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Kapitel1─魔性の者

1-2.栄光の国と燻る闇

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 庭園の出口──蔓薔薇の絡みついた鉄門まで歩むと、そこには幾人かの使用人と騎士らしき男が待ち構えていた。
 ベルティーナが歩み寄れば騎士らしき男は門を開き、丁寧な所作で彼女を迎えた。
 
「離れの方へ参ります」
 
 簡略的にそれだけを伝えて、騎士はベルティーナは手を差し出す。また、傍らに寄り添った使用人の男は荷物を持つと言うが、彼女は直ぐに唇を拉げた。
 
「結構よ。一人で歩けるし荷物も持てるわ」
 
 冷たく言い放ったベルティーナに彼らは困惑した顔を見合わせた。だが、直ぐに彼らは承諾し、着いてくるように言い渡した。
 庭園を出たのは初めてだ。初めて踏み出した外の世界だが、そこには大きな感動は無かった。
 無表情の面を貼り付けたまま。彼女は先行く騎士をスタスタと軽やかな足取りで追いかける。
 そうして間もなく、辿り着いた離れを目の当たりにしてベルティーナは直ぐに目を細めた。
 それは、まるで宮殿のよう。神話上の神々の石像が外壁を沿うように幾数も立っており、豪華絢爛としか言いようも無かった。
 豪奢な柱で支えた玄関ポーチの下をくぐり抜け、広間に差し掛かって間もなく。角の部屋に通されると、男の騎士と使用人は退き、三人の女使用人だけが残った。そこには、今先程自分を呼びに来たハンナと名乗った使用人の姿もある。
 ハンナは先程に比べて呼吸も落ち着いた様子ではあるが、依然として顔色が優れなかった。しかし、顔色が優れないのは三人とも同じだろう。彼女達は皆、青白い顔をして俯いていたのだから……。
 
「それではベルティーナ様、湯浴みに……」
 
 ハンナがおどおどとした口調で切り出してベルティーナは頷いた。
 そうして湯殿バーデンに案内されたものだが……脱衣所に来て早々、女使用人達が寄って集ってワンピースを脱がそうとするものだから、ベルティーナは直ぐさま抵抗する。
 
「何をするの!」
 
「な……何をって、湯浴みのお手伝いを」
 
 女使用人達は怯えた表情を貼り付けて、一歩後退る。
 
「……出て行って」
 
 キッと目の縁を尖らせて言い放てば、彼女達は気圧されたようで更に二歩三歩と退いた。
 
「私が王女らしき扱いなどされてこなかった事など存知よね? 一人で身体も髪も洗えるわ。結構よ。出て行って頂戴」
 
「ですが……」
 
 それでも上からの命と言いたいのだろう。彼女達はおずおずと言葉を出す。
 だが、ベルティーナは無表情のまま首を横に振り「出てお行き」と刺すように突っ撥ねた。
 そうして、一人ベルティーナは湯浴みに向かったものだが……その空間があまりに煌びやかなもので何度も瞬きをした。
 そこは、白を貴重とした浴室だった。何を支えているかも分からない飾り柱には金の蔦が絡みつき、巨大な浴槽には薔薇の花が沢山浮いている。
 薔薇の花の匂いは好きだが……限度というものがあるだろう。それはもう噎せ返る程。甘ったるい香りが充満し、全く落ち着いた入浴も出来ず。髪と身体を洗い終えたベルティーナは、少しばかり湯に浸かると直ぐに脱衣所にきびすを返した。
 そうして脱衣所に戻ると、洗面台の上にはメモ書きと一緒に遮光瓶が置かれていた。
 
「……この香油を身体に塗って肌を整えてくださいませ。下着とアンダードレスをお召しになりましたら、どうぞお呼び下さい。ドレスの着用をお手伝い致します」
 
 ベルティーナはその文を淡々と読み上げた後、衣紋掛けに吊されていたドレスに目を向けた。
 まるで濡れたカラスの羽のよう、青光りした漆黒のドレスだった。
 一見しただけでは、喪服のようにも見えるだろう。それでも、繊細な刺繍とレースをふんだんにあしらっており、沢山の紫水晶を沢山散りばめた贅沢なものだった。
 
 ───いかにも魔性の者を彷彿させる闇色ね。 
 
 そんな風に思いつつ、彼女は香油瓶を開けて身体に塗布して目を更に細めた。
 今度は、ラベンダーとバニラを混ぜたかのような噎せ返る程の甘い香りだった。
 
 ────王族は毎日こんな享楽な暮らしをしてるのかしら。
 
 たかが湯浴みだけで人を使う贅を尽くした生活。それも常に甘ったるい香り塗れで……。そんな風に思うと反吐が出る。ベルティーナは呆れつつ、アンダードレスに袖を通した。
 置き書き通りに使用人を呼べば、待機していた彼女達は直ぐに脱衣所に入って来た。それから、あれよあれよという間にドレスを着せられ髪を結われ、化粧を施される。
 鏡の中で見違える程に変わっていく自分の姿に心の中で驚嘆するものの、ベルティーナの表情は一切崩れなかった。
 
「……と、とても美しく仕上がりました」
 
 ようやく終いになっておどおどとハンナが言うが、ベルティーナは特に何も答えなかった。
 そうして元の部屋へと戻るなり、男の使用人に待機を言い渡された。
 テーブルの上には軽食のサンドイッチやクグロフやレープクーヘン等の上等な焼き菓子などが所狭しと乗っており、使用人はグラスに葡萄ジュースを注ぐと、そっとベルティーナの前へと差し出した。
 
「暫し寛ぎ下さいませ。何か不足な点等ございましたら、これでお呼び出しください」
 
 丁寧な所作でテーブルに置かれたベルを示し一礼すると、男の使用人は三人の女使用人達を引き連れて部屋から退いた。
 それからの時間は、やっと一人きり……。
 ようやく気分が凪ぎ、言われるがままベルティーナは寛いだ。
 時計の針を見てみれば、午後九時を回っていた。持ち出した本を読みながら焼き菓子をつまみ、ぼんやりと過ごしていればやがて時計は十時の鐘を打つ。
 その直後から次第に眠気が襲ってきた。ベルティーナは本を膝に置き、気付けば、うとうとと眠りの世界に誘われていった。


 
「ベルティーナ様……ベルティーナ様」
 
 ──お休みの所、大変申し訳ございません。と、謙遜した調子の声に促されてベルティーナはゆっくり瞼を持ち上げる。
 ……どれ程、眠ってしまったのだろうか。
 ベルティーナは目を細めたまま幾度も瞬きすると、ハンナの不安気な面が直ぐに映った。

「何……」
 
「そ、そろそろ……翳の女王がいらっしゃる時間です。御髪が乱れ、ドレスが皺になってしまいますので……」
 
 どもりながらそう言って、ハンナはソファで丸まって眠っていたベルティーナの身体を丁寧な所作で起こそうとした。しかし、こうもいちいち触れられる事に不快に思ってしまう。ベルティーナは「いいわ」と、彼女の手を払い、自ら身体を起こした。
 
 部屋の隅置かれた柱時計に目をやれば、午後十一過ぎを指していた。
 ──いつもは既に眠りに落ちている時間だ。そりゃ眠い筈だ。と、欠伸を一つ。眠気で重たい瞼を思わず擦りたくなってしまうが、直ぐさまハンナに止められた。
 そういえば化粧を施されていたのだ。それを直ぐに思い出したベルティーナは、無言のままハンナの手を再び振り払う。
 
「……それで、翳の女王を何処に通すの。これから城へ移動するとでも?」
 
「……いいえ、ここで待っているだけで結構だそうで」
 
 今にも泣きそうな震えた声でハンナは早口で告げる。それが、妙に苛立たしく思えて、ベルティーナは一つ鼻を鳴らした。
 
「それで他の使用人達は……?」
 
「皆様、外で控えております。私は……私はその……」
 
 段々と血の気の失せてきた顔色に、『またか』とベルティーナは呆れる。
 しかし様子を見るからに、彼女が自分とは別の何かに恐れているのではないのかと思った。
 その証拠に、彼女がまるで自分に縋るような視線を送るのだから……。
 また過呼吸を起こしかけているのだろう。ハンナがしゃくりあげるように息を漏らし始めた事が分かり、ベルティーナは彼女のエプロンドレスの袖を引っぱった。
 
「落ち着きなさい。隣に座ってもいいわ。どうしたと言うの」
 
 小声でベルティーナが問えば、ハンナは首を横に振った。
 やがて、ハンナの背は大きく震え、ヘーゼルの瞳に水膜が張った。その様を見てベルティーナはギョッとしていまい、慌てて彼女の腕を無理矢理引っ張った。
 
「いいから座りなさい。いくら呪われているとは言え、隣に座ったからと言って取り憑いて喰ったりなんて出来ないわ。貴女、見るからにきっと私よりも年上でしょう?」
 
 ──情けない。と、呆れ混じれに言い放つと、ハンナは素直にベルティーナの隣に腰掛けた。
 
「落ち着きなさい。先程も言ったけれど、倒れられても迷惑よ」
 
 尤もな事をベルティーナは小声でピシャリと言う。それでも、しゃくり上げる都度跳ね上がる彼女の背をベルティーナは穏やかに撫で始めた。
 自分から他人に触れるなど初めてだろう。我ながら何をしているのだろうか……と、思えるが、流石にこの状態を放っておける筈が無かった。
 
「落ち着いたら言いなさい」

  そう言って間もなく。ハンナは緩やかに顔を上げ、ベルティーナを見つめると首を横に振って一言詫びを入れた。
 
「あの……私、ベルティーナ様の侍女として、翳りの国へお伴する事になったのです……」
 
「あらそう。でも、私は侍女なんて頼んでいないわ。先程も言ったわよね? 私は王女として育っていないのだから大抵の事は一人でも出来るけれど」
 
 ──全く馬鹿にしてるのかしら。なんて、付け添えて。突っ撥ねるようにベルティーナが切り返すと、ハンナは緩やかに首を横に振る。
 
「そういう命令なのです。つい先程決まりまして……背けば私、処されるそうで」
 
 処されるとはつまり、処刑だろうか。ベルティーナは、無表情のままハンナを見据えた。
 
 ……果たしてどういった背景で、彼女まで翳りの国へ行かなければならなくなったのか。
 同郷の者を一人侍らせた方が、面倒を見やすいという事もあるのだろうか。しかし、完全に巻き添えだろう……それも運が悪すぎると思う。
 
 翳りの国は、ヴェルメブルクと隣り合うとは言え、この世に存在しない異界だ。謂わば、死者が向かうとされる冥界に近しいもの。即ち、易々と人の住まう世界に帰れる筈もない。
 表情に出さずともベルティーナは心の中で彼女を哀れんだ。
 
「私が直々に断って来るわ。これは私の婚姻の為。この腐れた国の為。貴女には全くもって無関係な事でしょう? 詮ずる所、あの男の使用人が貴女の上役かしら?」
 
 ──侍女なんて要らないわよ。と、冷たく付け添えるなり、ベルティーナが立ち上がったとしたと同時だった。ハンナは、ベルティーナの手首を掴み首を横に振った。
 まるで生け贄のように道連れにされる。それを嫌で真実を告げたのではないだろうか。ベルティーナは煙たげに眉間に皺を寄せてハンナを睨み据えた。
 
「……どの道」
 
 消え入りそうな声でハンナは言った。
 
「何よ。ハッキリなさい。そもそも貴女ね。モジモジと話して、よく聞き取れないし何も伝わらないのよ!」
 
 尤もな事をピシャリと言ってやれば、ハンナは涙を拭って立ち上がり、真っ直ぐにベルティーナを射貫く。
 しかし、真っ正面にして立つと、やはり彼女は背が高いと思った。ベルティーナは顎をそびやかして下から彼女を力強く睨み付ける。
 
「早く言いなさいよ、本当イライラするわね」
 
 反吐でも吐き出すように言った途端だった。ハンナは震えた唇を緩やかに開く。
 
「……どの道、私にはもう故郷がありません。家族も居ません。十七年程昔、ベルティーナ様が呪われた因果となったあの戦で全てが消えました。労力になるだろうと戦争孤児として拾われ、この城で育ち、使用人として仕事を頂き暮らしていました。もう帰る場所なんて無いのです。だから……これから命をかけて貴女にお仕え致しますので……」
 
 ──どうか……どうかよろしくお願い致します。と、彼女が告げた言葉は、表情の割にはハキハキとしたものだった。
 そうして、ハンナはベルティーナに向かって勢い良い一礼をする。
 
 故郷が無い。帰る場所が無い。戦争孤児……。
 
 その言葉に、ベルティーナの脳裏には自然と年老いた賢女の姿が浮かび上がる。歳は違えど、全く同じ境遇だろう。つまりは彼女も、この国の犠牲者の一人。しかし、今の彼女の言葉から、ベルティーナは事の裏側を薄々と悟った。
 
 ……この国は敗戦国の領地を奪うだけでは事足りず、人権さえ奪っていると思しい。 
 戦争孤児を育て、仕事を与えたまでは良いだろう。しかし、結局は呪われた自分の道ずれにする為の人柱……きっと、残りの女使用人達も同じような境遇にあると憶測は容易かった。
 だが、その裏側で王族達は贅を尽くしてのうのうと生きてるのだ。
 離れだってこの華美な有様だ。きっと城の内部なんて、もっと目が眩む程に煌びやかで反吐が出る程だろうと想像も容易い。それを思う程に、腹の中に不快な程の憎悪が渦巻き、ベルティーナは一つ舌打ちを入れた。
 
「……腹は括っていたのね。でも、命なんてかける必要なんて無いと思うわ。私は自分の事は一人で出来る。いくら王女と侍女だろうがね……会って間もない年下の小娘の為に命を捧げるなんて愚かよ。それと、腹を括ってる癖に、いちいち泣くのは止めた方が良いと思うわ」
 
 ──正直、鬱陶しくて仕方ないわ。と、ベルティーナが目を細めて言い放つと、彼女はきょとんとした面をした後、僅かに唇を綻ばせた。
 
「ありがとうございます、ベルティーナ様」
 
 礼を言われるような事など言っていないだろう。むしろ迷惑そうに思ったままを言ったというのに、どういう事だ。ベルティーナは怪訝に眉をひそめて、ハンナを射貫く。すると彼女は、今度は礼儀正しい一礼して、部屋から退出した。
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