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Kapitel2─魔に墜ちる事

2-3.拒絶の真実

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 他人に触れられる事を極度に嫌がるベルティーナではあるが、リーヌに背を撫でられて幾分か心は落ち着いた。
 
 そうして、どれ程時間が経過したのだろう……。
 そもそも、自分が何時頃に部屋に戻ったかも覚えていないもので、柱時計に視線を向けると針は午前二時を示していた。
 
「……もう大丈夫よ」
 
 ベルティーナがリーヌに言うと、彼女は直ぐに手を引っ込めた。 
 しかしながら、本当に綺麗な手だと思った。その所作まで美しく、何故に男装なんてしているのかと思えてしまう程……。その視線に気付いたのか、リーヌは少しばかり居心地悪そうに、ベルティーナの方を一瞥した。
 
「未だ顔色が優れませんね……」
 
「あんな場面に出くわして、そんな話を聞けば当然よ……」
 
 ……それに、魔に墜ちる事があんな唐突で苦を伴うと思いもしなかったのだ。それも間近で目の当たりにしてしまったもので……。
 ベルティーナはハンナの言葉を一つずつ思い出し、こめかみを揉んだ。
 
 ハンナは魔に墜ちる寸前に「助けて」と、言っただろう。
 ──翳りの国に来て良かった。仕える事が出来て良かった。と、彼女は寝言のような事を言っていたが……あんな苦を味わわせれば、そうさせた因果である自分を恨むだろうと、不穏がざわめいた。
 
 しかし、自分だっていつかは魔に墜ちるもので……。
 
 ああなる事は不可避である。それに、この世界の夜の祝福されず理性が戻らなければ葬られるのだ。そう思うとベルティーナは、途方も無い不安を覚えて目頭を押さえた。
 
「きっと大丈夫です。必ず、ミランがどうにかします。あいつは不器用で口下手ですけど、強いです。それに、責任感が強くて心優しい奴です。それに彼女だって、ベル様の事を大事に思っている事でしょうから、きっと理性を取り戻します」
 
 宥めるように優しく言われて、ベルティーナは無言のまま頷いた。
 
 ……しかし、今更ながらリーヌと二人きりは妙に気まずくベルティーナは思った。
 そもそもまともに会うのも二度目だ。
 あの日は自己紹介のみで、会話をろくに交わさなかった。それで、いきなりこの距離感は近過ぎるとベルティーナは思う。
 思えば、今日……彼女はミランと一緒にやって来たのだ。ハンナの事も頭から離れず気がかりではあるが、妙に彼とリーヌの関係性が気になってしまい、ベルティーナは吐息を溢した。
 
 仕事も一緒かと疑問が浮かぶ。それに、恋人であったとしても身分の高いミランを敬称も付けずに呼ぶ事にもやはり違和を覚えるものだった。
 
「リーヌ。ところで貴女……ミラン王子とはどのようなご関係で?」
 
 思ったままをベルティーナがぽつりと漏らすと、彼女は直ぐに首を傾げた。
 
「生まれた時からの幼馴染みですよ? 立場的には主と近侍きんじですが」
 
 彼女は極めて平坦な調子であっさりと告げる。
 しかし、その関係性を聞くと確かに近しい存在とよく分かる。
 
 近侍きんじは侍女と同じだ。主に主の身の回りの世話をこなす男性を示す。だが、何故に彼女は「侍女」と言わず「近侍きんじ」と答えたのだろうと疑問が浮かぶ。 
 
 ──ドレスを纏わず、男性の履く下衣を着用している様は初対面の時から異質に思ってはいた。だが、脚を出したくないなり何かしら事情があるのだろうとも窺える。或いは……身体が女であっても、心は男であるとも……。
 彼女が男性の使う一人称を使う事や紳士的な立ち振る舞いをする様からこの節は濃厚にも思える。だが、それで恋人だとすれば尚更に関係が複雑だ。考えれば考える程に胸が妙に疼くもので、ベルティーナはこめかみを押さえつつ一つ息をつく。
 
「そう……本当に仲が睦まじそうに思うから聞いただけよ」
 
「僕の母はこの城の使用人です。主に調理場を取り仕切っています。なので、本当に子供の頃からの腐れ縁みたいなもので……」
 
 ──とは言え、僕の方が彼より少しだけ年下で。なんて付け添えて。彼女は気の抜けた笑いを溢した途端に叩扉こうひが響いた。
 ベルティーナは直ぐに立とうとしたが、リーヌは丁寧な所作でそれを遮る。
 
「僕が出ます」
 
 気遣ってくれているのだろう。それは分かるが、自分の部屋だ。ベルティーナは先に立ったリーヌの後をついて扉に向かった。
 そうして彼女が扉を開いた途端、噎せ返る程の血の臭いが漂った。
 その臭いを発する正体……それを見て、ベルティーナの思考は止まった。
 そこにはミランがいた。まるで濡れたカラスのよう。真っ黒な装いはべったりと血で汚れており、彼の顔や手には赤黒い血液が付着していたのだ。
 それが自分の血か返り血かは分からない。しかし、それだけで激闘を物語るもので、顔を青白くしたベルティーナは手で口を覆う。
 
「ミラン……その血はまさか」
 
 リーヌは震えた声で言う。それだけで嫌な予感がした。何せ、ミランは戻ってきたものの、ハンナは居ないのだから。
 再び指先まで凍えるように冷える感触がして、ベルティーナはたちまち背を戦慄かせた。 しかし、ミランは「何が?」とでも言わんばかりに、不思議そうに首を傾げるもので──
 
「……これ、俺の血。安心しろよ」
 と、言うなり、部屋に踏み入りベルティーナに近付いた。
 
「ベルの連れてきた侍女は、使用人達の部屋に運んどいた。今、双子の猫や他の使用人達が見ている。もう大丈夫。そのうち目を覚ますとは思う」
 
「……そうなのね。よかった」
 
 ……ハンナが無事。それを知って、ベルティーナは胸を撫で下ろすが、気の抜けたあまり身体の力が抜けそうになってしまう。ベルティーナがクラリとよろめけば、ミランに背を支えられた。
 
「無理はするな、ベルもちゃんと休め」
 
 優しく言われて、ベルティーナは素直に礼を言う──その途端だった。
 
「それでミラン。その怪我は……随分と苦戦したのか? それとベル様に血が付着する。離れた方が良い」
 
 リーヌが少しばかり辛辣に言うと、ミランはすっとベルティーナに触れていた手を離した。
 
「ああ、これな。相手は元人間の雌だし、俺まで本来の姿で対峙するのはどーかと思ったから。後天性とは言え、狼相手にナメた事したかもだけど……その。それで、すげぇ噛みつかれただけで……」
 
 ──結構痛い。と、ばつが悪そうに言うと、ミランは再びベルティーナを一瞥した。
 
「……と、そういう訳だ。俺はもう部屋に戻る。侍女の件は大丈夫。ベルも安心してもうゆっくり休んでくれ。双子の猫、呼んでおくか?」
 
「いいえ。休むにしたって、入浴を済ませて終わりよ。先に湯船に湯も張ってくれているし困まらないわ……それより」
 
 こうも血をダラダラと流す相手を目の前にすると、そちらの方に気が向いてしまう。 
 ベルティーナはふらつく足で、急ぎ奥に設置された棚へ向かった。
 
 ────消毒液と傷薬くらいは持ってきていた筈。
 それらを慌てて探し、持ち出し戻れば、彼はきょとんとした顔でベルティーナを見下ろした。
 
「……ベル、それ何?」
 
「消毒液と傷薬よ。処置するわ」
 
 そっけなく告げると、彼は目を細めてベルティーナが両手に持つ薬品を交互に見る。
 
「いらない。染みるの嫌だし……この程度で大袈裟。舐めときゃ直る。報告したら直ぐに部屋に戻りたかったし」
 
 彼の言った言葉にベルティーナは呆れてしまった。
 
「今更だけど貴方、歳は幾つで?」
 
「もうすぐ二十になる……」
 
「そう。私よりも二つも年上だし、いい大人ね……染みるのが嫌なんて、子供みたいな事を言わないで貰いたいわ」
 
 ベルティーナは吐息混じりに言うが、彼は首を横に振り更に目を細めた。
 
「要らない。だから大袈裟。処置をしてもらうにしても、リーヌにやってもらった方が良い」
 
 ──こんなのベルに任せられない。なんて、付け添えて。ミランはベルティーナに目もくれずに言い放った。
 
 それを聞いて、ベルティーナは心の中で唖然とする。だが、これで確信に変わったのだ。 自分は微塵も信用されていない。やはり望まぬ婚約者なのだと。そして、引き合いに出したリーヌこそが彼の本当に愛する相手だと……。
 
 それにリーヌだって、よろけた自分を支えたミランに対して「離れろ」と言っただろう。血で汚れるとは表向き。本当の意味では、嫉妬していたようにさえ今更のように窺えてしまう。
 
「そう。じゃあリーヌにしてもらって頂戴」
 
 心の動揺を悟られぬよう、ベルティーナは丁寧な所作でリーヌに消毒薬と傷薬を手渡した。
 そうして間もなく。二人は、夫婦の部屋の通路を歩んでミランの自室へと行く。
 
 ────これで、もう本当に分かったわ。あの人とリーヌは恋仲で。
 
 その背中を見つめ、ベルティーナは一つ吐息を溢した。
 思い返せば、ああ言われた事は当然の事のように思う。どちらか選べと言ったら思い人に処置してもらった方が嬉しいだろうと思う。
 けれど、あそこまできっぱりと言われた事は衝撃だった。
 ベルティーナは浮かぬ顔のまま、二人の消えた通路の方を見つめ、また一つ吐息を溢す。
 
 ────私は、どうしてこの国に来たのかしら。
 
 心の中でぽつりと独りごちて。ベルティーナは、うなだれるようにソファに腰掛けた。
「復讐」という理由は追加で出来たもの。そもそもの目的は決められた婚姻を果たす事で……。腹の中になんとも言えぬ不快が渦巻きベルティーナは唇を噛んだ。
 
 結婚がいかなるものか、本の中の知識で知っていた。愛する男女が結ばれるもの。そう書かれていたものだが、政略結婚で想いを通わせあい、幸せになった物語も沢山読んだことがある。だから、たとえ定められた婚姻であれ、忌まれた自分の存在を認められ、この世界で孤独ではなく少しでも幸せになれたら……と、期待していた事を改めて悟り、ベルティーナは俯いた。
 
 しかし、彼は自分の事など眼中に無い。それどころか、明らかに拒むような事を言ったのだ。
 
 ────だから私は、動揺した。そして、少しだけ……傷付いた。
 
 そう悟った途端、ベルティーナのアイスブルーの瞳は僅かに潤った。
 
 ────何を期待していたのよ。馬鹿みたいじゃない。
 
 ソファにもたれたベルティーナは熱を持ち始めた瞼を硬く閉ざした。 
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