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Ⅶ
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その日、やって来た客──紗良が去ったのは空が白み始めた頃だった。
エマの出したクッキーも食べ終えて、店を出る頃の彼女の表情は、営業らしさのない明るいものに変わっていてホッとした。
「お疲れさん。無事にお嬢さんは帰ったかい?」
新聞を片手に階段から下ってきた男性に、アンナは「ええ」と軽く返事する。
「あのお嬢さん、本当に予想外でなかなかに危うかった。まぁ良かった。あんたの手柄だよ」
そう彼は席に着くや否や、エマはジトリと目を細めて「はい。閉店です、そろそろお帰り下さい」なんて素っ気なく言う。
「紗良さん〝また来たい〟なんて言ってくださって。私としては、とても嬉しかったけどね」
「まぁもう多分二度と来る事はねぇだろうな。だってここは……」
やれやれといったそぶりでエマが言う。
「しかし〝終わる花〟なんて随分と洒落た店名をつけたな。良いんじゃない?」
男性は戯けたように言って立ち上がるなり、スッと姿を眩ませた。
*
翌日、紗良は仕事を休んだ。
少し眠った後に、自分の言葉を整理して、メッセージを打つ。
未練、思い、そして最大限の感謝。
それらを書き終えて送信した頃には、もう夕方近く。窓の外を見れば、春に珍しく、赤々とした夕焼け空が広がっていた。
「なんか一区切りついた気分。明日からの仕事、頑張ろ」
もう迷いは無かった。ほんの少しまだ泣く事はあったとしても、私はもう大丈夫だと思えた。
……それからひと月。桜が散り、季節は緩やかに新緑の時期になる頃、返信があった。
彼からの心からの謝罪。そしてこちらこそありがとう。そして、もう一度会わないかとの連絡だった。
少し心が揺れたが、紗良は「今は会えない」と丁重に断った。
やはりすぐには判断しかねない。復縁になったとしても、またこんな事を繰り返されたら堪ったものではない。
時間は有限だ。その人の為に自分を消耗するのはいかがなものかと思えた。
二十四歳は結婚適齢期ではあろうが、別にそこまで焦る必要も無い。
自分らしく生きよう。きっと縁があればまた結ばれるし、他にも素敵な出会いがあるかもしれない。
途端に思い出したのは、バナナのパウンドケーキと、南国テイストのフレーバーティーだ。
気の良い店員と見た目の割に口の悪い女の子がいる、あのカフェに行こう。
そう思い、休日に仲見世商店街を歩んでその場所に向かったが、そこにはもうあの建物は無かった。
それどころか、そこには年季の入った駐車場がある。
あれは何だったのだろう。スマホの中のカメラロールを見て、写真を確認するが、バナナのパウンドケーキは表示された瞬間に写真はスッと消え去った。
投稿したSNSも同様で──表示した途端にその部分のデータだけが霧のように消えていった。
それはまるで魔法が解けたかのよう。こんな不可思議な体験は初めてした。
電車に乗って居眠りしていたら、存在しない駅に辿り着いてしまっただの、それに似た都市伝説のようなものだろうか。
恐らくあの日の自分は、この世ではないどこかに迷い込んでしまったのかもしれない。
けれど不思議と恐怖感や不快感は何一つ無かった。
それどころか、妙に心に擽ったくて温かく、幸せな心地がする。
ひとつ悔しいのは、あんなに美味しいパウンドケーキと紅茶をもう味わえない事だろう。
「アンナさん、エマちゃんありがとう」
ぽつりそう呟いて。紗良は駅に向かって歩いていった。
エマの出したクッキーも食べ終えて、店を出る頃の彼女の表情は、営業らしさのない明るいものに変わっていてホッとした。
「お疲れさん。無事にお嬢さんは帰ったかい?」
新聞を片手に階段から下ってきた男性に、アンナは「ええ」と軽く返事する。
「あのお嬢さん、本当に予想外でなかなかに危うかった。まぁ良かった。あんたの手柄だよ」
そう彼は席に着くや否や、エマはジトリと目を細めて「はい。閉店です、そろそろお帰り下さい」なんて素っ気なく言う。
「紗良さん〝また来たい〟なんて言ってくださって。私としては、とても嬉しかったけどね」
「まぁもう多分二度と来る事はねぇだろうな。だってここは……」
やれやれといったそぶりでエマが言う。
「しかし〝終わる花〟なんて随分と洒落た店名をつけたな。良いんじゃない?」
男性は戯けたように言って立ち上がるなり、スッと姿を眩ませた。
*
翌日、紗良は仕事を休んだ。
少し眠った後に、自分の言葉を整理して、メッセージを打つ。
未練、思い、そして最大限の感謝。
それらを書き終えて送信した頃には、もう夕方近く。窓の外を見れば、春に珍しく、赤々とした夕焼け空が広がっていた。
「なんか一区切りついた気分。明日からの仕事、頑張ろ」
もう迷いは無かった。ほんの少しまだ泣く事はあったとしても、私はもう大丈夫だと思えた。
……それからひと月。桜が散り、季節は緩やかに新緑の時期になる頃、返信があった。
彼からの心からの謝罪。そしてこちらこそありがとう。そして、もう一度会わないかとの連絡だった。
少し心が揺れたが、紗良は「今は会えない」と丁重に断った。
やはりすぐには判断しかねない。復縁になったとしても、またこんな事を繰り返されたら堪ったものではない。
時間は有限だ。その人の為に自分を消耗するのはいかがなものかと思えた。
二十四歳は結婚適齢期ではあろうが、別にそこまで焦る必要も無い。
自分らしく生きよう。きっと縁があればまた結ばれるし、他にも素敵な出会いがあるかもしれない。
途端に思い出したのは、バナナのパウンドケーキと、南国テイストのフレーバーティーだ。
気の良い店員と見た目の割に口の悪い女の子がいる、あのカフェに行こう。
そう思い、休日に仲見世商店街を歩んでその場所に向かったが、そこにはもうあの建物は無かった。
それどころか、そこには年季の入った駐車場がある。
あれは何だったのだろう。スマホの中のカメラロールを見て、写真を確認するが、バナナのパウンドケーキは表示された瞬間に写真はスッと消え去った。
投稿したSNSも同様で──表示した途端にその部分のデータだけが霧のように消えていった。
それはまるで魔法が解けたかのよう。こんな不可思議な体験は初めてした。
電車に乗って居眠りしていたら、存在しない駅に辿り着いてしまっただの、それに似た都市伝説のようなものだろうか。
恐らくあの日の自分は、この世ではないどこかに迷い込んでしまったのかもしれない。
けれど不思議と恐怖感や不快感は何一つ無かった。
それどころか、妙に心に擽ったくて温かく、幸せな心地がする。
ひとつ悔しいのは、あんなに美味しいパウンドケーキと紅茶をもう味わえない事だろう。
「アンナさん、エマちゃんありがとう」
ぽつりそう呟いて。紗良は駅に向かって歩いていった。
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