廻り捲りし戀華の暦

日蔭 スミレ

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第肆章 火桶の火も灰がちになりてわろし

肆之捌

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 時の経過は存外早かった。藤夜は時より体調を気遣って声をかけてくるものだが、あれまでの不調が嘘のように調子が良かった。
 そうして三日目……夕暮れ時を迎える頃、約束通りに龍志は迎えにやってきた。装いはいつも通りの鉄紺てつこんの作務衣──それから手ぬぐいを頭に巻いてまるで農作業の時のような軽装だった。その傍らには蘢に朧、それからタキも連れていた。

「少し顔色が良くなったな」

 今は季音であると直ぐに理解出来たのだろう。近付くなり彼は、普段通りに態度で季音の髪を掬うように撫でて、僅かに笑んだ。
 黒々とした黒曜石の瞳に宿る力強い精気は戻りつつあった。だが、自分の髪の房を撫でる手は依然として白く、血の気が足りてない事は目に見えて分かる。
 自分の意思でもない。ましてや、表に出てしまえば正気を保てなくなる彼女の意思でもない。それでも自分の身がした事には変わらず、罪深く思い季音はその手を握りしめ、深謝した。

「こうして健常なのは……龍志様の精気のお陰もあるのです。申し訳ございませんでした。私の中に居る藤夜様から”本当の話”を色々聞きました。その上で私と藤夜様からどうしても龍志様に依頼をしたいです」

 毅然として季音は告げる。すると彼は、少しばかり目を大きく開いて驚嘆した面を見せた。

「依頼……?」

 思いがけない言葉だったのだろう。龍志は復唱して、黒々と清んだ瞳を季音に向けた。

「まず先に、藤香様から聞いた事実を述べましょう。私の中に居る神様──藤夜様は、表に出ない限りは荒魂あらみたまの干渉を受けず正気で居る事が出来ます」

 ──心の中にある四季折々の花が咲き乱れる不思議な庭”魂の宿る場所”に住んでいる。彼女の存在を初めて知ったのは蛍狩りに出かけた梅雨のあの日だった事。そこに居る彼女は正気である事。彼女の恨み、今の気持ち……それら全てを季音は淡々とした調子で龍志に語った。

「それで……依頼というのは、藤夜をお前の身体から引き剥がせという事か? しかし、取り憑いておいて、いきなり素直に出たいなど……」

 彼は小首を傾げて怪訝な視線を季音に向けた。きっと、裏があるのだと言いたいのだろう。それは、言わずともキネは悟る事は出来る。

「そう思いますよね……私も初めは疑いました。こんな事を言っている私を洗脳されていると思われても仕方ないでしょう。ですが、これには私の急激な体調不良が大きく原因しています……それは、私が貴方の……龍志様の子を宿したからです」

 ぽつりと季音が事実を告げた途端、龍志は切れの長い瞳をこれでもかという程に開いて硬直してしまった。

「先程言った魂の宿る庭で龍志様にそっくりな色彩を持つ稚児に会って知りました。男の子です。自分でも信じ難く思いますが、確かにここに居ます」

 季音は未だ膨らんでもいない自分の腹を摩り深く息を吐き出した。
 それを聞いていた蘢も朧も硬直していた。だが、タキだけはジトリと目を細めて龍志を睨んでいる。

「それは……まこと、か?」

 幾拍か置いた後に龍志はようやく言葉を発した。依然、その面は驚嘆がぴったりと貼り付いたままだった。
 季音は訊かれた事にただ黙って頷く。

「まことか?」

 同じ言葉を驚嘆した面のまま彼は言い、季音は頷いた後に緩やかに唇を開いた。

「はい、まことです。藤夜様も言った言葉ですが、奇跡としか言いようもありません……私は今、この身体に三つ魂を宿しています。この三つ目の魂が現れた迄は良いでですが、育ち始めた途端に大きな負荷となり藤夜様の力だけでは生命活動に支障を来す程に健常を保つ事が出来なくなりました。その結果、藤夜様が龍志様の精気を奪ったのです……そこで私は全ての事実やこれまでの記憶を取り戻しました」

 この奇跡により、藤夜の恨みはどうでも良くなってしまったと──だが、命日と成る日に取り憑いた事が大問題だ。藤夜が抜ければ、自分の身体は持ちもしないと。季音は切々と藤夜の話した事と策を彼に告げた。

 果たして、それを信じてくれるか……依頼を受けてくれるか不安だった。まず、間違いなく彼からしてみても前代未聞の依頼に違いないだろう。
 だが、瞬く間にふわりと包まれるような感触を覚えて季音は目を瞠った。

 抱き寄せられた──それを理解した途端に僅かに安堵を覚えて、急激に涙が滲み始めた。きっと彼は信じてくれるのだろう。その行動だけでそう思えてしまったから。

「……分かった。だが、俺の意思をほんの少し聞いてくれるか?」

「はい、何なりと……」

 大丈夫だろう。信用してくれただろうとは分かるが、それでも少しばかり不安だった。
 季音は顔を上げて、自分を抱き寄せる龍志を見上げた。すると、彼は季音の肩を両手で掴んで毅然として向き合った。

「夫である俺個人の思い……そして父としての思いは、お前を必ず生かしたい。その子を必ず産んで貰いたいと願う。だが、依頼にはお代は必須だ」

「お代?」

 即ち依頼料だろう。人を働かせる為には対価が必ず必要とされる。働かざる者食うべからず──と、彼の格言を思い出した季音は不安気に龍志を見上げると、龍志は季音の肩を更にガシリと強く掴んだ。

「……まず藤夜の支払い分は永久をかけてもらう。償いだ。社に戻り、神としてこの地を永久に見守って貰う。そしてお前への依頼料は……生涯俺を愛し、俺に愛され続ける覚悟と子を愛す覚悟だ」

 ──払えるな? と、それだけ告げると、彼は懐から呪符を数枚取り出した。同時に脳裏には『安いもんだね』と藤夜の艶やかな声が響く。

「あともう一つ、報告だ。お前に命を賭ける程、大事に想う友が居る事を忘れるな」

 言って龍志は傍らに佇む、蘢に朧……そしてタキに視線を送った。

「──滝壺から這い上がる龍が如く、鮮烈なる新月の娘、タキ──彼女は俺の三番目の式と成り神通力の加護を授けた」

「おタキちゃん……?」

 ふざけ半分に式への勧誘をされていたのは知っていたが、誇り高き彼女がまさか使役下に成るだなんて思いもしなかった。季音は目を瞠ってタキを見ると、彼女は『そういう事だ』なんて言って鼻を鳴らして笑む。

「どうして……」

「どうしてもこうしてもねぇだろ。あとお前忘れ物だ」

 そう言って、近付いた彼女は懐から枯れ葉色の袱紗に包まれた何かを取り出して、季音にそれを手渡した。袱紗を開くと、よく見覚えのある藤の簪だった。
 確か、彼の血濡れたものを放り投げただろう。だが、血の染みは愚か血の香りもなく、前と変わらぬ輝きを取り戻している。否や、それ以上か……ぴかぴかに磨かれていた。

「おタキちゃんこれ……」

 季音が目を丸くしてタキを見ると、彼女は一つ息を吐きだして呆れたような視線を向けた。

「大事なもんだろ? 無くすんじゃねぇよ。あと、おれは己の主が未だいけ好かない部分が多過ぎるから、お前がこいつで滅多刺しにしてくれて清々して式神に成ったようなもんだ。気負ってるようだが、あいつは妖並かそれ以上に頑丈だから心配するな」

 彼女は冗談交じりに言うが、その瞳はあまりに真摯だった。一方言われている龍志と言えば、何とも言えぬ苦い表情を浮かべていた。

「……まぁ、そういう事だ。その奇跡もそうだが、おれの親友で居続ける事は誓え。こいつらの隣人であり友である事を誓え」

 それを告げると、瀧は季音の髪をくしゃりと撫でる。
 心がいっぱいだった。とてつもなく幸せだと思えてしまった──季音は瀧、そして蘢と朧に向けて深々と頭を垂れた。鼻の奥がツンと熱く、眦からは自然と涙が溢れてきた。それはポタリポタリと下駄と地面を濡らす。

「無論です、双方共にその約束守る事を誓います。貴方達が居てくれた事、巡り会えた縁、幸せでした。これは、私にとって何よりもの宝物です」

 それを告げて、季音は涙を拭って今一度、彼らに視線を送る。三匹誰もが、朗らかであり尾穏やかな顔を季音に向けていた。

「……藤夜を引き剥がすのは簡単に出来るとは踏んでいる。だがな、お前の本当の勝負はその身から藤夜が抜けてからだ、子の為、友の為に生きる事を必ず諦めない事を誓え」

「勿論です」

 龍志の言葉に合意した後、彼は数歩と下がって詠うように呪いの言葉を唱え始めた。夕暮れの藍色の世界に白銀の糸のような結界が張り巡らされる。それはたちまち季音の囲って張り巡らされた。

「さて、そろそろ藤夜に変わって貰おう……」

 彼の言葉に促されて、季音は穏やかに藤夜に呼びかけた。
 すると、視界はたちまち白に染まり、朱塗りの門が開く。季音は迷う事なく、門をくぐった。

「さぁて、行ってくるわ。お前はしばし四阿あずまやで自分の子を見といてやってくれ」

 すれ違い様、彼女は季音の肩を叩いて笑んだ。生きる事に執着しろ、諦めるな──と、そんな言葉を付け足して。彼女は振り向く事もなく、光溢れる門の向こう側に歩んでいった。

  ***

 視界がはっきりとすると、そこは地獄のような景色が広がっていた。ツンと鼻につく硫黄の匂い。夕闇の仄暗い空間の中、湯煙が煙っていた。
 目の前に佇み呪いを詠うのは、かつて自分にその座を押しつけたに神に憎たらしい程によく似た男だった。それをしかと見ても、もう愛憎は薄れてしまった。だが、荒魂あらみたまの影響はたちまち襲いかかり、藤夜は己の放つ瘴気にたちまち吐き気を催した。

「のぅ、成功する保証はあるのか?」

 ただそれだけを告げると、白銀の結界を隔てて向こう側の男はほくそ笑む。そんな顔も本当によく似ており、憎たらしいを通り越して呆れさえ感じてしまった。

「馬鹿言え、俺を誰だと思ってる。その依頼、その身体の持ち主の為に命をかけて必ず成功させてやる。お前はせいぜい積年の恨みをぶつけて来い。そして後は社で悔い改めろ」

 ──藤夜。と、まことの名を呼んで、彼はまたも憎たらしい笑みを見せた。
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