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第肆章 火桶の火も灰がちになりてわろし
肆之参
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季音が社を出た時には東の空が白んでいた。皮肉にも彼から取り入れた精気のお陰か、社に向かう時よりも体調は幾分も良くなっていた。
空気は凜と張り詰めていた。敷地を囲う笹垣には茜色の蜻蛉が留まり、どこからか鈴虫の鳴く声が聞こえきた。境内の脇にも紅い曼珠沙華の蕾がある。それを見て、季音はあの庭の風景をふと思い出した。
満開の曼珠沙華の群生の真ん中で佇む藤棚の四阿……。『完璧なる庭』と、確かそんな風に彼女は言っただろう。そこに居た彼女は、確かにツンとしていて感じの悪い雌狐だったが、決して悪い狐のようには思えなかった。
…………何故こんな事をしたのか。どうして、彼の精気を喰らったのか。
再び廻る思想はそれだけで、輪郭をなぞる程度にあの庭の風景を思い出しながら歩んでいるうちに気付けばボロ屋に着いていた。
季音は当たり前のように引き戸を開け、玄関で下駄を脱いで家屋に上がる。
龍志はしっかり寝ているだろうか──起こさぬように自分に当てられた奥部屋に戻ろうと季音は静かに襖を開けたと同時だった。襖を開いて直ぐ映った光景に季音は目を瞠る。
龍志は起きていた。書き物机に向かって何かをいそいそと書いている。だが、季音が戻ってきた事に気付くと彼は筆を硯に置いて季音に視線をやった。
「おかえり」
いつも通りの低く平らな声でそう告げると、彼は僅かに笑んだ。だが、その面は血の気が戻らず蒼白で、季音は直ぐに龍志に駆け寄って彼の腕を問答無用で掴む。
「何をなさってるのですか! 大人しく寝ていて下さい!」
「別にあのくらいは大丈夫だ」
何が大丈夫だ。あんなにも吐血していたというのに……。
布団の敷物も新しく清潔なものに変わっているが、古びた畳みには飛び散った血のシミが未だ残っている。季音は龍志を強引に引き摺って、布団に無理矢理寝かしつけた。
とどめとばかりに顎までしっかり掛け布団をかけてやる。すると彼は、肩をわなわなと震わせて、噴き出すように笑い始めた。
「阿呆。貧血な上、精気が薄いんだ。手荒に寝かすなよ」
「あんなに血を吐いておいて起きてる方がおかしいですよ。急ぎの書き物じゃなければ元気になってからにして下さい」
しかし、そうさせたのには自分に責任がある。自分の所為であって、自分の所為ではない。詳しく言えやしないが……と、思えば思う程季音の面は曇った。
「ごめんなさい、無意識とは言え私の所為ですから……」
ただ謝る事しか出来なかった。季音は深謝するが、龍志は『だから別に良い』と言って、鼻から息を抜くように笑むだけだった。
「私も自分でも分からないのです。ごめんなさい」
再び謝罪すると、彼は首をゆるゆると横に振った。
「なぁ季音……お前さ、何か隠していないか?」
布団から血の気の無い無骨な手を出して、彼は傍らに座する季音の手を握った。黒々と清んだ黒曜石の瞳を向けて彼は問う。季音は何も答える事が出来なかった。
……隠し事はあの邂逅だけだ。それを言えば自分はあの庭に閉じ込められてしまう。ただ言わなければいいだけだ。季音は直ぐに首を横に振ろうとした──その途端だった。
「……お前の中には間違いなく狐が居る事は知ってる。そうでなければ、人であった筈のお前がそんな姿には成らない筈だ。人が妖に成るなどおかしいからな。以前、狐火を放った時もそうだ。お前、そいつには会ったのか?」
彼は思いもよらぬ事を訊いたのだ。
自分が狐に成った理由を彼は確実に知っている。そう確信して、季音の面はたちまち凍り付いた。
……出会った時から、彼は何もかも知っていたのだ。知っているのに話もしなかったのだ。自分は何も知らないと口にすれば、”新しくやり直せ”と彼は季音をその真実から遠ざけた。裏をかけば彼には”後ろめたい思惑”があったのではと窺える。
──陰陽師と狐。何も無い訳がないだろう。
それも自分は憑かれているのだ。もし、自分の心に住まう狐と深い因果でもあるとすれば、自分を陥れて滅する為ではないのかとさえ考えるのは容易かった。本当に愛してくれていたのだろうか、その気持ちはまことだったのだろうか……と、そんな思惑が過ぎり、季音は唇を震わせて龍志を睨みつけた。
「……龍志様は過去の私の全てを知ってるんですよね? どうして私に何も教えてくれなかったのです。隠し事をしているのは龍志様ではないのですか!」
告げた途端にキンと耳鳴りが突き抜けて頭が痛んだ。それにも構わず、季音は唇を拉げて言葉を続ける。
「ならば、どうして私は狐になったのです? 何を知ってるのですか……貴方が私を想ってくれた気持ちはまことですか? 私を、私を……どうしようとしたのです!」
すると、途端に龍志は目を釣り上げて季音を恐ろしい顔で睨んだ。
「──気持ちはまことだ! そんな嘘を吐くように見えるのか、俺の志は曲がっていない!」
彼にどやされる事はあろうが、剣幕になって怒鳴られるなど初めてだった。それに臆して季音が肩を竦めると、彼ははっとして一言詫びる。
「……大凡は分かってる。だが理由など必要無ければ言う必要無い」
今度は静かに彼は言った。だがその答えは、案の定のものだった。
それにて終わりか……と思ったが、彼は続け様に血の気の無い唇を開いた。
「過去がどうこうじゃない。生きている今が大事だと思う。だから、過去を振り返りたくない。その分幸せにしてやりたいと願った。それでは駄目なのか?」
「駄目じゃないわ……私みたいな愚図にこれ程の幸せは無いわ」
──だけど、狐に成った因果は自分にとって大事な事だと思う。それを忘れてのうのうと生きていい筈が無いと思う。と、そんな言葉を続け様に告げると、彼は深い吐息を溢した。
「因果か……それは、お前の身体を…………」
静かに彼が告げた途端だった。夥しい記憶の波が季音の脳裏に駆け巡る。
…………社で手を合わせる過去の自分。床に伏せた自分の前に現れた一匹の狐。彼女は何と言っただろうか。
『妾がその願いを叶えてやろうぞ。その代わり妾に……』
妖艶に微笑む彼女は確と言った『身体を貸しておくれ』と──。
「私があの方に身体を貸したから……」
消え入りそうな声で告げたと同時、季音の視界は瞬時に暗転した。
意識は次第に薄れ、彼の声が遠くなる。深く深く水底に沈むように、季音の意識は遠くに葬られた。やがて、視界が白んだと思い、瞼を持ち上げると目の前には朱塗りの門があった。瞬く間に門は開き、輝かしい光の中に投げ込まれるように押し込まれた。その時──自分に似た自分で非ず者がすれ違う。
「そろそろ限界も近い。のぅ、幸せだったか藤香?」
艶やかな声で優しく問われて、季音は目を瞠る。すれ違った狐は妖艶な笑みで季音を一瞥した後、背を向ける。それは一瞬の出来事──彼女が門の外へ出たと同時、音も立てずに門は固く閉じた。
閉門の風圧に桜吹雪は舞い上がる。血のように生ぬるい風が、季音の頬を擽った。
※※※
ぽつりと季音が何かを言った途端だった。彼女は一瞬だけ目を瞠り、その場に崩れ落ちた。
この須臾でいったい何が起きたのかだろうか……龍志は理解する事が出来なかった。
「おい、季音……?」
龍志は自分の横たわる布団の上にもたれ掛かった季音の肩に触れる。緩やかに彼女が顔を上げたと同時だった。背筋が凍りつく程の悍ましい殺気を含んだ妖気が満ちた。
藤色の瞳を縁取る輪郭は、穏やかに垂れ下がった丸い瞳ではない。それは妖艶に釣り上がっており、全くの別人の面がそこにあった。
「……さぁて。色々と困った事になったものだ。愚図なあの娘を愛おしく思うなら、あんたは死ぬ気の覚悟はあるかい? あれっぽっちじゃ足りないんじゃ」
……精気をおくれよ。と、艶やかに付け足して。薄紅の唇に弧を描いた彼女は、たちまち龍志の唇を奪う。
何が起きたのか理解が追いつかなかった。だが、愚鈍な季音……藤香ではないとは分かる。今、自分の目の前に居る狐は全く別の者だろう。きっと荒神だ──。
噛みつくように唇を塞がれて、舌を見つけると甘く食まれる。それだけで脳髄がクラクラとふやけてしまいそうで自我さえ消し飛びそうになった。だが、途端に吐き気と胸を締め付けるような痛みを覚えて、龍志は自分に覆い被さる彼女の身体を突き飛ばした。
「はん。抗えるのかい……大人しく寝ていれば極楽浄土でも見せてやろうというのに」
よろめいた彼女は、さぞつまらなそうな面で龍志を射貫いた。
「阿呆が。女優位に組み敷かれて昂ぶる趣味は無い。組み敷く方が好きなもんでな。その身体の持ち主が一番それをよく知っている筈だ」
言葉を出す都度に、鼻の奥の方まで血の匂いがした。意識だって今にも飛んでしまいそうな程、胸の奥が痛くて仕方ない。龍志は荒い息を吐きながら彼女を睨む。
「単刀直入に言うよ、妾はあんたは殺したい程憎いが、この身体の持ち主自体に微塵も恨みもない。あんたは前世から随分と藤香に惚れ込んでおるよな? あんた、死ぬ気の覚悟でこやつを生かす気はあるかい?」
彼女が何を言いたいのか分からなかった。龍志は顔を顰めて彼女を睨む。だが、彼女は直ぐにこめかみを押さえて俯いてしまった。途端に溢れ出すのは尋常でない瘴気だった。
明かに様子がおかしいだろう。数百年と昔に彼女と対峙した時といえば、咆哮を上げるか呻くばかりで言葉なんてろくに発してもいなかったのだ。それが、まるで今は善良な理性でもあるように窺える。それ故の先程の言葉なのだろうか……まるで、身体の持ち主である藤香を守ろうとしているようにさえ窺える。
おかしい──と、龍志は荒神をジッと見据えていると、彼女はようやく顔を上げた。
しかし、その面は先程までとまた違う。
鋭い藤の瞳の輪郭を囲うように朱の紋様がうっすらと浮かび始めている。怪しく藤の瞳は発光し、彼女は荒い息を吐き出す都度、妖気はより凄みのあるものに変貌し始めた。
「──しかし、前世のあんたから思うが、本当に代々似ておる。憎らしい程に」
「代々? どういう事だ」
明らかに自分に宛てられた言葉だが、これもまた意味が分からなかった。龍志は眉根を寄せて尚も彼女を睨むが、瞬く間に胸の奥が爆ぜるように痛み始めた。
ただでさえ少ない精気を喰われたからだろう。視界はぐらりと霞み、喉の奥に血の臭いが充満した。間髪入れずに襲いかかるものは吐き気で──耐えきれず吐瀉すれば鮮血が真っ新な布団をたちまち汚す。それは形容出来ぬ程の鮮烈な痛みだった。
気は遠のくが、それでも龍志は呻きながらも彼女を睨み付けた。
……理性は完全に消し飛んだのだろうか。ブワッと雪白の毛髪を逆立てた彼女は龍志に馬乗りになる。鋭い犬歯を剥き出し、獣のような唸りを上げて懐から取り出したものは金細工の藤の簪で──。
空気は凜と張り詰めていた。敷地を囲う笹垣には茜色の蜻蛉が留まり、どこからか鈴虫の鳴く声が聞こえきた。境内の脇にも紅い曼珠沙華の蕾がある。それを見て、季音はあの庭の風景をふと思い出した。
満開の曼珠沙華の群生の真ん中で佇む藤棚の四阿……。『完璧なる庭』と、確かそんな風に彼女は言っただろう。そこに居た彼女は、確かにツンとしていて感じの悪い雌狐だったが、決して悪い狐のようには思えなかった。
…………何故こんな事をしたのか。どうして、彼の精気を喰らったのか。
再び廻る思想はそれだけで、輪郭をなぞる程度にあの庭の風景を思い出しながら歩んでいるうちに気付けばボロ屋に着いていた。
季音は当たり前のように引き戸を開け、玄関で下駄を脱いで家屋に上がる。
龍志はしっかり寝ているだろうか──起こさぬように自分に当てられた奥部屋に戻ろうと季音は静かに襖を開けたと同時だった。襖を開いて直ぐ映った光景に季音は目を瞠る。
龍志は起きていた。書き物机に向かって何かをいそいそと書いている。だが、季音が戻ってきた事に気付くと彼は筆を硯に置いて季音に視線をやった。
「おかえり」
いつも通りの低く平らな声でそう告げると、彼は僅かに笑んだ。だが、その面は血の気が戻らず蒼白で、季音は直ぐに龍志に駆け寄って彼の腕を問答無用で掴む。
「何をなさってるのですか! 大人しく寝ていて下さい!」
「別にあのくらいは大丈夫だ」
何が大丈夫だ。あんなにも吐血していたというのに……。
布団の敷物も新しく清潔なものに変わっているが、古びた畳みには飛び散った血のシミが未だ残っている。季音は龍志を強引に引き摺って、布団に無理矢理寝かしつけた。
とどめとばかりに顎までしっかり掛け布団をかけてやる。すると彼は、肩をわなわなと震わせて、噴き出すように笑い始めた。
「阿呆。貧血な上、精気が薄いんだ。手荒に寝かすなよ」
「あんなに血を吐いておいて起きてる方がおかしいですよ。急ぎの書き物じゃなければ元気になってからにして下さい」
しかし、そうさせたのには自分に責任がある。自分の所為であって、自分の所為ではない。詳しく言えやしないが……と、思えば思う程季音の面は曇った。
「ごめんなさい、無意識とは言え私の所為ですから……」
ただ謝る事しか出来なかった。季音は深謝するが、龍志は『だから別に良い』と言って、鼻から息を抜くように笑むだけだった。
「私も自分でも分からないのです。ごめんなさい」
再び謝罪すると、彼は首をゆるゆると横に振った。
「なぁ季音……お前さ、何か隠していないか?」
布団から血の気の無い無骨な手を出して、彼は傍らに座する季音の手を握った。黒々と清んだ黒曜石の瞳を向けて彼は問う。季音は何も答える事が出来なかった。
……隠し事はあの邂逅だけだ。それを言えば自分はあの庭に閉じ込められてしまう。ただ言わなければいいだけだ。季音は直ぐに首を横に振ろうとした──その途端だった。
「……お前の中には間違いなく狐が居る事は知ってる。そうでなければ、人であった筈のお前がそんな姿には成らない筈だ。人が妖に成るなどおかしいからな。以前、狐火を放った時もそうだ。お前、そいつには会ったのか?」
彼は思いもよらぬ事を訊いたのだ。
自分が狐に成った理由を彼は確実に知っている。そう確信して、季音の面はたちまち凍り付いた。
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「……龍志様は過去の私の全てを知ってるんですよね? どうして私に何も教えてくれなかったのです。隠し事をしているのは龍志様ではないのですか!」
告げた途端にキンと耳鳴りが突き抜けて頭が痛んだ。それにも構わず、季音は唇を拉げて言葉を続ける。
「ならば、どうして私は狐になったのです? 何を知ってるのですか……貴方が私を想ってくれた気持ちはまことですか? 私を、私を……どうしようとしたのです!」
すると、途端に龍志は目を釣り上げて季音を恐ろしい顔で睨んだ。
「──気持ちはまことだ! そんな嘘を吐くように見えるのか、俺の志は曲がっていない!」
彼にどやされる事はあろうが、剣幕になって怒鳴られるなど初めてだった。それに臆して季音が肩を竦めると、彼ははっとして一言詫びる。
「……大凡は分かってる。だが理由など必要無ければ言う必要無い」
今度は静かに彼は言った。だがその答えは、案の定のものだった。
それにて終わりか……と思ったが、彼は続け様に血の気の無い唇を開いた。
「過去がどうこうじゃない。生きている今が大事だと思う。だから、過去を振り返りたくない。その分幸せにしてやりたいと願った。それでは駄目なのか?」
「駄目じゃないわ……私みたいな愚図にこれ程の幸せは無いわ」
──だけど、狐に成った因果は自分にとって大事な事だと思う。それを忘れてのうのうと生きていい筈が無いと思う。と、そんな言葉を続け様に告げると、彼は深い吐息を溢した。
「因果か……それは、お前の身体を…………」
静かに彼が告げた途端だった。夥しい記憶の波が季音の脳裏に駆け巡る。
…………社で手を合わせる過去の自分。床に伏せた自分の前に現れた一匹の狐。彼女は何と言っただろうか。
『妾がその願いを叶えてやろうぞ。その代わり妾に……』
妖艶に微笑む彼女は確と言った『身体を貸しておくれ』と──。
「私があの方に身体を貸したから……」
消え入りそうな声で告げたと同時、季音の視界は瞬時に暗転した。
意識は次第に薄れ、彼の声が遠くなる。深く深く水底に沈むように、季音の意識は遠くに葬られた。やがて、視界が白んだと思い、瞼を持ち上げると目の前には朱塗りの門があった。瞬く間に門は開き、輝かしい光の中に投げ込まれるように押し込まれた。その時──自分に似た自分で非ず者がすれ違う。
「そろそろ限界も近い。のぅ、幸せだったか藤香?」
艶やかな声で優しく問われて、季音は目を瞠る。すれ違った狐は妖艶な笑みで季音を一瞥した後、背を向ける。それは一瞬の出来事──彼女が門の外へ出たと同時、音も立てずに門は固く閉じた。
閉門の風圧に桜吹雪は舞い上がる。血のように生ぬるい風が、季音の頬を擽った。
※※※
ぽつりと季音が何かを言った途端だった。彼女は一瞬だけ目を瞠り、その場に崩れ落ちた。
この須臾でいったい何が起きたのかだろうか……龍志は理解する事が出来なかった。
「おい、季音……?」
龍志は自分の横たわる布団の上にもたれ掛かった季音の肩に触れる。緩やかに彼女が顔を上げたと同時だった。背筋が凍りつく程の悍ましい殺気を含んだ妖気が満ちた。
藤色の瞳を縁取る輪郭は、穏やかに垂れ下がった丸い瞳ではない。それは妖艶に釣り上がっており、全くの別人の面がそこにあった。
「……さぁて。色々と困った事になったものだ。愚図なあの娘を愛おしく思うなら、あんたは死ぬ気の覚悟はあるかい? あれっぽっちじゃ足りないんじゃ」
……精気をおくれよ。と、艶やかに付け足して。薄紅の唇に弧を描いた彼女は、たちまち龍志の唇を奪う。
何が起きたのか理解が追いつかなかった。だが、愚鈍な季音……藤香ではないとは分かる。今、自分の目の前に居る狐は全く別の者だろう。きっと荒神だ──。
噛みつくように唇を塞がれて、舌を見つけると甘く食まれる。それだけで脳髄がクラクラとふやけてしまいそうで自我さえ消し飛びそうになった。だが、途端に吐き気と胸を締め付けるような痛みを覚えて、龍志は自分に覆い被さる彼女の身体を突き飛ばした。
「はん。抗えるのかい……大人しく寝ていれば極楽浄土でも見せてやろうというのに」
よろめいた彼女は、さぞつまらなそうな面で龍志を射貫いた。
「阿呆が。女優位に組み敷かれて昂ぶる趣味は無い。組み敷く方が好きなもんでな。その身体の持ち主が一番それをよく知っている筈だ」
言葉を出す都度に、鼻の奥の方まで血の匂いがした。意識だって今にも飛んでしまいそうな程、胸の奥が痛くて仕方ない。龍志は荒い息を吐きながら彼女を睨む。
「単刀直入に言うよ、妾はあんたは殺したい程憎いが、この身体の持ち主自体に微塵も恨みもない。あんたは前世から随分と藤香に惚れ込んでおるよな? あんた、死ぬ気の覚悟でこやつを生かす気はあるかい?」
彼女が何を言いたいのか分からなかった。龍志は顔を顰めて彼女を睨む。だが、彼女は直ぐにこめかみを押さえて俯いてしまった。途端に溢れ出すのは尋常でない瘴気だった。
明かに様子がおかしいだろう。数百年と昔に彼女と対峙した時といえば、咆哮を上げるか呻くばかりで言葉なんてろくに発してもいなかったのだ。それが、まるで今は善良な理性でもあるように窺える。それ故の先程の言葉なのだろうか……まるで、身体の持ち主である藤香を守ろうとしているようにさえ窺える。
おかしい──と、龍志は荒神をジッと見据えていると、彼女はようやく顔を上げた。
しかし、その面は先程までとまた違う。
鋭い藤の瞳の輪郭を囲うように朱の紋様がうっすらと浮かび始めている。怪しく藤の瞳は発光し、彼女は荒い息を吐き出す都度、妖気はより凄みのあるものに変貌し始めた。
「──しかし、前世のあんたから思うが、本当に代々似ておる。憎らしい程に」
「代々? どういう事だ」
明らかに自分に宛てられた言葉だが、これもまた意味が分からなかった。龍志は眉根を寄せて尚も彼女を睨むが、瞬く間に胸の奥が爆ぜるように痛み始めた。
ただでさえ少ない精気を喰われたからだろう。視界はぐらりと霞み、喉の奥に血の臭いが充満した。間髪入れずに襲いかかるものは吐き気で──耐えきれず吐瀉すれば鮮血が真っ新な布団をたちまち汚す。それは形容出来ぬ程の鮮烈な痛みだった。
気は遠のくが、それでも龍志は呻きながらも彼女を睨み付けた。
……理性は完全に消し飛んだのだろうか。ブワッと雪白の毛髪を逆立てた彼女は龍志に馬乗りになる。鋭い犬歯を剥き出し、獣のような唸りを上げて懐から取り出したものは金細工の藤の簪で──。
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