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第二章 偽りの感情
12 浅はかで世間知らず
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その晩、アイリーンは寝付けずにいた。
夜中の二時を回っただろう。下の階に設置された柱時計が二つ鐘を打ち、何度目になるか分からぬ寝返りを打つ。
従者たちが近日中にやって来る。
当たり前のようにリーアムは今回の件を怒っているに違いない。彼の無言の圧力は恐ろしいが、怒鳴られるのはもっと恐ろしいだろう。
(……気が重たい)
自分の言葉は全く纏まらない。先代の手紙によって、答えを持って来た彼に導かれた、この呪いを解きたいと思いの全てを話しても受け入れて貰えないだろう。
そもそも最悪の場合、こちらの話は一つも聞いてくれない気もした。
どうにも、リーアムの事を考える程に胸が痛み、侘しさを感じる。
(リーアムが昔のまま心に寄り添ってくれていたとしたら、私はジャスパーの誘いを断ったのかしら……)
しかし、自分の行動を人の所為にするのは最低だ。
そんな事を考えれば自己嫌悪が沸き立ち、心の中に暗い靄が広がる心地がした。
(こんな私のどこが女神なの)
──女神は慈しみ深くあるべきだ。自分の運命に憎悪を抱かず、他人を妬んだり羨んだりするものではない。
女神としての立ち振る舞いや精神を強いられてきたからこそ、自分が女神の器でない事はアイリーン自身が一番よく分かっていた。
だからこそ、自分の運命がどこか納得できない部分がある。
(女神なんてやめたい。私は〝普通の女の子〟になりたかった)
どんなに願ってもこればかりは変わらない。しかし、どうして自分が女神なのか。なぜに薔薇色の瞳を持ったのか……。
そんな事を考えていれば、ふと、ジャスパーの言葉が過った。
『こんな場所にいるから侵食が早いんだ。間違いなく石英樹海が寿命を削ってる』
それは身をもって知ったばかり。今の所、侵食も進まず体の調子が異様に良い。
(もしかして私……女神じゃなくて、何かの供物なのかしら……)
だとすれば、彼の説く〝呪い〟に全ての合点がいく。
前代と前々代と、既に二人の犠牲が出ているからだ。
自分達はもしかしたら、初代の起こした厄災の尻拭いの為の人柱だろうか。
神殿関係者は……否、エルン・ジオ聖教は何かを知っているだろう。
もしかしたら、従者たちも真実を把握しているのかもしれない。
もしも自分だけが、何も知らずにいたとしたら……。
未確定の妄想だが、酷く悲しい気持ちになり、底知れぬ不安がのしかかる。
自然と目頭が熱くなり、涙が溢れないようにと慌てて瞼を伏せる。
真っ暗な世界の中でリーアムとサーシャの姿が映った。
その姿は水面のように揺れて、さっと姿が掻き消される──途端にアイリーンは堰を切らしたように泣き始めた。
いくら先代の言葉があったからとはいえ、軽はずみの行動だったかもしれない。
決して、何かを犠牲にする覚悟をして、彼の手を取った訳ではなかった。
自分は考え無しで浅はかだっただろう。
ジャスパーとは二年手紙でやりとりをしただけの間柄だ。
幸いにもジャスパーは善良な人間と分かるが、万が一にも彼が悪人ならば、自分は今頃どうなっていたのだろう。
乱暴されていたかもしれない。
遠い国で見世物にされていたかもしれない。
女神とは名ばかり。樹海を出て尚更、無力で世間知らずと知らしめられたので、尚更そう思えてしまった。
身を縮めたアイリーンは、しゃくり上げるような嗚咽を溢した途端だった。
「……おい、大丈夫か?」
頭まで被る布団越しに、やや癖のある声が落ちてきた。
それがジャスパーのものだと気付くがアイリーンは返事できずにいた。
いつ来たか気付かなかった。
泣き声が煩かっただろうか。鼻を啜っている音でも聞こえたのか。そう思うと気恥ずかしいが、それでも涙は止まらない。
「……はい」
とりあえず返事すると、ベッドが僅かに沈む感触がした。
彼が縁に腰掛けたのだろう。だがこうも無様に泣いている様を人に見られるのはいたたまれない。早く出て行って欲しい。そう思うが、頬を伝う涙は止まる気配もなかった。
「どこか具合が悪いとかじゃなきゃ良いんだよ」
そう言って、布団越しに背を撫でられると、涙は余計に溢れ出た。
「大丈夫です」そう告げるが、声が震えてしまい言葉になっていない。
「一人でいると色々考えちまうよな。今日やる事は全部終わってるし、寝るまでここにいてやるから、今は何も考えないで目を閉じろ」
穏やかな声が心地良い。それに背を撫で続けていられると、嗚咽に跳ねた胸は少しずつ落ちつきを取り戻す。
「……ジャスパーが悪人じゃなくて良かったです」
先程、恐ろしい想像をした所為か思ったままを言っていた。
「……は?」
素っ頓興な声をあげた彼は、背を撫でていた手をピタリと止める。
「だって、ジャスパーは悪い人じゃないです……よね……?」
寝返りを打ち、布団を捲って恐る恐る彼を見ると、ジャスパーはどこか呆れた顔で笑んでいた。
「女神様を攫った時点で俺はとんでもねぇ極悪人だと思うが……」
「公爵なのに?」
「爵位は関係ないだろ? だけど、俺はアイリーンの事は傷付けたくないし、手を取ってくれた以上は守りたいとは思うが」
「責任って……言っていましたよね」
「そうだな。それもある。男には誰にだって譲れないプライドがあるんだよ」
よく分からなかった。
男性のリーアムなら分かるのだろうか。
そう思いつつ、アイリーンは彼をジッと見上げた。
窓から差し込む月明かりの所為か、彼の姿がはっきりと見える。
しかし、今の自分は泣き濡れた顔だ。それを思い出したアイリーンは彼に背を向けようとするが、すぐに肩を掴まれて阻まれた。
「ただ……一つだけ忠告する。男って馬鹿みたいに単純だ。自分の都合良いように解釈して勘違いする事もあるからな? 弱みを見せた状態で見つめない方が良い。あんた可愛いんだから」
どういう事だ。神妙な面をすると、理解できていない事を察したのか、彼は曖昧な表情で笑む。
「でもジャスパー。あなたは侵食があるから感覚が麻痺していると思うの。だって私……あなたと違って顔にも侵食が出ています」
可愛い筈がない。それをはっきり言うと、彼は目を細めて「そこじゃない」と諭すように続けた。
「顔立ちはそら可愛いが、主に態度や性格の事だよ? 臆病な部分だったり、表情がよく変わる部分だったりな。年相応の普通の女の子らしさが沢山ある。そこが可愛い。あと、頬がゆるむのが分かりやすくて笑顔が可愛いなって思う。それにあんたの侵食は神秘的で美しいと思う」
普通の女の子──渇望し続けたその言葉はやはり胸がいっぱいになる。
しかし、真っ直ぐ可愛いと言われたら、照れくさくてどう答えて良いか分からない。
「ありがとう……」
消え入りそうな声で答えたが、確と聞こえたのだろう。彼はアイリーンの髪を撫でて柔らかく笑む。
「ほら、もう目を閉じな……ゆっくり寝ろ」
そう促されて、アイリーンは素直に瞼を閉じた。
「アイリーンには俺がいる。命を張ってあんたを攫い出したんだ。俺は呪いの克服を諦めない。あんたには俺がいるって……それだけは忘れてくれるなよ」
──友達だろ。と、ジャスパーは穏やかな口調で付け添える。
「……ジャスパーありがとう」
瞼を伏せたまま言うと、額に温かく柔らかな感触を一時覚えた。
唇を当てられたのだと分かり、アイリーンはこそばゆさに身じろぎする。
これに何の意味があるか分からない。
けれど昔、自分の末路が怖くて眠れなかった時にリーアムが〝おまじない〟と言って同じようにしてくれた。
何だか気恥ずかしい気持ちになったが、リーアムも同じだったようで握りしめられた手がやけに熱かった事を思い出す。
やはりそこは彼も同じなのだろうか。涙を拭くジャスパーの手が仄かに熱かった。
そうして幾許か。落ち着きを取り戻したアイリーンは眠りに落ちた。
夜中の二時を回っただろう。下の階に設置された柱時計が二つ鐘を打ち、何度目になるか分からぬ寝返りを打つ。
従者たちが近日中にやって来る。
当たり前のようにリーアムは今回の件を怒っているに違いない。彼の無言の圧力は恐ろしいが、怒鳴られるのはもっと恐ろしいだろう。
(……気が重たい)
自分の言葉は全く纏まらない。先代の手紙によって、答えを持って来た彼に導かれた、この呪いを解きたいと思いの全てを話しても受け入れて貰えないだろう。
そもそも最悪の場合、こちらの話は一つも聞いてくれない気もした。
どうにも、リーアムの事を考える程に胸が痛み、侘しさを感じる。
(リーアムが昔のまま心に寄り添ってくれていたとしたら、私はジャスパーの誘いを断ったのかしら……)
しかし、自分の行動を人の所為にするのは最低だ。
そんな事を考えれば自己嫌悪が沸き立ち、心の中に暗い靄が広がる心地がした。
(こんな私のどこが女神なの)
──女神は慈しみ深くあるべきだ。自分の運命に憎悪を抱かず、他人を妬んだり羨んだりするものではない。
女神としての立ち振る舞いや精神を強いられてきたからこそ、自分が女神の器でない事はアイリーン自身が一番よく分かっていた。
だからこそ、自分の運命がどこか納得できない部分がある。
(女神なんてやめたい。私は〝普通の女の子〟になりたかった)
どんなに願ってもこればかりは変わらない。しかし、どうして自分が女神なのか。なぜに薔薇色の瞳を持ったのか……。
そんな事を考えていれば、ふと、ジャスパーの言葉が過った。
『こんな場所にいるから侵食が早いんだ。間違いなく石英樹海が寿命を削ってる』
それは身をもって知ったばかり。今の所、侵食も進まず体の調子が異様に良い。
(もしかして私……女神じゃなくて、何かの供物なのかしら……)
だとすれば、彼の説く〝呪い〟に全ての合点がいく。
前代と前々代と、既に二人の犠牲が出ているからだ。
自分達はもしかしたら、初代の起こした厄災の尻拭いの為の人柱だろうか。
神殿関係者は……否、エルン・ジオ聖教は何かを知っているだろう。
もしかしたら、従者たちも真実を把握しているのかもしれない。
もしも自分だけが、何も知らずにいたとしたら……。
未確定の妄想だが、酷く悲しい気持ちになり、底知れぬ不安がのしかかる。
自然と目頭が熱くなり、涙が溢れないようにと慌てて瞼を伏せる。
真っ暗な世界の中でリーアムとサーシャの姿が映った。
その姿は水面のように揺れて、さっと姿が掻き消される──途端にアイリーンは堰を切らしたように泣き始めた。
いくら先代の言葉があったからとはいえ、軽はずみの行動だったかもしれない。
決して、何かを犠牲にする覚悟をして、彼の手を取った訳ではなかった。
自分は考え無しで浅はかだっただろう。
ジャスパーとは二年手紙でやりとりをしただけの間柄だ。
幸いにもジャスパーは善良な人間と分かるが、万が一にも彼が悪人ならば、自分は今頃どうなっていたのだろう。
乱暴されていたかもしれない。
遠い国で見世物にされていたかもしれない。
女神とは名ばかり。樹海を出て尚更、無力で世間知らずと知らしめられたので、尚更そう思えてしまった。
身を縮めたアイリーンは、しゃくり上げるような嗚咽を溢した途端だった。
「……おい、大丈夫か?」
頭まで被る布団越しに、やや癖のある声が落ちてきた。
それがジャスパーのものだと気付くがアイリーンは返事できずにいた。
いつ来たか気付かなかった。
泣き声が煩かっただろうか。鼻を啜っている音でも聞こえたのか。そう思うと気恥ずかしいが、それでも涙は止まらない。
「……はい」
とりあえず返事すると、ベッドが僅かに沈む感触がした。
彼が縁に腰掛けたのだろう。だがこうも無様に泣いている様を人に見られるのはいたたまれない。早く出て行って欲しい。そう思うが、頬を伝う涙は止まる気配もなかった。
「どこか具合が悪いとかじゃなきゃ良いんだよ」
そう言って、布団越しに背を撫でられると、涙は余計に溢れ出た。
「大丈夫です」そう告げるが、声が震えてしまい言葉になっていない。
「一人でいると色々考えちまうよな。今日やる事は全部終わってるし、寝るまでここにいてやるから、今は何も考えないで目を閉じろ」
穏やかな声が心地良い。それに背を撫で続けていられると、嗚咽に跳ねた胸は少しずつ落ちつきを取り戻す。
「……ジャスパーが悪人じゃなくて良かったです」
先程、恐ろしい想像をした所為か思ったままを言っていた。
「……は?」
素っ頓興な声をあげた彼は、背を撫でていた手をピタリと止める。
「だって、ジャスパーは悪い人じゃないです……よね……?」
寝返りを打ち、布団を捲って恐る恐る彼を見ると、ジャスパーはどこか呆れた顔で笑んでいた。
「女神様を攫った時点で俺はとんでもねぇ極悪人だと思うが……」
「公爵なのに?」
「爵位は関係ないだろ? だけど、俺はアイリーンの事は傷付けたくないし、手を取ってくれた以上は守りたいとは思うが」
「責任って……言っていましたよね」
「そうだな。それもある。男には誰にだって譲れないプライドがあるんだよ」
よく分からなかった。
男性のリーアムなら分かるのだろうか。
そう思いつつ、アイリーンは彼をジッと見上げた。
窓から差し込む月明かりの所為か、彼の姿がはっきりと見える。
しかし、今の自分は泣き濡れた顔だ。それを思い出したアイリーンは彼に背を向けようとするが、すぐに肩を掴まれて阻まれた。
「ただ……一つだけ忠告する。男って馬鹿みたいに単純だ。自分の都合良いように解釈して勘違いする事もあるからな? 弱みを見せた状態で見つめない方が良い。あんた可愛いんだから」
どういう事だ。神妙な面をすると、理解できていない事を察したのか、彼は曖昧な表情で笑む。
「でもジャスパー。あなたは侵食があるから感覚が麻痺していると思うの。だって私……あなたと違って顔にも侵食が出ています」
可愛い筈がない。それをはっきり言うと、彼は目を細めて「そこじゃない」と諭すように続けた。
「顔立ちはそら可愛いが、主に態度や性格の事だよ? 臆病な部分だったり、表情がよく変わる部分だったりな。年相応の普通の女の子らしさが沢山ある。そこが可愛い。あと、頬がゆるむのが分かりやすくて笑顔が可愛いなって思う。それにあんたの侵食は神秘的で美しいと思う」
普通の女の子──渇望し続けたその言葉はやはり胸がいっぱいになる。
しかし、真っ直ぐ可愛いと言われたら、照れくさくてどう答えて良いか分からない。
「ありがとう……」
消え入りそうな声で答えたが、確と聞こえたのだろう。彼はアイリーンの髪を撫でて柔らかく笑む。
「ほら、もう目を閉じな……ゆっくり寝ろ」
そう促されて、アイリーンは素直に瞼を閉じた。
「アイリーンには俺がいる。命を張ってあんたを攫い出したんだ。俺は呪いの克服を諦めない。あんたには俺がいるって……それだけは忘れてくれるなよ」
──友達だろ。と、ジャスパーは穏やかな口調で付け添える。
「……ジャスパーありがとう」
瞼を伏せたまま言うと、額に温かく柔らかな感触を一時覚えた。
唇を当てられたのだと分かり、アイリーンはこそばゆさに身じろぎする。
これに何の意味があるか分からない。
けれど昔、自分の末路が怖くて眠れなかった時にリーアムが〝おまじない〟と言って同じようにしてくれた。
何だか気恥ずかしい気持ちになったが、リーアムも同じだったようで握りしめられた手がやけに熱かった事を思い出す。
やはりそこは彼も同じなのだろうか。涙を拭くジャスパーの手が仄かに熱かった。
そうして幾許か。落ち着きを取り戻したアイリーンは眠りに落ちた。
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