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Kapitel4─孤独と憎悪は翳りに咲く

4-5.夜の祝福

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 ────ミラン!
 
 ベルティーナは彼の名を叫びハッと目を瞠る。
 
 陽光が燦々と降り注ぐ遠浅の海。鏡のような水面に映る自分の姿はまるで紫の花弁に似た鱗を寄せ集めたかのような竜と思しき獣の姿だった。それはまさに、真っ暗闇の中で見た悍ましい獣の姿そのものだった。しかし、直ぐさま焦点が合わなくなった。
 
 あまりに眩しく目が眩み、後ろを向いたとしても、そこに居た筈のミランの姿が見当たらない。ベルティーナは、ふと視線を下げる。すると、そこには、小さな黒い何かが水面の上に浮かんでいた。その周辺には赤黒い血液らしきものが滲んでおり、潮の匂いに混じって鉄臭い匂いが漂っていた。
 クラクラキラキラと動く水面の上、やっと焦点が定まり、その正体を悟ったと同時にベルティーナは悲鳴にも似た甲高い咆哮を上げた。
 ……明らかな既視感。それは、血濡れた一羽のカラスだった。
 
 ────嫌ぁ……嫌、嘘、嘘!
 
 ベルティーナが半狂乱になって叫んだ途端だった。
 パチリと何かが弾けたような感覚を覚えた途端、ベルティーナの姿は人に近しい姿に変わった。定まらない焦点の視界で、ベルティーナは必死になって、水面に浮かぶカラスを掬い上げ胸の中に抱き寄せた。
 ここに居るのは自分とミランだけ。間違いなく自我を失った自分が彼を傷つけたのだと考えずとも理解できた。
 
「ミラン、ミランでしょう。ねぇ……」
 
 ベルティーナは胸に抱き寄せたカラスに必死になって語りかける。だが、反応は皆無だった。
 未だはっきりとこれまでの感謝も自分の抱く好意も、果てしなく寂しがり屋で醜い自分の事だって伝えていないというのに。恩を仇で返すような事をしてしまったのだ。
 
「ごめんなさい、ごめんなさい……私」
 
 半狂乱になったベルティーナは大粒の涙を溢して、彼へ謝罪の言葉を繰り返す。その最中だった。カラスは緩やかに瞼を持ち上げたと同時──黒い闇に包まれた。そして、それが晴れると、自分の腕の中にはミランの姿があった。
 
「……おいおい、勝手に殺すな。死んでない。生きてるわ」
 
 痛てて……なんて、彼は腹を押さえて目を細めてミランは言うが、ベルティーナは安堵した途端に更に泣きじゃくった。
 
「体力削られ過ぎて魔力が尽きると……こう、姿を保てなくなるもんでな……」
 
 ばつが悪そうに言いつつ、ミランはベルティーナの腕をやんわりと外す。そうして今度は彼がベルティーナを胸に抱き寄せ、梳くように髪を優しく撫で始めた。
 
「ごめんなさい……」
 
「謝るな。自分の好きな雌だ。なるべく傷つけたくないから、攻撃なんてしなかっただけ。気が済むまで殴らせて、お前の正気が戻るの待ってただけだ」
 
 ──だから、俺が怪我してるのは、俺の責任。なんて彼は笑い混じりに言う。
 しかし、ベルティーナは唇を噛みしめた。こんな自分の為にそんな事をしなくたって良いだろうに。噛みつこうが殴ろうが良かった筈だ。極限まで体力が削られるとは、即ち命の危機もあっただろうに。ベルティーナは直ぐに首を横に振った。
 
「ごめんなさい……ミラン。私ね、ヴェルメブルグに復讐しようとずっと考えていた。憎くて堪らなかった。果てには、自分をこんな目に遭わせたこの国にだって滅ぼしたいくらいに思った。私は途方も無い孤独を抱え隠してきた所為で、あまりに酷く醜い心を持っているの。そんな私なんか……」
 
 ベルティーナが全てを告げきる前だった。彼の顔が近付いた。と、焦点も定まらない視界の中で悟った途端──暖かくも柔らかな感触が唇に触れ、ベルティーナは目を瞠る。
 
 ──口付けされた。それを悟り、ベルティーナは慌てて彼の肩を押し返した。

「待って……! 何で!」
 
 ベルティーナは取り乱し、金切り声で訴えるが、ミランは直ぐに首を横に振る。
 
「……お前の背景を知れば、そう思って当然だろ? でもな。その孤独を幸せに塗りつぶしていくのが俺の役目だからな。五年も昔、感情を殺した独りぼっちの人間の女の子に出会った時から俺はそう決めた」
 
 ──その子は、本当は心優しい女の子だ。傷ついた者の為に献身的になり知恵を絞る。それに、人を助ける為に自分の身を張ろうとする心の強さがある。少しばかり言葉に棘がある時もあるが、そんなのご愛敬だ。と、付け添えて、ミランが笑う。
 やはりそうだった。あのカラスこそがミランだったのだ。
 会った事がある。その言葉の謎が解けた訳だが、少しばかり不審に思う事があった。
 
「だけどミラン。貴方……どうしてヴェルメブルグ城の庭園に倒れてたの」
 
 ぽつりとベルティーナが訊けば、彼は非常にばつが悪そうな顔をした。
 
「その……自分の婚約者を自分の目で見てみたくてな。流石に半人や本来の姿じゃあっちには行けないから魔力を最大まで削ってカラスに化けてた訳だが、街についたら旨そうな匂いするもんで裏路地で食い物屋のゴミを漁ってたら野犬に襲われてな……」
 
 後半につれていくにつれて、彼の声は段々と小さくなっていった。
 しかし、まさかこんなにも屈強そうな竜が野犬に襲われるなど……。それがあまりに滑稽に思えてしまい、ベルティーナが思わず笑いを溢してしまうと、歪んだ視界の中でも彼が目を細めた事が分かった。
 
「と……いう訳だ。俺もその頃は未だ子供っちゃ子供だった訳だし、若気の至りだ」
 
 きっぱりと彼は言って、ベルティーナの背をぽんぽんと叩く。
 しかし、たまに合う焦点で薄々と分かるものだが、彼の服がぼろぼろになっていて、額から血を流している様には本当に罪悪感ばかり感じてしまうものだった。
 
「何よりミラン。本当にごめんなさい。私、どんな罰だって受けるわ。貴方がしたいように罰すればいいわ……」
 
 言うと、ミランはベルティーナの髪を撫でていた手をピタリと止めた。
 
「……そう、だな。ベルの茨の鞭も牙も、結構痛かったからな。あとお前、多分背中の茨に神経毒でも持ってるだろ……こんくらいじゃ大丈夫だろうがクラクラするし痺れるし熱い……」
 
 ──後で、少しばかりお仕置きくらいはさせてくれ。なんて、穏やかにミランに言われて、ベルティーナは素直に頷いた。
 
「何より、夜の祝福おめでとう。翳りの国は改めてベルを同胞として俺の花嫁としてお前を心から歓迎する」
 
 そう言って、額に口づけを落としたミランはベルティーナの手を取った。


 
 燦々とした陽光が降り注ぐ遠浅の海、二人は手を繋いで歩んで岸へと戻る。
 華やかな竜と思しき少女と黒鱗の竜の青年。二人は、おぼつかない足取りで陸を目指した。





 王城まで続く坂道でベルティーナは城の甚大な損傷を理解した。
 白昼の陽光の下では焦点も合わず、遠目でまず分かりもしなかったが、自分に与えられた部屋が剥き出しになっている事から、その鮮烈な壊れ方がよく分かった。
 帰路の最中、ミランから城の損傷の事は聞いていたものだが……まさか、ここまでとは誰が思うものか。
 ベルティーナは、目を細めて息をつく。

「まず……ヴァネッサ女王に詫びなくちゃとは思うけれど……」
 
 ──果たして、この惨状をどう謝ったら良いのかも分からない。
 困窮して、ベルティーナが息をつくとミランはやれやれと首を横に振った。
 
「……まぁ、俺がどうにかする。そもそも魔に墜ちる事に関しては、完全に予測不能だしな」
 
「確かにそうだけど……私がした事で……」
 
 当然のように責任は感じてしまうものだった。きっと修復にも莫大な資金だって必要になるに違いない。ベルティーナが眉を寄せて言えば彼はククと笑いを溢した。
 
「確かに、この様だ。すげぇ怒られやするだろうが……」
 
 笑いながら城を見上げてミランは口走る。しかし、彼は唐突に何かを思い立ったようで、直ぐにベルティーナに視線をやった。
 
「そういえばベル。どんな罰でも受けるとか言ったよな……?」
 
「ええ、その言葉に二言は無いけれど」
 
 ベルティーナが毅然として返すと彼はククと喉を鳴らした。
 その態度だけで何かを企んでいる事は容易に理解出来た。しかし、いったい何を企んでいるのか……ベルティーナは怪訝に眉を寄せるが、彼は「おいで」と言うなり、ベルティーナの腕を掴んで足早に歩み始めた。
 そうして連れて行かれた先は城ではなく、自分が管理する庭園だった。緩い階段を登って東屋を横切り、やがてその奥に佇む見張り塔ベルグフリートへと辿り着く。
 確かここは物置だと聞いている。中なんて見たことも無いが、確か……現在城の中で使われてもいない調度品が幾らかあるとだけハンナから聞いただろう。
 
「ここに何の用が……」
 
 ベルティーナは顔をしかめてミランに言うと、彼は上衣の胸ポケットから鍵を取り出し、開錠した。
 まさか、この塔の鍵をミランが保有していた事にも驚いてしまうものだが、いったいどうして……。
 しかし、彼が薄く笑んでいる事から何だか嫌な予感しかしなかった。きっと自分に罪人気分でも味合わせる為に暫くこの塔の中に閉じ込めるのだろうと……。
 とは言っても、元々が塔暮らしだ。薄暗い場所には慣れているし、狭い場所だって苦手では無い。別にこれで恐怖なんて感じる事も無く全く罰にならないだろう。 
 そう思ったものだが……塔の中に入って、ベルティーナは呆気に取られてしまった。
 その中は、聞いていた倉庫とはかけ離れていたからだ。
 
 ──塔の奥には簡素なベッド。そこには清潔なシーツが敷かれており、部屋の片隅には浴槽と思しき大きな桶が設置されている。それに、中央にはテーブルがあり、それを挟んで二人分の椅子が置かれていた。それに、燭台や棚などの調度品もあるもので……。
 果たしていったいこれはどういった事なのだろうか……。ベルティーナは眉をひそめて空間を一望する。しかし、どこか既視感がある景色のようにベルティーナは思う。ふと連想するのは、ヴェルメブルグ城にある自分が十七年間住んでいた塔の中で……。
 
「どういう事なの……これは」
 
 ベルティーナはミランを一瞥して訊くと、彼は「気に入った?」と、ベルティーナに穏やかに尋ねる。
 
「そうじゃなくて、この部屋はどういう事……この見張り塔ベルグフリートは物置だと聞いていたわ」
 
「ああ、これな。ベルが元々が塔暮らしって知ってたから……気晴らしにもなるだろうし、あくまで最低限の生活が出来るように用意しておいたんだよ。しっかりと明かりもつくし、本を持ち込めば読書も出来るだろうし。庭園いじりの休憩にでも使ってもらいたいって、森林火災の時負傷者の治療をああまでして頑張ってくれたからお礼にな」
 
 ──こっそり用意してた秘密の部屋。なんて、照れくさそうに言うものだから、ベルティーナは思わず笑ってしまった。
 
「で、それで……私がここで暫く一人で暮らす事が罰って事かしら?」
 
 ──そんなの全く罰にもなりもしない。と、きっぱりと言うと、彼は直ぐに首を横に振る。

「……いいや、一人じゃ無い。カラスじゃない俺と二人きりでな」
 
 ──それが罰。と、彼が毅然として言うものだから、ベルティーナは目を瞠った。
 
「嫌か?」
 
「嫌かどうかじゃなくて……ミラン。貴方、番人の仕事は?」
 
「する。今まで通り、夜だけ出て行く。夜明けには帰るからいつもと同じ」
 
「貴方、これをヴァネッサ女王や近侍きんじのリーヌに何て言うつもりよ……」
 
 ベルティーナが呆れて訊くと、ミランは頤に手を当てて目を細めた。
 
「城ぶち壊したベルのお仕置きは俺が下すから、閉じ込めておいたって言う。ついでに蜜月予行演習とでも?」
 
 その言葉で確信に変わった。この罰の意図を読み解き、ベルティーナは顔を真っ赤に染めて口をぱくぱくと動かした。
 
「……ちょ、ちょっと待って。貴方即位は未だよね? 私達は婚前よ? そんなの不潔だわ」
 
 慌ててベルティーナが言葉を挟むと彼は眉を寄せた。
 
「それは、前にも言ったけど人間特有のしきたりだろ。魔性の者にそれは……ない。それに、ベルはもう人間じゃないだろ?」
 
 きっぱりと言われてしまい、ベルティーナは言葉を失い、頬を真っ赤に染めた。
 確かにそうだろう。魔に墜ちたのだ。その証拠に自分の腰から突き出た茨の蔦が動揺に比例してウヨウヨと蠢いているのだから……。
 
「さ、流石にそれは……」
 
 ──不健全だと思う。と、言いたいが唇は空回りするばかりで言葉なんて出てこなかった。しかし、ミランが追い打ちをかけるのは直ぐだった。
 
「言ったよな? 二言は無いって。ベルは己の発言に責任は持てるよな?」
 
 外耳を舐めるように甘やかに言われて、ベルティーナは震えながら、きつく瞼を閉ざした。

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