【R18】砂上の月華

日蔭 スミレ

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後編

第十六夜 月下の開花

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  空に咲く丸く膨らむ満月は黄金きん。それは静謐に包まれた砂上を優しい光で照らしていた。
 遠くに見える岩肌の断崖や山脈の輪郭を映し出し、世の果てらしき景観をより美しくさせる──息を飲むほどに美しい夜だった。
 砂上を駈けるナーセルの足音だけが夜空に反響し、まるで世界に二人だけ置いてきぼりにされたような気さえもしてしまう。

 ライラとアシュラフは、占術で示された東西の方角へ向かっていた。
 星の動きから察するに未だ零時には達していないだろう。だが、あともう間もなくで時が訪れる事は分かっている。
 月の花。そんな神秘的な存在があるのか否や未だに分からないものだが、ライラは目を凝らし砂上に咲く植物を必死になって探していた。
 しかし、いつまで経ってもそれらしきものは見当たらない。それは予定時刻の零時を回ろうと変わる事は無かった……。

 ザクザクと砂を踏みしめる音を上げてナーセルは歩む。その手綱を引いて歩むアシュラフの少し前をライラは歩み、砂漠に自生する植物を未だ捜索していた。
 砂上は、死の地だ。まず、そんな地で咲く花など皆無に等しいだろう。
 強いて言うのであれば、岩場の影に希に植物は自生するくらいだろう。
 だが、こういった場所は決まって賊が身を潜めているもので、近づくのも危ういと分かる。ライラは少し離れた先にある岩場を見て一つ溜息を吐き出した。

「うーん、方向も条件も当て嵌まってる筈、だけど見当たらないねぇ」

 時は過ぎてしまったにも関わらず、アシュラフは依然、穏やかな口ぶりで言った。

「まぁね。仕方ないかも知れない」

 言って、ライラは後方のアシュラフに目をやった。
 そもそも伝承だ。実在するかも分からないものである。
 それを探し出そうと言った事が無謀だったのだろうか──と、少しだけがっかりしながらライラが再び前を向こうとした須臾しゆゆだった。
 ヒュンと、何かが空気を切り裂く音を聞いた。その途端、ナーセルは悲鳴に等しい鳴き声を上げたのである。
 その一瞬でライラは何が起きたかを察知した。敵襲だ。恐らく賊か砂上に住まう独特な文化を生きる狩猟民族だろうか──それも遠方攻撃の弓矢で。

「手綱を離して伏せろ!」

 ライラは地面に突っ伏して高く叫ぶ。それから一拍置いた後、夥しく矢が飛ぶ音が響き渡った。
 サクリサクリと、砂の上に刺さっている事から的を射ていないとは分かっている。
 ナーセルに関しても掠った程度で当たってもいないだろう。
 あの後直ぐに、砂上を駈ける音が響いた事からナーセルは無事に逃げたのだと憶測は発つ。ナーセルは利口だ。多分、ほとぼりが冷めれば帰ってくるだろうとは予測出来た。

 ──しかし、この状況は予想外だった。

 賊などの不埒な輩と対峙する事になったとしても、弓などの厭らしい武器で襲いかかって来るなど思いもしなかったのだ。

(どうしよう……)

 冷めたい砂の上に突っ伏したライラは眉間に深い皺を寄せた。
 恐らく、自分もアシュラフも黒を基調とした装いだからこそ闇に溶け、的にはなりにくいとは思う。
 だが、月が丸く太った満月だ。普段よりも格段に明るい事から、こうして突っ伏していたままでは、矢を多く射るだけ当たってしまう可能性も高い。

 そんな事を思った途端だった。
 ドスリと鈍い音が響いたのだ。たったそれだけで、矢が的を射たと理解出来てライラは目をみはる。自分は無傷だ。彼の愛馬は待避した──ならば、一人だけ。
 ライラは僅かに顔を上げて、後方を一瞥する。すると、少し離れた後にいるアシュラフの肩に矢が突き刺さっていた。
 途端にライラは獣の如く、身を縮め四足姿勢で後方へと走り込んだ。

「──っ、痛てぇ!」

 蹲り唸る黒い塊。それでも彼は自分で矢を抜いて砂上に投げる。
 受けた場所は恐らく肩だろう。
 突っ伏したアシュラフは肩口を押さえて、痛みに悶えていた。
 けれど、場所が良かった。致命傷には至らないだろうとは分かる。矢が止んだ事を悟ったライラは、彼を仰向けにさせて、羽織った上衣を捲り上げて傷口を確認した。
 ライラは直ぐに、矢を受けた場所に唇をつけた。
 感じるものは彼の血液の味だけで、幸いにも毒らしき苦みは含まれていない。ただそれだけで、彼女は少しだけ胸を撫で下ろした。

「大丈夫か?」

「なんとか。流石に俺も矢は初めてだよ。結構痛いねこれ」

 戯けた調子で彼は言った。しかしその声は震えていて、相当痛むのだと安易に悟る事が出来る。
 それに、滲み出る彼の血は未だ止まらず、ボタボタ砂の上に溢れて落ちていた。
 そんな彼の血を目の当たりにして──月の花を探しに行こうと提案した事を改めてライラは呪った。
 考えずとも、無謀だっただろう。それも西サーキヤという治安も悪い場所で。
 彼の為、という理由は勿論あるが、事の始まりは自分の好奇心に過ぎなかったのだ。
 ライラは顔をしかめてアシュラフの顔を覗き込んだ。

「無理させて悪かった……」

 途端に過ぎったものは、占術の結果だ。
「何かを得て……何かを失う」と。まさか、それは彼の命だろうか。と、嫌な結末が過ぎってしまい、ライラは震えた唇で続け様に言葉を紡ぐ。

「私が……月の花探しに行こうだなんて言ったから……」

 こんな事になってしまったんだ。自分の所為だ……と、言葉を続けようとした途端だった。

「馬鹿言わないで。俺だってそれを探したくて同意した。嫌々着いてきた訳じゃない事は忘れないで。ライラの所為じゃない。あと、ごめん。まぁ……ごめん。今のは腕を上げて、わざと受けたんだよねぇ」

 アシュラフの言葉にライラは言葉を失った。
 しかし、どうしてそんな真似をしたのだろうか──と。そうや否や、彼は自分の血液でべたべたに汚れた手を開き、詠唱を始めた。 何を言っているのかさえ分からない。だが、昨晩の占術時と比較しようもなく、彼の声は、がなりの効いた低いものだった。
 ……するとたちまち、自分たちの居る場所に数多の影は寄り初めた。
 まさか──妖霊ジンを働かせる為にわざと傷を負ったのだと。ライラが全てを悟ったと同時、アシュラフは詠唱を止めた。

「──黒の呪術師サツハール「蛭」の名の元に命じる。対価の分は働け、悪しき影の者。さぁ行ってこい。頭の悪い不届き者を炙り出せ」

 ヒヒ……小気味悪い笑いを溢し、彼は冷たく言い放ったのである。
 示唆するや否や、彼の周りに集まった夥しい影は砂上を滑るように進み、前方に佇む岩肌の方へと向かって行った。
 初めて目の当たりにする仰々しい程の荘厳さにライラは畏怖さえ覚えた。
 しかし、思えば初めてでは無いだろう。
 蜉蝣の一件の際、薬に犯されたライラに鎮静剤を飲ませた時にたった一度だけ今のような顔を見た。だが、ここまで冷酷ではなかっただろう。
 今のアシュラフは自分が全く知らない別人のようだった。
 確かに自分の粛正権を買った”想像そのものの男”の姿がまさにそこにある。しかし、知らない──こんなのはアシュラフではない。
 そんな事をライラが思ったや否や、瞬く間に劈く程の男の悲鳴が遠方から幾つか上がった。それはまるで断末魔のように響き渡り──未だ地面に伏せたままのライラは身を戦慄かせた。

「奪え、そして壊せ──滅せよ」

 間近から響いた声は、まさに呪うような言葉だった。
 戦きながら、ライラは後方向く。

 そこに居たのは、自分の知る彼ではない全く別の存在のよう。
 ……ドス黒い影を覆い纏う様は、まるで巨大な妖霊ジンそのもの。その中で、アシュラフは妖しく嗤いながらそこに佇んでいたのだから。

「アシュラフ……」

 怖じ気づいてライラは彼を呼ぶ。
 直ぐにそれに気付いたのだろう。アシュラフは口角をニィと上げてライラの方を向いた。
 その様も、何だかいつもと違う笑み方で、畏怖に拍車をかけた。しかし……。

「言ったでしょ? 夜なら君を守れるって」

 直ぐにいつもの穏やかな口調で言われ、ライラの畏怖はピタリと止まった。

「……あんた、ちょっと。いくらなんでも人が変わりすぎじゃない?」

 思わず言ってしまうと「そうかな?」なんて、アシュラフは苦笑いを溢す。
 ……いや、変わりすぎと思う。と、心の中で独りごちて。ライラはムクリと立ち上がってアシュラフを睨む。
 本当に怖かった。まるで別人になってしまったような気さえもして。そんな事を心で呟くが「俺は俺だよ」とアシュラフは笑う。
 それから間もなくだった。
 妖霊ジンの向かった岩肌の方からは、蜘蛛の子を散らしたかのように人がどっと湧き出てきたのだ。
 その喧噪に、アシュラフはヒュウと口笛を一つ鳴らす。

「いやぁ……驚いた。結構居るもんだね」

 楽しそうにアシュラフは言った。
 だが、暢気にそんな事を言っている場合ではではないだろう。いくら妖霊ジンで蹴散らしたとは言え、再び見えぬ場所からは矢が飛んできたのだ。
 それに、逃げ惑う者だけではなく、得物を担いでこちらに向かってくる者達も居る。

「いやこれ、流石に悠長に傍観してられないでしょうが……」

 ライラは直ぐに脚に携えたナイフを二本抜き、敵襲に構えた。

「まぁ遠距離での対峙は俺の方が得意だし。そっちは任せて。ライラは刃物向けて来た輩出来る限り相手に出来るかな? 多分、今ので逃げた奴の方が多いからそう数は多くないと思う。ひと暴れ頼めるかな?」

「……私、体力だけには自信があるけど。と、いうか。そもそもアシュラフは私を誰だと思って言ってるの」

 ──蟷螂をナメないでもらいたい。と、少しばかり得意気になってライラは言う。
 アシュラフはヒヒ……と小気味の悪い笑いを溢してライラに顔を向けた。

「そう。じゃあ……俺の屋敷に戻ったら毎日三回以上は愛し合あおうか? 天国見せてあげるよ」

 ──今言う事かそれは。何もかも台無しである。
 ライラは直ぐに怪訝な視線を向けるが、彼らしい返しだと思い、何だか心の中で安堵してしまった。

「さぁ行くよライラ。黒の呪術師サツハールと最強の女盗賊に喧嘩を売ったら、どうなるか目の物見せてあげようじゃないの」

  ※※※

 満月の咲く砂上で刃物と刃物がぶつかり合う金属質な音が響き上がる。

「クソ、このアマ──!」

 背で担ぐ程の巨大な鉈を振り回す巨漢の大男と対峙しようが、ライラは怯む事もなく軽い身のこなしで避けて、男の脚に蹴りを入れた。
 すると、たちまち男は砂を巻き上げ、ドスリと砂の上に突っ伏せる。
 あとは一人──既に、砂の上には気絶している者や立ち上がれない者を含めて三人の男が伸び上がっていた。

 ──しかし、本当にここまで強いとは思ってもいなかった。ライラの刃物さばきを少し離れて傍観していたアシュラフは妖霊ジンを操りながらその様を横目に見ていた。
 それも切りつけるような真似はしないのだ。ナイフは刃物を受けた時の交わしに使うだけ。それはまるで舞うような優美さもあった。
 そして、残党はあと一人──これで終わりの筈だが、その男はライラの方へ近寄ってこなかった。このまま尻尾を巻いて逃げるのだろうか……とさえ思ったが、男は砂上に突っ立ったまま動こうとしなかった。
 帯状布ターバンで顔を覆い隠し、目だけを出した長身の男だった。
 装いこそは違うが、アシュラフはその男に明らかに見覚えがあった。

 ──そんな気はずっとしていた。思えば、西サーキヤに来る前に行った王都の市場でも何だか既視感のある気配は感じたし、その後を潜みながら自分達を追ってくるような気配だって感じていた。
 きっと、そうだろう。そうに違いない。その存在の正体を見破ったアシュラフは深い溜息を溢した。
 流石に、選手交代すべきだろう。きっとその為の決着だ。アシュラフはライラの元へと歩み寄った。

  ※※※ 

「どうした、かかって来ないのか?」

 帯状布ターバンで顔を覆い隠し、ジッとライラの方を見つめているだけで。男は向かってこようとする気配が見えない。

「逃げるならさっさと失せな。その前に訊く。目的は何だ?」

 ライラは吐き捨てるように言うが、男は直ぐに首を横に振り、ライラの隣に歩み寄って来たアシュラフを指し示した。
 嫌な予感が胸の中にざわめいた。
 顔を覆い隠しているのだからその正体は分からないが「こんな背格好の奴を自分は知っている」と潜在的に思えてしまったのだから。
 しかし、一体、何だと言うのだろうか……。ライラは怪訝に眉を顰めてアシュラフと男を交互に見た。

「ライラ。もうこれで君の出番はおしまい。俺はこの粘着質で陰湿な盗賊と喧嘩するからちょっと待って」

 そう言って、アシュラフは男の間近まで歩を進めた。

「……新しいお仲間を引き連れて、こんなとこまで彼女を追ってきたの? 俺と殺り合う覚悟が出来た? ハリド君」

 ──ハリド。と、アシュラフの言った名前にライラは目を細めた。
 すると、男は顔を覆い隠していた帯状布ターバンを取っ払らい、それを砂上に投げた。
 月の光を受ける黒く艶やかな髪。切れ長い釣った瞳は深い緑。アシュラフの言う通り、男の正体は蜉蝣だった。

 少し離れた場所に居た上、顔を覆っていたからこそ分からなかった。
「まさか、蜉蝣じゃないだろうか」と思いやしたが、本人だと思わなかった。
 しかし、よく見てみればやはりそうだ。腰布に巻き付けた装飾品はやはり彼のものに違わない。だが、この暗がりの中でそんな細かい部分など見る筈も無いだろう。
 ライラは紫の瞳を細めたまま蜉蝣をジッと射貫く。

 だが、何故にこんな辺鄙な場所まで自分を追いかけてきたのかと疑問が湧いた。
 本当にアシュラフと殺り合う気で来たのかと……けれど、昨日の占術の際にアシュラフが言った”決着”と言った言葉を必然的に結びつき、ライラは妙に納得してしまった。
 そうか。アシュラフは全て見通していたのだと……。ライラは険しく眉間に皺を寄せる。

「蜉蝣、こんな場所に何しに来た?」

「その野郎を殺して、お前を奪いに来たに決まってるだろ」

 ──遠距離攻撃に適した射手も構成に入れたが全部ダメだったけどな。なんて、付け添えて。蜉蝣は、お手上げとでも言ったそぶりで、両手を上げて吐き捨てるように嘆いた。

「何、もう負けを認めたの? 随分聞き分け良いんだね君」

「当たり前だろ。蟷螂を味方に付けやがって、こんな無茶苦茶、叶う筈も──」

 と、蜉蝣が述べた須臾しゆゆだった──突っ立っていた筈の蜉蝣が腰に携えた短剣の鞘を抜き、正面に立つアシュラフに突如切り掛かったのである。

「ふざけんなクソが! 奪いやがって! 洗脳しやがって! 穢しやがって! 蟷螂は蟷螂は……俺の物に成る筈だった。許さない……絶対に許さねぇ!」

 半狂乱になり、蜉蝣はアシュラフに刃を振り下ろした。
 一振りは避けた。だが、刃物での戦闘などアシュラフの分野外だ。彼は後ろに避けるが、完全に軌跡を見通したのだろう。間髪入れずにザクリと嫌な音が響いた。
 月明かりのに舞うのは彼の血潮で──たった一瞬。少し離れているにも関わらず、たちまち濃い血の匂いが立ちこめてライラは目を大きくみはった。

 ライラは砂を蹴り、迅速に二人の男の合間を割り入った。
 ナイフと短剣。刃物と刃物がしのぎを削り、カチカチとした金属音が静謐に包まれた夜の砂上に響き渡った。
 数人と対峙した所為で体力も削れている状況下だ。その上、ナイフをさばく腕も鈍ってしまっているのだから、この男には単純な力では叶わない。それが理解出来たからこそ、ライラは二つの刃で蜉蝣の短剣を受け止めた。
 しかし、足を踏ん張っている所為で蹴りを入れる事だって出来ない。それに砂の上は足場も緩い。明らかな劣勢だと悟る事が出来る。

「洗脳されちまって、可哀想だなぁ蟷螂……首や胸にそんな厭らしい跡つけて惨めだな。お前その男に何度、穢されたんだ?」

 訊かれるなり、たちまちライラは唇を歪めた。

「馬鹿を言うな! 洗脳なんてされてない。確かにこいつは呪術シフルを扱えるけれど、そんな真似はされていない。あんたみたいな卑劣な羽虫と比べるな!」

 威圧して切り返すが、それでも劣勢は変わらない。しかし、いくら踏ん張って力を入れようが後退してしまう。回避を探さなくては……焦燥にライラは歯を食いしばった。

「やっぱり、あいつが蛭で間違い無いみてぇだな。しかし、蟷螂。お前ってこんなに弱かったか? 惨めなもんだ。だけどよ、よく考えたら……お前ら両方を殺したら、俺は賊共にかなりの名声を浴びるんじゃないのか?」

 蜉蝣は卑しく嗤い、吐き出すように告げた。
 まずい……そう思うが回避の手段が浮かばない。このままでは本当に斬られる──と、ライラが覚悟した途端だった。
 ゼイゼイと息を吐き出しながらも、後方のアシュラフは呪文を唱え始めたのだ。すると、たちまち視界を覆い尽くす程の膨大な影が集まり来る。

「……っ、ハリド君。君ほんと馬鹿なの? 呪術シフルの事は何も知らないんだね。俺は受けた傷の分、君を呪う権利が発生した。それに俺は君の名前を知ってるから何が出来ると思う? ……さぁ、集え悪しき影の者。働け、そして奪え」

 ──やったぜ。なんて、嗤いながら付け添えて。息も絶え絶えに、アシュラフが告げたと同時だった。
 ライラの目の前の蜉蝣が大きく目を見開くや否や、断末魔に等しい悲鳴が響き渡った。
 強力な砂嵐の如く黒い粒子が視界を覆い尽くし、ライラは後方へと吹き飛ばされた。けれど、直ぐに後ろから抱きしめるように支える存在が居て──。

  ※※※

「アシュラフ! おい、しっかりしろ!」

 相変わらずに少しばかり口が悪い。けれど、その声は鈴が鳴るように愛らしい。
 朦朧とする頭の中で、自分の本当の名を叫ぶ少女の声にアシュラフは緩やかに意識を取り戻した。
 ──刃を受けた場所が良かっただろう。深い傷だろうが、場所的に命に別状は無さそうだと分かる。
 恐らく、二度も血を流して貧血を起こしただけで……と、自分の容態を悟った彼は眉間に深い皺を寄せて呻く。
 とは言っても、痛い。アシュラフは唇を歪めて蜉蝣に切りつけられた箇所を触れた。
 先に矢を受けた場所に近しい場所だ。しかし、べったりと生ぬるい血の感触は触れず、何かで止血されている事を直ぐに悟った。

「しっかりしろよ……私を幸せにして、あんたも幸せになるんだろ」

 たちまち自分の頬に、はたはたと熱い雫が落ちてきた。それに促され、アシュラフ薄く瞳を開いた。
 靄のかかった視界の先、緩やかに最愛の少女の姿が映る。やがて、ぼやけた視界が定まり始め──彼は息を飲んだ。

 またあの時のように、手当に帯状布ターバンを取り払ったのだろうか。
 月下の元、彼女の艶やかな長い髪は夜の砂上に吹く冷たい風にさらさらと靡いていた。
 本来であれば蜜色の髪の筈。しかし、それは、月明かりを受けて黄金きんに煌めいているいうに映った。
 それはまるで、月夜に咲く一輪の花のようで……。

(ああ……そういう事だったのか)

 アシュラフは一人納得した。
 得るもの。それは、二人でこれから歩む永遠の幸福。その為に二人で失うもの。それは「蛭」と「蟷螂」という偽りの名。
 占術の示した結末を悟った彼は、荒い息を吐き出しながらも、なけなしの力で彼女を引き寄せ、自分の胸の中に大事にしまい込むように抱きしめた。

「これから先、一緒に生きよう……もう、黒の呪術師サツハールは辞める。三十年先も一緒に居たい。……誰よりも君を愛してる」

 ──ライラ。と、彼女の本当の名を呟いて。
愛を告げたアシュラフは、再び緩やかに意識を手放した。
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