた。
二人だって、頼る場所が無かったのだ。そうして、遺産や彼ら親族の縁切りに寄越した金でヨハンの提案により、養鶏業を始めたものだが……リンダはそれがどうにも性に合わず、街に出た。そうして酒場で働きつつ僅か十六歳にして娼婦になったのだ。
本当は嫌だったのだかもしれない。普通、好き好んで娼婦になる女など居ないだろう。仕方なしに身体を売るに違わない。こんな身の上だ。雇う側だって厄介に思うに違わない。それは、養鶏業を営む前、仕事を探していたヨハンを見て理解していた。
賃金の安い葡萄畑の下働きか、どぶさらいなど。肉体労働くらいしか仕事なんて無かったのだ。
『──このあばずれが!』
父がよく母に浴びせていた言葉をイルゼは反芻した。この歳にもなれば、あばずれの意味は理解出来る。
あの頃、母も身体を売って生活を支えていたのだとイルゼはどことなく理解出来るようになっていた。何せ、あの頃の母は昼過ぎに家を出て、夜遅くに帰ってきたからだ。夜中になると、毎度父母は悶着を起こしていた。つまり、身体を売って稼いだ金が少ないからと、父がどやしていたのだろうと自然と結び付く。
(義姉さんも義姉さんで不幸に違わない……生きる為に違わない。私の言葉は、酷い言葉だったかもしれない)
反芻する程に、イルゼは自分の犯した罪の重さを思い知った。今までの苦渋を思い出すと、謝る気になんてなれやしないが、倫理に反した行動を起こした事だけは謝るべきだろうと思った
しかし、稼ぎが良いのに、なぜに義姉は〝家族費〟など称してこちらにたかるのか。借金でも背負っているのか。と、今更のような疑問が過ぎる。単なる嫌がらせな気がしてならない部分もあるが、普通に考えて、金は持っているだろうし、家族費なんて要らないだろう。態々嫌いな義妹の所に来るのだっておかしい。ただの憂さ晴らしの為か。しかし、なぜに……。
そんな事を考えている矢先に──喧噪が近付いて来る事が分かった。間違いなく、自警団の男達だろう。
「イルゼ・ジルヒャーはいるか!」
罵声じみた声に、イルゼは立ち上がろうとするが、ヨハンは直ぐにイルゼの手を掴む。
「イルゼは素直に話せ。必要以上に語らなくて良い……これから詰め所には行くだろうが最終的には俺が話をつける。自警団も馬鹿じゃないだろう。被害者の話ならば信じるし聞くだろう。心配するな」
ヨハンに強く示唆されて、イルゼは黙って頷いた。
そうして幾許か。捕縛されたイルゼはヨハンと共に馬車に揺られ、自警団の詰め所に向かっていた。
車窓から外を見れば、通りを歩く人たちが、立ち止まってこちらを眺めている。もはや〝訳あり兄弟〟と領地中に知れているもので、好奇の視線を向けているのだろう。否、街に向かう最中にリンダが言いふらした可能性も無きしもあらず。イルゼは深いため息を溢して少しばかり俯いた。
その正面には、赤ら顔の自警団副団長が腕を組んでイルゼを睨み据えている。恰幅も良く強面な所為か非常に迫力がある。それもどこか頑固そうに見えてしまうのは、彼が硬く唇を引き結んでいる所為もあるだろう。
「ああ、可哀想にイルゼ。か細い腕に縄が食い込んで……。副団長さん。これどうにかならないものです?」
隣に座したヨハンはイルゼの手首を撫でつつ副団長に言うが、彼が否と首を横に振るう。
「被害者がこうも加害者を庇うのは珍しい。お前の妹が大袈裟に物を言っている気がしてならん。何せ、酒場の女らしく随分派手好きとの調査もある程だ。あの殺人犯トビアス・ジルヒャーの娘とはいえ、そこは微塵も関係無いだろう。お前が言った通り、随分と派手な姉妹喧嘩に過ぎないと俺も思う」
拘束は解いても構わんと思うが、形式ってもんがある。と、地鳴りのような低い声で告げると、彼は再び硬そうな唇を引き結ぶ。
……本当に頑固そうだ。しかし、殺人犯の娘という部分を気にしている訳でないと分かり──この男、存外話が分かる分かるような気もしてきた。ヨハンも同じように思ったのだろう。顔を見合わせると、彼は悪戯気に片方の眉毛を上げた。
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