【R18】砂上の月華

日蔭 スミレ

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前編

第六夜 蜉蝣

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 ──無事と再会に乾杯。
 二人はミントティーの注がれたグラスを軽くカチリと合わせた。
 市場外れの薄暗い裏路地。そこに積み上げられた、木箱に腰掛けたライラはミントティーを一口飲んだ後、グラスを置いて粉糖をたっぷりとまぶした焼き菓子を一つ摘まむ。

「私が消えて一週間と少しだっけ……「繭」は今どうなっているんだ? お頭達は?」

 モゴモゴと咀嚼をしながらの不作法でライラは自分の正面に立ってミントティーを飲む蜉蝣に訊いた。
 ずっと気がかりだった事である。
 しかし、質問がマズかっただろうか……次第に蜉蝣の面が陰った事から、妙な不穏を感じてしまった。
 たったそれだけで、何かが起きたのだろうと悟るのは一瞬で不穏ばかりが募った。
 何かあったのか──まさか、自分は気付きもしなかっただけで何人か収容所送りになったのだろうか。
 ライラは黙って彼の言葉を待った。

「……お前さんに庇われて生き延びて、俺は「繭」を追放されたんだわな。まぁさ、俺が追放されただけ。お頭も他の連中も皆元気さ。ただお前が居なくなった事、酷く悲しんでいたよ。可愛い娘みたいなもんだってお頭なんて憔悴しちまって。変わってやれるなか変わってやりたいって嘆いてたもんさ」

 蜉蝣の言葉にライラは目を丸くみはった。

 ──力こそ全て。それが賊社会だ。
 冷静に考えればこの事案は確かに、追放はありえるだろうと思う。
 そもそも、力の無い彼は爪弾きとされてきたのだから、潮時だったのだろう。
 果たして自分の行動は正解だったのか間違いだったのか……と、ライラは眉根を寄せる。

「私、あんたを助けなきゃ良かったのかな……あんたは歳も近い。序列なんて関係無く、付き合いも長いからこそ親友くらいに思っていた。勝手な感情で動いたけど、それが間違いだったかな」

 ライラは弱々しく思ったままの言葉を告げる。
 ──助けなければ良かったとすれば、本当に申し訳の無い事をしたと思う。と、その旨を再度伝えた途端だった。蜉蝣は、ライラの眉間を突いて、優しく笑んだ。

「生かされただけよかったと思うがな。だから、お前さんが難しい事なんて考えるもんじゃねぇさ。俺だってお前の事は大事に思っているんだからよ」

 ──だから再会出来た事が夢みたいに思う。と告げた後、屈んだ彼は座したままのライラを抱き寄せた。
 一方、彼の腕の中にすっぽり収まったライラは唐突の抱擁に目を白黒とさせて戸惑った。
 頭を撫でられる事はよくあったが、抱擁なんて初めてだ。何をどうしてそんな行動に出たのか分からず、ライラは狼狽えて蜉蝣の肩を押す。

「お、おい……」

 しかし、別に不快でも無かった。だが、めっぽう居心地が悪いもので、ライラはとうとう耐えきれず彼の背を叩いた。

「ちょっと、やめろってば蜉蝣。私みたいな女を抱き締めるなんて凄い悪趣味……」

「そんな事無いだろ? 頭を含め皆おっさんだ。お前さんの事は娘みたいに思ってたくらいだから対象外だっただろうが、俺は昔からお前さんの事を可愛いとは思ってたけどな」

 へへ……なんて笑う蜉蝣にライラは目をジトリと細めた後──
「馬鹿じゃないの」と、呆れて突っ撥ねた。

 そんな笑い方をする時点で察してしまう。
 ──ああ、きっとこいつはふざけて言っているのだろうと……。


 その後、直ぐに蜉蝣はライラを解放した。
 再びグラスに口を付けてお茶を再開した二人は、他愛も無い会話をしていた。
 けれど、蜉蝣が物事の核心に触れるのは直ぐで──

「しかし、あの悪名高い呪術師サツハールに粛正権を買われたって聞いたが……よく無事だったな。その様子だと無事に脱出出来たみたいだが」

 と、しれっとした口調で彼は言う。
 無骨な手を延ばして、粉糖のまぶされた菓子を摘まんで口の中に放り投げた蜉蝣は咀嚼しながら、ライラに視線をやった。

「馬鹿……無事なワケがない」

 対して、ライラは即答で答えた。
 ──粛正権で”好きなようにする”と言われて、媚薬を盛られた上で、貪るように抱かれ純潔を奪われた。しかし、いくら気心知れた相手であれそんな事は言えたものではない。一応は異性だ。ライラは、僅かに頬を紅潮させて俯き唇をモゴモゴと動かした。
 その様子をしかと見たのだろう。
『まさか……』と、切り出した彼は一拍置いた後に躊躇いながらも唇を開く。

「お前さん、蛭に厭らしい事でもされたのか……奴は男か?」

 訊かれた言葉に、たちまちライラの脳裏にあの晩の忌々しい記憶が鮮明に過ぎった。

 ──そう、蛭は若い男だった。
 自分のショーツの上から淫芽を啜り舐め、それだけでは飽き足らず直に愛で。言葉を巧みや操り、快楽をこの身に刻んだ。そして肉杭で媚肉を掻き分け蝕んだ。それでも虫酸の走る程にとてつもなく優しかった。まるで恋人にするように……。
 記憶に新しい生々しい記憶に、ライラの身体にぽっと熱が宿った気がした。
 ライラは慌てて首を横に振るう。

「……そんなワケがない。厭らしい事なんて、されて……ない」

 言葉がようやく出たのは二拍三拍置いてからだった。
 だが、間を置きすぎた事から、あまりにも不自然に聞こえてしまっただろうか。おどけた調子でライラはもう一度否定を入れようと、水紅色の唇を開こうとした途端だった。

「……おいおい図星かよ」

 たちまち、低く掠れた声が外耳を擽った。
 目をみはったのも束の間──蜉蝣はライラのか細い手首に掴みかかった。
 ミントティーの入ったグラスは自然と剥がれ落ちるように落下した。たちまち硝子の砕ける音が喧しい程に響き渡り、ハッとしたライラは目を釣り上げて蜉蝣を睨み据えた。

「何をする!」

 彼の唐突な行動に、ライラは甲高い罵声を浴びせた。
 背は壁に、腕を束ねて掴まれて自由を奪われる……こんな展開は尋常では無いとは即座にライラは悟った。
 しかし何故、彼がこのような行動に出たのか理解が出来なかった。
 確かに彼は仲間だ。それも気心知れた信頼出来る仲間で──無論それは、彼が「繭」を離れたとしても同じ事だろうと思っていた。
 とは言え、どの道”力や賊としての立場”の格差は自分の圧倒的に上である。このような行動は無礼も甚だしいだろう。

「悪ふざけも大概にしろ」

 ライラは尚も目を釣り上げて威嚇を含んだ忠告を入れる。だが、彼は怯む事も無くライラの腕を掴む力を更に強めた。
 彼は戦闘に向かぬ脆弱だ。力に関しては自分の方が強い筈。しかし、ライラは彼を完全に侮っていた事を思い知る。いくら戦闘における腕っ節が良かれ、単純な力は男である彼に叶う筈も無いと。

 ──しかし、自分はこんなに無力だっただろうか? 男一人の拘束も振りほどけない少女のようなか弱さだっただろか? ……おかしい、何かがおかしい。と、そんな事を思った途端、ライラは目眩を覚えた。

 視界はクラリと揺れ、彼女はヘニャリと腕の力を失った。次第に息は荒くなり、呼吸は苦しくなる。
 同時にライラは一つの記憶を呼び覚ました。
 つい最近、これに似たような経験があっただろうと。恐らく、別のものだろうが、きっと似つかわしいものが要因しているだろうと。
 ライラはギッと歯を食いしばり、地面に砕けたグラスを一瞥した後、自分を捕らえる蜉蝣を睨み据えた。

「……ふざ、けるな。何を盛った」

 頬を上気させながらも訊けば「流石、感が良いな」なんて、蜉蝣は下卑た嗤いを溢した。

「はー即効性の筈なのに効くまでに時間かかるもんだなぁ。お前さん、思えば娼館の出身だったらしいから、そういう薬に耐性でもあるのか? それとも、蛭に股を開いた時にでも盛られたのか?」

 案の定だ。言われた言葉にライラは一つ舌打ちを入れる。

「何の薬だ。私をどうする気だ……」

「あぁ……これなぁ。脳味噌が蕩ける程に気持ちよくなっちゃう薬。依存性高くて、数回飲めば確実に廃人確定」

 民族下衣シヤルワールのポケットから遮光瓶を取り出した蜉蝣は、ライラの目の前でそれを揺らして嗤う。

「試しにそこらの女を引っかけて使おうとは思っていたが、まさか一番使いたかった相手が目の前に現れるなんぞ思いもしなかった」

 ──ぶっ壊れて雌に墜ちた蟷螂なんて、さぞ面白れぇだろうな。なんて言い添えて、蜉蝣はククと喉を鳴らした。

 ライラは自分の不注意さを呪った。
 否や、信用出来る相手だったからこそ、こんな事をされるなんて予想だにしなかった。
 ショックとしか言いようもない。心の中を揺さぶる打撃にライラ狼狽えた。
 一方、対峙した彼は均整の取れた面を近づけて、外耳を舐めるように『ざまぁみろ』と、悍ましくも甘く囁く。

「俺さぁ、女の癖に馬鹿みたいに強くて仲間思いの優しいお前が大嫌いだったんだよ。今回の件は自己犠牲に働いてくれて? 俺は尚更惨めになるだけでさぁ」

 ──けどな、そんなクソアマがずっと昔から、愛おしくて欲して自分のモノにしたくて堪らなかった。と、彼は悍ましい程に甘く言い添える。
 蜉蝣の言葉にライラは言葉を失った。
 言われた言葉をにわかに信じられもしなかったし、納得も出来なかった。何せ、そんなそぶり今までに一度も無かったのだから。

「なぁ、俺のものになれよ蟷螂」

 頭の中の混沌を更にかき混ぜるよう、外耳を擽る腐った蜜の如く甘い苦い言葉に、ライラの身はたちまち強ばった。
 瞬く間におとがいを摘まみ上げられ上を向かされて──間髪入れずに自分の唇に押しつけられたものは彼の唇で。
 たちまち熱を盛ったヌメリとした塊が自分の唇を割りライラは目をみはる。

(……う、嘘だろ)

 舌を噛んでやろうとは思うが、顎に力が入らない。その所為で唇の端からは涎が伝い、顎を伝って首筋に垂れる嫌な感覚がした。
 抵抗したいのに、全身の力が抜けて振り解く事さえも叶わない。否や、抵抗しようとする程、脈が強く打ち身体は動く事を拒絶する。

「……は、ぅ……んぁ」

 漏れ出る息はやたらと熱っぽい。それに、腹の奥がムズ痒く尋常では無い熱を宿し、何かがドロドロと漏れ出てる気さえもした。
 相手は違うとは言え、また同じ事をされるのだろう。そんな事は、蕩け始めた思考の中でも安易に理解出来た。
 しかし、あの晩よりも幾分も苦しいだろう。
 呼吸は次第に荒い物に変わり果て、顔を青白くさせたライラは身を弄り、蜉蝣の胸を押す。
 しかし微々たる抵抗だ。簡単には解放される筈もなく……結局、長い口付けが終わったのは、彼が満足してからだった。

「おねが……やめ」

 呂律も回らぬ、唇から漏れる言葉は懇願に等しかった。
 嫌いだと、だけど自分のモノにしたくて堪らなかったと……言われた言葉は、まるで焼け石のようだった。
 心は強いと自負してる。しかし、いつまでも残る彼の言葉は、追い打ちをかけるように胸を軋ませ、酷い痛みを生んだ。

 ──裏切られた。
 分かりたくも無い結論を思い知り、ライラの瞳には分厚い水膜が張った。

 格差はあれど、大事に思っていた仲間だった。だから身を挺してまでして助けたのに……それなのに、彼は自分をずっと歪んだ愛憎で射貫いていたのだと。
 親しく見せた全てが演技だったのだろう。理解は出来るが理解したくもない──無情な現実にライラの胸の奥が更に焼けるように痛んだ。

「嘘だって言えよ……ひどい、あんまりだ」

 思いのままを発すれば、分厚く張った水膜は決壊し、ライラの瞳に濁流を生まれた。
 その様子がさぞ面白かったのだろうか。
『お前でも泣くんだ』と、蜉蝣は卑しく嗤い触れるだけの口付けを落とす。

「そうそう。追放後に、仕事を紹介されたんだが……女衒や人攫いって結構いい金になるんだよなぁ。その為の薬だったが、まぁ効果抜群だと分かったよ。まぁ安心しろよ。お前は何処にも売り飛ばさない。俺専用の娼婦にするだけさ。しかし、あの蟷螂も薬に漬ければただの雌だな」

 ──嗜虐をそそる良い顔しやがって。と、吐き捨てるように言い添えて。彼は拘束する片方の手を解き、そのまま滑らせるように無骨な手を下降させた。
 首を伝い胸へ。辿り着いた膨らみに触れれば、彼は乱暴にライラの胸を揉みしだき始めた。

「嫌ぁあ……やだっ、やめ、やめて……!」

 しゃくり上げるようにライラが叫んだと同時だった。
 ライラの座した木箱の下から、ドス黒い影が、ざわつくように蠢き、飛び出したのだ。
 不審に思ったのは蜉蝣も同じだったのだろう。彼は、ライラの拘束を即座に解き辺りを見渡す。
 その間も、通路の奥から蠢く影の集合体が、地面を滑るように対角線上に向かって走って行くのだ。
 何が起きたのは理解出来なかった。
 しかし、どこかこの影には既視感があるようにライラは思う。そう、姿を眩ました時の妖霊ジンによく似ているだろうと……。
 やがて、影の向かった先から、こちらに向かって近づく足音が聞こえ始めてライラは目をみはる。

「やー、探すの苦労した」

 明らか聞き覚えのある声が低く平らな声だった。
 やがて、姿を現した人物──それは、当然のように、その声に結びつく人物である。
 だが、同一人物であるとは分かっても、今の彼の風貌は、ライラの知る姿とは全く違うものだった。

 ──自分の見てきた彼と言えば、黒々とした装束を身に纏っている筈なのに、今はまるで街の青年のような簡素なシャツに上衣、民族下衣シヤルワールを纏っていた。
 だが、腰布を彩る黄金きん紅玉ルビーの装飾品は蛭の所持するものと全くもって同一だ。
 しかし、決定的に明らかにいつもと違うのは、髪に帯状布ターバンを巻き、もっさりとした前髪を掻き分けて双眸そうぼうを晒しているからだろう。
 記憶の中と明らかに違うのは装いだけではない。 
 そう。彼の目の色と言えば、薄紅の邪視だった筈だが──その瞳は蒼天の空のように青々とした色付いていたのだから。

「……何だお前は」

 近寄って来た蛭に蜉蝣は煙たげに問う。
 すると、ヒヒ……と、特徴的な笑い声を漏らした彼は『どうもー』なんて、緊張感の欠片も無い間伸びた挨拶をしながらも丁寧かつ紳士的な一礼をした。

「ねぇ……さっきから見てたけどさぁ。お兄さんの気持ちは俺も分かるよ?」

 ライラと蜉蝣。二人に近づいた素顔を晒した彼は蜉蝣の肩をポンと軽く叩き、一つ溜息を吐き出して再び薄い唇を開く。

「だけどねぇ、同意も無いのに自分の気持ちだけで女の子に手を出すのは良くない。それは俺も深く反省した事があってね。今まさに謝罪の最中なんだ」

 ──人ってね、たとえ図太そうだとしても、案外繊細で傷つきやすい。心っていうものは怪我と違って治すのは難しい。ましてや傷つけた当人だと尚更ね。と、そんな風に付け添えて、蛭は一つ溜息を吐き出した。

「それでお前は何だ。混ざりたいとでも言うのか?」

 怪訝に眉根を寄せた蜉蝣は、蛭を睨み据える。だが蛭は直ぐに首を横に振り──

「君、馬鹿なの? 阿呆なの? 混ざりたいなんて誰が言った? この子には所有者が居るって知ってる?」

 と、しれっとした調子で突っ撥ねた。

「ああ、そうだ。君、名前は?」
 続け様に蛭は蜉蝣に訊く。

「訊いて教える訳がねぇ」と、蜉蝣が発した途端だった。蛭は骨張った長い指を蜉蝣の唇の前に向けて唇をなぞるように横に動かした。すると──

「ハリド」

 ポツリと蜉蝣は本来の名を告げた。
 意図的では無かったのだろう。即座に彼は口を噤み、目を大きくみはる。

「ふぅん~君、ハリド君って言うの? 結構素敵な名前だねぇ。でも、顔も見たし名前も知っちゃった。これでもう、俺はえげつない方法で君の事、簡単に殺せちゃうねぇ」

『やったぜ』なんて、戯けながら添えて。蛭は蜉蝣を見据えてニヤリと笑む。

「お前が、お前が……蛭か!」

「さぁね? まぁコレだけは言えるけど、蛭は俺の知り合いだね? 俺はただの占者アラーフ指甲花染メヘンディ芸術家アーティストだね。呪術シフルは蛭の影響で少々嗜んでるだけだよ」

 蜉蝣の罵声に臆す事も無く、平たい口ぶりで蛭が告げた須臾しゆゆだった。
 彼の足下からウヨウヨと蠢く影の集合体が踊るように飛び出し、たちまちそれは大蛇の形を形成する。

「ねぇ、ハリド君? 俺、一応大概の人間は見ただけで相手の素性が分かっちゃうもんだけど……君さ一応は盗賊だよね?」

 ──ただの占者アラーフ指甲花染メヘンディ芸術家アーティストの俺と命をかけた本気の喧嘩してみるかい? 
 彼の声は今までの低く平らな声色とは違う。ドスの効いた低い声だった。

 だがそれだけではない、たちまち彼の瞳は本来の薄紅──邪視に変わり果て、怪しい赤の光を宿したのだから……。

 真っ正面から蛭と対峙した蜉蝣は、面を歪め二歩三歩と更に退き……何も言わずにその場を逃げるように走り去って行った。
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