【R18】水声の小夜曲

日蔭 スミレ

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第一章 邂逅

1-1.鶏の処刑人

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 夜明けと共に鶏は鳴く。それも一匹ではなく百匹近い数が鳴くので、煩いときたらありやしない。耳障りな騒音に顔をしかめ、イルゼは気怠い身体を引き摺るようにベッドから起き上がった。
 随分と年期を重ねたボロボロのクローゼットを開くと埃とカビでも混ぜたような不快な臭いがする。クローゼットの中はガラガラだ。
 吊されているものは、ヴァレンウルム王国の民族衣装──ディアンドルが五着ほど。しかし二着は酷くボロ。穴の開いた部分を端切れで縫い合わせており、非常にみっともない。残り二着に関しては状態も良く綺麗だが丈が少し長くて寸法が合わない。イルゼは顔をしかめつつ、綺麗なディアンドルを一着取り出してもそもそと着替えを始めた。
 そうして着替えを済ませるとイルゼはボロ屋敷を出て、屋敷の裏手にある鶏舎へと向かう。しかし、既にそこには焦げ茶髪の男の姿があった。今日はきっと自分の方が早いだろうにと思ったが、本当にどれだけ早起きか。否、ろくに眠っていないのかもしれないが……イルゼは少し困った顔で彼を見て間もなく。視線に気付いたのか、彼は遅れてやってきたイルゼに目をやった。

「イルゼおはよう」

「……おはよ。義兄にいさん」

 やけに抑揚の乏しい口調で言って、イルゼはバケツに穀物の滓をたんまり入れて鶏舎の中に入って行った。

 ──イルゼの母親が死者とされて数年後。父親は再婚した。

 父は歳の割にはそこそこ外見も良く、外面だけは良かった。酒なんか溺れているようには見せず、働くフリなんかお手の物。母が亡き者にされてから、父は非常に狡賢くどうしようもない人間に成長した。表向きには幼少期の優しく穏やかな顔を被っているが、その中身は虫喰いのがらんどう。完全に腐食していた。
 そんな愚かな父と再婚した継母には二人の連れ子がおり、イルゼには三つ年上の義兄と一つ年上の義姉が出来た。その一人が彼……ヨハンである。義姉に関しては、今はこのボロ屋敷におらず、現在ここで暮らすのはイルゼと義兄のヨハン二人きり。

 父や継母がどうしたのかといえば……二人とも既にこの世にいない。
 その理由は非常に凄惨なもので──五年前、イルゼの父が後妻を殺害したからだ。

 ヨハンの母もイルゼの父同様に配偶者と死別だった。
 死別同士の再婚だった事から親戚も街の人間も誰もが新たな門出を祝福したものだが……そこには非常に陰湿な企みが秘されていた。
 後妻は商人で非常に裕福だった。元々街の仕立屋の女主人として店を切り盛りしており、再婚後も稼ぎ柱となっていた。継母は非常に人の良い女だった。それも、本当の子でも無いイルゼを愛情深く可愛がってくれた程だ。
 卑劣な父は恐らく、稼げる事や金がある事に着目したのだろう。出会ったその時から犯行を企てていたと告白して、絞首台に立ったと言われている。

 そうして残されたのは三人の子供達だけ。しかし、その頃にはもう三人とも孤児院に入るような歳でも無かった。一番下のイルゼもあと二年で十五歳──責任能力ある立派な成人と定められる。 
 せめてイルゼだけでもどうにかならぬものか……と、ヨハンは献身的にイルゼ側の親戚に手紙を送った。しかし当然一筋縄では行きやしない。イルゼの親戚は貴族だからだ。  父は子爵家四男。母は男爵家の三女だった。ちやくなん摘女ちやくじよで無いので、結婚後は階級が無くなり、庶民として生活を送っていた。
 だが、こうなってしまえば父は一族の汚点だ。ましてや、母が行方不明のまま。しかしこれは恐らく、夜盗に攫われたのは父の虚言で、父が殺したとおぼしいとの見解も囁かれた。母側の親族としても、いくら罪も無い娘だろうが、殺人犯の血が流れるなどおぞましいと思ったのだろうか。手紙の返事は半年したって返ってこなかった。
 それから領地内の孤児院や修道院にも足を運んだが、殺人犯の実の娘である事やあと二年で成人という点で門前払いを受けた。そうして途方に暮れた挙げ句、ヨハンの提案によって始めたのが養鶏業だった。
 餌を撒き終え、鶏の群れの中でぽつりと立つイルゼは口を手で押さえて欠伸をしていた。そんな様子に見かねたのだろう。

「未だ眠いか?」

 笑いながらヨハンに言われて、イルゼは首を横に振るい「大丈夫」と、またも抑揚の乏しい口調で答える。
 ……愛想の欠片も無い返答だが、これがイルゼの普通だ。義兄は特にそれを気に留めず、穏やかな笑顔を向ける。
 イルゼは言葉が非常に平坦で感情が乏しく喜怒哀楽がろくに表情に出ない。
 ──大きな瞳に愛らしい小さな鼻。腰につくほどに長く艶やかな金の髪……。と、見た目こそ可憐だが、その風貌はどこか無感情な人形のようであった。

 そう見えてしまうのは、瞳の色が一因しているだろう。

 川底のような深く冷ややかな青緑色なので、どこか淀みをたたえているように映ってしまう。
 そんなイルゼに対して義兄のヨハンときたら、顔立ちの精悍である癖に物腰が柔らかい性質の持ち主だった。性格も非常に明るい事から街で評判の高い男である。もはや、ヨハンのお陰でこの家業が円滑に回っていると言っても過言で無い。非の打ち所の無い義兄だとはイルゼも思っていた。しかし、なぜにここまで自分を構い気に掛けるのか。母を殺した男の娘だというのに……。だが、これに対して「イルゼには何の罪も無いだろう」の一点張りで、そう思う他無かった。
 しかし、非の打ち所の無いとはいえ、苦労はしている所為か。ヨハンは非常に眠りが浅いらしい。養鶏業を始めてからというものの、夜も眠れぬ不眠に悩まされているようで、街の診療所に度々訪れ、睡眠薬を処方してもらっているとの事だ。片や、自分と来たら朝にめっぽう弱く、寝ようと思えば何時だって寝てしまえる程だ。夕食を終えると、直ぐに眠くなり、湯浴みを済ませてさっさと床に入る毎日だ。本当に、この睡眠欲を分けてあげたい程だと思えてしまう。
 キビキビと仕事をするヨハンを横目に鶏舎から出ようとした時だった。

「ああ……そういえば、ひばり横町の南外れにある酒場がうちを卵や肉の仕入れたいって言ってたんだ。正午くらいには回りたいから三羽ほど……」
 潰せるか。とかれて、イルゼはヨハンを一瞥もせずに黙って頷いた。

 潰す。即ち屠殺だ。

 もはや養鶏業を営む身なのでいい加減に慣れてしまっている。しかし、少しばかり感情が乏しい自覚があるとはいえ、命を奪う事に対して当然のように強い罪悪感はあった。それに、たとえ鶏相手だろうが自分が本当に父の娘だと実感してしまうからだ。だが、そうでもしなければ生きていない。
 そもそも役割分担だ。義兄のヨハンがイルゼが出来ぬ集客をしてくれている。だからこそ自分が鶏を絞める。こればかりは文句が言えぬもので、イルゼも黙認する他無かった。
 人当たりが良く力持ちな義兄が配達などの客商売。人付き合いが出来ぬ自分が屠殺や養鶏場の管理。まさに適材適所と言えるだろう。

(適材適所……)

 イルゼは心の中で呪文のように唱えて、澱を吐き出すように深い息をついた。



 屠殺の手順は、まずは鶏を失神させる事。そして宙づりにしたら首を……。
 外に拵えた釜で熱い熱湯を沸かせつつ、イルゼは兄が失神させた鶏を連れてくるのを待っている最中だった。
 誰かがこちらに向かって歩んでくる足音が聞こえて、イルゼは目を細めた。
 この歩調はきっと間違いない。嫌な人が来た。と、言わんばかりに眉をひそめて間もなく。姿を現したのは、想定した通りの人物──義姉のリンダだった。
 まるで猫のように尻をクネクネとさせて歩く様は、色っぽいを通り越して下品だった。
 イルゼと同じように民族衣装のディアンドルを纏っているが……彼女は外仕事をしている訳でも無いので、汚れやほつれなどが微塵も目立たない。それも新品だろうか。鉄黒の生地はなめらかそうな光沢感があり、質の違いも窺える。だが決して上品そうではない。歩き方もそうだが、襟元のボタンを外して胸元を大きく露出している所為でもあるだろう。

(社交界の貴族でもあるまいし)

 心の中で反吐を吐けば、吐き気がする程の猫なで声で「あらぁ」とリンダは手を振る。
 ヨハンと同じ焦げ茶色の髪に濃厚な琥珀色の瞳。髪はふんわりとボリュームのある癖毛だが、それが妙に小さな顔を際立たせて綺麗だとは思う。だが、どうにも所作一つ一つが下品な事で虫唾が走る。イルゼはリンダと目を合わせぬように、煮えたぎる鍋を見つめた。

「……鶏の処刑人の朝は早いのね。どう景気は良いかしら? そういえば、私さぁ今月のアレを貰ってないわ……」

 リンダの言葉にイルゼは黙りとしたまま、心底嫌そうに彼女に目をやった。

「今月の何」

「何って、馬鹿ね。私の家族費よ?」

 家族費。つまり、養鶏業で稼いだ収入のうちの三分の一を寄越せとの事だ。
 ……ここで働いてもいない癖にこうしてリンダは度々金をせびりに来るのである。ヨハンが何度も咎めているが、どうにも実の妹という部分で甘い部分もあるのだろう。泣いて縋られてしまうとヨハンも叶わぬようで、毎度仕方なしに金を渡す。だが、これで味をしめたのか、リンダは毎月のように請求に来るのだった。
 当たり前のように、イルゼからしたら腑に落ちない。それに義姉だって仕事をしている筈だ。それも養鶏業よりも確実に金になる仕事をしているのに……。
 リンダは街の中心地とも呼べるひばり横町の酒場で働いている。それも住み込みだ。酒場とはいえ、ただのウエイトレスでない。娼婦まがいな事をして金を巻き上げているのだ。
 ヨハンはこれを知らない。少し前、ヨハンが熱を出した時、仕方なしにイルゼが代わりに早朝の街に配達に出掛けた際、通りかかったひばり横町の裏路地で彼女が男と口付けを交わす姿を見て悟った事だった。
 真っ赤なルージュを引き、派手な化粧をして裸同然のみすぼらしい格好で男と乳繰り合っていたのだ。首筋には、真っ赤な赤い花。それは男女の交わりを彷彿させるもので、黒だろうと思った。
 リンダはイルゼの目撃に直ぐに気が付いた。それも微塵も動じず、乳繰り合っていた男に強姦まがいな事を指示して脅しにかけてきたのだ。

『兄さんに言ってみなさいよ。男達に頼んで、あんたの四肢を切り落として売り飛ばしてやるわ。あんたは根暗だろうと殺人鬼の娘だろうと顔だけは良いからね。鶏の処刑人を抱きたいって物好きが精液便器として可愛がってくれるんじゃないかしら?』
 その時は、身体をまさぐられただけで純潔を奪われずに済んだが、義姉の事ならば言った通りの事をやりかねないと思った。
 ……元々やや傲慢な気質ではあるが、それでも明るい義姉だった。しかし、父の事件後からの途端に冷たくなり、自分を憎み嫌うようになったのである。
 髪を掴まれひっ叩かれた回数は数えきれず。『あんたの父親が居なければママは死なずに済んだ』『この疫病神』『死んでしまえ』とヒステリックな罵声を何度浴びせられたかは分からない。井戸に突き落とされそうになったりなど、下手をすれば殺されるのではないのかと思えた事だってある。
 流石に報復が恐ろしくなり、自警団はおろかヨハンにだって言えやしなかった。そもそもだ、自警団に関しては自分があの殺人犯の娘だと分かっているので、言ったところで信用されないだろうとイルゼも考えずとも分かっていた。

「……義姉ねえさん、家族費なんて貰わなくても稼ぎはあるでしょ」

 尤もな事を言った途端だった。リンダはイルゼの長い髪に掴みかかったのである。
 引き攣るような痛みにイルゼは顔をしかめるが、リンダは構わず顔を近付けて一つ鼻を鳴らす。
「はぁ? 何、クズの分際で私に口答えするの? と、いうのか……そのディアンドル。私の置いていったやつよね? どうしてあんたがそれを着てるの? 鶏臭くてもう着られないわ。どういう事よ?」

「……義姉ねえさんが、もう要らないから置いて行ったって義兄にいさんから聞いた。不要だから着たって良いって、義兄にいさんが言ってただけで……だって」

「私はそう言ってないでしょう!」

 はん。と鼻を大きく鳴らして、リンダはイルゼを突き飛ばす。
 イルゼがよろけたと同時だった。腰に蹴りを入れられ、イルゼが地面に倒れると、その背にズシリと重みが加わった。

「あんた馬鹿でしょ? こんな薄汚い鶏女に服なんかくれたりする訳ないでしょう! それも人殺しの娘なんかに! 本当、自分の御身分をいい加減に分かって欲しいわ。あんたがいかにクズで、いかに馬鹿で惨たらしい生き物か理解しないさいよ! 本当なら路頭に迷ってさっさと死ぬべきだったのよ。そんな卑しい生き物に私のお下がりなんてごめんだわ! それに、兄さん兄さんって……本当、私の血の繋がった兄にも懐かないで頂戴!」

 罵声を浴びせられたと同時だった。頭に引き攣るような痛みが走りイルゼが顔を歪めたのも束の間──ザクリとした音と共に一瞬にして痛みが消え去った。
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