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序章
〝ローレライ〟
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「……やめて。あまり大きな声を出さないで。あの子が起きちゃうわ」
「黙れ、このろくでなしのあばずれが!」
暗闇の向こうから響いていた罵声が止んだ後、イルゼゆっくりと瞼を持ち上げた。
ほぼ毎晩、イルゼが眠りに落ちる深夜になると父が母をどやすのだ。八歳のイルゼには〝あばずれ〟の意味が分からぬが、父は決まって母をこう罵る。その他には、ろくでもない。使えない。稼がない。など色々と……。
こうして父が母をどやすようになったのは一年ほど前──父の事業が失敗してからだった。
葡萄畑の中にぽつんと立つ立派な屋敷でイルゼは生まれ育ち、父母と数人の使用人達と暮らしていた。何一つ苦労しない暮らしだったが、一年前に父が資産を失ってから、四世紀も昔に建てられたとされる廃墟同然のボロ屋敷で暮らすようになった。この所為か、温厚だった父はすっかり変わり果て、仕事もせずに酒に溺れて母を罵る毎日だった。
ようやく訪れた静けさにイルゼが安堵したと同時、遠くで扉が開く音が聞こえた。
今日もだ……。父にどやされた晩、母は決まって外へ出て行くのだ。
塗装の剥がれた出窓によじ登り、カーテンを僅かに開けて外を見ると、少し欠けた月が紺碧の空に浮かんでいた。耳をそばだてて足音を追うと、よろよろと歩む母の後ろ姿が見えた。
この屋敷は切り立った丘陵の斜面にあり森を両脇に挟んでいる。しかし、母が向かわんとしている先は川に面した〝ローレライ〟と呼ばれる断崖絶壁の真上だ。
そんな場所にいったい何の用が……。しかし、こうも毎晩怒鳴られていれば、きっと一人で泣いているのだろうと想像出来た。
やがて母の後ろ姿が暗闇に溶けて見えなくなる。それがまるで、暗闇に喰われてしまったような錯覚を覚えて、イルゼはカーテンを閉めるなり慌てて部屋を出た。
子供の自分に出来る事など何も無いと分かっていた。それでも、母がこうも毎回外に出て行く様を見る事は気がかりに違いなかった。
──八歳のイルゼは歳の割に落ち着いた少女だった。
母をどやす父の罵声に全く動じぬ程だ。否、一年も昔は一人ベッドに丸まって震えていたが、毎晩となれば流石に慣れてしまったといった方が正しいだろう。
『あの女はろくに稼ぎやしない。家の事も満足に出来ぬろくでもない女だ』
お前はあぁなってくれるな。と、口癖のように父はそう言うが、幼いイルゼでも、日夜酒浸しの父の方が問題があると分かっていた。それでも、口が裂けてもそれは言えたものでない。言えば、きっと自分も酷い摂関をされる事は考えなくとも分かっていたのだ。だから、そう言われたとしても頷く他無かったのである。
リビングのソファの上で鼾をかく父を横目に、イルゼは足早に家から出た。
扉を開くと、色褪せ始めた草の匂いが立ちこめる。空気は少し肌寒い。八月も半ばというのに、早くも夏の終わりを物語っていた。
……さて、母はどこだろう。イルゼは小走りで川の方向へ向かって間もなく、どこからか透明感のある美しい歌声が聞こえてきた。
その歌声の正体を見つけるのは直ぐだった。切り立った崖の上、川を眺めて歌う母の姿があったからだ。まるで流るる川の音を伴奏にするかのよう。伸びやかな声で母は賛美歌を歌い上げていた。
その横顔はこの世の者でないかのよう。妙に神々しかった。自分と同じ金色の髪は月の光を受けて黄金に輝いており、真っ白な夜着が青白く光っているように見えた。まるで美しい亡霊か……或いは御伽噺で出てくる川の女神のように思えてしまう。
しかし、見てはいけないものを見てしまった気さえした。イルゼはマロニエの木陰に身を潜ませて静かに母の背中を見守った。
──星の瞳を持つ者は夜風に駆ける。赤い花は水面に揺らぐ。
もう戻れない愛しき日々。愛しいあなたの幸を祈り、あなたが旅立つその日、私は川底で美しい花を咲かせて必ず待つ。どうか、どうか……幸せに生きなさい。
賛美歌の後に続けて歌い始めた歌はイルゼが聞いた事も無いものだった。
川底で待つ……。それがやたらと耳に残り不気味に思い鳥肌が立つ。
見なかった事にしよう。と、踵を返そうと思ったと同時、ピタリと母の歌が止まった。
「イルゼ。居るのでしょう?」
いらっしゃい。と、優しく呼ばれて、イルゼは目を瞠る。
「私、後ろに目が着いてるからそのくらい分かるわよ?」
絶対嘘だ。戯けた調子で母が今一度呼ぶので、観念したかのように出れば、母は優しく笑んで手招きする。そうして隣に腰掛けると、母は梳くようにイルゼの髪を撫で始めた。
「おかあさん、何してるの……」
「歌ってるのよ?」
分かり切った事を母は言う。イルゼが眉を寄せると、母は少女のように悪戯気に笑む。しかし、どうにも目が腫れぼったい。やはり泣いていたのだろう。母の瞳は僅かに揺れていた。
「ねぇ、イルゼ。この先、とても悲しい事があったら夜の川に来て歌いなさい。嫌な事があってもね。川の音が全部を流してくれる。きっと、あなたの心を癒やしてくれるわ」
「なんで」
……いきなり何を言い出すのか。眉を寄せると、母はイルゼの小さな鼻を摘まんで、またも少女のような笑顔を向けた。
「人生って、良い事ばかりじゃ無いの。幸福と不幸はいつだって隣り合わせ。目を瞑りたくなる事もあるでしょうし、逃げたくなる事だって沢山ある。だけど、人生は素晴らしいものよ。苦しい時、悲しい時。絶対にくじけない為に歌を歌うの」
「じゃあ……おかあさんが歌ってるのは、人生が辛いから?」
率直に聞くと母ははぐらかすように笑む。
「あなた、毎晩起きてるでしょうね。ごめんなさいね、お父さんの怒鳴り声が煩くて。でもね、私にはイルゼっていう大事な宝物が居るから苦しいばっかりじゃないのよ?」
「おかあさんどうして逃げないの……おかあさんがおとうさんから逃げるなら私も一緒に逃げるよ」
あんなにろくでもない父だ。このままでは母が壊れてしまうのではないかと、イルゼは抱いていた畏怖を言うが、母は首を横に振る。
「そうはいかないの。イルゼには未だ分からない大人の都合があるのよ? 大丈夫。生活が安定してくればきっと、優しいお父さんに戻る筈よ」
母はそう言うと、白々しく話題を反らしてイルゼに沢山の歌を教えてくれた。
この地を歌ったと思しき、葡萄畑の歌に、悠然と流るる川の歌。そして先程歌っていた川底で愛しき者を思う歌……。
「でも夜の川でしょ。誰かに見られたらどうするの?」
この断崖絶壁の直ぐ近くには小道がある。それに夜とはいえ、葡萄酒を出荷する季節となれば夜にも運搬船が行き来している事も多い。絶対に怪しい。変な人だと思われて、自警団に突き出されたっておかしくない。イルゼがそう言うと、母は「それもそうね」とクスクスと笑んだ。
「でも平気よ。下からだと歌声なんてきっと川の音に掻き消されちゃう。万が一にも林道からこの辺りに来た人にはそうね……自分は歌を愛するセイレーン。この急流に聳える岩山と同じ名。〝ローレライ〟と語ると良いかもしれないわね」
これは二人だけの秘密ね。と、母が戯けて笑うものだから、イルゼは思わず笑んでしまった。
それから数日後……。
夕食の後、直ぐに眠くなったイルゼは珍しく夜半に起きず朝を迎えた。だが、家の中に母の姿は無く、屋敷の中には沢山の自警団の男達が詰め寄せていた。
母が行方不明になったのだ。
ローレライの岩の上にべったりとした血痕が残っており、夜盗に襲われ攫われたのだと自警団の男達は言った。
雨が降り、月日が流れて血痕が綺麗さっぱりと無くなり、気付けば一年の月日が経過した──結局母は見つからず、死亡と見なされた。
夜盗が出ると危ないと分かっていたが、父が寝静まった後、イルゼはその後も悲しみを流す為、夜の断崖絶壁に足を運び川を見下ろして歌い続けた。
こんな場所に人なんて来る筈も無いと思っていたが……たったの一度だけ人に見つかった事があった。
それは母が死人にされた翌年──嵐が過ぎた夏の夜、黒髪の男の子がやって来たのだ。
容姿からするに、イルゼより少し年上と思しい。髪は脂気を失ってぱさぱさとしており、体躯は細く、まるで骨と皮。その所為で目元がやけに際立っていた。その瞳はとても優しげな垂れ目。更に印象深いのは、とても淡い色彩の瞳だった事だろう。とはいえ、月明かりの下では、詳しい色彩なんて分からない。恐らくアイスブルーだろうと思った。
イルゼの住まうツヴァルク領は、王国でも非常に辺鄙な場所にある。非常に狭い領地で住まう人も少ない。そうとなれば、歳の近い子供の顔は話した事がなくとも大抵覚えているが……その男の子は全く見覚えが無かった。
親に摂関でもされたのだろうか。ボロボロの衣類から覗く四肢は痣だらけだった。そんな様から、彼がここへ来た理由は穏やかな理由でないと容易に想像が出来た。何せ見るからに訳ありだからだ。きっと、この断崖絶壁から濁流に身を投げようとしているのだろう。そう悟って、イルゼが歌を止め彼に詰め寄ると、立ち止まっていた彼はガタガタと歯を鳴らして怯えきった相好でイルゼを見た。
「だ、誰……! 何してるの! 今、真夜中だよ! 君、お化けなの?」
彼は今にも泣きそうな声で訊く。それにきょとんとしたイルゼは首を横に振った。
しかし、誰と……。その言葉に、イルゼは母の言葉を思い出し〝ローレライ〟と悪戯気に偽りの名を語った。
しかし、この邂逅がまさか……八年後に自分の人生を大きく揺るがすなどその時のイルゼは思いもしなかった。
「黙れ、このろくでなしのあばずれが!」
暗闇の向こうから響いていた罵声が止んだ後、イルゼゆっくりと瞼を持ち上げた。
ほぼ毎晩、イルゼが眠りに落ちる深夜になると父が母をどやすのだ。八歳のイルゼには〝あばずれ〟の意味が分からぬが、父は決まって母をこう罵る。その他には、ろくでもない。使えない。稼がない。など色々と……。
こうして父が母をどやすようになったのは一年ほど前──父の事業が失敗してからだった。
葡萄畑の中にぽつんと立つ立派な屋敷でイルゼは生まれ育ち、父母と数人の使用人達と暮らしていた。何一つ苦労しない暮らしだったが、一年前に父が資産を失ってから、四世紀も昔に建てられたとされる廃墟同然のボロ屋敷で暮らすようになった。この所為か、温厚だった父はすっかり変わり果て、仕事もせずに酒に溺れて母を罵る毎日だった。
ようやく訪れた静けさにイルゼが安堵したと同時、遠くで扉が開く音が聞こえた。
今日もだ……。父にどやされた晩、母は決まって外へ出て行くのだ。
塗装の剥がれた出窓によじ登り、カーテンを僅かに開けて外を見ると、少し欠けた月が紺碧の空に浮かんでいた。耳をそばだてて足音を追うと、よろよろと歩む母の後ろ姿が見えた。
この屋敷は切り立った丘陵の斜面にあり森を両脇に挟んでいる。しかし、母が向かわんとしている先は川に面した〝ローレライ〟と呼ばれる断崖絶壁の真上だ。
そんな場所にいったい何の用が……。しかし、こうも毎晩怒鳴られていれば、きっと一人で泣いているのだろうと想像出来た。
やがて母の後ろ姿が暗闇に溶けて見えなくなる。それがまるで、暗闇に喰われてしまったような錯覚を覚えて、イルゼはカーテンを閉めるなり慌てて部屋を出た。
子供の自分に出来る事など何も無いと分かっていた。それでも、母がこうも毎回外に出て行く様を見る事は気がかりに違いなかった。
──八歳のイルゼは歳の割に落ち着いた少女だった。
母をどやす父の罵声に全く動じぬ程だ。否、一年も昔は一人ベッドに丸まって震えていたが、毎晩となれば流石に慣れてしまったといった方が正しいだろう。
『あの女はろくに稼ぎやしない。家の事も満足に出来ぬろくでもない女だ』
お前はあぁなってくれるな。と、口癖のように父はそう言うが、幼いイルゼでも、日夜酒浸しの父の方が問題があると分かっていた。それでも、口が裂けてもそれは言えたものでない。言えば、きっと自分も酷い摂関をされる事は考えなくとも分かっていたのだ。だから、そう言われたとしても頷く他無かったのである。
リビングのソファの上で鼾をかく父を横目に、イルゼは足早に家から出た。
扉を開くと、色褪せ始めた草の匂いが立ちこめる。空気は少し肌寒い。八月も半ばというのに、早くも夏の終わりを物語っていた。
……さて、母はどこだろう。イルゼは小走りで川の方向へ向かって間もなく、どこからか透明感のある美しい歌声が聞こえてきた。
その歌声の正体を見つけるのは直ぐだった。切り立った崖の上、川を眺めて歌う母の姿があったからだ。まるで流るる川の音を伴奏にするかのよう。伸びやかな声で母は賛美歌を歌い上げていた。
その横顔はこの世の者でないかのよう。妙に神々しかった。自分と同じ金色の髪は月の光を受けて黄金に輝いており、真っ白な夜着が青白く光っているように見えた。まるで美しい亡霊か……或いは御伽噺で出てくる川の女神のように思えてしまう。
しかし、見てはいけないものを見てしまった気さえした。イルゼはマロニエの木陰に身を潜ませて静かに母の背中を見守った。
──星の瞳を持つ者は夜風に駆ける。赤い花は水面に揺らぐ。
もう戻れない愛しき日々。愛しいあなたの幸を祈り、あなたが旅立つその日、私は川底で美しい花を咲かせて必ず待つ。どうか、どうか……幸せに生きなさい。
賛美歌の後に続けて歌い始めた歌はイルゼが聞いた事も無いものだった。
川底で待つ……。それがやたらと耳に残り不気味に思い鳥肌が立つ。
見なかった事にしよう。と、踵を返そうと思ったと同時、ピタリと母の歌が止まった。
「イルゼ。居るのでしょう?」
いらっしゃい。と、優しく呼ばれて、イルゼは目を瞠る。
「私、後ろに目が着いてるからそのくらい分かるわよ?」
絶対嘘だ。戯けた調子で母が今一度呼ぶので、観念したかのように出れば、母は優しく笑んで手招きする。そうして隣に腰掛けると、母は梳くようにイルゼの髪を撫で始めた。
「おかあさん、何してるの……」
「歌ってるのよ?」
分かり切った事を母は言う。イルゼが眉を寄せると、母は少女のように悪戯気に笑む。しかし、どうにも目が腫れぼったい。やはり泣いていたのだろう。母の瞳は僅かに揺れていた。
「ねぇ、イルゼ。この先、とても悲しい事があったら夜の川に来て歌いなさい。嫌な事があってもね。川の音が全部を流してくれる。きっと、あなたの心を癒やしてくれるわ」
「なんで」
……いきなり何を言い出すのか。眉を寄せると、母はイルゼの小さな鼻を摘まんで、またも少女のような笑顔を向けた。
「人生って、良い事ばかりじゃ無いの。幸福と不幸はいつだって隣り合わせ。目を瞑りたくなる事もあるでしょうし、逃げたくなる事だって沢山ある。だけど、人生は素晴らしいものよ。苦しい時、悲しい時。絶対にくじけない為に歌を歌うの」
「じゃあ……おかあさんが歌ってるのは、人生が辛いから?」
率直に聞くと母ははぐらかすように笑む。
「あなた、毎晩起きてるでしょうね。ごめんなさいね、お父さんの怒鳴り声が煩くて。でもね、私にはイルゼっていう大事な宝物が居るから苦しいばっかりじゃないのよ?」
「おかあさんどうして逃げないの……おかあさんがおとうさんから逃げるなら私も一緒に逃げるよ」
あんなにろくでもない父だ。このままでは母が壊れてしまうのではないかと、イルゼは抱いていた畏怖を言うが、母は首を横に振る。
「そうはいかないの。イルゼには未だ分からない大人の都合があるのよ? 大丈夫。生活が安定してくればきっと、優しいお父さんに戻る筈よ」
母はそう言うと、白々しく話題を反らしてイルゼに沢山の歌を教えてくれた。
この地を歌ったと思しき、葡萄畑の歌に、悠然と流るる川の歌。そして先程歌っていた川底で愛しき者を思う歌……。
「でも夜の川でしょ。誰かに見られたらどうするの?」
この断崖絶壁の直ぐ近くには小道がある。それに夜とはいえ、葡萄酒を出荷する季節となれば夜にも運搬船が行き来している事も多い。絶対に怪しい。変な人だと思われて、自警団に突き出されたっておかしくない。イルゼがそう言うと、母は「それもそうね」とクスクスと笑んだ。
「でも平気よ。下からだと歌声なんてきっと川の音に掻き消されちゃう。万が一にも林道からこの辺りに来た人にはそうね……自分は歌を愛するセイレーン。この急流に聳える岩山と同じ名。〝ローレライ〟と語ると良いかもしれないわね」
これは二人だけの秘密ね。と、母が戯けて笑うものだから、イルゼは思わず笑んでしまった。
それから数日後……。
夕食の後、直ぐに眠くなったイルゼは珍しく夜半に起きず朝を迎えた。だが、家の中に母の姿は無く、屋敷の中には沢山の自警団の男達が詰め寄せていた。
母が行方不明になったのだ。
ローレライの岩の上にべったりとした血痕が残っており、夜盗に襲われ攫われたのだと自警団の男達は言った。
雨が降り、月日が流れて血痕が綺麗さっぱりと無くなり、気付けば一年の月日が経過した──結局母は見つからず、死亡と見なされた。
夜盗が出ると危ないと分かっていたが、父が寝静まった後、イルゼはその後も悲しみを流す為、夜の断崖絶壁に足を運び川を見下ろして歌い続けた。
こんな場所に人なんて来る筈も無いと思っていたが……たったの一度だけ人に見つかった事があった。
それは母が死人にされた翌年──嵐が過ぎた夏の夜、黒髪の男の子がやって来たのだ。
容姿からするに、イルゼより少し年上と思しい。髪は脂気を失ってぱさぱさとしており、体躯は細く、まるで骨と皮。その所為で目元がやけに際立っていた。その瞳はとても優しげな垂れ目。更に印象深いのは、とても淡い色彩の瞳だった事だろう。とはいえ、月明かりの下では、詳しい色彩なんて分からない。恐らくアイスブルーだろうと思った。
イルゼの住まうツヴァルク領は、王国でも非常に辺鄙な場所にある。非常に狭い領地で住まう人も少ない。そうとなれば、歳の近い子供の顔は話した事がなくとも大抵覚えているが……その男の子は全く見覚えが無かった。
親に摂関でもされたのだろうか。ボロボロの衣類から覗く四肢は痣だらけだった。そんな様から、彼がここへ来た理由は穏やかな理由でないと容易に想像が出来た。何せ見るからに訳ありだからだ。きっと、この断崖絶壁から濁流に身を投げようとしているのだろう。そう悟って、イルゼが歌を止め彼に詰め寄ると、立ち止まっていた彼はガタガタと歯を鳴らして怯えきった相好でイルゼを見た。
「だ、誰……! 何してるの! 今、真夜中だよ! 君、お化けなの?」
彼は今にも泣きそうな声で訊く。それにきょとんとしたイルゼは首を横に振った。
しかし、誰と……。その言葉に、イルゼは母の言葉を思い出し〝ローレライ〟と悪戯気に偽りの名を語った。
しかし、この邂逅がまさか……八年後に自分の人生を大きく揺るがすなどその時のイルゼは思いもしなかった。
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