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第参章 風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず
参之捌
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兄、虎貴は存外早く見つかった。すっかり葬祭の片付けは終わったようで、兄は境内に散らばり落ちた山桃の実を竹箒で掃いていた。それが少し潰れたのだろう。甘酸っぱい匂いが夏風に漂っていてた。
直ぐに龍志の姿が分かると、兄は片手を上げる。
「おお、帰ってきてたのか」
「久しぶり、大変だったな。急いで駆けつけたが、もう土の中だったようでな」
やれやれと龍志が言えば、兄は『まぁな』と、親しみやすい笑みを向ける。
二つほどしか歳も離れていないが、兄は相変わらずに華奢だった。背丈も自分よりは少しばかり低いだろう。顔立ちはあまり似ておらず、その優しい顔立ちから自然と浮かぶのは母の顔で龍志は必然的に先程のやりとりを思い出した。
「母さん憔悴しきっちゃって参るよ、どうにかしてやれよ」
「吉河の恥さらしの不良神職者に頼むな。虎ちゃんがどうにかしてやれ、宮司だろ」
母の呼び方を真似して言うと、兄はブッと噴き出してたちまち破顔した。
「相変わらずだろ。もう俺も二十三だし龍も二十一のいい大人なのになぁ」
「母親だしな、それに昔から息子には甘い人だ」
しれっとした調子で切り返せば、兄は『だな』と頷いて母譲りの柔らかな笑みを浮かべた。
……それから、兄とは黒羽での事の話をした。
輪廻前の事も僅かに話したが、通常の人からすれば胡散臭くて非現実的な話を兄は疑う事も無くそれを聞いてくれた。
──お前の人生だ。自分のやりたいように悔いなくやれば良い。別に禰宜は居なくともどうにかなる。と、兄は言ってくれた。
「それにしてもお前、妻が出来たんだな……。婚礼が未だなら、距離はあるがうちで挙げりゃいい。生憎俺はなかなか縁談が無いもので、母さんも孫が出来たら喜ぶから連れてきてやれ」
「とは言ってもな、色々事情もあるんだよ」
……流石に相手が現在は狐だなんて言えやしなかった。それも追々は自ら滅しなくてはいけないなど。龍志は宵闇迫る藤色の空を眺めて、季音の事を思い浮かべた。
今頃、きっと初めての夕飯作りに奮闘している頃合いだろう。果たして、まともに出来ているのかは不明だが、大惨事になってなければ良いと願いつつ……明朝に松川を発つ事を決心した。
※※※
龍志が帰省して五日目が経過しようとしている。
掃除に洗濯は全くもって難は無いが、如何せん炊事に対して季音は困っていた。
龍志のやっていた所作を思い出しやってみるが、火を起こすにも初日は煤まみれ。タキは境内でヤモリでも捕まえるだなんて言うが、流石にそれだけでは足りないだろうと朧が川魚を捕ってきてくれたお陰で食料にはさほど困らなかった。単純な調理のみだが炊事にようやく慣れたのは三日目からだった。その後からはだいぶ様になり、火起こしも問題なく出来るようになってきた。
しかし、夜が来る度に龍志が早く帰って来ないかと思えてしまった。あれからほぼ毎日同じ床で寝ているのだ。隣に居るはずの存在が居ない事が妙に寂しいなんて思えてしまった。
蜩(ひぐらし)の鳴く刻だった。笹垣の向こう側の竹林の上でモクモクと立った入道雲が次第に広がり始めていた。スンと鼻を鳴らせば僅かに雨の匂いがする。もうじき、大きな雨粒が落ちてくるだろう。龍志は未だ帰って来ないだろうか──そんな風に思って、季音は叢雲の広がり始めた灰色の空を見上げた。
ピシャリと稲妻が空を割き、雷が轟き始めたのは宵の帳が近付き始めてからだった。
ボロ屋の屋根にビシャビシャと大粒の雨音が叩き付ける音が響き始める。
雷の音は嫌いだった。雨の音も嫌いだった。何故生まれ変わったのか、どうして目を覚ましてしまったのか──必然的に自分が輪廻した日を思い出してしまうから嫌だった。
季音は無性に心細くなり、タキのいる社の方へ行こうと玄関に立てかけてある番傘を手に取ったと同時だった。雨に混ざって彼の気配を感じとり、季音は狐の耳をピクリと振るわせる。
──妖独特の妖気とは違う。人の生命の流れだ。
間違える筈もない。龍志だろう──と、それを確信して、季音は傘を開いて境内の方へと走り出した。
少し先が見えない程の豪雨だった。傘だって壊れてしまいそうな程、ビシャビシャと叩き付ける雨の音だけがひどく耳を劈く。やがて、朱塗りの鳥居が見えてきたその先──鉄紺の作務衣姿の龍志の姿が見えた。
季音は彼の名を呼ぶ。しかしこの雨だ、その声は聞こえていないのだろう。だが、彼は季音に気付いたようで、手を軽く上げた。
無我夢中だった。こんなに全力で走った事などあっただろうか──季音は番傘を投げ捨てて鳥居をくぐり抜けた龍志の腕に飛び込んだ。
「ただいま、濡れて風邪引くぞ」
やっと聞こえた声にトクンと胸が高鳴った。たった五日だけなのに、何年も会っていかなかったように、どこか懐かしくさえ思えてしまった。季音は頬を赤く染めて彼をジッと見上げた。
「龍志様びしょ濡れじゃないですか。おかえりなさい」
応えた後、自然と踵が上がった。爪先で立ち、自分より頭一つほど高い彼に季音は自分から彼に接吻てしまった。ただ触れるだけの接吻は一瞬だったが、それはとてつもなく甘美にさえ感じてしまう。
だが、なんて恥ずかしい事をしてしまったのだろうと悟るのは直ぐで、季音は彼から直ぐ身を引こうとする。それなのに、彼は腰にぎゅっと腕を回すものだから逃げられやしなかった。
「そんなに俺が居なくて寂しかったのかよ。阿呆みたいに可愛い事してくれて……」
憎まれ口を叩くが、それでも彼は嬉しそうだった。
そんな龍志が何だか可愛く思えてしまって、堪らなく愛おしく思えてしまって『寂しかったです』なんて返せば、たちまち彼の耳は赤く色付いた。
びしょ濡れになってしまった二人は一つの傘に入ってボロ屋に戻ってきた。
だが、玄関の引き戸を開いて直ぐ、キネは息を飲む。龍志の部屋の中に白い装束を纏った見知らぬ初老の男が立っていたのだから。
……人だろう。だが、それには生命の流れというものは一切感じられず、ただ静かに彼は佇んでいた。だが、龍志は特に驚く様子もなくそこに佇む男に無言で近付いて行く。
「親父、また来たのか?」
彼の言った言葉に季音は唖然としてしまった。
彼は神葬祭に五日前に行ったばかりだろう。どういった事なのだだろうか……季音は龍志と目の前に佇む彼の父を相互に見た。
親子なだけあって、確かに目元の雰囲気は似ているだろう。しかし、皺の寄った釣り上がった目には精気は一切感じられず、ただ虚空を見つめていた。
「どうした、神の元に逝くのではないのか。未だ未練でもあるのか? 道が分からぬなら俺が送ってやるぞ」
そう言って、龍志が懐から何かを取りだそうとした時だった、彼の父は首を横に振り、白装束の懐から一枚の札を取り出した。
「札? どうしたんだ……」
龍志が尋ねると、彼の父は一つ頷いて季音の前に音も無く歩み寄る。すると、そっと札を季音に手渡した。
「え……私に?」
吃驚して目を丸くすると、彼の父は唇を綻ばせて一つ頷いた。そうして、再び龍志の方に向き合うと、規則正しい一礼をして彼の父はスッと消え去ってしまった。
季音の手の中には未だしっかりと札は残っていた。達筆過ぎて何と書いているかはよく分からず首を傾げていれば、龍志はそれを覗き込む。
「吉河の御札だな。縁起物だ。俺の生家の社寺は厄除けと縁結びで有名だ」
「厄除けと縁結び……」
どうしてそれを龍志ではなく自分に手渡したかは理解出来きず、季音は小首を傾げて彼を見上げた。
「つまり、厄を断ち切り結果と成る良い縁を結ぶ。そういう事だ。死者からの贈り物など複雑だろうが貰ってやってくれ。苦しき厄が降りかかれば少しはお前を護ってくれるだろう」
言って、彼は穏やかに笑んだ。
「でも、本当に私が貰って宜しいのですか?」
「いや、お前に渡したんだからお前が持ってろ」
──寧ろ、素行が悪い息子の俺が持てば黄泉返って怨霊になりそうだ。なんて付け添えて、彼は鼻から息を抜くように笑った。
直ぐに龍志の姿が分かると、兄は片手を上げる。
「おお、帰ってきてたのか」
「久しぶり、大変だったな。急いで駆けつけたが、もう土の中だったようでな」
やれやれと龍志が言えば、兄は『まぁな』と、親しみやすい笑みを向ける。
二つほどしか歳も離れていないが、兄は相変わらずに華奢だった。背丈も自分よりは少しばかり低いだろう。顔立ちはあまり似ておらず、その優しい顔立ちから自然と浮かぶのは母の顔で龍志は必然的に先程のやりとりを思い出した。
「母さん憔悴しきっちゃって参るよ、どうにかしてやれよ」
「吉河の恥さらしの不良神職者に頼むな。虎ちゃんがどうにかしてやれ、宮司だろ」
母の呼び方を真似して言うと、兄はブッと噴き出してたちまち破顔した。
「相変わらずだろ。もう俺も二十三だし龍も二十一のいい大人なのになぁ」
「母親だしな、それに昔から息子には甘い人だ」
しれっとした調子で切り返せば、兄は『だな』と頷いて母譲りの柔らかな笑みを浮かべた。
……それから、兄とは黒羽での事の話をした。
輪廻前の事も僅かに話したが、通常の人からすれば胡散臭くて非現実的な話を兄は疑う事も無くそれを聞いてくれた。
──お前の人生だ。自分のやりたいように悔いなくやれば良い。別に禰宜は居なくともどうにかなる。と、兄は言ってくれた。
「それにしてもお前、妻が出来たんだな……。婚礼が未だなら、距離はあるがうちで挙げりゃいい。生憎俺はなかなか縁談が無いもので、母さんも孫が出来たら喜ぶから連れてきてやれ」
「とは言ってもな、色々事情もあるんだよ」
……流石に相手が現在は狐だなんて言えやしなかった。それも追々は自ら滅しなくてはいけないなど。龍志は宵闇迫る藤色の空を眺めて、季音の事を思い浮かべた。
今頃、きっと初めての夕飯作りに奮闘している頃合いだろう。果たして、まともに出来ているのかは不明だが、大惨事になってなければ良いと願いつつ……明朝に松川を発つ事を決心した。
※※※
龍志が帰省して五日目が経過しようとしている。
掃除に洗濯は全くもって難は無いが、如何せん炊事に対して季音は困っていた。
龍志のやっていた所作を思い出しやってみるが、火を起こすにも初日は煤まみれ。タキは境内でヤモリでも捕まえるだなんて言うが、流石にそれだけでは足りないだろうと朧が川魚を捕ってきてくれたお陰で食料にはさほど困らなかった。単純な調理のみだが炊事にようやく慣れたのは三日目からだった。その後からはだいぶ様になり、火起こしも問題なく出来るようになってきた。
しかし、夜が来る度に龍志が早く帰って来ないかと思えてしまった。あれからほぼ毎日同じ床で寝ているのだ。隣に居るはずの存在が居ない事が妙に寂しいなんて思えてしまった。
蜩(ひぐらし)の鳴く刻だった。笹垣の向こう側の竹林の上でモクモクと立った入道雲が次第に広がり始めていた。スンと鼻を鳴らせば僅かに雨の匂いがする。もうじき、大きな雨粒が落ちてくるだろう。龍志は未だ帰って来ないだろうか──そんな風に思って、季音は叢雲の広がり始めた灰色の空を見上げた。
ピシャリと稲妻が空を割き、雷が轟き始めたのは宵の帳が近付き始めてからだった。
ボロ屋の屋根にビシャビシャと大粒の雨音が叩き付ける音が響き始める。
雷の音は嫌いだった。雨の音も嫌いだった。何故生まれ変わったのか、どうして目を覚ましてしまったのか──必然的に自分が輪廻した日を思い出してしまうから嫌だった。
季音は無性に心細くなり、タキのいる社の方へ行こうと玄関に立てかけてある番傘を手に取ったと同時だった。雨に混ざって彼の気配を感じとり、季音は狐の耳をピクリと振るわせる。
──妖独特の妖気とは違う。人の生命の流れだ。
間違える筈もない。龍志だろう──と、それを確信して、季音は傘を開いて境内の方へと走り出した。
少し先が見えない程の豪雨だった。傘だって壊れてしまいそうな程、ビシャビシャと叩き付ける雨の音だけがひどく耳を劈く。やがて、朱塗りの鳥居が見えてきたその先──鉄紺の作務衣姿の龍志の姿が見えた。
季音は彼の名を呼ぶ。しかしこの雨だ、その声は聞こえていないのだろう。だが、彼は季音に気付いたようで、手を軽く上げた。
無我夢中だった。こんなに全力で走った事などあっただろうか──季音は番傘を投げ捨てて鳥居をくぐり抜けた龍志の腕に飛び込んだ。
「ただいま、濡れて風邪引くぞ」
やっと聞こえた声にトクンと胸が高鳴った。たった五日だけなのに、何年も会っていかなかったように、どこか懐かしくさえ思えてしまった。季音は頬を赤く染めて彼をジッと見上げた。
「龍志様びしょ濡れじゃないですか。おかえりなさい」
応えた後、自然と踵が上がった。爪先で立ち、自分より頭一つほど高い彼に季音は自分から彼に接吻てしまった。ただ触れるだけの接吻は一瞬だったが、それはとてつもなく甘美にさえ感じてしまう。
だが、なんて恥ずかしい事をしてしまったのだろうと悟るのは直ぐで、季音は彼から直ぐ身を引こうとする。それなのに、彼は腰にぎゅっと腕を回すものだから逃げられやしなかった。
「そんなに俺が居なくて寂しかったのかよ。阿呆みたいに可愛い事してくれて……」
憎まれ口を叩くが、それでも彼は嬉しそうだった。
そんな龍志が何だか可愛く思えてしまって、堪らなく愛おしく思えてしまって『寂しかったです』なんて返せば、たちまち彼の耳は赤く色付いた。
びしょ濡れになってしまった二人は一つの傘に入ってボロ屋に戻ってきた。
だが、玄関の引き戸を開いて直ぐ、キネは息を飲む。龍志の部屋の中に白い装束を纏った見知らぬ初老の男が立っていたのだから。
……人だろう。だが、それには生命の流れというものは一切感じられず、ただ静かに彼は佇んでいた。だが、龍志は特に驚く様子もなくそこに佇む男に無言で近付いて行く。
「親父、また来たのか?」
彼の言った言葉に季音は唖然としてしまった。
彼は神葬祭に五日前に行ったばかりだろう。どういった事なのだだろうか……季音は龍志と目の前に佇む彼の父を相互に見た。
親子なだけあって、確かに目元の雰囲気は似ているだろう。しかし、皺の寄った釣り上がった目には精気は一切感じられず、ただ虚空を見つめていた。
「どうした、神の元に逝くのではないのか。未だ未練でもあるのか? 道が分からぬなら俺が送ってやるぞ」
そう言って、龍志が懐から何かを取りだそうとした時だった、彼の父は首を横に振り、白装束の懐から一枚の札を取り出した。
「札? どうしたんだ……」
龍志が尋ねると、彼の父は一つ頷いて季音の前に音も無く歩み寄る。すると、そっと札を季音に手渡した。
「え……私に?」
吃驚して目を丸くすると、彼の父は唇を綻ばせて一つ頷いた。そうして、再び龍志の方に向き合うと、規則正しい一礼をして彼の父はスッと消え去ってしまった。
季音の手の中には未だしっかりと札は残っていた。達筆過ぎて何と書いているかはよく分からず首を傾げていれば、龍志はそれを覗き込む。
「吉河の御札だな。縁起物だ。俺の生家の社寺は厄除けと縁結びで有名だ」
「厄除けと縁結び……」
どうしてそれを龍志ではなく自分に手渡したかは理解出来きず、季音は小首を傾げて彼を見上げた。
「つまり、厄を断ち切り結果と成る良い縁を結ぶ。そういう事だ。死者からの贈り物など複雑だろうが貰ってやってくれ。苦しき厄が降りかかれば少しはお前を護ってくれるだろう」
言って、彼は穏やかに笑んだ。
「でも、本当に私が貰って宜しいのですか?」
「いや、お前に渡したんだからお前が持ってろ」
──寧ろ、素行が悪い息子の俺が持てば黄泉返って怨霊になりそうだ。なんて付け添えて、彼は鼻から息を抜くように笑った。
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